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【刮目天の古代史】楯築遺跡は帥升の墓か?(@_@)

2023-04-21 21:51:20 | 古代史
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とても参考になるご講演を拝聴させていただき有難うございます。ご指摘のとおり、当時の東アジアの情勢と我が国の建国は密接に連動していることは確かです。范曄後漢書に登場する倭国王帥升ですが、実はその原本は残っておらず、原本を参照したと思われる後続の文献から倭面土国王師升というのが正しいと思われますが、白鳥庫吉は、魏志倭人伝の倭国大乱の、元は7・80年間男王が治めていたという記述から面は 囬(回の俗字、ウィ)の誤写で、魏志倭人伝の伊都国王だった人物としています。帥姓も魏王朝以前は師姓だったということも広韻などの文献にあります。そして、師姓は周代以前から楽師の官位を表すと知られています。ということは師升は西暦57年に後漢光武帝から金印を賜った奴国王の宮廷祭祀を司る楽師の長(司祭)だったとすれば、奴国を乗っ取った人物だったと分かります。まだ続きがありますが、長くなったのでブログにしました。よろしければ、【刮目天の古代史】https://blog.goo.ne.jp/katumoku10
をご参照いただきご意見を頂戴できれば幸いです。失礼しました。


日本最初の王墓が福岡市早良平野吉武高木遺跡ですが、984年東大寺の僧奝然(ちょうねん)が宋の太宗に献上した「王年代紀(新唐書・宋史)」に記された初代王天御中主(あめのみなかぬし)から三代、天村雲尊・天八重雲尊と王族が葬られています。天御中主神は記紀神話でも高天原に最初に降り立った神とされています。天は海を意味し、中は奴(ナーガ)、つまり龍蛇神を信奉する海人族(倭人)の王という名前なのです。呉の太伯の末裔ということです。那珂、那賀、長柄、中山などの地名は江南出身の倭人が列島内で拓いた場所を示しています。天御中主神は各地の水天宮で龍神として祀られており、水神様なのです。

高天原が倭国ということですから、8世紀初頭に藤原不比等によって創作された高天原神話は、師升らのクーデターで奴国王が殺された史実を示唆しています。つまり乱暴者の神スサノヲは18代奴国王だったのです。そして、奴国を脱出したスサノヲの部下が逃げる途中で志賀島に隠した金印が江戸時代に発見されました。古事記に八百万の神々がスサノヲの髪を抜き、手足の爪をはがして財産を没収し、追放したと書かれています。つまり師升らは金印の在りかを白状させるためにスサノヲを拷問したのですが、金印が見つからないので殺し、107年に捕虜にしたスサノヲの部下160人を後漢安帝に献上し、倭国王に認められたと分かります。

日本書紀仲哀紀に奴国の地(博多)を儺縣(なのあがた)としていることから、日本書紀の編者がこの史実を知っていたことが分かります。つまり、儺は追儺(ついな)、鬼やらい・神やらいの意味なのです。



また、魏志倭人伝には魏に最初に朝貢するために239年倭大夫難升米が帯方郡に派遣されたとあります。当時は、漢字のニンベンを省略するのが流行った模様で、金印でも倭が委と書かれています。その他にも室見川銘板に二例ありますから難升米は儺升米と見ることができます。そこで、この場合、米は「め」と読み、頭(かしら)を意味するので、奴国王を追放した儺升(師升)一族の伊都国に王宮を置く倭国王を意味する名前だったと考えられます。

さらに、伊都国は殷王朝初期の伝説の宰相伊尹(いいん)に因む国名です。伊尹は放蕩者の王を追放したことで評価が議論される人物だったことが孟子・尽心上篇にあります。ウィト国を伊尹の事績に因む伊都国と書いて帯方郡太守劉夏に教えた人物は難(儺)升米以外に考えられません。難升米が伊都国男王であり、卑弥呼の政治を補佐する男弟とされ、魏の正規軍の旗黄憧が授けられているので、本当の倭国王だったことも分かります。3世紀前半の三雲南少路遺跡番上地区で楽浪土器が集中して出土していますので、難升米は華僑らシナ人と交流し、漢字を読み書きできる教養人だったと分かります。政治的な理由で魏志倭人伝に邪馬台国女王卑弥呼を登場させた人物だったのです。詳しくは拙ブログ「伊都国の意味がヒントだった?」などをご参照ください。

さて前置きが長くなり過ぎましたが、王年代紀に19代王が天照大神尊と記されています。つまり、先代王スサノヲが殺されて、約五百年続いた伝統ある筑紫の奴国が滅亡したのですが、この人物が奴国から出雲方面に逃亡し、ムナカタ海人族の支援で吉備を平定し、奴国を再興した大王だと推理できます。出雲市の大型四隅突出型墳丘墓西谷3号墳などから吉備の特殊器台・特殊壺が出土しています。昔話「桃太郎」のもとになった話が、吉備津神社に吉備津彦の鬼退治の伝承として残っています。日本書紀が孝元天皇の皇子の話として隠したこの人物の事績に基づく伝承だったのです。



