あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

渡部直己著「日本小説技術史」を読んで

2012-11-15 09:22:58 | Weblog


照る日曇る日第548回

題名の面白さに惹かれて一読してはみたものの、わたくしの生まれながらの脳力の弱さも手伝って本邦の小説の歴史をその構成技術をつうじて論じるという前人未踏、空前の快挙の詳細のほんの断片すらも理会することが出来なかったのはまことに残念無念、痛恨の極みでありました。

小説は膨大な言葉から形づくられているが、確かに著者がボルヘスにならっていうように、その創作の手法の定型や技巧をテーマに歴史的に研究されたことは、わたくしの知る限りでは島田雅彦の「小説作法ABC」を除いてあまりなかったような気がします。

本書では馬琴から逍遥、紅葉、亭四迷、鴎外、一葉、独歩、藤村、花袋、泡鳴、漱石、秋声、龍之介、利一、翠などの作家の諸作品が、著者の博学を誇示するように縦横無尽に引用され、彼らの小説技術が高踏的に論じられるのですが、冒頭に述べたようなお恥ずかしい理由で、わたくしにはその「高尚なる理屈」がいくら読んでもてんで腑に落ちませんでした。橋本治氏が説くように日本の小説の源流は江戸時代の人形浄瑠璃にあるにもかかわらず、これを無視して馬琴から開始する手法も納得できません。

このように本書の前半は、暗愚なわたくしには取りつく島もない難解な原理論の連続だったのですが、後半から末尾にかけては著者が高踏的な小説技術論をどこかへうっちゃって、漱石が「トリストラム・シャンディ」の影響を深く受けたとか、尾崎翠の「第七官界彷徨」がどうしたこうした、とかの単なる文芸ひよーろん風のお話が続くので、それなりに面白く読めたのでした。

著者の、日頃のお勉強の成果をこの時とばかりに披露したいという青臭い思いや、衒学趣味が嵩じて超難解な用字用語を教壇の高みから下々に呉れてやりたいというエリート意識も分からないではありませんが、もしもおのれが説こうとする思想や内容にいささかでも自信があれば、この本は小西甚一の「日本文藝史」やドナルド・キーンの「日本文学史」のように、もっともっと分かりやすい日本語で書くことができたはず。今は亡き井上ひさしがいみじくも言い遺したように、「難しいことは分かりやすく」書くのが書き手の作法というものではないでしょうか。


自分にもよくは判らぬことだから超難解の言辞を一発 蝶人
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橋本治著「浄瑠璃を読もう」を読んで

2012-11-14 08:51:32 | Weblog

照る日曇る日第547回&♪音楽千夜一夜 第286回

「あまでうす」などと名乗っているくらいだから私は西洋の音楽が大好きで、とりわけモザールのオペラなどを見聞きしていれば上々の気分なのですが、それよりも好きなのがなにを隠そう浄瑠璃なのでありまする。

浄瑠璃、すなわち三味線の調べに乗って太夫が「語る」江戸時代の音曲、あるいは歌舞伎の下座音楽に耳を傾けることが出来れば極楽極楽で、あとは何も要らないと断言する著者には我が意を得た思いでした。

著者によれば、そもそも日本の音楽はメロディラインではなく「拍子」を軸にしているので、例えば人形浄瑠璃の三味線と太夫の語りも(小澤征爾の死んだ音楽のように縦と横の線を顕微鏡的に合致させることなく)それぞれが勝手に演奏しているのに、結果としてなぜだか1つになっている。そして「この本来バラバラであるはずのものが、1つになっているというスリリングなところが、日本の伝統芸能の妙味なのだ」とあざやかに喝破しています。 

もちろんこの本は「浄瑠璃を聴こう」ではなく「浄瑠璃を読もう」なので、「仮名手本忠臣蔵」「義経千本桜」「菅原伝授手習鑑」「本朝廿四孝」「ひらかな盛衰記」「国性爺合戦」「冥途の飛脚」「妹背山女庭訓」という本邦の代表的な人形浄瑠璃(及び歌舞伎)作品を文学テキストとして深く読み込み、その解釈と鑑賞について私たち読者の蒙を徹底的に啓いてくれるのですが、それはそれ、本書をつらつら読んでのお楽しみということで。


