京都三大祭り「葵祭・路頭の儀」に始めて行ってきました。
京都御所 建礼門前(前方の門)を10:30行列が出発する。
左右の白幕内は 有料観覧席です。
早めに行って 場所取り、意外と少ないな と感じました。
快晴でしたが 爽やかな気持ちのいい風があって 行列をゆっくり観ることができました。
大勢のカメラマンも行列を待っています。
2011.5.16 京都新聞より
葵祭についてインターネットで調べて見ました。
上賀茂、下鴨両神社の例祭で、祇園祭、時代祭とともに京都の三大祭に数えられています。
天皇が上賀茂神社と下鴨神社に勅使を遣わし“鴨の神”の祭礼を行ったのが始まりとされています。 すべて葵(フタバアオイ ウマノスズクサ科カンアオイ属)の葉と桂の小枝で飾ることに由来します。
平安時代には、祭りと云えば葵祭と云われるくらいに盛況だったようで、源氏物語や枕草子など平安文学にもたびたび登場します。
<起源>
古墳時代後期の欽明天皇(540~571年)のとき、凶作に見舞われ飢餓疫病が蔓延したため、
<名前の由来>
内裏神殿の御簾、御所車(牛車)、勅使・供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、
フタバ葵
インターネットより
<祭の内容>
“宮中の儀、社頭の儀、路頭の儀”の三つの儀式からなりたっていましたが、
現在は“宮中の儀”が省かれており“社頭の儀”がもっとも神聖な儀式で、
下鴨神社、上賀茂神社の前で、勅使の御祭文の奉納、東遊舞の奉納などが神前で行われます。
“路頭の儀”と云うのは、京都御所を出発した勅使一行が下鴨神社、上賀茂神社に奉物をもって行列することを指します。
葵祭一番の見どころの儀式で、平安装束の着付けのほか、牛車や諸調度品など当時の風俗を忠実に再現した行列が、
京都御所から丸太町通、河原町通を抜け、下鴨神社を経て鴨川沿いの加茂街道を北上し、
上賀茂神社まで練り歩き、平安の王朝絵巻が艶やかに再現されます。
行列の構成は四列から構成されていて、
第一列は、京都の警備や司法に当たる“検非違使(けびいし)”、山城国を治める文官の“山城使(やましろづかい)”と従者達です。
第二列は、御幣物を担ぎ供奉する官人“内蔵寮史生(くらりょうししょう)”や走場に関わる“馬寮使(めりょうづかい)”、その後に紫の藤の房とカキツバタの花で飾りつけた“牛車”続いて雅やかさを演出しています。
第三列は、天皇の使いで行列中の最高位者である“勅使”と勅使に従う“舞人(まいうど)”が続きます。
第四列は音楽を奏する“陪従(ばいじゅう)、内蔵使(くらづかい)”、花々で装う“風流傘”が続き、最後に、行列の一番の目玉である斎王列に十二単姿で腰輿(およよ)にのる斎王代に女人がつき従います。
行列の総勢は500名、馬36頭、牛4頭にもなり、列の長さは1Kmにも及ぶようで、豪華絢爛なものです。
<祭りの盛衰>
平安時代中期には、祭りと云えば葵祭を指すほど隆盛を極めたのですが、
鎌倉、室町時代には衰退が始まり、応仁の乱以降は行われなくなってしまいました。
江戸時代の元禄期に再興され、その後続いたが、明治2年の東京遷都で行列は中止となり、
京都活性化策として明治17年に復活されたが、第2次大戦で中止され社頭の儀だけが続けられていまた。
戦後、行列が巡行するようになったのは昭和28年からで、斎王代の登場は昭和31年からで、現在に至ります。
2011.5.16 朝日新聞より
< 概要 >
庶民の祭りである祇園祭に対して、賀茂氏と朝廷の行事として行っていたのを貴族たちが見物に訪れる、貴族の祭となった。
京都市の観光資源としては、京都三大祭りの一つ。
葵の花を飾った平安後期の装束での行列が有名。
源氏物語中、光源氏が勅使を勤める場面が印象的である。大気の不安定な時期に行なわれ、にわか雨に濡れることが多い。
実際に1995年(平成7年)は雨天で中止になった(第二次世界大戦後初)。
暴れる馬や いななき続ける馬もいました。
牛車の後ろをみんなで 押していました。
斎王代列
斎王代
後ろに居る「牛」は交代用だろうか?
牛、馬の排泄物を収集した軽トラが後からついて行きました。
前列の方も 立つ人も無く 日傘も閉じて みんなお行儀よく観覧しました 。
御所で行列を観たのですが 街中を行く行列を観たほうが良かったのでは?と思いました。
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