刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

アブダクションは科学的な信念形成の手法だ!( ^)o(^ )

2021-12-05 00:00:12 | 古代史
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活発にYouTubeで活躍されている邪馬台国研究者の動画に興味ある内容がありましたので、コメントをやり取りさせていただきました。お付き合いください。




江戸時代から300年も続いてきた邪馬台国論争、いまだに解決の兆しは見えてはいません。今回の提案は新しい騎馬民族説を証明する過程で気づいた全く新しい説です。これで全ての謎がほぼ解けたと思います。皆様はどう思われるか多くのご意見・ご感想をお待ちします。
この動画は『九州の邪馬台国vs纏向の騎馬民族』を紹介したものです。アマゾンへのリンクは下記から
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文芸社
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<刮目天>
梁書倭国伝に書かれた「復立卑彌呼宗女臺與為王 其後復立男王並受中國爵命」(注1)から台与が纏向の男王と一緒に朝貢したと解釈されていますが、そのように解釈できる史料は他にあるのですか?梁書はこの後宋書から抜粋した文章を書いていますので、通説では宋書にある倭の五王が爵位を貰った記事を簡単に紹介したと理解しています。

<槌田鉄男さん>
コメントありがとうございます。
大変重要なご指摘だと思います。
『並』を「みな」と訳してこの男王を倭の五王に結びつける説があり、『ふたたび卑彌呼の宗女臺與を王に擁立し、臺與の後には再度男王を立て、みな中国の爵命を受けた。晋の安帝の治世には倭王の賛がいた。・・・(倭の五王の話が続く)』とすることだと思います。
しかし『並』は通常「ならぶ」であり「みな」とするのはまれです。また266年のこの時の朝貢から倭の五王までは百数十年の隔たりがあります。台与の後に立った男王を百数十年後の王とするのはかなり無理があると思います。
この文章の前文をご存じでしょうか。『正始中卑彌呼死 更立男王 國中不服 更相誅殺』とあります。この文章とさきほどの『復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並受中國爵命』を続けて読むと「正始年間の卑弥呼の死後、男王が立ったが国中が不服で殺し合いになった。(それで)卑弥呼の宗女台与が王になった。その後(この)男王が再び立って(台与と)並んで中国の爵位を得た」となりこの方が自然だと思います。
つまり台与と並んで爵位を得た男王は卑弥呼の死後立った男王であり、その時は国中が不服で王になれなかったが再び立って266年の朝貢の時台与と並んで爵位を得た(王になれた)と言う意味になると思います。このように解釈した方がより自然と思われるのですが如何でしょうか。
私は卑弥呼の死後立った男王を纏向を作った公孫恭とし266年の男王はその後継者と考えていました。しかし今回の梁書の解釈では二人は同一人物であり、共に公孫恭と言うことになります。公孫恭は2世紀末頃の生まれと考えられるため可能性はありますがかなり高齢になっていたはずです。どちらも後継者だったと言う可能性もあります。謎は残ってしまいました。


<刮目天>
早速、ご回答いただき恐縮です。
貴兄がそのように解釈したのは梁書のこの一文からだけのようですので、残念ながら説得力がないと思います。
266年の西晋の起居注には倭女王の朝貢しか有りません。女王台与と一緒に倭の男王が西晋の皇帝から官爵を賜れば、先行文書の「十八家晋史」(注2)にも詳しい内容の記述があるはずです。629年に姚思廉が成立させた梁書でもその先行文書を参照したということですので、貴兄の指摘に説得力が出てきます。一般的に古代中国の史家は先行文献に基づき、史書を編纂しますので、勝手に記録を創作しません。それ故、史書に一定の信ぴょう性が生まれます。
ですから、他に史料があるのかをお聞きしたということです。どうもありがとうございました。なお、ヤマト王権の成立については当方も仮説推論(アブダクション)の科学的な手法で仮説を検証し、よい成果が得られています。邪馬台国の場所、卑弥呼の墓や皇祖神が奴国初代王天御中主であることも明らかにしました。基本的な考え方と成果は以下の拙ブログ
【刮目天の古代史】古代史を推理する
【刮目天の古代史】仮説を検証する(^_-)-☆
【刮目天の古代史】謎を解明する!(^_-)-☆
に詳しく述べていますので、よろしければご意見を下さい。どうも失礼しました。

<槌田さん>
詳しい情報ありがとうございました。
梁書に台与と共に男王が爵位を得ていることが記載されていることは事実ですし、そのことをどのように解釈するかはありますが、寺沢薫氏や仁藤敦史氏など多くの専門家もこの文は引用されています。
肯定は出来なくても否定はできないと考えております。
貴殿の【刮目天の古代史】については参考にさせて頂きます。


<槌田さん>
一部見させていただきました。
科学的とおっしゃっていますが残念ながら空想が多すぎてついて行けません。


<刮目天>
早速、率直な感想をありがとうございます。
自然現象でも人工的な事象でも、物事を科学的に探究するという意味は、思い付きでもひらめきでも構いませんが、反証可能な仮説を構築し、事実に基づいて検証し、その仮説の有効性を確認する作業が伴うということです。

時にはその仮説は検証によって否定されるので、その一部か、あるいは最初から仮説を構築し直す必要があるかも知れません。


そういう検証作業は永遠に続きます。何故なら、それまでの検証から最も蓋然性の高い仮説だと分かっただけで、間違いなく真実であるかどうかまでは、分かりませんから、新たな関連事象が発見されるたびに検証が行われるのです。