新しきアクアのブルーを買わんとしたがシルバーを経てホワイトとなりぬ 蝶人
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ルイ・マル監督の「五月のミル」を見る

2012-11-13 09:36:17 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.345

ルイ・マルが1989年になってフランスの5月革命を振り返った記念すべき作品。若い時のミシェル・ピコリは嫌な感じだったが、歳を経るごとにいい味が出てきてこの映画ではそれが円熟の頂点に達している。

 南仏の森林地帯で田舎暮らしをしている長男ミル(ピコリ)の母親が亡くなってその葬式のためにミューミューなど多くの親戚がやってくる。ちょうどその時にパリで5月革命が勃発し、首都における学生の反乱の余波がこの地方にも押し寄せてきて、列席者にさまざまな同様と影響を及ぼす。この点が本邦の名作「お葬式」との決定的な違いである。

 死者を前にしながら早くも遺産相続の醜い争いに火花が散るのだったが、革命が高揚するにつれ平和と協生と自由恋愛とフリーセックスへの欲望が亢進し、家族の懐かしい思い出の館を売却せずにそのまま皆で利用しようではないかとお互いの心身が解放的になっていき、とうとういきずりのトラックの運転手とミルの姪が一同の目の前で性交しようとするシーンは思わず息を飲む。

されどミル一族における革命の嵐もしょせんはここまで。ドゴール大統領の議会解散、国民投票の演説と共に5月革命が終焉すると同時に、葬儀が終わって一同が解散し、ミルの暮らしも元の静けさを取り戻すのだった。


じゃが芋にするか玉葱にするか迷うも楽し道端の百円野菜 蝶人
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ルイ・マル監督の「さよなら子供たち」を見て

2012-11-12 08:50:36 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.344

本邦における中学生のいじめと、この映画におけるフランス人中学生のユダヤ人同級生いじめとどこが、どう違うのだろう。

人種、宗教、顔容、文化、生活様式……、原因が異なっていたとしても「異端」として措定された存在に対するいじめの構造はまったく同じで、本作で登場する白皙のユダヤ少年は、いちおうの親友である主人公からさえもいじめの対象になるのだった。

いじめようと思えばいじめられるし、同胞の側に立とうと思えば立てるわずかなあわいを遅疑逡巡、戦々恐々と私たちは生き延びてきたし、現にそうしている。ちょっとした契機でどちらに転ぶか、その契機をとりまく諸要素を押さえよ。

本作では、頑なな正義と主義主張を貫く校長に馘首された少年の密告が、宗教共同体でかくまっていたユダヤ人生徒と校長自身をゲシュタポの手に引き渡す導火線になっていく道行がいかにも悲劇的であり、運命の皮肉でもある。

そういう紋切り型の評言よりも恐らく監督は自らの余りにも切実な個人的な体験をおおやけのものにしたかったのであろう。


高野山一日二食の聖かな 蝶人

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ルイ・マル監督の「好奇心」を見て

2012-11-11 09:40:45 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.343


原題は「Le Souffle au Coeur」だから邦題の「好奇心」とは無関係。「心臓ドキドキ」とか「心臓パクパク」の方がベターだろう。ちなみにこのSouffleという単語を使ったゴダールの「À bout de souffle」も、邦題の恣意的な「勝手にしやがれ」を「息も絶え絶え」に改めてほしいものだ。

さてこの作品は、植民地ベトナムの独立戦争で敗北しつつある1950年代のパリの中産階級の人々の動揺をバックに、思春期を迎えたパリの少年の心身の混乱と成長をあざやかに描破したルイ・マルの傑作である。

2人の兄貴の協力で15歳にして「筆おろし」に成功した主人公は、それに自信をもってどんどん色気づいていくが、実の母親へのあこがれが頂点に達しとうとう「寝て」しまう。いわゆる近親相姦がかくも美しく感動的に描かれた映画はかつてなかったしこれからもないだろう。

