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刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【刮目天の古代史】四世紀のヤマト政権と東アジア情勢

2025-05-28 20:04:46 | 古代史

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#先ほど、世界ミステリーCHの七支刀の動画「【衝撃】1600年前の剣、なぜ腐らない? 国宝「七支刀」が語る古代の奇跡と新事実!」を見て、紀年銘の部分「泰■四年」が「泰和」であることがX線CTで判明したそうです。当方が想定したとおりでしたが、泰和四年は369年であるので、間違いを赤字で修正し、図も更新しました。よろしければまた、お付き合いください(;^ω^)

#すでに「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その2)(その3)」で推理したが、三世紀の日本の建国の史実と古事記の暗号を解いて、謎を解明しました。これによって四・五世紀のヤマト王権内部の抗争が具体的にどういうものなのかは分かりましたが、その深層は当時の東アジア情勢に深く関わっているようですので、今回はヤマト王権の対外交渉について推理してみたいと思います。すでに「【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?」で見たとおり、かなり複雑な部分があるので、思い違いなどがあればご指摘ください。それでは、お付き合いください(#^.^#)

纏向遺跡を王都とする狗奴国(旧奴国)の卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)は、狗奴国を裏切り西晋に朝貢していた大国主と台与の倭国を滅ぼして列島を統一しましたが、西晋が呉を滅ぼしたので、次に西晋に狗奴国が滅ぼされることを怖れたました。そこで、卑弥弓呼大王は大国主の祟りと考え、大国主と台与の間の子ホムダワケ(崇神紀の大田田根子)をヤマトの祭祀王として呼び寄せ、応神天皇に即位させて邪馬台国の後継国ということにするために狗奴国をヤマトと呼ぶことにしたのです。

ヤマト盆地はもともと大国主系の豪族が領地としていたので、吉備・出雲においてニギハヤヒ大王と関係の深かった、武内宿禰の子孫、つまりスサノヲ・大国主系の豪族葛城襲津彦(かずらき の そつひこ)が活躍して、武内宿禰の子孫を呼び戻したと考えています。

ニギハヤヒ・物部系の豪族は狗奴国王家(物部氏の祖)が石上神宮(布留遺跡周辺)に留まり、その他のニギハヤヒ・物部系豪族は吉備・尾張、河内などの建国前の根拠地に戻りました。また、三世紀後半の建国の戦いによって筑紫・出雲・阿波・科野・毛野などの大国主系豪族の根拠地を台頭を抑えるために周辺を占領し、地方政権として国造りを行い、中央のヤマト政権の配下として各地に割拠していたと考えています。また、鳥越憲三郎「弥生の王国」(中公新書1994、p.180 図64 河内・大和の物部一族)に示された九州遠征で遠賀川流域などを占拠していた物部支族の一部(馬見・当麻・十市・久米物部など)を大和盆地や河内・和泉・摂津などに呼び寄せたようです。

さて、266年に大国主と台与が朝貢した西晋は皇族内の抗争である八王の乱(291-311年)によって急激に衰退しました。その中で諸王が傭兵として用いた北方アジアの異民族が力を持つことになり、匈奴の劉淵が漢(後の前趙、304-329年)を建国し、氐族が成漢(304-347年)を建てました。西晋は316年に漢によって滅ぼされた後に、北方アジアの諸民族がシナ全土で次々に建国しては滅亡する五胡十六国の時代になりました。西晋の皇族の司馬睿は江南に遷り、東晋(317年 - 420年)を建てました。439年に鮮卑族の拓跋氏が建てた北魏(386 - 534年)が華北を統一するまでを五胡十六国の時代です。五胡とは、匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五つの民族のことです。

東晋の武将劉裕(武帝)に帝位が禅譲された宋(南朝 劉宋、420 - 479年)と北魏が並立する南北朝時代になります。五世紀までの上図には見えませんが、北魏は西魏(匈奴系の宇文部)・東魏に分裂し、西魏の大将軍楊堅(隋文帝)が代わった北周の軍権を握り581年に隋を建国します。さらに隋が宋の後継国の陳を滅ぼして中国を統一する589年まで南北朝時代が続きます。

