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【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その19)中国神話は日本人の神話だった?

2024-05-31 17:02:50 | 古代史
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#2022-08-27 14:43:02に記事にしましたが、付録のリンクが切れていたので修理しました。中国というのは中共のことではないのです。「なかつくに」つまり「ナーガ(龍蛇神)の国日本」のことなのですよ(^_-)-☆。中国神話もシナ人のものではなく、日本人の神話なのですよ。シナ人の神話は三皇五帝神話の後で作られた道教の天帝神話ですのでネ!(^^♪。よろしければ、またご覧ください(;^ω^)

7.記紀と日本人の信仰の謎
⑤中国神話は日本人の神話だった?


YouTubeで非常にいい中国神話の動画を見つけましたので、まず見ていただくとこれからの話が理解しやすくなります。この前編もあって、後で見ていただくのも良いかと思います。

さて、中国神話で、上の動画の前編で説明されている天地を作った盤古という神様がいるのですが、Wiki「盤古」によれば、道教が組み込まれた春秋時代以降で「内容も様々に変容している。そのため他の中国神話同様に元来どのように語られていたかには不明確な点がある。」ということです。道教の始祖は春秋時代の哲学者で、諸氏百家の一つ道家の基礎を築いた老子とされています。天と地を分けた盤古の死後に右目や左目から太陽や月が、体の他の部位から万物が生まれたという話があり、日本神話のイザナギ・イザナミの国生み・神生みでこの話が使われています。道教が作られたときに天地開闢の神である盤古が語られるようになったと考えられます(注1)。

人類を創造した最初の神様は人首蛇身あるいは人面蛇体の伏羲と女媧と考えられています。三柱の神の王を三皇(天皇・地皇・泰皇または人皇)と呼んでおり、筆頭の天皇は伏羲とされています。wiki「伏羲」によれば「伏羲と女媧は兄妹であり、大洪水が起きたときに二人だけが生き延び、それが人類の始祖となったという伝説が中国大陸に広く残されている。類似の説話は東南アジアや沖縄にも多数ある。」という洪水伝説があります。



伏羲は天地の理(ことわり)を理解して八卦を画き、結縄の政に代えて書契(文字)をつくり、蜘蛛の巣に倣って網(鳥網・魚網)を発明し、また魚釣りを教えたとされる[2]。」とあり、古代世界で最初にこのような文化を創造した神とされています。泰皇(人皇)とされる女媧は泥をこねて人類を作ったという伝説がある女神です。黄土から貴人を作り、後は縄で泥をはね上げてたくさんの凡人を作ったとされていますから、歴代中国王朝は黄色を高貴な色と考えています。道教の影響を受けている伝説のようです。

伏羲と女媧は通説では現代中国の少数民族のひとつである苗(ミャオ/モン)族に残っている洪水伝承から、彼らが信奉した蛇神と言われていますが、後で述べますが分子人類学などから考察すると違うと考えています。

地皇とされる神農は人々に医療と農耕の術を教えた神です。伏羲が没した後に人間の王の初代炎帝となったとされて、市場を開き、民衆を呼びよせ交易を教えたとあります。神農の一族炎帝は八代続いて五百年以上治めた後に五人の聖人君主である五帝の時代になります。司馬遷によって編纂された中国最古の正史「史記 五帝本紀」では黄帝(こうてい)・顓頊(せんぎょく)・ 嚳(こく) ・堯(ぎょう)・ 舜(しゅん)の五人です。

最初の黄帝に対して反乱を起こした神農の末裔の蚩尤(しゆう)という邪悪な神が現れます。石や鉄まで食べる貪欲・凶暴で、獣身で銅の頭に鉄の額を持つという怪物です。「戦争で必要となる戦斧、楯、弓矢など優れた武器を発明、あるいはそれらに金属を用いるようになったのは蚩尤であると伝承されて」おり、蚩尤に味方した勇敢で戦の上手い九黎族(きゅうれいぞく)が敗退して逃れて悪神のひとつである三苗(さんびょう)となったとあるので、最近になって苗(ミャオ/モン)族の始祖と言われるようになったとwiki「蚩尤」にあります。「黄帝(堯であるとも)は敵討ちを心配して苗民を皆殺しにしているが、この南方の民を根絶やしにできず、その後、三苗人は歴代の王を執拗に悩ます手強い敵となった[2][10]。」ともあります。