まだ若く魅力的な母親は不倫をしており、相手と駆け落ちしようと決意したり、やっぱり諦めて戻って来て実の息子と性交したりするわけであるが、最終的には夫と別れもせず睦みあい、ふつうに家族を続けることになる。

そんないっけん平静な人間関係の奥底にわだかまる性のマグマの蠢きをじつに静謐なトーンで映像化してゆくリカルド・アロノヴィッチのキャメラが素晴らしい。私は昔この長身のインテリとバハマで知りあってちょっと映画の話をしたことがある。彼はマッチ箱くらいのカメラをもてあそびながら、「パリに来たら寄りなさい」といって細長い名刺を呉れたが、どこかへいっちゃった。

ヒッチコックのごとく一点景となりてこの世を生きたし 蝶人
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黒崎博監督の「セカンドヴァージン」を見て

2012-11-10 09:21:28 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.342

最初の結婚に破れてからは猛烈なキャリアウーマンとなったヒロインが、ある日突然年下のイケメンにメロメロになりいろいろ苦労するが、それでも我が人生に悔いなしと総括する、昔からよくあったお話。

主人公の鈴木京香はだいぶ肥って興ざめだが、仕事と恋の二兎を追う熟女を体当たりで熱演している。が、お相手のなんとかいう男子の魅力と存在感が皆無なので、せっかくマレーシアまで海外ロケを敢行したというのに一世一代のラブロマンスが空回りして、むなしく「セカンドヴァージン」なるいっときの流行語だけが残った。

おまけに倖田来未の主題歌も酷いものであり、深田恭子選手の立ち居振る舞いも、到底演技と呼べる代物ではない。ゆいいつ賞賛に値するのは笠松則通のキャメラが捕えた異国の美しい風物であろう。

もともとこれはNHKの連続ドラマを映画にしたということだが、思うにその続編ではなく、その総集編を映画にしたほうが良かったのではないだろうか。観終わってこれほどあほらしい気持ちになる映画も珍しい。



豚の如く醜く肥りし人たちが現れ出る度テレビ消すなり 蝶人
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山本嘉次郎監督の「エノケンのちゃっきり金太」を見て

2012-11-09 08:40:32 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.341

エノケンが扮する巾着切が幕末明治にかけて岡っ引きや誌史維新の志士なぞを相手に大活躍するはずのコメディだが、これくらい面白くない喜劇映画も珍しい。

この映画はなぜかミュージカル仕立てになっていて、エノケンはいろんな歌謡曲を歌うのだが、これがじつにつまらない曲でそれを真面目に歌うエノケンもさらにつまらない。彼のトレードマークはくしゃみをすることで、劇中なんどもクシュンクシュンとやるのだが、この昔ながらのお笑いの常套手段がわざとらしくつまらない。

山本は戦争映画などを取り扱うとそれなりに無難な演出をする人だが、お笑いにはまったく不向きで、そもそも喜劇のなんたるかが全然分かっていない人なのだろう。

せっかくエノケンを起用しながらこんな不調法な映画が出来てしまったのだが、エノケンその人も大した役者ではないのかも知れない。もっと他の作品をみてみないとたしかなことは分からないのだが。


権力を我がものにせんとつるみあう我利我利亡者に災いあれ 蝶人
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山本薩夫監督の「台風騒動記」を見て

2012-11-08 09:39:38 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.340

杉浦明平のルポルタージュ「台風13号始末記」を原作に山本薩夫がメガフォンをとった1956年の風刺喜劇映画です。佐田啓二、菅原謙次、佐野周二、野添ひとみ、桂木洋子、渡辺篤、藤間紫などが続々出演しているが、わたしが高く評価する三島雅夫のいやらしさが光っているな。

台風の被害よりもその後の人災のほうが被害甚大であるという紋切り型のテーマをどんと据えて、老朽化した小学校の校舎を台風で倒壊したことにして公金を流用しようとたくらんだ地元の政治家や町長や校長や教員や住民たちの奮闘努力と右往左往を巨匠?山本が生真面目に描いておる。

