ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

日曜新聞読書欄簡単レビュー

2009年05月03日 07時35分10秒 | Weblog
 朝日の書評欄で取り上げられる書がなぜか軽い部類の本が多いように思えてならないのは私だけか。担当者が変わるとこうも変化するのかと邪推してしまう。新書紹介に呉善花、吉本隆明、竹田青嗣の作品を並べるところに変なバランス感覚を感じてしまう。

 さて本題に入るとしよう。本を評価しているようで痛烈に批判しているのが斉藤環が評する福岡伸一『動的平衡』(木楽舎、1600円)。「変わるが変わらない」という理系の概念をやさしく説いた本という。評者は医学生時代から聞いていた概念というが、門外漢の私にはよくわからない。語り口の見事さでわかりにくい概念を解説していく。売れっ子の分子生物学者の腕鮮やかというところか。評者は「白衣をまとった詩人」と福岡を持ち上げたと思いきや、福岡が近著でオカルトと親和性が高いライアル・ワトソンを盛んに言及することにクギをさす。科学と詩の断絶を埋めることに性急さはつつしむべきだというわけだ。マルクス主義のアルチュセールの箴言「科学者は最悪の哲学を選択する」を最後に引用するから、実に皮肉な評者であることがわかる。斉藤は精神科医。

 旧日本軍の退廃を生活部分から説いたのが一ノ瀬俊也『皇軍兵士の日常生活』(講談社現代新書、798円)。だいたい組織に退廃がないところなどない。それに歯止めをかけるのが形而上的イデオロギーだ。旧日本軍が皇軍と呼ばれたのもその一つ。組織の退廃は皇軍イデオロギーが内部からほころびをみせていたことを示す。著者は食事、応召手当などを文献でその不公平さを明らかにしていく。評者はアフリカ取材が長い松本仁一.

李栄薫『大韓民国の物語』(文芸春秋、1857円)ー読売ーが評者小倉紀蔵により紹介された。韓国では昨年から日本で言うところの「歴史修正主義」もいえる自主編成書が刊行されたりしているが、李栄薫の本がこんなに早く日本の紹介されるとはおそれいった。その歴史見直しの中心人物が著者なのだが、韓国で歴史学者から聞いたのは「彼は経済社会史ではないか。歴史学で論を展開しても無理がある」ということで、知人の歴史学者は猛烈に批判していた。その批判論文も読んだが、李栄薫の本にこれほど賛同を寄せる書評があらわれるとは……。民族を価値観の座標軸に据えて書かれた歴史研究は大いなる誤解と曲解があるーとするのだ。それは歴史の主体が個人であるからで、近代史の基本であり、近代が目指す独立した人間の基礎になる視点から論じた歴史書というわけだ。韓国は植民地時代に近代化の発展を遂げたとする論は韓国歴史の方を180度変えるものだ。日本の植民地支配を容認する側面があることを承知の上での論及に違和感を感じる。著者は猛烈な批判にたじりがないという。小倉は「実証の信頼があるから全く動じない」と評する。韓国で友人から聞いた話と違う。実証性に疑問があるということだった。さて、さて。全国紙の書評に載ることは日本社会で認知作業が始まったことを意味する。この書と友人の批判論文を合わせて読むことで考えたい。

 森山大道『森山大道、写真を語る』(青弓社、3000円)は朝日、読売に掲載された。活字にこだわるノンフィクション作家黒岩比佐子が評者。モノクロにこだわる森山にシンパシーを寄せている。「呼吸するのと同じように、撮らなければ生きていけない写真家がいる」と評する。常に一瞬の今を撮る森山は「ブレ」「ボケ」を多用下作品を1960年代末に発表し写真界に衝撃を与えた。以上読売書評から。

 ドン・デリーロ『墜ちてゆく男』(新潮社、2400円)ー読売ーは9・11テロの各人各様の姿を追う小説。タワーで働いていたキースは崩壊するビルから逃げのび別れた妻リアンの家にさまよう。しかし再生する道はこの小説には示されていない。キースは同じくタワーから逃げた女性と情事を重ねる。テロ実行犯の視点から描かれた断片もある。神の不在を問いかける小説なのか。神に殉じたテロ実行犯が一方でいる。現在の不条理を神の不在から説いた作品なのか。評者は上岡伸雄。

 アメリカの小説が出たところで日本の文学関連書をみると、光田和伸『芭蕉めざめる』(青草書房、1995円)ー奈良ーを紹介しよう。芭蕉隠密説は従来から唱えられてきた説だが、本書は隠密にならざるをえなかった視点から芭蕉の人生を見ることができる。奉(たてまつ)る芭蕉とは180度違う見方を光田は貫く。立身出世を夢見たり、焦ったりする芭蕉の等身大の姿を描いた作品。評者は倉橋みどり。

 毎日はと今年生誕100年の作家を特集しているが、今回は中島敦。日本ではまれな形而上学的小説家と評者の三浦雅士は書く。作品『北方行』を第一にあげる。植民地体験を形而上学の問題として作品を書いている。『光と風と夢』『南島たん』だ。「名人伝」「弟子」「李陵」などの作品から中国古典の世界に知悉した作家と見られていたが、三浦にいわせれば誤解だという。肝心の形而上学の問題が見過されてきたと指摘する。小島ゆかりは中島敦の短歌を紹介している。「この人・この3冊」では井波律子が「山月記」「弟子」「李陵」をあげている。「山月記」はカフカの「変身」、ガーネットの「狐になった夫人」にも通底する「不条理な変身」として位置付ける。中国の唐代伝奇小説「人虎伝」を下敷きにした小説はなぜいまも生き生きと甦るか。形而上学的視点を抜きにしては考えられない。

 毎日の「好きなもの」では菅野昭正が中島敦の「章魚木(たこのき)の下で」という随筆をあげている。中島敦の作品は全集3巻としてちくま文庫に収録されており、手軽に手にすることができる。(敬称略)

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