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日本の歴史の始まりはこうだ(その9)

2021-11-01 18:42:10 | 古代史
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今回は邪馬台国問題と関わりのある魏の明帝が即位した後の東アジア情勢から説明します。

228年 遼東太守公孫康の子の公孫淵が太守を継ぎ、魏の明帝から揚烈将軍の官位を与えられる
229年 (黄龍元年)孫権が呉の皇帝に即位。建業(南京市の古称)に遷都。
    (太和三年)十二月、魏の武帝曹操の甥の曹真が大月氏国王波調(ヴァースデーバ)に朝貢させる(魏書 明帝紀)。
230年 (太和四年)二月、明帝は大将軍の曹真の功績を魏の第一等として、大司馬(軍事の最高責任者)に任命。
    驃騎将軍の司馬懿を大将軍に、 遼東太守の公孫淵を車騎将軍に任命(魏書 明帝紀)。

   (黄龍二年)孫権は衛温・諸葛直に兵1万を与え、夷(い)洲と亶(たん)洲の探索を命じた。
    
231年 (太和五年)三月、曹真が病死(魏書 明帝紀)。

 衛温・諸葛直は呉に帰国しましたが、亶洲へは遠すぎたため到達できず、兵の八・九割を疫病で失っていました。成果は夷洲(台湾と言われる)の現地民を数千人連れ帰っただけでした。二人は亶洲探索の目的をはたせず、皇帝(孫権)の詔に背いたかどで牢獄に繋がれ、殺されたと記録されています。

 亶洲は地理的に考えて日本列島のことなのです(注1)。『晋書』倭人伝「自謂太伯之後 又言上古使詣中國皆自稱大夫(自ら太伯の後裔という。また、昔,使者が中国を訪れた時、みな、大夫を自称したともいう。)」とあり、倭人が呉(孫氏ではなく春秋時代の)の祖である太伯の子孫と自称していたことを記録しています(「魏略」逸文として「翰苑」に記されている)。呉の太伯は周の先王「古公亶父(ここうたんぽ)」の長男です(「史記」周本紀)。「古公亶父」はその名から亶洲を支配する子孫の父祖という意味があると考えられます。つまり、紀元前九十年頃完成したと言われる「史記」の撰者司馬遷は「日本の父」と知ってたということなのでしょう。

周王朝は太伯の末の弟季歴の孫の姫発(武王)が殷の紂王を倒して興した王朝です。「殷周革命」です。「姫姓王家は「禹(う)」を始祖とする夏王朝の遺族です」中田力「科学者が読み解く日本建国史」PHP新書943、2014,p.79)。Wiki「禹」によれば、「中国では治水の英雄・開拓の英雄とされており教科書にも掲載される存在である[1]。」とあり、『「禹」の字は、古代文字の「九」と「虫」とを合わせた文字である。「九」は、伸ばした手の象形。「虫」は、もともと蛇や竜などの爬虫類の意味で、雄の竜の象形。即ち、「九」と「虫」とを合わせた「禹」は、雄の竜を掴むの象形で、洪水と治水の神話の神と伝えられる「伏羲と女媧」を意味する。[17]』とあります。禹は理想の君主である五帝のひとりと数えられることもあります(wiki「三皇五帝」)。



 そして、五帝より前に存在した神である三皇の筆頭の天皇に伏羲(ふっき)という人面蛇体の神があてられます。ですから、前回見たように奴(ナーガ=龍蛇神)国王の初代王天御中主(「天」は海を、「中」はナーガですから海神龍王を意味する)が「記紀神話」に、高天原に最初に現れた神とされていますし、第十九代王天照大神尊(ニギハヤヒ大王)を皇祖神とするヤマト大王が天皇伏羲の末裔という認識を七世紀末の朝廷が持っていたと考えられます。藤原不比等がニギハヤヒ大王を「日本書紀」で吉備津彦ということにして真相を隠したということです(注2)。

