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倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)

2021-12-11 11:52:09 | 古代史
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2018-04-13 23:22:09に掲載した記事を少しだけ改訂して再度掲載します。お付き合いください。

突然ですが、シナの歴史書に最初に登場する日本の人物は誰でしょう?

そんな簡単な質問するな!
卑弥呼に決まってるやろ!

ブッブ~
ちゃいますよ~

今のは冗談だ!

答えは、倭国王帥升(すいしょう)やろ!

ブッブ~

え?うっそ~(;´Д`)

そうなんですよね~(*^-^*)。
これは『後漢書』「東夷伝 倭」の条に「安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見」とあるから正しいはずなんですが・・・・・

それが実は『後漢書』逸文が記載された「翰苑」の注には「後漢書曰:、安帝永初元年、有倭面上國王師升至。」つまり「安帝の永初元年(107年)、倭面上国王師升が来た」 と書かれているんです~

W!その「翰苑」ってのが間違ってない?

いやそれが~、その後の歴史書にもどうやら「後漢書」の原本が基になっているようで(注1)、表に示すように幾つもの変種が表れて何が本当か一見では分からなくなっているんや!(;´Д`)


そっか~( ^)o(^ )
いわゆる、写し間違いが結構あるんやな。
じゃあ、今日はそうゆうことで・・・

待て!待て!待たんかい!まだ先がある!

そ~か、でもオレ結構忙しいから、この次にしてんか?

そ~言われても、はい!分かりました!ってわけにはいかんやろ(*^-^*)

なら手短にお願い!

と言われても、中々面倒な話で簡単じゃないけど、かいつまんで言うから、よう聞け!

答えは・・・・・・・・わからん!

フザケルナ(;一_一)

わるい!わるい!そやな~!(*^-^*)

いや、「後漢書」の元々の記述については、邪馬台国論争の草分けで大和説の内藤湖南氏は「倭面土國王師升等」が正しいとして、「倭面土国」は「ヤマト(ワミャト)国」としたんや。

ところが、九州説の白鳥庫吉氏は「倭」の「面土国」を「倭の回土(ヱト、weitu)國=伊都国」だと言い出した。

「魏志倭人伝」「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。」(その国も、もとは男を王としていた。男が王となっていたのは七、八十年間であったが国が乱れて、攻め合いが何年も続いた。そこでついに、一人の女性を選んで女王とし、卑弥呼と名づけた)(藤堂明保ら「倭国伝」講談社学術文庫2010,p.111)と2世紀末から3世紀初頭に「女王卑弥呼」が登場する話があるんで、卑弥呼の時代の伊都国の男王が107年かその少し前に王になった師升の子孫と考えると年代的にもピッタリやね!

他にも「面土国」はその発音から「末盧国」やら鯨面分身国だ、佐賀県三養基郡米多郷とかいう説もあって、メタメタ・メンドな話になっとるんや!

ダジャレか(*^-^*)? ほいで?

ま~、「倭面土国」が「ヤマト国」なら「魏志倭人伝」には「邪馬壹国」とあるのを「後漢書」は「邪馬臺国」とわざわざ正しく書いているくらいやから、何で統一せんかったんやろ?と疑問が湧くのやが・・・

でも、「魏志倭人伝」に書かれた女王に属する30国に載ってない名前やから、その30国のどれかだと考えれば、 長官を置かない末盧国を除いて、内藤説か白鳥説とちゃう?(^◇^)



実は、それを決めるのが「帥升(すいしょう)」じゃなくて、正しくは「師升(ししょう)」ということなんや!さっきの表を見ても分かるやん(^_-)-☆

なんだ?

「帥」という姓の元祖は分かっていて、「廣韻」という文献に「帥本姓師,避晉宣帝諱改帥氏。」とあり、魏の有力者で、魏の帝位を奪った西晋の礎を築いた「晉宣帝」つまり「司馬懿」の長子の「諱(いみな)」が「師」だからそれを避けて、「師」姓の人が「帥」姓に変えたということなんよ(注2)。

ということは107年に後漢に朝貢した「帥升(すいしょう)」の時代には「帥」姓は無かったから、「師升(ししょう)」が正しいということになるわけか!

ふむ、ふむ!ほいで?

いや、だから「師升(ししょう)」の姓が謎を解く鍵やねん!