ここで、神話と中国の新石器文化の関係を調べるために、文化の年代や発祥地と古人骨のY染色体DNAの解析結果などから推定したハプログループを図に示します。



日本列島では縄文前期初頭にあたる紀元前5000年頃から黄河中・上流域に仰韶文化(ぎょうしょうぶんか)が見られます。この人々は粟や麦・米(陸稲)を作って生活しており、余剰の穀物を格納する高床式住宅も見られ、豚や犬、羊、山羊、牛などの動物を家畜としながら、食用の肉の大部分は狩猟や漁業で得ていたとあります。驚くことに、古人骨から調べたY染色体DNAのハプログループはウラル系民族に高頻度で見られる遼河文明の人々と同じNでした。恐らく、青森県三内丸山遺跡(紀元前3900年頃-前2200)を造ったと考えられている遼河人N1と同じ人々と思われます。つまり、すでに紀元前5000年から遼河人は東西に移動していた模様です。ですから前回(その18)で見た縄文中期(紀元前3500)からはじまる蛇信仰も遼河人が列島中部に来て縄文人に広めたと考えてもよさそうです。仰韶文化の遺跡からは半坡文字と呼ばれる文字に近い記号も発見されている。とありますから、驚きます(^_-)-☆(2020.8.28 赤字修正・追加)

長江中流域(中国重慶市、湖北省から湖南省の三峡周辺、両湖平原)に存在した大渓文化(だいけいぶんか、紀元前5000年頃 - 紀元前3000年頃)の「遺骨からモン・ミエン語族に関連するY染色体ハプログループO-M7が高頻度で発見されており、モン・ミエン系民族が担い手であったと考えられる[1]。」とあります。つまり苗(ミャオ/モン)族はシナ人系O2(旧O3)から分かれた人々ということですから、後でまた述べますが、やはり伏羲・女媧の子孫ではないです。

同じ時期つまり紀元前5000年頃の長江下流域の河姆渡遺跡(かぼといせき)で稲が栽培されていたことが分かり(河姆渡文化は紀元前3400年まで)、ここに居住していたハプログループO1b2から分かれたO-47zの人々が、紀元前11世紀に韓半島南部、前10世紀に日本列島に水田稲作を伝えた倭人です。倭人が作ったとみられる印文土器が日本の五島列島で出土しています。(注2)

紀元前3200に長江下流の浙江省杭州市で稲作都市文明が興っています。「宮殿とそれを取り巻く城郭都市、墓地、工房などの中国最古級の都市遺跡が出土した良渚遺跡は、初期の都市文明であると評価され、2019年に「良渚古城遺跡」の名で世界遺産に登録された。」とあります’(wiki「良渚文化(りょうしょぶんか)」)。

この良渚遺跡が紀元前2200年頃に突然洪水に見舞われて全滅しています。wiki「日本人」〔日本人および周辺(日本からおよそ5000km以内〕の諸民族のY染色体ハプログループの割合)によれば、ここの人々の多くは台湾方面に移住し、現在の台湾原住民(89.6%がO1a1)となっています。その他フィリピン(42.5%)やインドネシア西部(20.0%)へもかなり移住した模様ですし、遠くマダガスカルにも到着したようですので高度な航海技術を持つ舟の民だったと中田力氏が「科学者が読み解く日本建国史」PHP新書 2014 (p.63)」で述べています。

中田氏はまた、その北方に逃げた人々が黄河中流域で二里頭文化(紀元前2100年頃-紀元前1800年頃または紀元前1500年頃)を担ったとしています。

紀元前1800年から前1500年、河南省洛陽市偃師(えんし)区の二里頭遺跡から宮城跡や青銅器などが発見されました。「史記」に記された最古の王朝である夏王朝の発見でした