 ということで説明が長くなりましたが、倭国はすでに師升に乗っ取られ、その子孫が公孫氏側についていたので、それを知った孫権は亶洲の旧奴国王と友好関係つまり同盟を結ぶために一万もの大軍を付けて部下を派遣したと考えられます。

  同年、孫権はまた、孫布に命じて魏への偽りの降伏を申し出て、魏の対呉司令官の王淩は孫布を迎えに行くために出兵し、潜伏していた孫権軍に大敗しました。

233年 二月、公孫淵は呉に帰属したいと使者を送る。
   三月、呉は公孫淵に九錫を授け、燕王に封じるために使者を送ったが、
   公孫淵は呉の使者を斬り、その首を魏に送った。
   十二月、明帝は公孫淵を大司馬に任じ、楽浪公に封じる。
234年 諸葛亮が五丈原において病に倒れ、陣中で死去した(五丈原の戦い)

237年 (景初元年)七月、魏の明帝が公孫淵に出頭命令を出したが従わず、
    領土を帯方郡と楽浪郡を加え自立を宣言し燕王を称し、年号を紹漢とした。
238年 (景初二年)正月 明帝は司馬懿に公孫淵を討つ命令を出す(魏書 明帝紀)。

 公孫淵は呉に援軍を求めますが間に合わず、八月、公孫淵は斬られ、首は洛陽に送られるます。司馬懿は襄平に入城して廷臣らをみな斬首し、15歳以上の男子を殺して京観を造ったと伝えられています(wiki「司馬懿」)。

  孫権は上に述べたように最初狗奴国との接触に失敗しましたが、山梨県と兵庫県の古墳から呉の紀年銘銅鏡が出土してることと、狗奴国と敵対していた倭国王難升米に黄幢(魏の正規軍の軍旗)を授けていることから、この頃までに呉が狗奴国と同盟することが出来たものと考えられます(注3)。明帝は呉・狗奴国同盟の情報を受けたので、司馬懿の戦勝報告を待たずに、密かに半島を攻略する準備をして、公孫淵の首が届く情報を受けて楽浪郡太守鮮于嗣と帯方郡太守劉昕を送ったのでしょう。

 十二月八日、明帝が病の床につき、親族である曹真の子曹爽を大将軍としました。
(景初三年)正月朔(ついたち、238年12月1日)重体の明帝のもとに太尉司馬懿が帰還します。明帝は大将軍曹爽(曹真の子)とともに政治を輔佐するよう命じました。その日に崩御し、子の曹芳(少帝)が帝位につきました(魏書 明帝紀)。

239年 景初三年二月(1月21日)、司馬懿が幼い皇帝の正式な補佐役大傅(たいふ)となります(魏書 少帝紀)。さらに侍中兼持節兼都督中外諸軍兼録尚書事になります(晋書 高祖宣帝懿紀)。録尚書事は官吏の考課、宮中の文書発布を司る尚書台の長官である尚書令よりも上位で、あらゆる職務を統括する役職です。

  司馬懿は公孫氏を滅ぼし、自分の功績を曹真の功績を超えるものにするために、ライバルの呉に対して戦略的に重要な位置に在る倭国を懐柔したいと考えました。そのために、明帝が帯方郡太守にした劉昕に代えて、ヤリ手の部下劉夏を太守としました。
 倭国王難升米は、友好を結んでいた公孫氏が滅んだと知り、次は倭国が残忍な司馬懿の軍に攻撃されることを大変怖れていたはずです。劉夏から魏へ朝貢を促されたので、渡りに船で直ぐに太守に連絡し、玄界灘が穏やかな六月になって自ら帯方郡に出かけました(注4)。難升米王は劉夏と面談しました。劉夏は倭国の朝貢を司馬懿の功績として曹魏第一等であると朝廷に認めさせるためにどうするかを難升米王に打ち明けて、綿密に以下のような談合をおこなったと考えられます。