「師匠」早よ、言え!

プ!わかった!わかった!(^◇^)

「師」姓を調べると、おもろいことが分かった!

「師」姓というのは官位を表すもので、「風俗通義」によると,周の時代に「師尹」という楽師(がくし)の官位があったとある。楽師は「中国では皇帝諸侯のもとで祭祀,宴饗の楽をみずから指揮し楽人の教習に当たった者をいう。」とある。楽師の起源は神話・伝説の黄帝時代からあったようだから古い話や。「ただ楽師の名が師某として多く現れるのは雅俗の混乱を嫌った周以後で,絶対音高を定める鐘を聞きわける聴覚をそなえ(《呂氏春秋》長見の師曠(しこう)),音楽を写譜する能力をもった(《韓非子》十過の師涓(しけん))者として描かれている。

だが楽師はその才能にもかかわらず,女楽(歌伎)と同様に贈与物とされた(《左氏伝》襄公)ために,自分自身を賤工と卑下する意識(《楽記》師乙)と表裏をなして芸術家の自負をもちえず,すでに司馬遷によって楽師は技術屋と蔑視される(《史記》楽書)社会通念をもたらした。」
世界大百科事典にあるんや。

春秋時代の有名人では、さっきの「齊國樂師の師涓。晉國樂師の師曠は生まれつき盲目で、聲樂に精通していた。また師叔は鄭國の大夫。師丹は漢朝の官員、詩人で大司空という官位が与えられ,平帝の時に義陽侯に封じられた。」「維基百科」にあるんよ。

これらのことから考えると、初代天御中主(あめのみなかぬし)から始まる倭の奴国王は、周の先王の長男の太伯
の後裔だと言われていることもあるんで、「師升」は奴国でも宮中祭祀や宴会で楽師を担当していたシナ人の可能性があるんだわ。

なんやら、難しい話になってきたな!

そうでもないが、この「師升(ししょう)」が倭国の実権を握る王となったわけやから、倭国を代表する奴国を乗っ取った奴だと考えたわけだ(注3)。なぜなら、160人もの生口(特殊技能のある奴隷か?)をわざわざ後漢の都「洛陽」に連れて行って朝貢した理由は、奴国王に替わって倭国の支配権を得たことを認めてもらうためやったと推理できるからや。つまり、57年の「漢委奴国王」の金印は、後漢朝廷が奴国王を倭国における領事の役割をしてもらうために、形の上で朝貢してもらったからで、その時の奴国王の献上品は「師升」王よりもかなりショボいようやからわかるんよ(注4)。

つまり、奴国の官位を持つ役人たちのクーデターによって奴国とその周辺国を乗っ取ったと考えている(福岡平野・筑紫平野・佐賀平野)。乗っ取られたんは記紀神話から考えると、高天原を追放されたあの乱暴者の神スサノヲやろう!(^_-)-☆「宋史」に記載される「王年代紀」第18代奴国王素戔烏尊だ(【付録】参照)。こう考えると、図に示すように倭国大乱・女王卑弥呼の共立・ヤマト王権成立までの主な出来事を、大きな矛盾なく説明できるもんね!



首謀者が「師升」で、実力者やったから宮中祭祀の司祭くらいの重職だったんやないのかな?

じゃあ、何でクーデター起こしたんやろか?

推測だが、神話のスサノヲは一か所にじっとしている質(たち)じゃなかったようで、鉄の素材を求めて半島南部に渡ったり、列島の鉱物資源などを探索し回ってて、王宮を留守にすることが多かったんかなあ?

そして、たまに帰ってきたら、祭祀のやり方にいちゃもんを付けて畿内などで流行っていた大型の「見る」銅鐸を取り入れた縄文系の祭祀様式を導入しようとしたんかもね(注5)。そうなると奴国の楽師たちは困ってしまうんで、きっとスサノヲ大王が留守の間に乗っ取りを計画して、実行したんやろうね(;一_一)

師升らに抵抗するスサノヲの家来で、潜水漁労とか得意技術のある人間を160人ばかりまとめてシナに連れて行ったんやないのかな?!

「師升」はシナ人ということやけど、どっからきたん?