楯築王墓の被葬者は、墳頂の神社のご神体亀石(ヘビを象った文様の弧帯文石)に人面が彫られていることから判明しました。中国神話の天皇伏羲と同じ人面蛇体の龍蛇神(ナーガ)なのです。天照大神尊こそ、初代奴国王天御中主の子孫で、ヤマト王権の基礎を築いた天照国照彦天火明櫛玉饒速日命ニギハヤヒ大王だったのです。

スサノヲの弟で国生み神話のイサナギ・イザナミの子だと推理しました。17代王伊弉諾尊の妃伊弉冉尊(イザナミ)の墓所は記紀神話で比婆山とあり、比定地はいくつかありますが、島根県安来市伯太町比婆山久米神社は縄文海人ムナカタ族の根拠地なのです。イザナミがムナカタ海人族の姫だったことは宗像大社の伝承に「ムナカタの子がスミヨシ」とあったことから分かります。スミヨシはイザナギから海の支配を命じられたスサノヲのことなのです。

そして、平安時代の朝廷は備中吉備津神社吉備津彦他三柱だけに皇族に対する特別な神階である品位を贈って丁重に祀っていますから、これらの神が、日本書紀が隠した皇祖神の正体だったと分かります(注1)。女神アマテラスや初代神武天皇にはこのような神階は贈られていませんから、王年代紀が日本神話を正したように、不比等が創作したことを朝廷が告白していると考えられます(^_-)-☆。



さて、倭国大乱ですが、ニギハヤヒ大王の子孫である狗奴国(旧奴国)王卑弥弓呼の官狗古智卑狗らが、復讐のために、半島の混乱で楽浪郡との交易ができず衰退していた倭国を攻撃し、倭国は苦戦していました。ところが、204年、公孫氏が半島を平定して帯方郡を置いたので、倭国は息を吹き返し、狗古智卑狗を討ち取ったと推理しました。狗古智卑狗はムナカタ族を束ねる王でしたので、大活躍していた王を喪って途方に暮れていた玄界灘を支配するムナカタ族和邇氏の祖赤坂比古(卑弥呼の父、天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神がイチキシマヒメ卑弥呼)を難升米が懐柔し、姫巫女(卑弥呼)による太陽神の神託に従って政治を行う条件で邪馬台国連合倭国を成立させました。

これに対抗するために3世紀初頭に卑弥弓呼大王が纏向遺跡を築いて、各地に散っていた旧奴国の勢力を呼び集めて、少し経緯がありますが、倭国を討ったのが日本建国のストーリーだと考えました。これらは2世紀後半(弥生後期後半)および3世紀後半(弥生終末期・古墳初頭)の鉄鏃・銅鏃の出土状況の調査結果から推理しました。詳細は拙ブログ「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。このような古代史解明にはアブダクションと呼ばれる仮説構築の科学的手法を採用していますので、その基本的な考え方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご参照ください。



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(注1)淡路国伊弉諾神社伊弉諾尊でスサノヲ及びニギハヤヒの父と、宇佐神宮八幡大神・八幡比売神も一品が贈られ、ニギハヤヒは二品となっています。八幡大神は通説は応神天皇とされていますが、その本当の父であった大国主久々遅彦でスサノヲの子孫です。八幡比売神は宇佐市安心院町下毛宮ノ原遺跡に疎開していた宗像女神卑弥呼です。三女神社が宮室です。径百余歩(直径約150m)の卑弥呼の墓三柱山古墳を遺跡の西側で発見しました。その遥拝所の摂社の祭神から大国主のいとこだと推理しています(上図参照)。

ちなみに、伊勢神宮内宮の真の祭神は、江戸時代まで男神説がありましたが、やはり大国主久々遅彦でした。クーデターを逃れたスサノヲの子イタケルの子孫です。上記のとおり代々、北九州から山陰・北陸・越を根拠地とするムナカタ族を束ねる王です。豊岡市久久比神社の祭神で、イタケルと同じ木霊ですので、現代まで上棟式の祭神屋船久久能智命としても祀られています。

そして、纏向遺跡の箸墓は、日本書紀に大物主大神の妻である孝元天皇の皇女ヤマトトトビモモソヒメとの伝承から、大国主の妃台与だったと分かります。応神天皇の母神功皇后のモデルです。宇佐神宮三之御殿で祀られています。台与は伊勢神宮外宮の祭神豊受大神で、ウカノミタマですので全国の稲荷神社で篤く祀られています。そのほか山岳信仰で白山比売などとしても祀られています(詳細は「悲劇の女王台与のはなし(その1)から(その4)」参照)。


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