紀元前二・三世紀までの韓半島については「【刮目天の古代史】弥生時代渡来人の正体?(^_-)-☆」で述べたとおり、主に倭人や韓人が縄文時代から半島に渡っていた縄文人と混血しています。原三国(馬韓・弁韓・辰韓)から百済・新羅が建国され、半島北部を高句麗が占領する「三国時代」に至る以前の状況は、「半島の古代史だ!(漢四郡まで)」で説明したとおりです。

満州南部から発し、紀元前四世紀 - 494年に半島東北部にあった扶余の神話に登場する槀離タクリ・カウリ)国人の解慕漱(かいぼそ)が扶余を建国したとの伝説がありますが、塚田敬章「魏志夫餘(扶余)伝と夫餘史」に扶余の祖先は呉公子夫概とありますので、その子孫の秦の捕虜となって長城建設に従事していた堂谿氏系の呉人(倭人O-47z)や楚人(シナ人O2、旧O3)が秦王朝末期(紀元前206年頃)の混乱で半島北部に逃亡し、ツングース族の貊(はく、北方アジア系C2)と混ざり合って扶余が建国されたようです。さらに紀元前一世紀ころに扶余から分かれた楚人らが、玄菟郡付近(半島北東部)に移り、高句麗が建国されたと考えています。

遼東地方から遼西地方では西晋(265-316年)の末期に鮮卑族(北方アジア系C2)の慕容部が勢力を拡大させて後に前燕(337 - 370年)を建てます。堂谿氏系の倭人の集団(後の百済人)も同じころと思われますが、扶余から分かれて前燕の支配する地方に移住した模様です。

「晋書」によれば、341年、慕容皝(ぼよう こう)に高句麗が大敗し、王都の丸都(がんと、現在の中国吉林省集安県北の山城子)まで侵入されたので、「百済はこの隙をついて高句麗の北に進出し、扶余を侵略したのだろう」と坂田隆「古代の韓と日本」(新泉社1996、pp.17-18)にあります。したがって百済は340年頃に堂谿氏系倭人によって遼西・遼東地方で建国されたと考えられます。この頃に倭人国家として隆盛だった
倭国を後ろ盾にして敵対する高句麗に対応するために天理市石上神宮に伝来する泰(和)四年(369年)に作ったという鉄製の七支刀を倭国王に贈ったと考えています。倭国王旨に献上したと金象嵌されているので、百済を建国した近肖古王(余句)が宇治天皇に贈ったと考えています。「旨」の発音が「治」と同じ[zhi, ji]ですので、宇治天皇を暗殺した仁徳天皇が石上神宮に奉納したと思われますが、近肖古王が仁徳天皇に贈ったものなのかも知れません。(2025.5.28 赤字修正)

「晋書」では、355年高句麗第16代王故国原王(ここくげんおう)は、慕容皝の後を継いだ慕容儁に恭順の意を示したので、「征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王に封じられた。」とあります。さらにwiki「故国原王」に「369年に2万の軍隊を率いて百済を攻めたが、雉壌(黄海南道白川郡)の地で敗れている。そして371年10月には逆に百済の近肖古王が兵3万を率いて高句麗に攻め込み、故国原王は防戦に努めたが、10月23日、流れ矢に当たり戦死した。」とあります。「魏書」百済伝には百済の(余)須が高句麗王釗(しょう)を殺してさらし首にしたとあり、釗は故国原王の諱とあります(wiki「故国原王」)。「晋書」では372年百済王余句(近肖古王)が東晋から鎮東将軍・楽浪太守に冊封されています。

『宋書』・『梁書』・『南史』・『通典』は一致して、”晋・宋代、百済は遼西あたり、すなわち現在の中国の遼寧省西部・河北省東部あたりに存在した」とありますから(坂田p.14)、四世紀後半の百済は現在の平壌あたりまで支配していた大国になったのです(注1)。

高句麗第17代小獣林王(しょうじゅうりんおう)は国力の回復に努め、仏教を導入しました。377年には前秦に朝貢し、百済とは互いに攻撃し合っていたが、378年に北方の契丹に侵略されて、8部族を奪われ、384年に死去しています。弟の故国壌王(ここくじょうおう)が跡を継ぎ、「後燕の支配下の遼東に攻め入り、一度は遼東郡・玄菟郡を陥れるが、半年と立たずに奪い返された。・・・半島内では百済に攻め入られ、390年には都押城(黄海北道中和郡)を破られるなど、劣勢に陥った。」とあり、391年に死去しました(wiki「故国壌王」)。

