第8章 奇跡の日~水の上で歌える
その次の日、5月5日は子供の日でした。五月晴れの晴天でした。
うっすらと絹のヴェールを刷いた青空が、丹波の国、綾部の町の上空に、お釈迦様のような頬笑みを浮かべながら、おだやかに拡がっています。
ケンちゃんは、コウ君と一緒に、由良川の堤防の上に立ちました。
気持ちの良い風が、シャツの袖の下から脇の下へとくぐり抜けてゆきます。
対岸の家並のいらかの波のあちこちで、大きなマゴイや小さなメゴイが、5月の透明な光と風を呑みこんでは吐き出し、ゆらゆらと泳いでいます。
「ケンちゃん、『8組の歌』を歌おうか」
「うん、いいね」
そこでふたりは声を揃えて、大船中学校3年8組の歌をア・カペラで歌いました。
明るい青い空 光があふれるよ
野に咲く はなばなは
ぼくらに ほほえむよ
みんなで ゆこう
あの山こえて
みんなで ゆこう
よびあいながら
明るい青い空 光があふれるよ
野に咲くはなばなは
ぼくらに ほほえむよ
それから、ふたりが河原へ降りてゆくと、井堰のちょっと浅くなったところで、由良川の魚たちが背伸びしたり、躍りあがったりしながら、ケンちゃんたちの到着を待ちわびているのでした。
中には井堰を乗り越え、身をよじりながらこちらへにじり寄ってくる、せっかちなドジョウもいます。
「おや、そこをノソノソと歩いているのは幸福の科学を呼ぶとか言うゼニガメじゃないか」
ケンちゃんは、チビのくせに生意気にも背中にコケをはやしているゼンガメを掌に乗せると、井堰の突端できれいに澄んだ由良川の流れの中にそおっと放してやりました。
ゼニガメが不器用に泳ぎながら、コイやフナ、ギギやアユたちが群れ集っているところに辿り着くやいなや、誰かが合図でもしたように、その数えきれない何千何万匹もの由良川じゅうの魚たちが、一斉に銀鱗をきらめかせながら、思いっきりジャンプしました。
幅おそよ1キロの大河ぜんたいを、見渡す限り銀色で埋めつくした魚たちの跳躍は、いつまでも続きました。
いつもはそんな絶好のチャンスを見逃すはずのないカワセミもトビもサギも、さすがにこの時ばかりは水面を飛ぶことも忘れ、くちばしをあんぐりとあけたまま。魚たちの繰り広げる一大ページェントに見とれていました。
やがて由良川の川面に、ふたたび静寂が戻ったとき、最長老のオオウナギが、ケンちゃんとコウ君が立っている井堰すれすれのところまで、クネクネと泳いできました。
魚族の生存をおびやかす凶悪な敵との熾烈な戦いを我らがケンちゃん、そしてコウ君の助けを得て、やっとこさっとこ勝利に導いたこの老練な指導者は、ごま塩の長いヒゲをピクリ、ピクリと動かしながら、重々しい声音で一場のスピーチを試みました。
「うおっほん、このたびの、由良川史上かつてない大戦争を、なんとかかんとか無事に終結でけましたんわあ、ほんま、そこにおわっしゃる、おふたかたのご尽力の賜物と、心より感謝感激しとる次第であります。
わいらあ一族の平和な暮らしを脅かし続けてきた、あのライギョども、そしてそのライギョよりもさらに恐ろしい極悪非道のアカメどもを、当代最高の知性と教養、そして、沈着冷静な判断力と積極果敢な行動力とを兼ね備えた、アメミヤケン氏およびその兄上のコウ殿が、力を合わせて一挙に撲滅されたちゅうことは、じつに国家3千年、由良川6千年の歴史を飾る壮大な事業、いな大革命といううべく、まことにまことに慶賀に堪えましえん。
ここにわいらあ全由良川淡水魚同盟員一同、鴈首揃え、幾重にも伏して御両所の獅子奮迅の大活躍に満腔の謝意と敬意を表し、遠く遙かな子々孫孫の代まで、その偉業を語り継ぐことを、この場で厳粛にお誓いするものであります」
「ひやひや、そおそお、そのとおり!」
「よお、よお、三流弁士。言葉多くて心少なし!」
と、後に控えた魚たちは口々にはやし立てます。
由良川じゅうをどよめかせる大騒ぎがようやく収まると、威儀を正したオオウナギが、今度は慎重に言葉を選びながら語を継ぎました。
「んな訳じゃによって、わいらあ一同は、おふたかたのこのたびのお働きを、とわに記念して、なにか贈り物でもと考えたんじゃが、ご承知の通りの台風一過、火事場のあとのおおとりこみ、葬式あとの結婚式で、あいにく何の持ち合わせ、何の用意もでけへんかった。
もとよりわいらあ魚は生涯無一物、この世、あの世へのさしたる未錬も執着も愛憎もあらでない。ただ後生への功徳をいかにつむか、はたまた天地を貫く真徳とはいかなるものであるか、について、いささかの知恵を持つのみ。
そこで本日の別れにのぞみ、ここでわいらあ魚族の誇る吟遊詩人に登檀願い、人・魚・両種族の末長き友愛と交情を祈念することといたしたいが、いかに?」
最長老のわざとらしい問いかけを受けて、もう一度由良川じゅうをどよもす拍手と喝采が湧き起りました。
そしてオオウナギが軽く右の胸ビレを振って合図すると、背ビレも尾ビレもぼろぼろになり、ガリガリにやせ細った一匹のちっちゃな子ウナギが、井堰の向こうからよろよろと姿を現しました。
次号最終回へつづく
昼間からライトを点けて走っている法令順守の車たちは 蝶人