体調が悪くて、古代史はお休みしているが、先に草稿中のものが残っていたので、今日は、これを修正して公表する。
日本書紀の、続きを書き写してみよう。
五月九日。朝倉橘広庭宮にお移りになった。この時、朝倉社の木を切り払って、この宮を造られたので、雷神が怒って御殿を壊した。また、宮殿内に鬼火が現れた。このため大舎人や、近侍の人々に、病んで死ぬものが多かった。
六月、伊勢王が死んだ。
秋七月二十四日、天皇は朝倉宮に崩御された。
八月一日。皇太子(中大兄。後の天智帝)は、天皇の喪をつとめ、帰って、磐瀬宮に着かれた。この宵、朝倉山の上に鬼が現れ、大笠を着て、喪の儀式を覗いていた。人々は皆怪しんだ。
此処までも記録を纏めると、次のように成る。
天皇は一月に、伊予のニキタツに石湯行宮(注釈、道後)
三月に、ナの大津(博多港)に、磐瀬行宮(注釈、福岡市三宅か)。
五月に、朝倉橘広庭宮(注釈、福岡県朝倉町)。
七月に、朝倉橘広庭宮に崩御。
このように、道後(愛媛県勝山)、福岡市、福岡県朝倉町とある。
これを私は、伊予に比定する。石湯は道後でなく宇摩郡土居町。ナの大津と、磐瀬行宮も伝承の通りで宇摩郡土居町。朝倉は越智郡朝倉村だと推定する。
伊予の国分寺は今治市国分に在った。橘は西条市にある。西条市と今治市は約二十キロ。宇摩郡土居町と西条市は約三十キロ。何処も、瀬戸内だから、多人数の往来には大変便利だ。
少し高い所に宮を造ると、広い庭のように見える。だから、次の朝倉橘広庭宮は今治市~西条市の平野を見渡せる小高い場所の宮となる。
実は、今治市になった、朝倉村には斉明天皇の指示だと伝える遺跡が今も残る。
西条市も、この後、橘皇后など、天皇家とのつながりが、多く伝承される。
これらは、愛媛県資料で判るが、私は西條、今治、朝倉の現地調査をしていない。したがって、確定したわけではない。正確に判るのは、宇摩郡に対する部分だけだ。
だが、病気の天皇を福岡市に残し、朝倉に宮を造ったとは思えない。陸路で少し遠すぎる。伊予の比定だと、船で急げば一日で着く地域であり、全て燧灘にある。私は西條の遺跡を壊して、今治の朝倉に移したと考えている。
西條の遺跡は、中国の使者テイシュンが、会見した場所だと私は思う。だから、当時としては、祟られた。
「朝倉山の上の鬼」は、朝倉と言う名の山車だと思う。最初に出てきた、「大空を馳せる男」と同じだと、思っている。
普通の山だと、どんなに小さくとも、覗き込んだ様子が下からは見えない。また、木々もあって、鬼が居ることも判らないのが普通だろう。
鬼は最初、隠(おん。かくす)から始まった。と、誰かの本で読んだ。これは、朝廷に都合の悪い勢力を隠す(消す)ために遣ったのであり、次第にエスカレートしている。この話は、別の機会に書くことにする。
この時代は、私の『建国の史実』を求める部分ではない。だから、それほど詳しくも無い。先のように、現地調査もしていない。これは、私の求めた答えが、どのように消されたかを、大きく抑えるための調査なのだ。
また、後の世に、どのような、影響を残したか。どう対処したか。などの部分であり、これらが、先のヤマタノオロチなどのように、姿を変えて、記録されいることなど、怪異的で共通するが、同じにはしていない。 隠したいための、工夫だろう。
また、斉明天皇の記録も、本来の場所を隠したいために、間違いやすいように記録したと、私は思っている。福岡県には見下ろすような山(山車)が、今は伝わっていないと思う。
斉明天皇の話は、駆け足だが、これで終わる。
三島 明