高句麗は広開土王(好太王)になると隆盛になって半島南部の三韓(馬韓・辰韓・弁辰)をしきりに窺いますので、倭国のヤマト政権(住吉天皇)はその支配地の弁韓(伽耶)の鉄を確保するために半島に軍を送り、高句麗と対立しました。

その頃の記録が現在の中共吉林省の広開土王碑文に書かれています(注2)。四世紀末から五世紀初頭の半島の様子が分かります。そのような中でヤマト政権は半島の利権をどのようにして確保するかが大きな課題でした。主な利権のひとつである辰韓の鉄(慶州市の隍城洞遺跡)を脱解尼師今(奴国王スサノヲがモデル)の子孫訖解泥師今から金氏の奈勿麻立干が支配するようになったのですが、当初はヤマトの大王(住吉天皇)とは良好な関係だったと考えています。しかし、吉備や北部九州に拠点を築いていたニギハヤヒ・物部系豪族は辰韓とは疎遠なので、任那(金官伽耶、初代奴国王天御中主の故地)の鉄を確保するために、独自の判断で兵力を半島に送った可能性があります。

その背景には、上述のとおり、三世紀の日本建国で大国主が狗奴国の有力者だった尾張王(記紀の仲哀天皇)を斬り、狗奴国を裏切ったことで狗奴国大王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)と深刻な対立が起こり、最後は尾張王建稲種命率いる狗奴国勢(尾張・物部)が大国主らを討って日本を統一した経緯があります。そして、狗奴国王が大国主の子応神天皇を倭国王に建てて両勢力が一旦は和解したのです。後の時代に「ヤマト(邪馬台国)」を「大和」と書いた所以です。

しかし、応神天皇崩御後に即位した宇治天皇(卑弥呼の弟赤坂比古の孫)の後ろ盾で和爾氏の勢力が拡大して、ニギハヤヒ・物部系豪族を圧迫したので、反発が起こりました。尾張王建稲種命の子孫の仲津姫が生んだオオサザキ(仁徳天皇)が宇治天皇を暗殺して皇位を奪ったと推理しています(詳細は「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?」参照)。それでも、仁徳天皇はヤマト政権内の大国主系豪族の反発を抑えるために皇太子を宇治天皇の妹八田皇女が生んだ住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)とし、崩御後に住吉天皇が即位したと推理しています(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)」参照)。

ヤマト政権内のスサノヲ・大国主系豪族とニギハヤヒ・物部系豪族が、新羅と百済をそれぞれ強力に支援して、半島情勢の影響を受けて政権内での対立が激化した模様です。そのような中でヤマトの大王として兵権を握り、半島に進出する必要に迫られましたので、413年に東晋の冊封体制に入り、大王の権威を高めるために住吉天皇が遣使したと見ています。420年に東晋が有力者の劉裕に帝位を禅譲し南朝の宋(420年 - 479年)が建国されます。主に劉宋との外交活動を行うことになったのが「倭の五王」ですが、次回以降に述べる予定です。

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(注1)「梁書」百済伝では「呉はみずから百済郡を設置した。」とあり、「日本書紀」雄略天皇紀でも「百済国から来た貴信が呉国の人」とされているとありますので、百済は呉人(倭人)が建てた国なのです。さらに「南史」百済伝および「通典」百済条にも「みずから百済郡を置く」とあります。「日本書紀」雄略天皇紀二十年条所引「百済記」に蓋鹵王(こうろおう、455-475)の乙卯(475年)の冬に狛(高句麗)の大軍が来て、ついに王城が陥落して尉礼(いれ、現在のソウル)を失うとあるのでこの百済郡は韓半島南部のことだと分かります(坂田上掲書pp.27-31)。

(注2)高句麗故国壌王の子の好太王(広開土王、即位391年 - 412年)が、ようやく勢力を盛り返して、「396年には漢江を越えて侵攻して百済の58城700村を陥落させ、百済王に多数の生口や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた。」とあります。高句麗の勢いを怖れた新羅第17代王奈勿尼師今(なもつ にしきん、在位:356年 - 402年、金氏)はすでに392年に王族を人質として送っています。

