水瓶

ファンタジーや日々のこと

葵御紋の五百羅漢寺

2016-07-30 10:29:39 | 東京の町
小さめのビルが並ぶ狭間に葵御紋のちょうちん?

先週末に行った目黒の記事の続きです。五百羅漢寺も、なかなかに激しい変遷を経たお寺なんです。


道路は大がかりな工事中。初めて上京した時に、こんな風に大きな道路沿いに小さめのビルがえんえん立ち並んでるのを見て、
東京ってこんな感じなんだ、こんな所で自分は暮らし続けられるのかと不安を感じたのを思い出しました。
どこを見回しても山とか見えなくて、息がつけない感じがしたんだよなあ。。。


歩道橋を移動するらしいです。工事現場ってなんか見てしまう。


工事現場はちょっと変則的になってるからね。




江戸時代はどんな風景だったんだろ。


五百羅漢寺はこんなビルの谷間にあります。冒頭写真にあるようなあまり広くない門があって、
階段を上った先にお寺の入口があります。都会の町中ならでは。


入口すぐの所にあった庚申塔。

「庚申(かのえさる)の日には、眠っている人の体から三尸(さんし:三種類の虫)が脱け出し、その人の悪事を天帝に告げ、その人の命を縮められるという思想があり、その日は眠らずに一夜を明かす風習がありました。庚申塔はこの三尸の害を防ぐために造られました。」

像は、青面金剛が邪鬼を踏みつけているところだそうです。台座には三猿。
うーむ、自分の中に自分の悪いことを告げ口をする虫がいるなんて。虫下ししなければ。
・・・って、今もうあのギョウ虫検査ないんですと。知ってました?昭和のみなさん!
別になつかしくもないけどどんなだったっけあのフィルム?ぺた。


屋根こそ立派な銅葺きで目を引いたんですが、実はこの近代的なコンクリのお寺を見た時に、
失礼ながらちょっとがっかりしてしまったんですよね。なんか味気ない気がして。
しかし、中を拝見していく内に、その理由もわかったような気がしたわけなんです。
中は撮影禁止なので写真はありませんが、その名の通り、五百羅漢の像がずらーっっっと!!
ほぼ等身大、五百人全部ではないようですが、かなりの数が、らかん堂と本堂に並んでいました。
これが大変見応えがあるんです。

この羅漢像はすべて、江戸時代の松雲禅師が彫刻したもので、その功績が認められて寺が創建されたんだそう。
松雲禅師は、もとは京都の腕のいい仏師だったそうですが、鉄眼禅師のもとに入門して出家します。
この鉄眼禅師という人は、一切経という七千巻からなるなが〜いお経の刻版を完成した名僧だそうです。
大変貴重な宝物で、僧侶ですら読むことの難しかった一切経を写すために、諸国行脚して集めた喜捨のお金を、
飢饉の際に二度までも放出してお粥にして与えてしまい、三度目にようやく念願を叶う。
で、鉄眼禅師がこの一切経を彫った文字が、現代に使われている印刷文字の書体・明朝体の原型になったんだそうです。
おお、なんと身近で意外な接点が・・・!まさにこの弟子にしてこの師匠あり。すごいなあ。すごいなあ。

羅漢像を一人一人見てゆくと、あ、こんな顔の人いる〜と思うような感じ。
でもなんかみんな頭の鉢が大きめで、こういうのが頭のいい人の相とか言われてたんだろうか。
高村光雲が修業時代に、当時は本所にあった羅漢寺に通ってお手本にしたという逸話もあるそうです。
背を向けると、背中に人の気配を感じるような気がしました。等身大ってそういうとこあるかな。。
ちなみに羅漢とはお釈迦様の弟子のことだそうです。



かつて本所にあった頃は、こんな感じで羅漢像を拝観できるようになっていて、沢山の人が訪れたようです。
また、さざい堂が有名だったそうです。中がらせん階段になってるそうなんですが、面白い建物ですよね。
現存しているさざえ堂では二重らせんの構造を持つ会津さざえ堂が特に有名なようです。
木造でこんな傾いた建物建てるの、大変だったでしょうね。それとも大工の腕の見せ所かしら。

このさざい堂は北斎も描いてまして、特にさざえ堂らしくもない、一見なーんの変哲もない平板な絵のように見えるんだけれど、
よくよく見ると、やっぱ北斎って名立たる浮世絵師の中でもずば抜けてるなあと。もはや妖怪レベル。。
なにげない人のしぐさなど、なぜこうも達者に配置できているのか、着物の流れとか、職人技芸の極みというんでしょうか。
ぞっとするほど洗練されてる………。
でもそうか、江戸時代には本所の羅漢寺から富士山見えたんだなあ。


これ、腰掛石と彫ってあるんですが、土地を寄進したり庭を整えたりなど、
羅漢寺の隆盛に尽力した八代将軍吉宗が聴聞の時に掛けた石台らしいです。えーと、暴れん坊将軍か。
そう、そんなわけで羅漢寺は葵の御紋に縁が深いのですね。


しかし葵の御紋のご威光は、明治維新以降は逆に働いてしまい、五百羅漢寺は零落。
追い打ちをかけるように、大正6年に大暴風雨でお寺は大破、続けて大正12年の関東大震災でも大破し、
お寺は大変に衰退してしまいます。

この暗い時代に羅漢寺を守り続けたのが尼僧たちだったそうで、その一人が妙照尼といって、
かつてはお鯉さんというもと新橋の名物芸者で、昭和十三年に羅漢寺の住職となったそうです。
なんと宰相桂太郎の側室として官邸に住んだこともあるという美貌の持ち主で、数々の文化人や政治家と親交を持ち、
羅漢寺の再興に尽力したそうです。へええええ・・!
上がそのお鯉さんをまつったお鯉観音の写真です。女性の参拝客が多いそうですよ。


頭が高い、ひかえおろう!・・・葵の御紋見るとつい。
でもあれ、一回「へへえ〜っ」ってひかえても、必ずうぬって翻って立ち回りやりますよね。
助さん角さんチャンチャンバラバラの見せ場なくなるからね。。。

他にも、明治時代に当時鎖国状態だったチベットへ中国人留学生になりすまして密入国のような形で入国し、
経典を学んだという河口慧海も羅漢寺で住職をしていたそうです。なんて強者ぞろいのお坊さんたちなのか。

そして昭和54年にとうとう新しいお寺の工事に着工。こうして建立されたのが今のこのお寺なんだと思うと、
なーんだ木造じゃないや、近代的コンクリで味気ない、などとはとても言えないではありませんか。。
近くの大円寺が大火を出したりしてるし、すぐ隣にビルが迫る都会の立地で、貴重な羅漢像が地震や火災で損なわれたりしないように、
一見そっけないようだけれど、木造よりも災害に強いコンクリの建物にしたのかなあと考えると、
しかるべき理由があったんだと感慨も深まります。深まりなさい。そうしなさい。


五百羅漢寺を出て、目黒不動尊へ向かいます。途中にあったなんやらの石。地籍調査・・とか書いてあったかな?
こういう土地の何やらを調べ直すような調査って、関東大震災のあとに行われたりしたのかな。


左手の塀の中は緑濃い森が広がっているようです。多分この中が目黒不動尊だと思うんだけど。。。


あっ、あったあった!あれが不動尊だ!

こんな具合で五百羅漢寺の歴史、なかなか波瀾万丈でしょう。
もしもこの近くまで来たら、ぜひとも羅漢さんの壮観な眺めを見ていって下さい。
一人一人なんとなく意味がわかるような漢字の名前があって、ちゃんと名札もついてるんですよ。

目黒不動尊につづく。


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