されど原作者と監督の思想傾向がはなからマッチし過ぎており、終始力が入り過ぎ、コメディ特有の軽妙さに欠ける。こういうのはもっと軽薄なタッチで演出してもらいたがこのメンバーでは所詮ないものねだりなのだろう。



野田橋下安倍石破慎太郎どいつもこいつも消えて無くなれ 蝶人
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伊藤大輔監督の「王将」を見て

2012-11-07 08:08:01 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.339

関西を代表する坂田、関東を代表する関根が将棋名人を争う名勝負物語。前者は赤貧洗うが如き陋屋の教養なき素人将棋気違い。後者は白哲の富めるジェントルメンと双方の来歴とキャラクターの対比が歴然としていて面白い。

やっさもっさとエピソードが続き、最後に関根の名人位就任を祝いに東京へ出かけた坂田だったが、危篤に陥った女房の小春を救おうと電話で大声で南無妙法蓮華経を唱えるという演出はあざとい。


練炭で三人自殺したアパートをライトブルーに塗っているペンキ屋さん 蝶人
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福田晴一監督の「二等兵物語」を見て

2012-11-06 09:04:23 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.338


伴淳三郎と花菱アチャコの二等兵物語。かれらの悲惨な軍隊生活を通じて反戦を訴えようとしている。

陸軍の兵舎に女性が訪ねてきたり、子供を便所に何日も隠したりできるとも思えないが、そういうことを平気で描いている本作のハイライトは、上官のいじめと虐待と暴力に頭に来た伴淳が、敗戦となって醜い振舞いをする彼らを機関銃で脅しながら、その非を鳴らす大演説をぶつシーンである。

そこでは理不尽な暴力と恐怖で強制的に部下を従属させるのではなく、愛と友情と協同にもとづく愛国的な軍隊組織のヴィジョンが語られるのだが、声涙俱に下りすぎてお涙頂戴の上官の告白まで飛び出す脚本はかえってよろしくなかった。

それにしてもこの映画で描かれたような帝国陸軍軍隊の非人間性は、日本人の最悪の側面であり、その遺伝子はいまなお現行の軍隊組織と我等の精神に生きながらえているのだろう。




左側にハンドルを切り高速を墜ちゆくときの軽き眩暈 蝶人
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鎌倉国宝館で「古都鎌倉と武家文化」展を見て

2012-11-05 09:34:51 | Weblog

茫洋物見遊山記第95回 & 鎌倉ちょっと不思議な物語第265回

武士たちの信仰と美術と副題されたこの展覧会ではいま非常な話題になっている源頼朝の座像ふたつが展示されていて興味深い。ひとつは従来頼朝のものとされていた国立博物館蔵、もうひとつは最近の研究でこれぞ真の頼朝像と認定されつつある山梨県善光寺の座像である。

 いずれも鎌倉時代13、14世紀の製作にかかる木造であるが、前者は日本中世史が専門の黒田日出男氏などの研究をつうじて足利尊氏の弟、直義のものであるとされるようになったのである。

 いずれもいかにも鎌倉の武士の棟梁らしい風格と権威にみちた風貌をよく伝えているが、前者はより精悍であり後者は功なり名を遂げた晩年の老成し達成した長者の趣がよく体現されている。これをもし同一人物の年代別の座像といえばそう思えるし、いな全く別人の足利直義その人であるぞよと言われればそうかもしれないという気がしてくるから素人は困ったものである。

 いずれにしても一代の風雲児と呼ばれるにふさわしいたたずまいに打たれ、私はしばらく2つの像を見比べていたが、会場を出しなに北条高時筆の紙本墨書「南山士雲像」が飾られているのが目にとまった。高時は闘犬にうつつを抜かした北条政権最後のアホ馬鹿執権として知られているが、その墨蹟の品が下がるのはともかく、彼が師事した南山士雲を描くまるで中村不折のような近代的な筆致に驚いたことであった。

 *本展は12月2日まで八幡宮境内の国宝館にて開催されています。

*黒田日出男氏の研究については→http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1747942158&owner_id=5501094


純白のヨットのように走り去る4173湘南ナンバー 蝶人
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アンジェイ・ワイダ監督の「ダントン」を見て

2012-11-04 09:09:01 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.337

ダントンといえば「大胆に! もっと大胆に!常に大胆に!」という大革命時代のアジテーションが有名で、それから凡そ200年後のアジアの片隅でひとりの臆病な学生だった私も、この革命家の偉大な格言を思い出しては権力の暴力装置の前に痩せた肉体を晒しつつ吶喊していったものだった。

アンジェイ・ワイダがこの映画で描いたダントンの最晩年の姿は、他の多くの芸術家と同様愛情と共感に満ちたもので、大革命の中の唯一の楽天と寛容の人と称された豪儀な生き方と死にざまをよく伝えている。

ワイダが描くロベスピエールの姿も、巷間広く流布している冷徹な恐怖政治の独裁者とは一味違っている。彼が追及する革命事業に不可欠な「善人」ダントンとダントン派の親友デムーランを最後まで救おうとするが、彼らの頑なな姿勢がそれを妨げ、結局粛清に踏み切らざるを得なかったというふうに表現しているのだが、史実はそんな甘いものではなかったことを私たちはよく知っている。

ダントン最後の年である1794年には右派のジロンド派が追放されたばかりか、寛容派のダントンも、極左のエベール派も、ジャコバンの首領ロベスピエール自身も、サン・キュロットの同志討ちと内紛の中で自滅していくのである。嗚呼南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。

今も昔も、共同の遠い凶暴な敵に対するよりも身近なゆるい味方に対する過敏で暴力的な反応を示すのが党派の下衆根性というもので、この事情は大革命から連合赤軍事件に至るまでまったく変わることなき革命家の悪癖であった。

この年のテルミドールのクーデター以降、大革命は当初の目標と理想を失い大混乱に陥るのであるが、ワイダは「もしこのとき2人の英雄が手を結んで共同戦線を展開していたら」という見果てぬ日共的連合戦線の夢想を映画にしてみたかったのだろう。


圧殺の森の下生え紅き色 蝶人
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佐藤賢一著「共和国の樹立」を読んで

2012-11-03 09:24:16 | Weblog


照る日曇る日第546回

1792年8月10日の蜂起は奇跡的に成功し、ここでサン・キュロット階級は一気に巻き返したが、続く9月は法を無視した虐殺の季節だった。ダントンの演説から始まった反革命派狩りではモッブと化した民衆が敵対的な政治家たちを見境なしに血祭りに上げる。革命とは今も昔も問答無用の敵の殺戮なのである。

その後サン・キュロットたちはやっさもっさの挙句にようやく王制を廃止し、共和制を樹立したものの、国王ルイ16世をどう裁くのかという難問に直面する。有罪だからといって市民ルイ・カペーを死刑に処していいものだろうか、とさすがのダントンやロベスピエールも胸に手を当ててためらうのだ。

そんななか、中庸のジロンド派に押されに押されていたジャコバン派が息を吹き返したのは、田舎者の最年少議員サン・ジュストの「人民の敵であり虐殺者、簒奪者、反逆者である王は仏蘭西に無関係の外国人として即刻裁かれるべし」という洗練されない論理による問答無用のどんくさい演説からだった。

衆寡敵せずというのに、議会で少数派の一議員の名演説が中間派のみならず多数派を論理的に圧倒して公論が逆転するなどわが国では到底考えられないことだが、それが18世紀の仏蘭西では実際に起こったのである。革命の進行過程では、現状を固定せず無理矢理敵に向かって前進しようとする勢力が優位に立つことが多いが、これがまさにその時だった。これ以降ジャコバン派の盟主ロベスピエールさえももはや過激派の暴走をとめることは出来なくなり、革命の本質は日を追って見失われてゆくのである。

 パリ大学医学部教授ジョセフ・イグナス・ギヨタンによって開発された最新式の処刑機械ギロチンによって処刑されてゆくルイ16世の最期の姿はあまりにも痛々しく哀しい。彼は教授に助言して三カ月状の丸いデザインであった刃を鋭い3角形に修正したギロチンで首をはねられたのであった。


 
革命の美名の下に屠られし草莽の民何処へ消えしか 蝶人
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スタンリー・ドーネン監督の「パリの恋人」を見て