禹は黄河の治水事業に成功したので、五帝最後の舜より王位が禅譲されたとなっています。wiki「禹」によれば「禹」の字は、古代文字の「九」と「虫」とを合わせた文字である。「九」は、伸ばした手の象形。「虫」は、もともと蛇や竜などの爬虫類の意味で、雄の竜の象形。即ち、「九」と「虫」とを合わせた「禹」は、雄の竜を掴むの象形で、洪水と治水の神話の神と伝えられる「伏羲と女媧」を意味する。[17]とありますから、禹は長江下流の洪水で破壊された良渚遺跡の人々と同じハプロタイプO1aと考えられます。「王権を筆頭に統制のとれた軍事形態に近いものを獲得していた」として、「原始夏族」と中田氏が名付けています(上掲書 pp.61-71)。



「史記」に記された夏王朝の版図が中国の九州(注3)まで及んでいるのに対して、二里頭文化は黄河中流域だけと狭いので、夏王朝ではないと主張する研究者もいるようですが、夏王朝を興した禹たちが、宮殿とそれを取り巻く城郭都市を造る高度な技術を持っていた、かつての長江文明の良渚文化を担った人々の末裔であれば、二里頭遺跡で広大な宮城造営や黄河の治水工事を成功させる素地があったと考えられます。そのため禹の一族の出身地である長江流域も夏王朝の版図と見なしたということかも知れません。ですから、二里頭遺跡は夏王朝の遺跡と考えていいと思います。

そして五帝本紀にあるような堯・ 舜・禹の王位の禅譲についても、すでに黄河中流域に見られた堯が率いる龍山文化の人々はO2であり、黄河下流域の 舜が率いる山東龍山文化を担った同じハプロタイプのO1b2*(O1b2から倭人系O-47zを除いた)の人々に譲り、さらに、強力な軍事力の原始夏族O1aを率いた禹(う)に中原(黄河中流域)を戦争せずに明け渡した史実を表していると中田氏が説明されています(上掲書 p.69)。

しかしながら龍山文化は神話の五帝の時代のものではないかと考えます。人々が平等に暮らすことができた母系社会から父系社会への変化は異民族との抗争などによって軍事技術が発達することが要因と考えると、邪悪な神蚩尤が黄帝に挑戦し、南方に敗退して更なる敵となった三苗人O2が生まれる伝説は、龍山文化の人々の記憶に残ったものだと考えられます。ということは黄河中流域の龍山文化の人々は中田氏が主張されるO2ではなく、黄河下流域の山東半島付近の人々と同じO1b2*と考える方が自然です(注4)。(2022.8.28 赤字で訂正)

長江中流域に紀元前3000年頃-紀元前2600年頃にかけて存在した屈家嶺文化(くつかりょうぶんか)(注5)を継承した石家河文化(せっかがぶんか、紀元前2500-前2000)が長江流域最初の都市文化です。環濠集落から発展して大規模な城郭都市が築かれており、原始的な都城を構成したことにより屈家嶺文化と区別されている。文化的には屈家嶺文化の特徴的な遺物である彩色紡錘車を継承し、また灰陶などの陶器や陶製の人物像(塑像)、ヒスイの玉製品は更に発達した製法が生み出されている。また銅鉱石や銅製品も遺跡より出土している。とあります。つまり王権が生まれている父系社会です。これが龍山文化のO1b2*の人々の記憶に残った、敵対した蚩尤の配下の九黎族の三苗人(シナ人系O2)と考えられます。(2022.8.28 赤字追加変更)

「史記」に顓頊が禹の祖父だという伝承が記されていますので、そういう血の繋がりもあるので舜が禹に禅譲したという理由づけを行ってはいますが、禹王の強力な軍事力のために龍山文化の人々O1b2*は戦争をしなかったと考えるならば、この伝承は無視して、黄帝から五代の五帝もすべてO1b2*の人々と考えていいと思います。ということであれば、黄帝が倒した蚩尤も、蚩尤の祖先である神農炎帝もO2の人々と考えられます。ですから五帝の時代は、後にO1aの人々の夏王朝(紀元前2070年? - 紀元前1600年?)を倒した殷(商)王朝(紀元前1600年? - 紀元前1046年?)の先祖となる龍山文化の人々(O1b2*)の時代だったと考えられます。O1b2*を分かりやすいので殷(商)人系と名付けましたが、五帝系あるいは龍山人系としても良かったかもしれませんね(^_-)-☆(2022.8.28 赤字追加)

