刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

勝者の歴史から不都合な真相が分かる?(@_@)

2021-11-02 21:37:42 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ◇◆☆◇◆◇◆☆◇◆◇◆☆◇◆◇◆☆◇◆☆◇◆◇☆◆◇◆☆◇◆◇☆◇◆◇ 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
メルマガ「宮崎正弘の国際情勢解題」でいつも勉強させていただいています。また、前回も掲載していただき、その反響が凄いことになっています。どうもありがとうございます。そこで読者の声に、再度以下のような投稿をしました。どうぞお付き合いください(*^-^*)


貴誌通巻第7104号(読者の声2)で、再度「魏使日本海経由説」を支持されるご意見を頂きました。確かに日本海沿岸部は縄文時代から古代にかけて流通の最も盛んな地域で、表日本であったと思います。     

しかし、240年と247年の二人の魏使は日本海沿岸部を旅行してはいません。

 半島南部の狗邪韓国(釜山付近)・対馬・壱岐・末盧国経由で伊都国(三雲遺跡)までは確実に到着しています。その先の奴国(比恵・那珂遺跡)・不弥国まで行っているか不明ですが、いずれも北部九州の範囲です。更にそこから先の、南に水行二十日の投馬国へ、そしてさらに水行十日・陸行一月という卑弥呼の居た邪馬台国には行ってはいないと断言できます。何故ならば、本来、里数で書くべきところが日数表記になっているのは倭人からの伝聞だと分かるからです。「隋書」に、「倭人は里数を知らず、ただ計るに日数を以ってす」とシナ人もビックリとの文章がありますから、里程を日数で表記することはシナ人にとってあり得ないのです。ですから、魏使は女王への貢物をチェックする役目の一大率が常駐するとされる伊都国まででしょう。魏使は、ほとんど人には会わない女王の代りに政治を輔佐する男弟に面会したはずですが、恐らく伊都国に居た男王と思われます。

 弥生中期後半から後期前半(二世紀初頭)の奴国時代まで、奴国大王が王族を伊都国王として配置し、外交・対外交易を管理させていました。三雲遺跡番上地区から楽浪土器が出土しています。華僑も出入りしていましたので、そこではシナ語が話され、硯や竹簡を入れる赤漆塗円筒の一部も出土しています。福岡市の雀居遺跡からは木製の組み机が出土していますから漢字を読み書きできる倭人が居ました。倭国の中枢部は、従来考えられていたような文化的に遅れていたイメージではなかったのです。



 また宮崎先生から「魏志倭人伝は政治宣伝文書とみて差し支えないと思われます。」とありましたが、全く同感で、そのように確信しています。(帯方)郡より東南万二千里の海上に邪馬台国が在るとする、明かにデタラメな邪馬台国への行程記事だけを研究者がどのように解釈しても万人が納得できる結論は得られないとすでに証明されています。むしろ、このような行程記事がなぜ書かれたかを検討すれば、邪馬台国の位置論は解決に向かいます。

 通巻第7105号(読者の声4)で高柴昭様が考古学的根拠から「邪馬台国は福岡平野にあった」という説をご紹介されていますが、これは正しい方向だと思います。しかし、奴国の在った福岡平野が邪馬台国であるとするには、魏志倭人伝に記載された径百余歩の円墳である「卑弥呼の墓」が福岡平野で発見されていませんし、魏志倭人伝の「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」に福岡平野が該当しません。もしも邪馬台国が福岡平野であるならば、なぜデタラメな行程記事が書かれたのかなど、さらなる検討が必要ではないでしょうか。

 文字に書かれたものがどこまで真実を述べているかは、考古学や民俗学などの成果によって検証する必要があります。特に権力者が書かせた正史は、権力者がその権力を維持するための政治的な理由で書かせますので、権力者にとって不都合な事実は隠蔽されるか、改ざんされます。

 魏志倭人伝は、西晋の史官陳寿が西晋宣帝と諡された司馬懿の功績を称揚するのが目的で、宮廷の書庫に残された魏使の報告書やその他の文献の内容などを吟味して撰したものです。卑弥呼の朝貢を絶賛する詔書の全文を引用していますし、司馬懿が朝廷での権力を握るために不都合な大月氏の朝貢に絡む西域伝については意図的に削除していますので、このような陳寿の偏向は明らかです。

 勿論、司馬懿の部下であった魏使の報告書の内容は、司馬懿の、倭国に朝貢させた功績を、それまで曹魏第一等であった曹真の功績である大月氏の朝貢を超えるものとする意図から書かれていますから、邪馬台国への行程記事が大げさで、デタラメなものになったのだと分かります。