また、「しかし丁酉年(397年)、百済の阿莘王は王子腆支を人質として倭に送り通好する。(399年)庚子年(400年)高句麗は倭の侵攻を受けていた新羅に歩騎五万を派遣し、新羅を救援する。このとき新羅の王都は倭軍の侵攻を受けていたが、高句麗軍が迫ると倭軍は退き任那・加羅まで後退する。高句麗軍が追撃すると倭国傘下の安羅軍が新羅の首都を陥落させた為、402年に新羅は奈勿尼師今の王子未斯欣を人質として倭に送り国交を結んだ[9]。甲辰年(404年)になると帯方界で倭軍の攻撃を受けるが撃退した。丁未年(407年)には後燕に侵攻して6城を討ち鎧一万領を得た。

このような南方での勢力拡張策とともに西側への侵攻も図っている。当時高句麗の西方にあった慕容氏の後燕国に使節を派遣するなど友好関係を維持したが、庚子年(400年)に後燕王慕容盛が蘇子河流域にあった高句麗の南蘇城と新城に侵攻して来ると、好太王は後燕に対する反撃を敢行した。この時、遼東城(遼寧省遼陽地級市)
を含めた遼河東岸地域を侵略した。

このほかにも、壬辰年(392年)には北方で契丹を征伐し、男女500人を捕らえるとともに契丹の捕虜となっていた高句麗人1万人を連れ戻した。庚戌年(410年)には東扶余を屈服させることで北と東に領土を拡大し、西は遼河、北では開原から寧安、東では琿春、南へは臨津江流域にまで至った。

また内政の整備にも力をつくし、長史・司馬・参軍など中央官職を新設し、歴代王陵保護のために守墓人制度を制定した。癸巳年(393年)には平壌に9寺を創建して、先代の故国壌王にならって仏教を奨励した。在位22年にして412年に39歳で死去した。
」とあります。王の功績を記念して414年に子の長寿王によって好太王碑(広開土王碑)が作られました(wiki「好太王」)。

【関連記事】

【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?

馬韓の伯済国の倭人斯摩(百済武寧王)が502年に百済を乗っ取ったのは武烈天皇と強いつながりがあり、事前の盟約があって、倭国軍が支援したのかも知れませんね(^_-)-☆

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【刮目天の古代史】お知らせ!(;^ω^)

2025-04-18 17:35:26 | 古代史

#本日、「はてなブログ」より最初の記事

邪馬台国探究のための哲学と方法は?

を公開しましたのでお知らせします。最近、にも毎回、最新記事を投稿していますので、意見交換などで是非ご利用ください。

まだ引っ越しが完了していませんので、11月まではGOOブログの記事はこのまま置いておくつもりですが、それまでは皆様に特別に「お知らせ」で利用する以外にGOOブログには記事をアップしませんので、よろしくお願いいたします。「はてなブログ」の操作に慣れてくればいいのでしょうが、現状では覚えることが多いので、とても二つのサイトを管理できません。ということで、今後は「はてなブログ」だけの運用になります。ご面倒をおかけして申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いいたします。(2025.4.18)

 

2025年11月でGOOブログが閉店という連絡を受けて、少し戸惑いました。幸い、GOOブログが引っ越し手順を丁寧に教えて下さったので、今までの記事は一応新規登録したHatenaBlogに移ったようです。有難うございます。しかし、引っ越しを完了するにも、いろいろと作業しないといけないようですし、新しいブログの操作に慣れるまで、しばらくは、思うように対応できませんし、頻繁に記事をアップできないと思います。

フォロワーの皆様のご協力や応援のお陰で、謎の古代史をだいたい解明できました。とても有意義な時間を過ごさせていただき、心から感謝いたします。また、思い出していただいたらご訪問ください。疑問点などございましたら、いつでも遠慮なくこちらにコメントください。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 

【引っ越し先】 https://katumoku10.hatenablog.com/

(2025-04-17 08:37:44 公開)


【刮目天の古代史】奴国を語らずに邪馬台国問題は解けない!(;^ω^)

2025-04-14 00:00:01 | 古代史

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弥生時代に大国化を進めた奴国王!大遺跡群からわかる日本最古の倭人の国の真実
daffyduckissexy@YouTube


とてもいい話題を有難うございます。
奴国は北部九州の倭国の国々を治めた王が居た場所だったのです。奴はナーガ=龍蛇神を意味する漢字で、後漢が倭国王を貶めるために選んだ文字ですが、中(なか)の漢字が一番しっくりきます。

