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刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

天皇家に名字はあった?(@_@)

2023-06-23 16:15:14 | 古代史
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1年も前に発表されたものですが、天皇陛下に関するとてもいい話題でしたので、コメントしました。
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みなさん、天皇家に名字がないと思われていますが、隋書倭国伝には姓は「阿毎(アメ)」と書かれています。新唐書日本伝にも日本の「王の姓は阿毎氏。自ら言う。初主は天御中主と号し、彦瀲(ひこなぎさ)に至るまで凡そ三十二世(宋史にある二十三世が正しい)、皆尊(みこと)を以って号と為し、筑紫城に居す。彦瀲の子神武立ち、更めて天皇を以って号と為し、治を大和州に遷(正しくは徒の土を止としたもの)す。」と書かれています。宋史の王年代紀には二十三世が列記されています。

阿毎は発音を隋の役人が漢字に宛てたもので、本当は「天」です。海を意味します。初代王天御中主の「中」は龍蛇神(ナーガ、奴)ですから、龍蛇神を信奉する海人族の王という意味です。水天宮で龍神として祀られ、各地で水神としても祀られています。地名にも那珂、那賀、長柄、中山等などがみられ、江南出身の倭人(アズミ族)が入植した土地の地名に見られます。記紀にも高天原に降り立った最初の神とされています。筑紫を支配した奴国王だったのです。だから新唐書・宋史にも「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」と明記され、新唐書以降の正史から倭国を改めて日本とされています(詳細は「「日本国」へ、八百年も掛かったのか?」参照)。

日本の最初の王墓は弥生前期末から中期初頭の福岡市吉武・高木遺跡です。天御中主から三代の王とその妃や王族などが埋葬されています。副葬品にも三種の神器に相当する剣・玉・鏡が見られる王墓は宋史王年代紀二代目天村雲尊のものと比定でき、三代目は天八重雲尊です(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。

四代目天彌聞尊(ににぎのみこと)から春日市須玖岡本遺跡に王宮を造り移り住んだようです。奴国が内外の交易によって最も隆盛になったのは、多分各地の神社で祀られている十三代王国常立尊(くにのとこたちのみこと)の時代でしょう。そして建武中元二年(57年)後漢光武帝から賜った「漢委奴國王」の金印は十六代王沫名杵尊(あわなぎのみこと)の時代でしょう。次が国生みの神とされた伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、次が素戔烏尊(すさのおのみこと)で、記紀神話で高天原から追放された乱暴者の神とされています。その次が十九代王天照大神尊(あまてらすおおみかみのみこと)となっていますので、記紀神話のスサノヲの姉アマテラスは創作だと分かります(詳細は「神話が隠した不自然な史実」参照)。



史実はスサノヲが宮廷楽師師升の反乱で殺され、奴国は一度滅びますが、弟ニギハヤヒが奴国を脱出し、吉備を平定して奴国を再興し、倉敷市楯築王墓に葬られます。纏向遺跡に発祥のヤマト王権の基礎を作った人物だと推理しました(詳細は「【刮目天の古代史】楯築遺跡は帥升の墓か?」参照)。

楯築神社のご神体の弧帯文石(亀石)が人面蛇体なのです。つまり、中国神話の天皇伏羲の末裔の天御中主龍蛇神の子孫ですから大発見でした。魏略逸文「自謂太伯之後」は正しかったようです。太伯は初代呉王です。紀元前1900年夏王朝を興した禹王の末裔なのです。禹王も蛇体で、伏羲・女媧の末裔なのですから天皇陛下は人類の始祖神の末裔なのですよ(詳細は「民族は言語と神話で区別するのか?」参照)。



日本人は、現存する最古の正史は天武天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書だと学校で習っています。しかし完成したのは崩御から34年後です。当時の権力者は藤原不比等でした。日本の建国の史実が都合が悪いので、神話を創作して史実を隠したことが考古学や民俗学などの成果から分かってきました。

日本書紀よりも先に完成したとされる古事記は、九世紀の朝廷で日本書紀を講義した学者多人長(おおのひとなが)が日本紀講に当たり突然表に出してきたものです。それまでの正史などに一切記載はありませんし、日本書紀にも参照した痕跡はありません。人長が創作したものなのです。日本書紀に添って書かれていますが、所々違えています。不比等に隠された本当の歴史に導くための暗号書だったことが、空白の四世紀と倭の五王の系譜を調べて分かりました(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)から(その3)」参照)。

古事記は江戸時代まで祭祀に関わる氏族によって細々と伝えられてきたのですが、江戸中期の国学者本居宣長によって発掘され、高く評価されるようになりました。神道家平田篤胤がその影響を受け復古神道を作り、幕末の志士らに人気となりました。明治になって、それまで人々の間で伝えられてきた、神仏習合、山岳信仰の修験道、道教・陰陽道などの影響を受けた記紀神話と全く別物の神話が存在していましたが、神仏分離令が発せられて、多くの寺院などとともに破壊されてしまいました(詳細は「アマテラス大神はヘビだった?」「天皇即位の密教の儀式の正体?」参照)。

国家神道が創設され、学校教育でも記紀神話に基づく国史が教えられましたので、戦後も日本国民に記紀神話が定着しています。しかし、それは本来のものではない全く新しい神話なのです。というか、藤原氏が権力を維持するために捏造した神話と歴史だったということなのです。天皇の歴史書ではなかったと気づくと、古代史の謎がどんどん解けてきますよ。詳しい話は【刮目天の古代史】をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)


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