強制動員真相究明ネットワークがニュース4号をだし、昨年5月5日に死去された前事務局長福留範昭さんの追悼文を掲載した。その中で「福留範昭さんはもうおられない。が、」と題して書いた文を転載します。
「福留範昭さんはもうおられない。が、」 川瀬俊治(事務局員)
悲劇はいつも突然やってくる。想像だにしていないからだ。強制動員真相究明ネットワーク事務局長福留範昭さんが5月5日未明、急性心不全で亡くなられたのもそうだ。とても信じられない。まだ60歳で、仕事に一番あぶらがのられていた。
九州に行くと必ずお会いして話し込んだ。昨年6月、北九州で開かれた日韓の歴史研究交流でも下準備をされ、成功に導かれた。その仕事ぶりに、参加した私はそばから敬服して見ていた。韓国語がよくできて、うらやましい限りだった。10年間韓国で研究生活をされ韓国啓明大での日本語教員を務められた。崔吉城さんの『韓国のシャーマン』(国文社、1984年)を翻訳された韓国宗教研究のエキスパートでもあったが、そのことはおくびにも出されなかった。
昨年10月の沖浦和光先生を中心として大学同教の研修で博多に行き、時間を惜しんで博多でお会いした。それが最後になる。昼食とコーヒーを飲み、「九州に来たんだから」とごちそうを供された。
研究者としての福留さんは知らない。ただ22、3年ほど前に解放出版社の仕事もあり広島修道大学を沖浦先生らと訪れたことがある。共同研究室に通されて江嶋修作さんにはお会いして、そのあと広島の三良坂に学生たちとごいっしょした。ちょうど、いまの時期だ。その時に福留さんがおられたかは定かではない。
研究者生活のあと広島での日韓の市民運動体の交流の要としても活躍された。私が知る解放運動のメンバーを知っておられ、親近感がいっそう増した。
昨年、韓国の市民運動を紹介する『ろうそくデモを越えて 韓国社会はどこに行くのか』(東方出版)という本を文京洙立命館大学教授と企画し、福留さんから「韓国における過去の清算」という原稿をいただいた。共同執筆者として何度かメールや電話でやりとした。原稿は簡潔にまとめられ、文劈頭に文章全体をまとめる簡単な紹介文も福留さんに書いていただいた。この短い文は長らく韓国におられ、そして戦後補償問題に慧眼をおもちでないと草せない。何よりも韓国人の心を知らないと書けない一文だった。本当は編者が担当すべき文だったが、代行していただいて本当によかった。
今年8月に博多の花房さん宅で日本軍慰安婦問題取り組みの拡大全国会議があり私も参加した。会議が始まる前に小林さんらと福留さん宅にお悔やみに赴いた。急な坂道を登ると木々に囲まれたマンションがあり、その1室に福留さんの遺影がおかれていた。なぜか、この部屋は鳥たちの声がよく聞こえるのでは、という思いにとらわれた。緑深い木立に囲まれた住まいということだけで沸き上がった思いではなく、窓外から聞こえる鳥たちのさえずりが福留さんのあの少し上顎をあげはにかみながら笑う姿に重なったからだ。それは不遜でもなく自然に心を領した面影の再現だったと思う。
遺影は相当前の写真だと思ったが、4,5年前のものだと、妻の福留留美さんがおっしゃった。弔慰に訪れたメンバーは一様に驚いた。いや、そうではない。福留さんはそれだけ若くして逝かれたのだ。5月5日はなんという残酷な日だったのか。
灼熱の真夏の1日が、ここではウソのように別世界を形創っていた。さぞかし福留さんが気に入られ、終(つい)の住みかと考えられていただろうにと、あらためて無念さを感じざるをえなかった。
悲しみを越えることなど愛情く思う人ほど無理なことだと思う。しかし、その亡き人の生き方を、願い、思いを、自身の中に取り入れることができれば、少しは悲しみが癒される。親しいものとの、方々との別れを繰り返してきた私がたどり着いた心の諸相だ。しかし、もろもろの心の相は、ときとして悲しみに打ちひしがれることもあるし、酒量が増すこともある。しかし福留さんは確実に未来を見据えておられたから、凡夫のわれわれにはその思いをともに追走することができる。先達を追慕するだけではなく、歩を先に進めることが、いまとなってはわれわれがあたうかぎりできる福留さんへの最大のメッセージ
「福留範昭さんはもうおられない。が、」 川瀬俊治(事務局員)
悲劇はいつも突然やってくる。想像だにしていないからだ。強制動員真相究明ネットワーク事務局長福留範昭さんが5月5日未明、急性心不全で亡くなられたのもそうだ。とても信じられない。まだ60歳で、仕事に一番あぶらがのられていた。
九州に行くと必ずお会いして話し込んだ。昨年6月、北九州で開かれた日韓の歴史研究交流でも下準備をされ、成功に導かれた。その仕事ぶりに、参加した私はそばから敬服して見ていた。韓国語がよくできて、うらやましい限りだった。10年間韓国で研究生活をされ韓国啓明大での日本語教員を務められた。崔吉城さんの『韓国のシャーマン』(国文社、1984年)を翻訳された韓国宗教研究のエキスパートでもあったが、そのことはおくびにも出されなかった。
昨年10月の沖浦和光先生を中心として大学同教の研修で博多に行き、時間を惜しんで博多でお会いした。それが最後になる。昼食とコーヒーを飲み、「九州に来たんだから」とごちそうを供された。
研究者としての福留さんは知らない。ただ22、3年ほど前に解放出版社の仕事もあり広島修道大学を沖浦先生らと訪れたことがある。共同研究室に通されて江嶋修作さんにはお会いして、そのあと広島の三良坂に学生たちとごいっしょした。ちょうど、いまの時期だ。その時に福留さんがおられたかは定かではない。
研究者生活のあと広島での日韓の市民運動体の交流の要としても活躍された。私が知る解放運動のメンバーを知っておられ、親近感がいっそう増した。
昨年、韓国の市民運動を紹介する『ろうそくデモを越えて 韓国社会はどこに行くのか』(東方出版)という本を文京洙立命館大学教授と企画し、福留さんから「韓国における過去の清算」という原稿をいただいた。共同執筆者として何度かメールや電話でやりとした。原稿は簡潔にまとめられ、文劈頭に文章全体をまとめる簡単な紹介文も福留さんに書いていただいた。この短い文は長らく韓国におられ、そして戦後補償問題に慧眼をおもちでないと草せない。何よりも韓国人の心を知らないと書けない一文だった。本当は編者が担当すべき文だったが、代行していただいて本当によかった。
今年8月に博多の花房さん宅で日本軍慰安婦問題取り組みの拡大全国会議があり私も参加した。会議が始まる前に小林さんらと福留さん宅にお悔やみに赴いた。急な坂道を登ると木々に囲まれたマンションがあり、その1室に福留さんの遺影がおかれていた。なぜか、この部屋は鳥たちの声がよく聞こえるのでは、という思いにとらわれた。緑深い木立に囲まれた住まいということだけで沸き上がった思いではなく、窓外から聞こえる鳥たちのさえずりが福留さんのあの少し上顎をあげはにかみながら笑う姿に重なったからだ。それは不遜でもなく自然に心を領した面影の再現だったと思う。
遺影は相当前の写真だと思ったが、4,5年前のものだと、妻の福留留美さんがおっしゃった。弔慰に訪れたメンバーは一様に驚いた。いや、そうではない。福留さんはそれだけ若くして逝かれたのだ。5月5日はなんという残酷な日だったのか。
灼熱の真夏の1日が、ここではウソのように別世界を形創っていた。さぞかし福留さんが気に入られ、終(つい)の住みかと考えられていただろうにと、あらためて無念さを感じざるをえなかった。
悲しみを越えることなど愛情く思う人ほど無理なことだと思う。しかし、その亡き人の生き方を、願い、思いを、自身の中に取り入れることができれば、少しは悲しみが癒される。親しいものとの、方々との別れを繰り返してきた私がたどり着いた心の諸相だ。しかし、もろもろの心の相は、ときとして悲しみに打ちひしがれることもあるし、酒量が増すこともある。しかし福留さんは確実に未来を見据えておられたから、凡夫のわれわれにはその思いをともに追走することができる。先達を追慕するだけではなく、歩を先に進めることが、いまとなってはわれわれがあたうかぎりできる福留さんへの最大のメッセージ