奴国の初代王は4世紀初頭に半島南部の金官国(任那)から遷都した呉の王族の天御中主(あめのみなかぬし)です(「任那(みまな)の正体は?」参照)。記紀でも高天原に最初に降り立った神とされています。早良平野吉武高木遺跡に日本最初の王墓が在ります。奴国三代の王と王妃や王族が葬られています。宋史王年代紀に初代王から二十三代の奴国王名が記載されていて、筑紫日向の宮に居たとあります。二代目が天村雲尊、三代目が天八重雲命なのです。剣・勾玉・鏡の三種の神器が副葬された木棺が二代目の墓です。

四代目の王の名前が天爾聞尊(あめのににぎのみこと)なのです。どっかで聞いたことないですか?記紀神話のアマテラス女神が孫のニニギに三種の神器を与えて葦原中つ国を平定するように命じた天孫降臨の話の基になった史実なのです。

天爾聞尊が祖父の天村雲尊に三種の神器を与えられて福岡平野に進出したのです。

その子孫の奴国王は福岡市比恵・那珂遺跡群に列島最大の交易センターを作り、繫栄し、後漢光武帝から金印を賜るまでに隆盛になったのです。新しい王都が春日市須玖遺跡群です。

シナの冊封体制に倣って、列島各地から珍しい産物を持ち寄るムナカタ海人族の部族長に鏡や剣などの青銅祭器を与えたのです。青銅器の官営工場を須玖タカウタ遺跡に作りましたが、冶金工人はBC.219年に奴国王(龍神)が招へいした徐福の一行だったのですよ。

光武帝が57年に奴国王に金印を与えたのは、シルクロードの最東端の珍しいものを買い付けに来る楽浪郡の華僑のために、倭人との取引を保証させる目的で冊封体制に組み込んだのです(岡田英弘「日本史の誕生」弓立社)。

ですから委奴国をイト国と読むのは間違いです。金印の蛇鈕がナーガ(奴=中)を信奉する民族(江南の倭人)の王(呉王の末裔)であることを示しています。地名も那珂、那賀、長柄、中山等々は倭人が開拓した場所につけられた名前なのです。

そして宋史王年代紀には奴国最後の王の四男が大和の橿原宮に遷都した神武天皇だとして64代花園天皇まで名前を記載しています。しかし、実は17代王伊弉諾尊の次の素戔嗚尊、そして19代王天照大神尊の名前がありましたので、記紀神話の謎が解けました。

古事記神話では姉のアマテラスを悩ませた乱暴者の神スサノヲが八百万の神に捕らえられて、髪の毛を毟られ、手足の爪を剥がされる拷問をされ、全財産を奪われて高天原を追放されたと史実を暴露していたのです。

107年に後漢安帝に160人もの生口を献上した倭国王帥升(倭面土国王師升)の記事が范曄後漢書にあります。師姓は周代以前から宮廷の祭祀を担当する楽師の官位を表すものだったのです。奴国の宮廷楽師師升らが反乱を起こしてスサノヲを捕らえて、金印の在りかを聞き出すために拷問したと分かります。

しかし、金印はすでにスサノヲの部下(江南の倭人アズミ族)が持ち出し、逃げる途中で志賀島に立ち寄って土に埋めたのでした。それが江戸時代になって発見されたものなのです。ですから、師升は倭国王に認められるために捕らえたスサノヲの部下を奴隷として後漢に献上したのでした。金印はこの史実の貴重な物的証拠だったのです(^_-)-☆

この反乱劇のあった博多を日本書紀仲哀天皇紀で儺県(なのあがた)と呼んでいますが、儺の漢字の意味は「鬼やらい」つまり鬼のような悪い奴国王のスサノヲを追放した史実を表す地名なのですから、日本書紀の編者もこの史実を知っていて隠したと分かります。

また面土国について白鳥庫吉は、魏志倭人伝の記事から面が回の俗字の誤写で土(ウィト)国だと指摘しました。つまり奴国王から倭国を奪った師升は王都を伊都国の三雲遺跡に遷したということです。師升王の墓は井原鑓溝遺跡と考えています。

このことから魏志倭人伝の邪馬台国への行程記事を書いた人物が景初三年(239年)六月に魏への朝貢のために帯方郡を訪れた大夫難升米だと特定できました。

難は、倭を委と書いたのと同じで、儺のニンベンを省略した減筆でした。儺升はスサノヲを追放した師升のことです。米は「メ」と呼んで、頭目(かしら)の意味がありますので、師升の子孫の難升米が伊都国男王という意味だったのです。