 魏の朝廷の人々の目を引くために、倭国を女王が統治するエキゾチックな東夷の国とし、その都の邪馬台国が、大月氏国(首都カーピシーまで洛陽から万六千三百七十里、十万戸)よりも遠方にある大国(洛陽から楽浪郡まで五千余里なので、合計万七千余里、約十五万戸)だとしました。そして女王の都が呉を東方海上から圧迫する戦略的に重要な位置にあるとしたのです。

 そのために、倭国のことを知らない魏の朝廷の人々が納得できる程度のつじつま合わせをしました。難升米王から聞いた邪馬台国への行程を基にして、奴国の次の不弥国から南に水行一月、陸行一月に邪馬台国が在るとべらぼうな話にしました。途中の国々の戸数を過大にするなどのデタラメもやり、それらは倭国の朝貢の際に司馬懿が朝廷の人々を驚嘆させる倭国の概略を紹介するはずです。後に最初の魏使の報告書にもそのとおり記載させたので、その記録に基づいて西晋の史官陳寿が魏志倭人伝を作成したということです。倭人が里程を日数で測るということも朝廷の人々を驚かせる演出のひとつだったのでしょう。

 司馬懿らの準備がすべて整ったので、明帝の喪が明ける十二月に女王卑弥呼の使者の大夫ということにして難升米らに上洛を命じました。難升米らが到着し、倭国女王へ詔書を贈り、難升米には率善中郎将の印綬を授けました(魏志倭人伝)。倭国女王卑弥呼をこれほどまでに絶賛する詔書の全文が魏志倭人伝に記載されたことは異例ですので、目を引きます。つまり、陳寿は西晋の宮廷人に対して、西晋宣帝と諡(おくりな)された司馬懿の功績を最大限に称揚するために魏志倭人伝、いや三国志を書いたのでしょう。それは、曹真の功績を称えることになる西域伝を意図的に省いたことからも分かります。つまり、陳寿が後世の日本人研究者のために書き残したのではないことに気づけば、謎の邪馬台国のトリックを見破ることが出来るということなのです(注5)。






(注1)亶洲_百度百科によれば、徐福が不老不死の薬を求めて渡った島で、日本列島のどこかです。徐福は『名家の男子と若くて美しい女子、百工だ。そうすれば得ることができる。』と海中大神(奴国大王)に言われたと始皇帝に報告しています。奴国王が青銅器の冶金技術者などを要求したと考えられます。弥生中期前半(紀元前二世紀)に、奴国の王宮の在った須玖岡本遺跡の付近の須玖タカウタ遺跡で「銅剣の高級装飾品で権力者の象徴とされる「把頭飾(はとうしょく)」の土製鋳型の一部が国内で初めて出土したと発表した。朝鮮半島から伝来した把頭飾が、直後に国内でも作られたと考えられる。日本の青銅器生産の開始時期に当たり、専門家は「生産技術は当初から高度で、既製品を原型に複製品を大量生産した」とみている。」と報道されました(毎日新聞 2017/7/25 22:39)。紀元前210年に徐福が連れてきた技術者によるものである可能性があります(刮目天は中期中葉としている)。徐福の伝説が約二十カ所残っていますが、佐賀県に複数あり、奴国王が徐福を吉野ヶ里遺跡辺りで王に封じたのかも知れません。また、107年に朝貢した宮廷楽師の師升はその名前からシナ人の楽師ですので、徐福が連れてきた人々の子孫の可能性があります。


 「『史記』によれば、豳から財物をかすめようとした異民族に侵略される前に与えたが、その上、人や土地を奪おうとしたので民が怒って戦おうとした。しかし、古公亶父は「民が君を立てるのは民の利益のためで、異民族でも利益を図るなら民にとってはそれでかまわないはずだ。自分が必ずしも国を治める必要は無い。民が戦うのは私のためで人の父子を殺して恨まれれば君主であることはできない」と、自分の一族を率いて岐山の麓に逃れた。国人はそれを慕って豳から岐山の麓へと移住した。その後、古公亶父は城郭家屋を築き、村落を分けて民を定住させ、五官の役人を作って政を行った。民は詩を作って、古公亶父の徳を称えたとされる。」とあります(wiki「古公亶父」)。日本の歴代天皇が「民を大御宝(おおみたから)」とすることは古公亶父の遺訓と考えていいと思います。

