nihonhanihonさんのコメントで、先のブログに行き、見直すと、ブログの答えをし て無い事に気付きました。ここで、そのコメントを入れて置きたいと思います。
http://nihonhanihon.iza.ne.jp/blog/entry/286759/
見直すと、神武天皇の後継について、近畿側の親子に間違いがありました。コメントの誤りを、ここで修正しておきました。
コメントに応じて、やってきました。
<その1>について
神武天皇の後継者は、天照大神が仲立ちして、近畿側の娘と結婚した子が後継と決まったようです。だから、長男の反逆となります。記紀には、これが記録されている見てよいでしょう。
九州の神武天皇と近畿の三島ミゾクイの娘(セヤダタラひめ)と美和神社の大物主の子、ホトタタライスキひめ(ひめタタライスケヨリひめ)の居る、「高佐士野」に出向き、結婚します。
私は、大物主はナガスネヒコ、ニギハヤヒは三島の神だろうと思っています。だから、ナガスネヒコと、ニギハヤヒの娘と間の子が、神武天皇の皇后に成ったと見ています。
先のコメントで、少しずれがありました。ここで修正します(基本的認識は変りません)。つまり、高天原の調停は、神武天皇と、近畿の実力者の娘との間の子が後を継ぐという言う物です。これで双方が納得したのでしょう。
そして、この子が継ぐと言う事で、ニギハヤヒの子、ウマシマヂが、姪の事も神武天皇に使え、近畿地方の説得をしたようです。先のコメントで書いた、「三島」の地名は、この神に由来すると思われます。
なお、タタラは、フイゴ、和製製鉄炉とされています。三島の神は鉄に関係した神で、大山祇神と重なります。
これが和平の条件でした。後の状況から判ります。詳細は何れ、別記したいと思います。
ニギハヤヒの子が、宇摩志麻遅を名乗るのも、高天原(宇摩)の許可があったのでしょう。この子が、ウマニギタの命で、宇摩にも居たようです。
有名な、「ニキタヅニ、フナノリセムト ツキマテバ、、」の歌があり、今は、松山と言う事になっていますが、旧宇摩郡(新居郡を含む地域。燧灘の凹みの中心部)の地名と言う研究も有ります。
私も、宇摩ニギタの名から、ニギタは、宇摩に付いた物と思っています。橘の島や、先のニキタヅの歌は、同時期のものと思います。共に、豊受山の北西に位置します。
朝廷が、高天原(宇摩)に、都への移動を依頼に行った時の出来事ではないかと思います。この頃、何代かの天皇の伊予の湯への行幸が有りました。伊予の湯も地元では異説があり、伊予の宇摩の湯に来た説があります。
宇摩郡の土居町には、天智地天皇の「衣掛の磐」が残ります。現在の伝承では、ここで湯に入ったのは無く、1~2キロはなれた場所の湯に入った伝承が残ります。斉明天皇の墓と伝える宝塚のある村山神社も気になる所です。
これ等は、先に写真を載せていると思います。
記紀の公式記録が正しいのか、地元で語り継がれた伝承が正しいのか、前後の整合性で、考えて見るのも面白いものです。
なお、天皇の伊予の湯への行幸は、伊予の風土記逸文に残っています。
<その2>について
推理は当っていると思います。
イワイの乱は、高天原との関係を切る朝廷に、意見したものと思います。
詳細に読めば、これが記録と一致する答えだと判る筈です。
この他にも、推察できる状況があります。継体天皇の頃から、高天原と朝廷とに、摩擦が起こっていたと、見て良いでしょう。
イワイは祝(祝出)ですから、高天原の応援だった事が名前からも判ります。
先のコメントは、記憶のままに書いたので、近畿の親子関係が間違っていました。今度は古事記を見直して書いたので、間違いありません。
記憶が落ちている事を、今度も、痛感しました。気をつけるようにしたいと思います。
なお、宇摩郡には、神武天皇の皇子、神八井耳命、建沼河耳命の、「井」と、「河」を付けたと言う、井川(河)神社が、豊受山の中腹にあります。ウマニギタの命が関係したのでしょうか?後に式内社になっています。
=======================
ありがとうございます。
皆さんの「ポチ」が、大きな励みになっています。よろしく。