そして伊都国の「伊」は聖職者を意味し、伊都は殷(商)王朝初期の伝説の政治家伊尹(いいん)を連想する国名です。伊尹は放蕩者の王を追放したことでその評価の議論がある人物ですから、師升が奴国王スサノヲを追放した事績と重なるのです。奴国宮廷楽師の師升の反乱の史実を知って土国を伊都国と書き替えることができる人物は師升の子孫の難升米以外に居ません。

難升米が倭国の本当の国王だったということです。じゃあ、なぜ卑弥呼を女王としたのかは政治的な理由だったのです。これらの発見によって邪馬台国問題も日本の建国の問題も解決しました。詳しくは説ブログ「伊都国の意味がヒントだった?」「【刮目天の古代史】消された吉備の大王ニギハヤヒの謎?」をご参照ください。
どうも、長々とお邪魔しました(;^ω^)

【関連記事】

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)

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【刮目天の古代史】盲点はたった二つだよ(;^ω^)

2025-04-13 09:29:30 | 古代史

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49. 邪馬台国論争を振り返る~「邪馬台国論争と日本国家の起源」
丸地三郎@YouTube


邪馬台国研究史、とても参考になりました。

21世紀の現代になって科学技術は進歩しましたが、この問題がまだ解決しないのは、次のような大きな思い違いがあるからだと思います。

魏志倭人伝は西晋の史官の陳寿が書いたものなので、3世紀の倭人の世界が正しく書かれているはずだから、正しく解釈すれば正解が得られる。

記紀は天皇の歴史書だから、3世紀の倭人や邪馬台国のことが書かれていないが、神話の中に投影されているはずだ。


①については、陳寿が倭人伝を残した政治的な理由をしっかりと理解できていないで書かれた行程記事などの内容から邪馬台国の場所を想定して、自説に都合の好いように文章を解釈し、都合の悪い内容を無視しているのです。だから、万人が納得できる答えになっていないので、いまだに決着しないのです。

②については記紀が天皇の歴史書だと強く刷り込まれているので、何とか好意的に解釈して記紀の内容から仮説を立てているのです。しかし、事実、つまり考古学や民俗学などの成果と一致しないのはロマンだと感じるだけで、実際に編纂した藤原不比等の目的を見抜けません。科学的な探求になっていないのです。つまり、事実と一致する記紀の内容は真実を表している可能性がありますが、そうでない部分は虚構ですので、なぜ虚構が生まれたのかをきちんと探求しないとダメです。

これらのことを理解してアブダクションと呼ばれる科学的な推論法によって仮説構築することで日本の建国の過程を推理できます(詳細は「【必見!】考古学と民俗学からわかる日本の建国!」参照)。

その結果、邪馬台国は宇佐にあり、卑弥呼は古代豪族和邇氏の祖の宗像女神市杵島姫命で、「径百余歩の冢」とある卑弥呼の墓が宇佐市安心院町「三柱山古墳」であることが分かりました。

卑弥呼が何故登場したのかは倭国大乱の原因を正しく理解する必要があります。同時に、日本書紀と古事記の正体も正しく理解する必要があります。

詳しくは「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」および「【刮目天の古代史】日本書紀のひみつ?」をご参照ください。お邪魔しました。

【関連記事】

【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!

【刮目天の古代史】魏志倭人伝に騙されるな!

古事記・日本書紀の正体は?

日本書紀で隠された藤原不比等にとって不都合な史実をそれとなく暴露するのが古事記の目的だったのです。古事記が暴露した主な史実は以下のとおりですよ(^_-)-☆

(1)新唐書・宋史が記した王年代紀で示した初代奴国王天御中主を、日本書紀で高天原に最初に登場する神として古事記でも登場させ、日本書紀の神代七代前に五代の別天神を紹介することによって、神代の高天原の神々が、宋史王年代紀に記載した倭国を支配した奴国王のことだと示唆した(詳細は「王年代紀は記紀神話を正した!」参照)

(2)高天原を追放された乱暴者の神が、八百万の神々に髪の毛をむしられ、手足の爪を剥がされ、全財産を没収されて追放されたと書くことによって、107年に後漢に朝貢した倭の伊都国王師升が第十八代奴国王スサノヲを殺して倭国を奪った史実を示唆した(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。

