徐福は2200年前に訪日
紀元前218年に、秦の始皇帝の命によって、仙術を身に付けた方士、徐福が「東海の神仙国(蓬莱・方丈・エイ州)」へ、「不老長寿の仙薬」を求めて旅立った。
これが中国の司馬遷の『史記』に残っている。
なお、昭和63年8月18日に、東京書籍から羅其湘・飯野孝宥著、『徐福 - 弥生の紅桟』が出版された。この本はこれまで日本では知られてなかった情報が多い。
この本は中国側の徐福に関する本格的な調査の報告があり、徐福研究の新しい発見が多く紹介されている。この本から、抜粋して話を進める。
徐福の家系
徐福の徐家は古く、中国最古の夏王朝の初期に徐に封じられた王の後裔であった。つまり、徐福は一介の神仙方士ではなく、中国屈指の名門、徐王の末裔だった。
つまり、徐家は三皇五帝の末裔で、尭帝・舜帝の時代には宰相を出している。この頃、徐に封じられた。この本家と分家は殷の時代に広く各地に分散した。
徐家は戦国七勇の秦・趙の宗家であり、始皇帝は徐家の分家の一つだったのだ。
「史記」が、その出自を明らかにしなかった理由は、体制(秦皇帝)を憚ったものだろう。現在の西徐山郷には、徐福から、七十一代、七十二台目に当たる子孫が健在である。
七十二代は、一代三十年として、実に、2160年だ。
この中国名門の人物が古代日本に来て、佐賀・広島・和歌山・愛知・山梨ほか、秋田や青森、八丈島など、全国に神社・墓碑・伝承が存在する。
実は、記録の残る中国では不老不死の話で民間まで知られては居ても、懐疑的人物として、学問的には実在したかどうかさえ、疑われていた。
1982年に、学問的に調査のグループが、徐阜(福、同音)村を発見して、この地の伝承、古跡等が判明して、実在の人物と確認された。
しかも、三国時代にもこの村が存在した。記録には、徐福から四百年程後に、魏の属領で郡守だった、徐質が殺された記録がある。まだ、それなりの身分で残っていたのだ。
以上のように、始皇帝が徐福に不老不死の霊薬を求めさせた話として日中に有名だが、調べると、このような単純な関係では無いのである。
始皇帝は全国を平定して、自家の本家に当たる徐家をはぶこうとしていた。また、徐福は身の危険を感じていた。このような状況で「不老不死の薬」の話が残されたのだ。
また、徐福が持ち込んだ、五穀や百工の技術は、縄文時代であった日本に変化をもたらした事は、容易に想像ができる。この状況を宇摩説の立場で解いて行きたいと思う。
この本で一番驚くの徐福が中国名門はだったと言うことだ。
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