2012-11-02 09:02:59 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.336&ふぁっちょん幻論第72回&勝手に建築観光第51回

トップシーンからして不愉快で鼻もちならない映画だ。「ピンクで統一するのよ」と突如思いつくヴォーグ風編集長(実際にこういうアホ馬鹿人間は20年前にも大勢いた)やNYの古書店に事前の許諾なく撮影に押し掛けるアベドン風カメラマンの横暴さに、1957年当時のふぁっちょん業界の肩で風切る偉そうなポジショニングが示されているが、ふぁっちょんが時代の先頭から脱落して後塵を拝するようになるとともに、こういう傍若無人な振る舞いが姿を消したのは同慶に耐えない。

この映画では目にも綾なジバンシーの所謂トップファッション!が続々と登場するが、平成の御代にひそと棲息する我等の目には、それらの華麗な衣装の輪郭があまりにも際立ち、色彩が強烈であることに違和感が先に立つので、これらが名匠による歴史的名品であることを忘れてしまいそうになる。いわば異様な服がまっとうな人間らしさを圧倒して、過剰に自己を主張しているのだ。

完璧なヘアメイクと共に変身したヘプバーンの艶姿よりも、彼女が冒頭の古書店で来ていたシンプルな黒のデイウエアのほうがよほど美しくファニーフェイスの彼女に似合っていることに、当時は誰ひとり気付かなかったのである。

「パリの恋人」以来半世紀が経過し、数多くのデザイナーが数多くの特色を秘めた数多くの服飾の作品を製作し、それはいまなおパリやミラノや東京のコレクションで発表されつづけているが、それらの大半は依然としてこの映画のジバンシーのような「服じゃ服じゃ」という人間無視の異様な服の開発にいそしんでいるのは恐るべきことであり嘆かわしいことでもある。

近代の洋服は人間の美や機能に奉仕しようと闡明しながら、結局は人間の個性を覆い尽くす結果に終わった。あくまでも服が主で人が従であった。これに反して現代の優れた洋服は服の主張を放棄して、あくまでも人間の自己主張に異なって奉仕しようとする。人間の自由のためには、服は服としての主張を控え、おのれを溶かし、その姿を消そうとさえすべきなのだ。

「露わな服から、溶ける服、消える服へ」「地上樹ふあっちょんから地下茎ふあっちょんへ」というこの考え方は、最近の建築にも共通している。電通の汐留ビルを設計したジャン・ヌーヴェルのコンセプトは「見えない建築」であるし、実際に2012年のベネチア国際建築展では触れれば崩れる脆い建築がグランプリを獲得したように、平成末期のふあっちょんもそのように「自己否定的に自己の存在意義を訴える」ようなスタイルに急速に変遷していくだろう。

そしてこの「全く目立たないようにして目立つ」という常識をふあっちょんの退化や腐敗堕落と受け止めて反発したり、パリコレや東コレなぞで妙にぐあんばってしまう「反動的な」クリエーターやデザイナーたちは、石原や橋下虚妄政治と同様、時代の挟雑物として大衆から早々に忘却されてゆくのであるんであるんであるん。


季語の無き俳句を憎む俳諧師 蝶人
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新説亜細亜版桃太郎音頭

2012-11-01 08:33:47 | Weblog


ある晴れた日に 第117回


一、桃太郎さん 桃太郎さん
海に浮かんだ尖閣竹島
全部わたしに くださいな

二、やりましょう やりましょう
これから北の征伐に
ついて行くなら あげましょう

三、行きましょう 行きましょう
あなたについて どこまでも
仲間になって 行きましょう

四、そりゃ進め そりゃ進め
一度に攻めて攻めやぶり
つぶしてしまえ 北の熊

五、おもしろい おもしろい
のこらず四島攻めふせて
分捕物を えんやらや

六、万々歳 万々歳
お伴の犬や猿雉子は
勇んで車を えんやらや

七、桃太郎さん 桃太郎さん
これであらかた片付いた
今度は東を攻めましょう


秋の蚊を柔らかく叩いて殺す午後 蝶人
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