 それではどうやって邪馬台国を見つけるかですが、それには日本の古代史を解明する必要があります。日本の現存する最古の歴史書と言われる「古事記」も正史「日本書紀」も、直ぐには答えをくれません。邪馬台国の卑弥呼やその後の台与の記事が「日本書紀 神功皇后紀」の注に有るだけです。「日本書紀」の編者は魏志倭人伝や西晋の起居注を読んでいますから、意図的に史実を隠ぺいしたと分かります(「古事記」は九世紀の朝廷で「日本書紀」を講義していた多人長(おおのひとなが)が突然表に出したものです。序文は人長が書いたものでしょう。本文は「日本書紀」の内容に沿いつつ独自の話を出していますから、「日本書紀」が隠した史実を一部暴露するものです)。

 「日本書紀」は壬申の乱を勝利した天武天皇が命じて編纂が始まりましたが、崩御の約三十年後の720年に、当時の権力者藤原不比等によって完成されました。ですから、不比等が何をどのように隠したかは、不比等の目的を読んで、推理できます。不比等は日本の建国で活躍した豪族を抑え、藤原氏だけが権力を維持できるように、天皇家さえも貶める内容にしています(大化の改新も虚構だと分かって来ていますから、中大兄と藤原鎌足は朝廷に歯向かうテロリストだったようです。詳しくは拙ブログ「イデオロギーが古代史を歪曲する?」でどうぞ)。

 ですから、藤原氏の悪行を誤魔化すこのようなものは天皇家の歴史書であるはずはありません。国譲り神話は日本建国時代の争乱を神話化したものですが、藤原氏の遠祖が活躍する神話などを創作しています。拙ブログ「邪馬台国大和説は過去の学説だよ!」に掲載しましたが、ヤマト王権は三世紀の初頭に纏向遺跡で始まったこと、そして九州の倭国(邪馬台国)と対立した狗奴国だったことがわかってきました(狗奴国は旧奴国を狗コロの奴国とする蔑称でした。魏に最初に朝貢した大夫難升米が名付けました。難升米は、二世紀初頭に奴国王スサノヲを殺し、倭国王となった奴国宮廷楽師の師升の子孫の倭国王です。司馬懿の策謀に加担して、卑弥呼を倭国女王とし、自らを政治を輔佐する男弟としましたが、伊都国の男王です)。

 日本建国時代の二世紀末から三世紀後半までの戦乱の痕跡を、当時の鉄鏃・銅鏃の出土状況から発見しました。これによって「日本書紀」で書かれた崇神天皇紀の四道将軍や景行天皇の九州遠征、日本武尊の遠征などはこの時代の史実を基にした創作だったと分かりました。よろしければ拙ブログ「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」などをご参照ください。基本的な考え方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する」に記載しました。長々と、失礼しました。
(刮目天)

【関連記事】
神話が隠した不自然な史実(;一_一)


(左クリックで拡大)



【参考記事】
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ◇◆☆◇◆◇◆☆◇◆◇◆☆◇◆◇◆☆◇◆☆◇◆◇☆◆◇◆☆◇◆◇☆◇◆◇ 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和三年(2021)11月3日(明治節、文化の日)
通巻第7105号   <前日発行>
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(読者の声4)邪馬台国問題は間欠泉の様に、噴出しては静まる、国民的関心事ではある様です。私は刮目天様とは具体的な場所は違いますが、九州説という点では同じ側に立っており、拙著「邪馬台国は福岡平野にあった」で詳述しております。
私が重視するポイントは、距離の物差し(短里)、進み出す方向、現地の地形の三つです。
このポイントに沿って倭人伝を読み解けば、松浦上陸後の魏使の足取りはほぼ紛れがなく、邪馬台国へたどり着くことができます。
私が読み解いた邪馬台国の所在地と博多湾との間を結ぶ当時としては立派なほぼ直線の道路が以前に検出されています。
幅7mで両側に側溝を備えた弥生時代後期の竪穴住居時代としては比類ないものだと考えられます。おそらく卑弥呼の都と海外の玄関口である博多湾とを結ぶ幹線道路であると考えています。
残念ながら、この道路のことはあまり注目されていません。
多くの専門家はあえて無視しているとも考えられますので、この場をお借りして、改めて注意喚起をしておきたいと思います。現在は那珂中央公園の一部にその跡が表示されています。
また、新しくブログを始めました。ブログでは拙著の補完および、古代史書の読み解きに注力しています。今までに、『古事記』の序文は後の時代に付け加えられたもので、太安万侶は『古事記』の編纂は行っておらず、聡明だとされる稗田阿礼は実在していなかったこと、また、現存『古事記』の元になった『原古事記』の成立年代は現存『古事記』より80年ほど早い時点であることまでを検証してきました。
今後とも可能な限り掘り起こしに務める予定です。宜しければ下記ブログまでお立ち寄りください。
https://yamataikoku.exblog.jp/
   (高柴昭)


(宮崎正弘のコメント)古事記の序文が後世に書き加えられたというポイントは、すでに多くの指摘もあり、小生もそう思っています。

最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング