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高天原は奴国だ!

2021-12-19 22:49:27 | 古代史
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2016-12-15 02:41:00 に記事にしたものをかなり加筆し改訂して再掲します。最後までお付き合いください。



(2020.3.1 朝倉卑弥呼伝説より)


この図のとおり北部九州と大和の中の数多くの地名とその位置関係もほぼ一致します。福岡平野から福岡県朝倉郡夜須町(現在は筑前町)を中心とする筑紫平野一帯というかなり広い範囲が該当します!「新唐書」・「宋史」に書かれた「日本は古の倭の奴国」ということを考えると、奴国は福岡平野のみならず、筑紫平野も奴国だったと言えそうですね!

考古学の成果から、三世紀の奈良県桜井市の纏向遺跡がヤマト王権の発祥の地だと分かっています。その前身が奴国ということです。つまり、二世紀初頭に奴国宮廷楽師師升らのクーデターによって滅亡した奴国を偲んで、ヤマトの大王らが大和の地名を故地の奴国に一致させて名づけたということでしょう(「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)!

そこで、魏・西晋代の学者の魚豢(ぎょかん)が撰した「魏略」では「倭人が呉の太伯の後裔」とされています(注1)。太伯は周王朝初代武王の曾祖父の古公亶父(ここうたんぽ)の長男で、末の弟季歴に王位を譲り、次の弟の虞仲と共に長江河口付近に呉を興したと伝わっています。つまり倭人と呼ばれた長江河口の水田稲作・漁労の民の王となった人物であり、Y染色体DNAは倭人のものと異なります(「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」参照)。

倭人は長江河口から東や南に小舟で移動し、江南の水田稲作文化を各地に伝えています。越人は呉の倭人とY染色体DNAが少し異なりますが、倭人と同様の文化を持っており、東南アジアからインド沿岸部に文化をもたらしています。スリランカの西のインド・タミル地方は弥生文化とそっくりですので、タミル地方で見られるY染色体DNAから考えて、越の民が文化の運び手のようです。また、マダカスカルの天蚕(てぐす)は長野県安曇郡を原産地とするので、倭人が直接か、越人を介して運んだと考えられます(「東鯷人(とうていじん)って?」「弥生文化はインドのタミル人と縄文人の邂逅で生まれたのか?」参照)。

一般に言われる渡来系の弥生人というのは、江南の倭人という意味ですが、列島から渡った縄文人が半島南部にも住んで居ました。倭人が半島や列島で縄文人と混血したので、どちらも倭人と呼ばれた弥生時代人のことですから、略して弥生人です。



紀元前473年、呉が越によって亡ぼされて、呉の王族の一部が倭人の手助けで半島南部に落ち延びました。呉王族は寒冷化が進んだ紀元前四世紀中頃に南下して、北部九州(福岡市の早良平野)に移ったと推理しました。吉武・高木遺跡には日本で最初の王から三代の王の墓と見られるものが見つかっています。日本列島の最初の王が、奈良時代の人々に天御中主として記憶されていました。記紀神話に登場する高天原の最初の神である天御中主は奴国の初代の王なのです(「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。

呉王の姓は周王と同じ姫(き)氏で、周王から子爵として封じられていました。奴国の須玖岡本の王墓からガラス璧が出土していますが、周の子爵の王標(王を示すもの)です。奴国大王が呉王に繋がる血筋との伝承どおりであることを示しています(「【検証9】奴国時代の話(その2)」参照)。

また、伊都国の王都三雲南小路遺跡でもガラス璧片が複数個見つかっています。さらに、朝倉市夜須町峯遺跡からも璧片が見つかっており、奴国大王が中国に倣って峯遺跡を支配する王に与えたものです。鏡と共に奴国大王が地方の王・首長との間に爵封制を採っていたことを示すものです(王金林「邪馬台国と古代中国」学生社1992.p.99)。璧片は銅鏡よりも貴重なものですから、伊都国王も峯遺跡の王も奴国の王族だったと推理できます。

やはり、日本で七世紀後半にヤマトの大王に天皇の称号があてられたのは、中国神話に登場する三皇(天皇・地皇・人皇)の筆頭の天皇にあたる伏羲氏が周の先王古公亶父の遠い祖先だったからなのです。伏羲氏の子孫が中国最初の夏王朝を興こした禹(う)で、古公亶父はその末裔ということなのです。