(注2)大和朝廷は日本建国時代に活躍した人物の祟りを怖れています。天変地異・災害が起こった際にはそういう人物を神として祀っている神社に勅使を立てて、神階を加増し、田や民を献上して鎮魂の祈祷などを行っています。特に四柱の神は特別な神階である品位(ほんい)を贈っています。その中に吉備津彦命が居ます。第7代孝霊天皇皇子であり、四道将軍の1人で、西道に派遣されたという英雄のひとりですが、何故、吉備津彦だけが特別なのかを考えると、吉備で奴国を再興したニギハヤヒ大王だったと分かります。詳しくは「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)」でどうぞ。

(注3)以下の二面の平縁神獣鏡が出土していますので、孫権が狗奴国王と接触した証拠だと考えています。
238年(赤烏元年)山梨県西八代郡 鳥居原狐塚古墳
244年(赤烏七年)兵庫県宝塚市 安倉高塚古墳

(注4)魏志倭人伝に景初二年六月とありますが、現在伝わる版本に使われた原文の誤写によるものです。景初二年六月はまだ公孫氏と司馬懿の戦闘の最中ですので、倭国が魏に朝貢することは不可能です。日本書紀が引用している箇所では景初三年となっています。また「梁書」でも景初三年です。魏志倭人伝は西晋宣帝司馬懿を称揚するのが目的です。当時の魏及び西晋の朝廷の人々は、倭国を懐柔したことは司馬懿の功績と認めているから景初二年八月に公孫氏が滅んだ後に倭国が魏に朝貢したと考えるのが正しいです。

(注5)難升米王の姓は難升であり、これは「漢委奴国王」の金印で倭のニンベンを省略した委を用いていることから、ニンベンの省略は当時の流行だったようです。だとすれば「難」は「儺」、つまり「鬼やらい」のことだと考えられます。奴国が奈良時代に儺県(なのあがた)と呼ばれていますが、これは宮廷楽師の師升が乱暴者の奴国大王スサノヲを殺して倭国を乗っ取った史実を表しており、それに因み師升王の姓を「儺(難)升」と」したと考えられます。つまり難升米王は師升王の子孫であることを意味します。

そして難升米王が帯方郡太守劉夏に姫巫女「卑弥呼」を女王ということにして、女王(台)の居城のあった野麻国(宇佐市史によれば和妙抄の野麻郡が宇佐市安心院町に比定されています)を邪馬台国と教えたのだと推理しています。難升米王は自分のことを卑弥呼の政治を輔佐する男弟していますが、伊都国の男王で倭国王です。

伊都国も、孟子・尽心上篇にある殷(商)王朝初期の有名な政治家伊尹(いいん)に因むもので、伊尹の定めた都の意味となります。伊尹は徳のない主君太甲を追放したことで有名ですが、師升王の事績と重なることから、師升の王都を伊都国と名付けたものだと考えられます。

つまり、魏志倭人伝に見られる倭人の名前や倭国内の地名は、従来は倭人は漢字が書けないので、魏の役人に言葉で教えたものを漢字に直したと考えられていました。しかし、漢字を読み書きでき、漢籍も堪能な教養人の難升米王が太守劉夏に書いて教えたものだったのです。いわゆる卑字があてられているのは難升米王が無教養の人たちをバカにしたものであると分かります。特に敵対する人物には酷い卑字がしつこいまでにあてられています。狗古智卑狗にはよほど恨みがあったのでしょう。狗奴国は旧奴国を貶めて、狗コロの奴国としたものでしょう。


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