さらに夏王朝の遺族である周の武王が殷(商)王朝を倒して周王朝(西周:紀元前1046年 - 紀元前771年)を建てたということです。

すでに述べたように日本は古の倭の奴国ですので、初代奴国王天御中主(あめのみなかぬし)は周の先王古公亶父(ここうたんぽ、武王の曾祖父、呉の太伯は長男)の子孫の呉の王族です。呉王は長江河口や江南などの倭人を統治していましたので、紀元前473年に呉が滅んで倭人の助けを借りて半島南部から福岡市吉武高木遺跡に落ち着いたことから日本の歴史が始まりました(「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)(2022.8.30 赤字追加)

古公亶父は、王朝を建てた「禹」の子孫ということになります。つまり倭の奴国(なかつくに)の王も禹王の子孫で間違いないのです。だから、(その15)で述べたとおり、日本人は今まで藤原不比等によって藤原氏に都合の良いデタラメな日本神話を押し付けられていますが、上で長々と述べた中国神話こそが龍蛇神(ナーガ)を信奉する倭人の中つ国神話だったということです。龍蛇神(ナーガ)は、前回(その18)で述べた日本列島の先住民縄文人も蛇信仰でしたから受け入れられています。第十七代奴国王伊弉諾尊が縄文海人族の王族の伊弉冉姫を娶って生まれたスサノヲとニギハヤヒの兄弟が天皇の皇祖神ということなのです(「天皇陛下はニギハヤヒ大王の男系男子?」参照)。

【関係記事】
日本における禹王信仰の現存形態及びその現代的価値 : 日中間の歴史的文化的関係の一案例

兎王の治水 日本における133カ所の「兎王の碑」・蹴 裂 伝 説
日本人が禹王を崇拝する理由は大きく二つあり、一つは日本の皇室が禹王を尊敬したこと、もう一つは日本の自然環境と社会心理的な側面だ。王敏「文化の交差点 【20-09】禹王と日本人」2020年7月21日 より)

日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!

(左クリックで拡大)

(注1)Wiki「盤古」によれば「少なくとも文献による考察によれば盤古の存在が考え出されたのは、前述のごとく呉の時代(3世紀)であり、『史記』(前漢・紀元前1世紀)や『風俗通義』(後漢・2世紀)に記述がある伏羲・女媧など三皇五帝が考え出された時期よりも後の時代ということになる。」とありますので、想像上の神と考えていいと思います。

(注2)分かれたO-47zの人々、つまり古くは長江河口の浙江省東部寧波市から舟山市で河姆渡文化、新しくは上海市で馬橋文化、南京市で湖熟文化を担った倭人でしたが、彼らは水田稲作だけでなく漁労も行う人々でしたので紀元前11世紀までには半島南部に展開しており、紀元前10世紀に半島南部から佐賀県唐津市菜畑遺跡に水田稲作技術をもたらしたと考えられます(「【検証25】水田稲作が日本へ伝来したルートは?」参照)。(2022.8.30 赤字追加修正)

(注3)wiki「九州(中国)」によれば、『尚書』禹貢による九州は、冀州・兗州・青州・徐州・揚州・荊州・豫州・梁州・雍州を指した。ということで以下の図のとおりです。


(注4)wiki「龍山文化」によれば龍山文化(紀元前3000年ー前2000年頃)は高温で焼いた灰陶・黒陶を中心にした陶器の技術の高さが特徴とあります。後にこの高温技術が青銅器時代である殷(商)王朝の成立につながるものです。龍山文化の社会に現れた大きな変化は、都市の出現である。初期の住居は竪穴式住居であったが、やがて柱や壁を建てた家屋が出現した。また土を突き固めた城壁や堀が出土しており、特に山西省襄汾県の陶寺郷の南で発見された陝西龍山文化の遺跡・陶寺遺跡(紀元前2500年 - 紀元前1900年)は龍山文化の都市遺跡の中でも最大級のものであった農業や手工業の発達も特徴である。陝西省の渭河周辺では農業と牧畜業が仰韶文化の時期に比べ大きく発展している。コメの栽培も始まっており、カイコを育てる養蚕業の存在と小規模な絹織物の生産の開始も確認されている。