宮廷に入り込んで司祭の役割をするにはそれなりの出自とか経歴とか必要やから、やっぱり紀元前3世紀に始皇帝の命を受けてやってきた方士「徐福」の一行の子孫やないのかな。徐福は斉国の琅邪郡(現・山東省臨沂市周辺)の出身だから、「師」姓の出身地も琅邪県というのもあるさかい、徐福が日本に連れてきた若い男女か色々な技術者集団の子孫やろね(*^▽^*)。

やっぱ、徐福は日本に来ていたんやね(*^。^*)

日本列島に20か所くらい伝承が残っているし、シナの歴史書にも日本の平原広沢で王になっていると書かれているし。青銅器の加工技術は徐福の連れてきた冶金技術者やと思うし、やっぱ佐賀県には伝承地が沢山あるからね(龜山勝「安曇族と徐福」龍鳳書房、2009)。ひょっとしたら吉野ヶ里遺跡は徐福が治めていたのかもね(^_-)-☆

それで、最初に戻るけど、「倭面土国」はどっちゃや?

もうどっちゃでもええやん( ^)o(^ )

おい!(-_-)/~~~ピシー!ピシー!

「後漢書」の撰者范曄の時代のシナ人は倭国の都が邪馬台(ヤマト)国だと考えているから、「師升」王の都を「倭面土国」と書いたのだろうか?・・・でも、腑に落ちない点は最初に言ったように、「後漢書」の記述が統一されてないことやね。「邪馬台国」と書けばいいのにね(;´Д`)

そやから、女王を共立した伊都国の男王は「師升」王の一族なんで、「後漢書」には一度も登場していない伊都国(回土国)と考えるのがきっと正解やろうね。

いずれにしても奴国を乗っ取った「師升(ししょう)」が倭国王という表現はいいかも知れんが、日本の最初の倭国王は、福岡市早良平野に最初に現れた皇祖神の天御中主(あめのみなかぬし)やから、それは間違えんといてね(^_-)-☆

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【検証22】難升米という人物は?(その1)(その2)(その3)

(注1)Wiki「後漢書」によれば范曄は『東観漢記』『後漢紀』をベースに以下の書物を参照しながら、『後漢書』を著したとある。
『後漢書』(呉の謝承)
『後漢書』(呉の薛瑩)
『後漢書』(西晋の華嶠、『漢後書』とも)
『続漢書』(西晋の司馬彪)
『後漢書』(東晋の謝沈)
『後漢書』(東晋の袁山松)
『後漢書』(著者不明)
『後漢南記』(晋の張瑩、『漢南紀』とも)
『漢紀』(東晋の張璠)
特に、後の唐の章懐太子李賢の注釈に「華嶠の辞」などと書かれていて、流用した部分があり、全体構成も同一らしい。華嶠は陳寿と同僚であり、共に張華がパトロンであって、華嶠の「後漢書」も西晋の朝廷によって公認された史書だったようだが、残念ながら完本は残っていないようだ(孫栄健「決定版 邪馬台国の全解決」言視舎2018,p.91)。

(注2)Wikiwnd「帥姓」に以下のような記述があります。
帥姓是中國姓氏之一。西晉武帝司馬炎追伯父司馬師為晉景帝,並令天下避「師」字名諱,故部分師姓者改為帥姓。[1]也是帥姓的源頭之一。[2]
帥は中国の氏の一つであることといいます。西晋の武帝司馬炎症は伯父司馬の師を追って晋景帝として、そして天下に「師」文字の名の諱を避けさせて、故部分師姓者は帥に変更していいます。[1]同じく格好良いいった源の一つです。[2](Weblio翻訳
[1] 《廣韻》:帥本姓師,避晉宣帝諱改帥氏。
[2] 《姓苑》:本姓師,避晉諱改帥,帥與率同,望出南陽、河南、范陽。


(注3)福岡県の弥生中期の三雲遺跡(糸島市)、須玖遺跡(春日市)や峰遺跡(朝倉郡夜須町)などからガラスが発見されているが、これは銅鏡などよりも貴重なもので、シナの周代の子爵に相当する王位を表すものだ。奴国王が周辺の有力者に与え、王に封じたことをしめすものと考えられる。(王金林「邪馬台国と古代中国」学生社、1992,pp.98-99)刮目天は福岡平野・筑紫平野一帯を高天原と考えている。

