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「古事記」は謎ときのヒント!(^_-)-☆

2024-05-26 20:41:39 | 古代史
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#2024-05-26 08:20:06に記事にしましたが、有難いことに、Up主様からお返事をいただいたので、早速それに対するコメントをし、本記事の本文末尾に追加しました。よろしければまた、お付き合いください。(;^ω^)


とても重要な話題をありがとうございます。
「古事記」崩年干支はご説明頂いたとおり、倭の五王の比定に希望を与えるものです。
この事実は「古事記」という史書の性格をはっきり示す一例です。つまり、「日本書紀」が隠した史実をそれとなく暴露するのが目的なのです。「古事記」は様々な場面でこの役割を果たしていることが分かります。

例えば、高天原を追放されたスサノヲですが、八百万の神によって手足の爪を剥がされ、をむしられ、財産を没収されたことが記されています。スサノヲが宋史王年代紀第18代奴国王であることを信じれば、107年に後漢安帝に160人の生口を献上するために朝貢した倭国王帥升の事績と考え合わせると、スサノヲが帥升によって金印の在りかを白状させるために拷問されて、結局見つからず殺され、奴国が滅んだということが推理できます。これによって倭国大乱の原因も判明しますがここでは省略します(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。(2024.5.30 赤字訂正)



また、神武東征神話でナガスネヒコをトビヒコと古事記は暴露しています。トビは最初に邪馬台国宇佐説を学説とされた富来隆先生が指摘していますが(富来隆「卑弥呼-朱と蛇神をめぐる古代日本人たち-」<抜粋>参照 )、ヘビを意味し、出雲の富神社などからわかるとおり出雲王国と関連から、大国主の別名だと分かります。

また、出雲国風土記の国引きの神八束水臣津野命を淤美豆奴神(おみづぬのかみ)として、スサノヲの子孫と分かるようにし、淤美豆奴神の子を天之冬衣神としています。日向三代の神話に登場するホホデミが「古事記」では天津日高日子穂穂手見命とし、天之冬衣神の子が大国主命であることが示され、神話の日向三代が出雲・丹後王国三代の史実を隠すものであることが分かりました(詳細は「消された出雲・丹後王国の謎!(その1)(その2)」参照)。



さらに、大国主神話は「古事記」独自のものです。神武天皇が本当の初代応神天皇を隠すための虚像で、崇神紀の大国主大神の子大田田根子が、大神の祟りを鎮めるために探し出されてヤマト王権が成立した史実を示唆しています。神武天皇が先に天孫降臨していたニギハヤヒによってナガスネヒコ(トビヒコ=大国主)が討たれて即位できたという神話は、大国主がニギハヤヒの子孫(九州遠征した景行天皇とされた尾張王建稲種命、熱田神宮祭神でヤマトタケルのモデル)によって討たれた史実を誤魔化したものなのです。大国主は大田田根子とされた応神天皇の本当の父で日本建国の主役であることを大国主神話を挿入することによってそれとなく主張しているのです。

このような「日本書紀」の歴史改ざんを暴露するのが「古事記」の役割だと気づけば、倭の五王が日本建国過程の史実と合わせて、「古事記」崩年干支や朝貢年などから推理できました。詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)(その3)」にありますので、よろしければご参照ください。長々とお邪魔しました。


@J-history
詳細なコメントをありがとうございます。
ただ、この動画では、倭の五王の比定に『古事記』崩年干支を用いることができないことをまとめています。
引き続きよろしくお願いします。


刮目天
​ @J-history さん いつものように不躾な長いコメントにお返事までいただき恐縮です。おっしゃる趣旨は理解していますが、これは雄略天皇の宝算を124年とされていることから兄の安康天皇よりも先に生まれたという矛盾が生じるからです。

一運戻して64歳とすれば426年が生年となり、安康天皇が422年生まれですから矛盾は生じません。

これは、藤原氏が苦心して倭の五王を隠ぺいしたのを暴露するものだと藤原氏に気づかれてしまうので雄略天皇を124歳没にしたのだと考えています。同様に初代と考えている応神天皇の宝算130歳も同じ理由で、70歳が正しいと見ています。

これによって不比等が最も隠したかった二代目宇治天皇(菟道稚郎子)と四代目住吉天皇(仲皇子)の存在が明らかになります。
日本書紀は履中天皇を長兄であることを強調したのですが、仲皇子は本当はイラツコの妹八田皇女と仁徳天皇の皇子と考えると仲皇子が履中天皇よりも34歳も年上ですので、履中天皇が9歳・弟反正天皇が生まれたばかりの歳で仲皇子を暗殺したあり得ない話になります。

母の出自である宗形氏が低い身分なので即位できなかったとした高市皇子の嘘がばれるので、実はムナカタ族である和邇氏腹の宇治天皇も住吉天皇も隠す必要があったからです。それは天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神が宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼であることからバレてしまいました。和邇氏というのも藤原氏によるねつ造の可能性が高いです。詳しくは拙ブログに図解していますのでよろしければご覧ください。どうも失礼しました。



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【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その4)
記紀で景行天皇とされた尾張王建稲種命が苦難の末に、父ヲトヨノミコトの仇討ちを成功させて日本が建国されたのです(^_-)-☆。


考古学の成果から日本建国は3世紀後半の出来事だったのですが、日本書紀はそれを誤魔化すために崇神天皇から応神天皇即位までの約350年の事績に引き延ばしていますよ( ^)o(^ )

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆ 
記紀神話は宋史王年代紀によって史実を誤魔化すためだったことが分かります(^_-)-☆





最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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