(3)日本書紀の神武東征神話が真の初代応神天皇の即位の史実を誤魔化す話であることを示唆した。日本書紀で登場するナガスネヒコの別名をトビヒコと明かすことにより、トビヒコの正体の大国主がヤマトのニギハヤヒ大王の子孫に殺された後に大国主の祟りにより、大国主の子(応神天皇)が祭祀王として纏向遺跡に呼ばれてヤマト王権が成立した史実を示唆した(詳細は「ナガスネヒコの正体は大国主トビヒコだよ!」参照)。

(4)日本建国の主役であったスサノヲの子孫の出雲・丹後王三代の王八束命(出雲国風土記の神八束水臣津野命の略称)・日高彦(大国主高野御子の父)の正体を日本書紀は日向三代の神話で隠したことを示唆する神名を与えた。八束命は淤美豆奴神(オミズヌノカミ)とした。またその子日高彦(穂高彦)を天之冬衣神(アメノフユキヌ)としたが、冬の季語がホダ(木切れ)なので八束命と日高彦が木霊イタケルの子孫であることを暗示した(詳細は「日向三代神話は出雲三代がモデルだった!」参照)。

(5)空白の四世紀の謎を解明するためのヒントを与えた。仁徳天皇が、応神天皇の皇太子菟道稚郎子(ウジノワキノイラツコ、宇治天皇)を暗殺して皇位を奪った史実や卑弥呼の弟赤坂比古(記紀の日触使主、詳細は「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」参照)の孫の菟道稚郎子の妹八田皇女と仁徳天皇の子住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ、住吉天皇)が即位した後、異母兄弟たち(履中天皇・反正天皇)に暗殺された史実に加えて、倭の五王の系譜を示唆するために日本書紀と異なる崩年干支を記載した(「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その3)参照)。これによって富雄丸山古墳の被葬者が判明した(詳細は「【刮目天の古代史】今年の大発見第1位!(^_-)-☆」参照)。

(6)日本書紀が隠した天智天皇の真の系譜に気付かせるヒントを与えた。日本書紀が天智天皇の祖父とした押坂彦人大兄の妃糠手姫皇女(ヌカデヒメノヒメミコ)が、日本書紀が天智天皇の母とした宝皇女(タカラノヒメミコ、皇極・斉明天皇)と同じ名前の宝王(タカラノヒメミコ)だったことを明かすことで天智天皇(中大兄、中津王)の真の母が糠手姫皇女であったことを示唆した(詳細は「【刮目天の古代史】天智天皇の謎?」参照)。

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【刮目天の古代史】なぜ纏向遺跡なのか?(その2)

2025-04-12 18:33:09 | 古代史

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#前回の記事「【刮目天の古代史】なぜ纏向遺跡なのか?(その1)」と同様に、「【邪馬台国問題】畿内説はインチキだよ!」でご紹介した以下の動画のコメント欄でもうひと方と議論しました。こちらの方は畿内説でないようです。よく分かりませんが、よく研究されている方でほかの動画でコメントを見かける方のようです。よろしければ、またお付き合いください(*^。^*)

邪馬台国所在地論 考古学的には既に畿内説で決着

 【社会人のための高校日本史】@YouTube

 

@トミヤマサキオ
邪馬台国七万戸可の証明が出来ますから。畿内は三世紀から巨大な古墳が連続で造られた場所ですよ。

@katumoku10
三世紀初頭から造営された纏向遺跡は三世紀末のヤマト王権が成立した場所です。その物証が纏向型前方後円墳です。その後前方後円墳は全国で盛行しますので、政治の中心と考えられているのですよ(;^ω^)

つまり、纏向遺跡の勢力=狗奴国が邪馬台国連合倭国を倒して日本を統一したということです。物証は「【検証19】日本建国のための戦いだ!」をご参照ください。

@トミヤマサキオ

邪馬台国は魏志倭人伝のとおりに考察するなら七万戸、しかも鬼道の痕跡のある場所じゃないとダメなんです。北部九州には奴国があるのでその時点で邪馬台国の可能性は消えます。どうやって九州に14万戸も想定するのでしょうかね? 魏志の記述では7万戸なんて西日本一帯でもおかしくない数値ですから。数字を盛ってると考えるならむしろ畿内説には好都合ですね。 纏向はあくまでも祭祀的な施設なのは現時点でも可能性は高いです。当たり前ですが纏向遺跡=邪馬台国ではありません。あくまでも一遺跡ですよ。