そうすると奴国とヤマト王権との繋がりですが、上のクーデターで奴国から脱出したニギハヤヒが、縄文海人ムナカタ族の支援で吉備を平定し、奴国を再興してヤマト王権の基礎を築いた人物と推理しました。二ギハヤヒは「宋史 王年代紀」第十八代王素戔嗚尊(スサノヲ)の次の天照大神尊にあたる男王なので、スサノヲの姉アマテラス女神ではなく、弟と考えられます。

記紀では神武東征以前に大和に降臨していたとされ、アマテラス女神の子孫の彦火火出見(ヒコホホデミ、神武天皇)に大王位を譲ったことになっていますが、日本建国の史実を隠すための作り話です。三世紀の纏向遺跡に九州から大和に軍勢が押しかけて戦ったという神武東征の痕跡がありません。史実は、ニギハヤヒの子孫のヤマトの大王が伊都国を王都とした師升王の一族の倭国王を武力で滅ぼして、その後少し経緯がありますが、最終的に三世紀末にヤマト王権を成立させたと分かっています(【付録】参照)。

スサノヲとニギハヤヒ兄弟の父は十七代奴国王伊弉諾尊(いざなぎ)で、母の伊弉冉尊(いざなみ)は鳥取県米子市を拠点とする縄文海人ムナカタ族の王女です。ニギハヤヒは母の一族を頼って落ち延びて、支援を受けたと考えられます。呉王族の末裔の倭国王と縄文系族長の姫が婚姻によってはじめて生まれた奴国王の末裔でヤマトの大王が日本列島を統治することになるわけですから、記紀で国生み・神生みという神話になるわけです。

そしてニギハヤヒ大王は倉敷市の楯築王墓に葬られますが、そこに楯築神社があります。その御神体「亀石」が天皇伏羲氏と同じ人面蛇体でしたから、七世紀に壬申の乱で勝利した大海人皇子が即位して、はじめてヤマトの大王が天皇という称号を名乗ることになります。それ以前の天皇の漢風諡号は八世紀に淡海三船によって贈られたものです。

通説では、奴国とヤマトの繋がりが全く無視され、「漢書 地理誌」に「それ楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国と為る。歳時をもって来り献見すという。」とあるように奴国も列島にたくさんある国の中の有力なひとつという位置づけでした。ですから、日本は古(いにしえ)の倭の奴国であって、北部九州の奴国が記紀神話の高天原であったことに全く気付かれなかったということでした!

奴国という国名は一見して、奴隷の国のようですから、「漢委奴国王」の金印を委奴国(いとこく)と読む方もいます。しかし、これは全く間違いです。奴国はナーガ=龍蛇神の国、奴国大王は龍王だったのです。地名の那珂・那賀などからも分かります。中山や長柄などの中・長のつく地名等も奴国やヘビに関係するものです。北部九州から列島各地に展開した安曇族(江南系の倭人の部族)が名付けたものかも知れません。大国主など奴国の大王の血筋の神を祀る神社に行くと手水舎(てみずや)に置かれた青銅製などの龍の口から水が出ています。龍王の血筋を祀っているということでしょう。見ようとしないと見れないということでした(^_-)-☆

【付録】



(注1)太伯には子がなかったようで、最後の呉王夫差は、太伯と一緒に呉を建国した弟虞仲の後裔です!
 また、古公亶父が「後漢書」に出てくる亶州(たんしゅう)の古(いにしえ)の父祖を意味するので、亶州は倭人の住む日本列島を指すと云うことになります!古公亶父の逸話を見ると、仁徳天皇の「民のかまど」と同様に、民を大切にする王ということで一致しますから、天皇家が中国古代周王朝の末裔であると「日本書紀」を編纂した奈良時代の人々も知っていたということでしょう。
 奴国が奈良時代に儺県(なのあがた)と呼ばれたということも、「儺」の意味が「追儺=鬼やらい」ですので、奴国宮廷楽師らのクーデターが史実だったことを七世紀の人々が知っていて、それを隠してデタラメな歴史を書いた証拠と言えます(詳しくは「【検証22】難升米という人物は?(その1)」参照)。


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