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【邪馬台国論争】纏向遺跡説がダメな理由(#^.^#)

2024-03-22 22:27:41 | 古代史
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#今話題の邪馬台国纏向説がダメな理由を分かり易く述べている動画がありましたので、早速コメントしました。皆さんは、ちょっと飽きられているかも知れませんので、少し気が引けますが、よろしければ、お付き合いください。まずは動画をどうぞ!(#^.^#)



纏向遺跡が邪馬台国ではないという反論に対して纏向説の人は真面目に答えようとしていません。

それどころか、NHKを使って印象操作だけで一般大衆に纏向説を押し付けようとしているようです。

これは真実を科学的に探究する学者の姿勢ではないのです。

反論できないのだから結論として、纏向遺跡に卑弥呼はいた、邪馬台国だと言うのは単なる思い込みだと言えますよ。(^_-)-☆

倭国の玄関口であった北部九州の土器が纏向にほとんど見られないことは致命的だと思います。

むしろ、纏向遺跡の前方後円墳で重要な祭祀を行って、東海や山陰など九州以外の人々が参加しているのに、

九州の人は参加していないということは、九州の倭国の人々と敵対勢力だったことになります。

纏向遺跡でヤマト王権が3世紀後半に成立するわけですから、纏向遺跡の勢力が邪馬台国を滅ぼして、

何らかの理由でヤマトと名乗ったというのが分かり易いです。

つまり纏向遺跡は邪馬台国のライバルの狗奴国だったのが、ヤマトと名乗らざる得ない事情があったと推理できますね(^_-)-☆

こういう事実による妥当な演繹的推論を考えない、非科学的な姿勢の研究者が邪馬台国問題を仕切っているのが現状でしょう。詳しくは「なぜ邪馬台国問題が解決しないのか?」ご参照ください(;^ω^)

【日本建国の概略】

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆日本神話は藤原不比等が不都合な史実を隠すために創作したのですよ(^_-)-☆


倭王帥升(すいしょう)は何者だ?

二世紀後半の後漢桓帝・霊帝の時代に宦官と豪族の権力闘争から、後漢は衰退し、半島支配が崩れて大混乱したので、倭国は対外交易が停滞し、国力が弱まっていました。

一方、日本海沿岸部を根拠地とする縄文系ムナカタ海人族を束ねる、帥升に殺された奴国大王スサノヲ(「宋史」 王年代紀第十八代王素戔嗚尊)の子孫(狗奴国の官狗古智卑狗、久々遅彦、ムナカタ海人族を束ねる王の襲名)が半島南部の鉄素材を狗奴国勢に供給して隆盛になって、倭国の領土をしきりに攻撃し倭国を滅亡寸前まで追い詰めていました。
【検証18】倭国大乱の痕跡だ!
弥生後期後半の鉄鏃・銅族の出土状況の調査結果から分かりました

ところが、公孫氏が半島を平定し、204年に帯方郡を設置したので、倭国は息を吹き返し、油断していた久々遅彦(日高彦)が伊都国男王難升米に討たれてしまいました。玄界灘の海運を担って、半島南部の鉄素材を狗奴国勢に供給していた、日高彦の右腕ムナカタ族の赤坂比古(卑弥呼の父、倭大夫伊聲耆、和邇氏の祖)が難升米に懐柔されました。

【邪馬台国問題】魏志倭人伝は信用できるのか?
238年公孫氏を討った魏の実力者司馬懿が倭国王難升米に朝貢を促し、帯方郡における両者の交渉で、司馬懿を持ち上げるために、ライバルの呉を東方海上から挟み撃ちにする戦略上重要な位置に東夷の大国の倭国の都「邪馬台国」が在るとして、外交上卑弥呼を倭国女王ということにしました。
伊都国の意味がヒントだった?
邪馬台国への行程記事は難升米が書いて教えたことが分かりました(^_-)-☆

卑弥呼の墓は見つかってるよ!
邪馬台国とされた場所は赤坂比古の要害堅固な居城宇佐市安心院町宮ノ原遺跡です。卑弥呼は三女神社を宮室としていた宗像女神イチキシマヒメですよ。径百余歩の墓は三柱山古墳です。墓の横の地名が血野です。百余名の奴婢を殺して殉葬したことを示唆しています。墓の南約400mの遥拝所がヒカケ三女神社です。247年3月24日の日没直前の日食のために殺されたことを示唆していますよ(^_-)-☆



親魏倭王卑弥呼が死ぬ直前の列島の様子が上の図です。日本書紀は仲哀天皇の熊襲征伐の話にしていますが、纏向遺跡の狗奴国が倭国追討軍を送ります。

狗奴国軍が到着すると、卑弥呼の死を知った弟赤坂比古が戦意を喪失したので、倭国は総崩れとなり、難升米は半島に逃亡。無傷で倭国を手に入れた尾張王が倭国王に立つと、それに不服とした副将の久々遅彦が赤坂比古を味方にして尾張王を討ちました。久々遅彦は魏使張政の進言で、13歳の台与を女王に立て、狗奴国王を裏切りました。半島の鉄資源を手に入れて、華僑や韓人との対外交易によって倭国が隆盛になり、列島主要部の勢力をほとんど傘下にしたので、後世、大国主と呼ばれました。当時最先端の高温鍛冶技術も惜しまず傘下に提供したので、大人気の神様ですが、祟りが最も恐ろしい!(*´Д`)


尾張王建稲種命(熱田神宮祭神、ヤマトタケルのモデル)が父の仇の大国主・台与と赤坂比古を苦難の末に討ち取りました。記紀の景行天皇の九州遠征の話とされていますが、遠征ルート上に尾張勢が好んで用いた銅鏃を発見しましたので史実と分かりました。青谷上寺地遺跡を襲撃したのも尾張勢だと分かりましたよ(#^.^#)

【検証26】建稲種命の終焉の地は?
さらに纏向に帰還すると、卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)に大国主の傘下を鎮撫する命令を受け、早速遠征に出かけました。駿河国で流れ矢に当たって戦死し、沼津市高尾山古墳に葬られたと推理しました。

後を継いだ尾張王と物部勢が遠征して、卑弥弓呼大王が列島を統一しました。日本書紀では崇神天皇の四道将軍の話になっています。
【検証19】日本建国のための戦いだ!

三世紀後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況の分布から崇神天皇から応神天皇即位までの約350年の話に引き延ばされていることが分かりました(^_-)-☆

スサノヲの弟ニギハヤヒ大王の子孫で、卑弥弓呼大王と同族の尾張王をモデルとした仲哀天皇は父ヤマトタケルが死んで38年後に生まれた計算になるので、日本書紀の杜撰な作り話ですよ(#^.^#)




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