@katumoku10

おっしゃるとおり、纏向遺跡は広大な遺跡ですが、祭祀に特化した政治都市なので、人口は大して多くないと考えられます。でも、単なる一遺跡ではなく、三世紀末には日本を統一してヤマト王権が成立した重要な遺跡ですよ(^_-)-☆

先に陳寿が倭人伝を残した目的を説明しましたが、これに気付かないで邪馬台国問題を議論すると決着しません。歴史学は文献と事実、つまり考古学や民俗学などの成果と一致する部分を探して仮説を構築しないと、書かれていることだけで仮説を立てても騙されます。

当時奴国の比恵・那珂遺跡群がは列島最大の交易都市でしたから、それが二万戸ならば、五万戸の投馬国も七万戸の邪馬台国も倭国を合計十五万の東夷の大国とするための潤色です。戦乱つづきの魏の都洛陽で十万戸、大月氏国も十万戸なので、それ以上の大国に見せかけるためですよ(^^;)

三世紀初頭から造営された纏向遺跡は三世紀末のヤマト王権が成立した場所です。その物証が纏向型前方後円墳です。その後前方後円墳は全国で盛行しますので、政治の中心と考えられているのですよ(;^ω^)

つまり、纏向遺跡の勢力=狗奴国が邪馬台国連合倭国を倒して日本を統一したということです。物証は「【検証19】日本建国のための戦いだ!」をご参照ください。

勘違いしてはいけませんが、弥生中期の時点で鏡は既に葛城地方で出土しています。同じ頃水銀朱を測る秤、貨泉は河内で出土していたり。 つまり邪馬台国の時代より数世紀前から畿内方面は大陸との交流は既に確認済みです。大陸に近い北部九州が先行して栄えるのは当たり前の話で、だからそこに首都機能を持つ伊都が出来たというだけの話です。 同じような例は半島の月支国と辰韓国のような関係でしょう。
 
@katumoku10
そうなんですよ。弥生時代の中期から後期前葉までは奴国王が倭国を支配していたのです。しかし、宋史王年代紀18代奴国王スサノヲの時代に宮廷楽師の師升らの反乱があって、スサノヲ大王が殺され、倭国は師升が乗っ取ったのです。
 
反乱を逃れた王族が出雲と吉備に拠点を作り奴国が再興されたのです

一方、伊都国を王都にした師升の倭国は、当初は繁栄しましたが、後漢王朝の内紛・混乱で半島支配が緩み、韓人らが暴れて、倭国が楽浪郡と交易ができなくなって衰退します。
 
一方旧奴国(狗奴国)の勢力は半島南部の鉄を支配して鉄のネットワークで隆盛になり、倭国の集落を攻撃して、倭国を滅亡寸前まで追い詰めました。これが倭国大乱です。
 
ところが公孫氏が半島を平定したので倭国は息を吹き返し、倭国の前線基地の菊池川沿いの集落を攻撃して狗奴国の官狗古智卑狗が戦死したと推理しています。そのために、半島の鉄の海運を支配していたムナカタ海人族の赤坂比古(和邇氏の祖)が狗奴国を裏切って倭国側につきます。赤坂比古の娘市杵島姫命卑弥呼が告げる太陽神の神託によって政治を行う条件でした。これによって倭国は繁栄し、九州から中国西部・四国の勢力が赤坂比古の傘下になりました

 (図は卑弥呼の死の直前の状況です)
 
狗奴国王卑弥呼弓は吉備から纏向遺跡に遷都し、旧奴国の勢力を集めて倭国と対抗し、卑弥呼の死後の経緯がありますが、最終的に倭国を滅ぼして日本を統一したのです。これは考古学や民俗学の成果によって検証を繰り返して得た仮説です。
 
ですから、九州の倭国と畿内の狗奴国の対立がありますので、それを考慮しなければ大陸・半島との交流を説明できません。詳しい話は拙ブログ「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」でどうぞ。
 
 【関連記事】

消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ

【検証9】奴国時代の話(その1)(その2)
 記紀が天皇の歴史書じゃないと分かれば、通説となっていた奴国に対する考えが変わるはず(^_-)-☆

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)

 

 

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