しかし、わたしが古代史解明で提案する仮説推論(アブダクション)の手法を用いると検証を繰り返すたびに仮説の基盤部分が強固になりますので、確信やさらに強固な信念にまで変わるのが特徴です。アブダクションの提唱者のチャールズ・サンダース・パース「科学的方法とは、探究がそれ自体を誤りやすいものと見なし、意図的にそれ自体を検証し、それ自体を批判し、修正し、改善する方法」だと述べています。

物事に対する信念は宗教や権威や周囲の空気や空想・妄想などによっても得られますが、仮説構築と検証という科学的な手続きによって、事実に基づく科学的な方法によりその仮説が信念になり、真実が尊重される社会では多くの人々が受け入れやすくなるということなのです。これを他の信念に対して科学的な信念と呼ぶことにします。

ニュートンが、木から落ちるリンゴを見て万有引力を発見したという話は有名ですが、これは万有引力の仮説がその後何度となく検証されて、万人の科学的な信念になっている好例です。アブダクションは、従来だれも考えもしない仮説がひらめき、それを検証することによって解明することが出来る発見的な手法です。ですから、当時の権力者によって隠蔽され改ざんされた古代史の真相解明にはうってつけの科学的な手法であると分かりました。

しかし、多くの研究者は正史は正しい歴史であって、魏志倭人伝を聖典のように扱い、邪馬台国への行程記事に様々な解釈を加えて、自分の考える位置に邪馬台国を持って行くという作業に熱中して来たようです。権力者が編纂した正史に隠された真相の存在すら余り気づいてはいないようです。ですから、邪馬台国問題についても、このような手法で得られた大和説や九州説というような有望な仮説を立てるだけで、あとはいつ出るのか分からない決定的な証拠待ちの状態です。だからわざわざ仮説を検証して淘汰する、パースの言う科学的な探求という考え方がなかなか理解・浸透されなかったのではないでしょうか。

あなたはアグレッシブに、かなりユニークな仮説を立てられているようなので、是非考古学の成果などの事実によって何度も検証されることをお勧めします。単なる空想・妄想ではなく、科学的な信念になれば大成功でしょう!そのとき、あなたの仮説とわたしの仮説のどちらが古代史の真相を解き明かす仮説として優れているかが評価されます。その仮説によって解明される謎の数や質が評価の基準でしょう。したがって、その点についても意識して検討する必要があります。

いずれにしても、同じ古代史の解明に取り組んでいる者同士なので、多くの知見が得られているはずです。お互いに情報交換して研究の進展に役立てましょう!どうぞよろしくお願い致します。

【追伸】この件を拙ブログの記事にさせていただきました。
ついでで恐縮ですが、肝心な部分は検証済みですが、検証が足らないところを補強しますので、貴兄がどの部分を空想だと思われたのか、お教えくださると助かります。科学的な手法で得られたヤマト王権成立過程の仮説をフローチャートと年表にしていますので、下の【付録】をご参照ください。また、日本民族と周辺の民族の父系のルーツも調べて、解説していますので貴兄の仮説検証でご利用ください。

なお、卑弥呼の宗女で13歳の台与を女王に立てた人物についても、何度となく検証して大国主狗古智卑狗であると突き止めています。

兵庫県豊岡市久々比神社の御祭神で上棟式の祭神でもある屋船久々遅命(やふねくくのちのみこと)であり、最後の奴国王スサノヲの直系の子孫です。出雲大社・佐太大社・高良大社・三嶋大社などの祭神でもあります。大和朝廷が最もその崇りを畏れ、正体を隠した三柱の神々の筆頭です。大国主ほど別名や分身を数多く持つ神は世界中探しても居ないと思います。宇佐神宮寺の御本尊の弥勒菩薩はその本地仏ですし、七福神の男性神はすべて大国主の分身です。その他の二柱が卑弥呼と台与です。日本の神仏習合もこれらの神々の正体を隠して鎮魂するために生まれた習俗です。日本の密教・修験道も祟りを抑える呪術を修得する目的でした。明治元年(1888年)に神仏判然令で排斥されるまで日本中で盛行しました。詳しくは【刮目天の古代史】謎を解明する!(^_-)-☆にありますので、どうぞ。

【関連記事】
一つの事象にいくつもの解釈あり!
【刮目天の古代史】古代史を推理する



(注1)「卑彌呼の宗女、臺與を立てて王にした。その後、また男の王が立ち、いずれも中国の爵命を受けた。」塚田敬章「梁書諸夷伝・東夷・倭」より引用

(注2)Wiki「晋書」によれば、二十四史の一つであるこの晋書は「唐の貞観20年(646年)に太宗の命により、房玄齢・李延寿らによって編纂が開始され、貞観22年(648年)に完成した。」とあり、梁書の後に完成している。しかし梁書よりも前に完成した晋代の歴史書「十八家晋史(じゅうはちかしんし)」が存在し、wiki「十八家晋史」によれば、この「『晋書』成立以前に作られ流布していた18種類の晋の歴史書の総称。九家の『晋書』と、九家の『晋紀』から成る。」とあり、いずれも完成時期は晋から梁代です。現在は南宋以後ほとんど散逸しているが、「劉孝標の『世説新語』注、裴松之の『三国志』注、李善の『文選』注、『太平御覧』などの引用として部分的に残っているのみである。その中では、臧栄緒の『晋書』と王隠の『晋書』の記述が比較的多く残っている。」とあります。それらを当たれば分かるかもしれません。(2021.12.9 追加)

【付録】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆



日本民族と周辺の民族の父系のルーツ



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通説と違うので、いろいろと疑問点やご意見をお寄せください(^◇^)
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