(注4)57年の奴国王については貢物を捧げて朝貢したとしか「後漢書」には書かれていない。107年の師升の朝貢についても、岡田英弘は当時の後漢朝廷の事情を説明し、奴国王の場合と同じで、後漢朝廷の要請で倭人が朝貢したものとしています(「日本史の誕生」弓立社1994,pp.55-58)。しかしもしも、奴国王の朝貢と同じであるならば、同様に倭王帥升(正しくは師升)にも金印紫綬を見返りとして与えるはずで、その記録がないので、師升が倭王として認証されたいための朝貢であって、後漢朝廷は渡りに船で師升の朝貢を許したものと考えられる。つまり倭国側の事情で朝貢したということと推理できる。

(注5)古代シナの楽師は編鐘を用いていたが日本では青銅製のフックが出土しておらず(大平裕「卑弥呼以前の倭国五○○年」PHP新書、2018,p.114)、奴国の楽師は複数の小型の所謂「聞く銅鐸」を紐で吊るして、舌に紐を付けて引っ張って鳴らして、いくつかの音階の音を出したのではないかと考えている。1世紀末か2世紀初頭にスサノヲは大型の「見る銅鐸」を奴国の祭祀に取り入れようとしたのではないかと考えている。

「畿内においても後期初頭頃が“聞く銅鐸”と“見る銅鐸”の境界ということになります。九州の編年に基づいて実年代をあてはめれば、紀元後1世紀初頭あたりが“聞く銅鐸”から“見る銅鐸”への転換期になります。」銅鐸の年代ー銅鐸分布考より)

以下は直接関係ありませんが、銅鐸に関する面白い内容なので引用しておきます。
「大和からは“見る銅鐸”は出土していない
銅鐸を多数出土し、時に銅鐸のメッカのように思われているふしのある大和ですが、大和盆地では纏向の双頭渦紋片を例外として突線鈕2~5式の後期の大型銅鐸である“見る銅鐸”は出土していません。大和でもっとも新しい形式は最後の“聞く銅鐸”突線鈕1式です。しかも、その最後の“聞く銅鐸”は大福村では庄内期まで使用されていたようです。
出雲と大和に共通性がある。
これは本当に驚きましたが、出雲と大和はいずれも“見る銅鐸”の祭祀をおこなわず、“聞く銅鐸”では流水紋を好みます。大和から山を越えた大阪では6区袈裟襷紋を好み、後期には大型の“見る銅鐸”を採用しているにもかかわらず、です。
“大和”という所は、やっぱり不思議な所です。」
(おわりにー銅鐸分布考 より)

【付録】王年代紀(宋史)
藤堂明保ら「倭国伝」(講談社学術文庫2010,pp.278-279)

 其の年代紀に記す所に云う。
 初めの主は天御中主(あめのみなかぬし)と号す。
 次は天村雲尊(あめのむらくものみこと)と曰い、其の後は皆な尊を以って号と爲す。
 次は天八重雲尊(あめのやえくものみこと)。
 次は天彌聞尊(あめのににぎのみこと)。
 次は天忍勝尊(あめのおしかつのみこと)。
 次は贍波尊(みなみのみこと)。
 次は萬魂尊(よろずむすひのみこと)。
 次は利利魂尊(ととむすひのみこと)。
 次は國狭槌尊(くにさづちのみこと)。
 次は角龔魂尊(つのそむすひのみこと)。
 次は汲津丹尊(くみつにのみこと)。
 次は面垂見尊(おもだるみのみこと)。
 次は國常立尊(くにとこたちのみこと)。
 次は天鑑尊(あめのかがみのみこと)。
 次は天萬尊(あめのよろずのみこと)。
 次は沫名杵尊(あわなぎのみこと)。
 次は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)。
 次は素戔烏尊(すさのおのみこと)。
 次は天照大神尊(あまてらすおおみかみのみこと)。
 次は正哉吾勝速日天押穂耳尊(まさかあかつはやひあめのおしほみみのみこと)。
 次は天彦尊(あまつひこのみこと)。
 次は炎尊(ほむらのみこと)。
 次は彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)。 凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す。
 彦瀲の第四子を神武天皇と号す。 筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す。 即位の元年甲寅は周の僖王の時に當る也。 次は綏靖天皇。・・・・・(王の読みは『日本書紀が伝える「筑豊百余国の王たち」【連載 新説・日本書紀②】2018年02月07日』より引用)


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