動物の肩胛骨を使った占いや巫術も始まっており、宗教も出現していたとみられる。農業などの発達により、社会の生産に余剰が生まれ、私有財産が出現し社会の階層化が進み、父権制社会や階級社会が誕生した。とあるので、龍山文化が出現する紀元前3000年くらいまでは概ね母系社会だったようです。

(注5)屈家嶺遺跡では稲を栽培した痕跡が発見されている。また動物ではニワトリやイヌ、ブタ、ヤギなどの遺留物が発見されている。また十か所ほどの貯蔵用の穴には魚が蓄えられていた跡があった。墓からは世界的にも珍しい甕棺墓が発掘されている。黄河流域の龍山文化とは出土する陶器に共通点もあり、墳墓の副葬品からは黒陶、特に器の厚さが非常に薄い卵殻陶が多く出土した。陶器の形状では、大渓文化で発見される圏足器(大きく高い脚部をもつ器)が多く見られるが、鼎もそれより多く発見される。また建材として、焼いた土の塊を多く使っており、後のレンガの発達をうかがわせるwiki「屈家嶺遺跡」)。


いやあ、今回は特に時間がかかり、申し訳ありませんでした。思い違い等お気づきの点は遠慮なくお教えください。
ここまでお付き合い、どうもありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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4 コメント

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Re:九と虫 (刮目天 一(はじめ))
2022-08-30 17:17:45
こんにちは!久しぶりですが、ちょくちょくブログには出かけて、勉強させてもらっています。最近は海外にも興味を持たれておられるようで、幅広い探求心には頭が下がりますよ(/・ω・)/
それで、中国の九里については大連市九里駅と徐州市九里区についてネットで見てみましたが、大連市の方は何も分かりませんでした。徐州の方は九里山あたりが項羽と劉邦の古戦場だったようで、そのくらいで、残念ながらあまり古い話は載っていませんでした。
また、何か見つかったら貴ブログにコメントさせていただきます。どうもありがとうございました( ^)o(^ )
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九と虫 (kunorikunori)
2022-08-30 16:27:26
刮目天一様

お久しぶりです。
私も兎王が気になっていました。
更に中国に九里区や九里駅があり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E9%87%8C%E5%8C%BA

九里区は江蘇州・九里駅(きゅうりえき)は大連にあるようなのです。

九里区の方が気になります。
何かわかりましたら、お教えいただけますと有難いです。
と、その前にこの重要な記事をじっくりと読みますね!
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Re:鼎の軽重 (刮目天 一(はじめ))
2022-08-28 13:53:26
お返事遅くなりました。
「鼎」は殷(商)王朝の青銅器時代に作られた、珍しい三本足のものですね。
wikiによれば「鼎はもともとは肉、魚、穀物を煮炊きする土器として出現したが、同時に宗廟において祖先神を祀る際にいけにえの肉を煮るために用いられたことから礼器(中国語版)の地位に高められ、精巧に作られた青銅器の鼎は国家の君主や大臣などの権力の象徴として用いられた。」とあり、とても格調の高い青銅器のようです。
起源を調べたら、やはり青銅器時代の前の龍山文化では黒陶と呼ばれる高温の窯で焼かれた薄手の土器があり、その高温技術の延長で青銅器時代が始まったそうです。
wiki「龍山文化」に写真がありますが、
龍山文化に「鬹(き)」と呼ばれる珍しい三本脚の調理器がありましたので、これが青銅器時代になって鼎となったようですよ。
良い質問コメントをありがとうございました。調べることでいい勉強になります。また何かございましたらお願いします( ^)o(^ )
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鼎の軽重 (石棒)
2022-08-28 06:50:24
鼎は三足の鍋 この起源は何処にあるのでしょうか
夏以前でも分らないのでは無いでしょうか
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