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小沼神社 仁王門

2014年11月25日 | 地域
このほど大仙市豊岡の小沼神社、仁王門の金剛力士像が新しくなった。彫刻家皆川嘉左エ門氏が製作と11月7日にテレビニュースで報道された。小沼集落出身で湯沢市在の山中さんが製作依頼し、このほど完成し安置された。11月8日に入魂式が行われたという。

仁王像の製作を依頼され、製作に取りかかっていることは昨年から知っていた。アトリエに出向き製作現場に立ち会いたい等と思いながら、果たせないでいた。旧知の皆川氏は平成12年横手市大雄の重福寺の仁王像も製作している。重福寺の仁王像をアトリエで初めて見たときは、その大きさに度肝を抜かされた。九州産の楠、高さ約3.6mの巨像、平成11年4月から作業を始め平成13年4月完成。重福寺に収めるられる前に開いた展示会に述べ1000人以上の参観者があったという。重福寺に運ばれる前日、梱包作業に入る直前に出合った。

今回新しくなった小沼神社の仁王像、仁王門に安置された姿を尋ねてみた。大仙市豊岡までは自宅から約50k。広域農道「みずほの里ロード」でドライブ。この道路は、仙北市から横手市まで連絡する全延長39.7kmの農免農道で、平成2年度着工され平成19年度完成した道路。さらに広域農道(雄平東部地区、横手市から湯沢市川連町)に近接し接続されている。約一時間で小沼集落に着いた。


小沼神社 仁王門 2014.11.13

ネットで小沼神社は、「みちのく秋田探訪記:神社建築編」によれば次のように紹介されている。

『小沼神社概要 案内板によると「小沼神社は小沼観音堂とも呼ばれ、ここ小沼山の山頂にあります。昔は、神社前の沼に中島があり、それに6尺(1.8m)幅の反橋が架けられ、ここを渡ってお参りしたと言われています。養老2年(718)の草創と言われるこの神社は、平安時代の「十一面観音菩薩立像」、「聖観音菩薩立像」の2体が安置されています。いずれも欅の一本造りで、等身大の量感あふれる作品で、当時の仏教芸術の極地を見る事ができます。

このほか、室町時代の作と言われる彫刻「僧等首」があり、いづれも県の重要文化財に指定されています。また、中にある厨子は唐風造りで、総採色の上神殿には二体の獅子頭が保存されています。山頂には白山神社、諏訪神社、長床跡のほか、地名の由来ともなった峰の小沼は現在も耐えることなく清水が湧き出ています。文政11年(1827)、菅江真澄はここを訪れ、古老の言い伝え交え神社の、由来を詳しく書き残しています。」とあります。参道の途中には神社山門があり、仁王門と呼ばれています。左右には金剛力士像が神社を守っています。小沼神社は熊野信仰とも深い繋がりがあり、近くにある金峰神社にも山門があることから、ある種のスタイルのようなものがあるのかもしれません』。


小沼神社 鳥居 2014.11.13

小沼神社の鳥居の左側に「菅江真澄の道」小沼山観音の標柱がある。標柱には文政十一年(1828)小沼山を記録月の出羽路仙北郡 平成3年11月 中仙町菅江真澄研究会とある。

新しい仁王像を運ぶために整備されていたので、仁王門までの参道は登りにもかかわらず歩きやすかった。鬱蒼とした杉木立の左側には仁王門近くまで墓地が続いた。山門から仁王門まで近かった。鎮座したばかりの真新しい仁王像はことのほか力強いものだった。当然のことだが仁王像はアトリエでの姿と、仁王門に安置された姿ではその趣は全然違う。重厚な姿は重福寺でも輝いていた。今回の小沼神社の仁王像、安置された姿にある種の感動を覚えた。鬱蒼とした木立の神秘的な風景に調和していた。


小沼神社 仁王像(金剛力士像) 2014.11.13 (11.17編集)

左右に安置される二体一具なので二王とも称されたという。外敵を払い、仏法守護神として寺院や神社の門等の左右に安置されている。手に金剛杵をとり、忿怒相に表現される。開口像を阿形 、閉口像を吽形 といわれている。左側(向かって右側)には阿形像、右側(向かって左側)には吽形像を安置するのが通例となっている。上の写真は仁王門の阿形、吽形を別々に撮って一枚に収めた。

仁王門の拝観後、急峻な参道をひたすら小沼神社をめがけて歩く。鬱蒼とした杉林の参道。丸太で階段状に整備されてはいる。廻りの草木は刈り払われ管理されて見えるが、多くの人が歩いたそうには見えない。途中で気付いた。斜面を掘り割りされたようだ。人工的に整備された参道らしい。

久しぶりの急坂、何回か曲がりくねって進むと右斜面が深く谷側で、けたたまし威嚇する声がした。視線を移すと親子ずれのカモシカだった。しばし、立ち止まると向かい側の杉林に消えた。 さらに歩き続ける、杉の木立にイチョウの木があり、足元は実が落ち臭いがきつい。今にもクマが出そうな気配を一瞬閃いた。冬眠前のクマはイチョウの実は好物だと何かの本で読んだことがある。なにせこの参道急峻で掘り割りの中を歩く状態に曲りくねっているので数歩先が見えない。もう少し、もう少しと反復しながら曲がり終えてもその先がまだまだ続く参道だとわかる。何回か繰り返して進むとやっと神社が見え、その前に小さな沼のところに着いた。

杉林の中に忽然と現れた小沼。絶えず清水が湧き出て、約10aの広さといわれている。その奥に佇む神社が小沼神社。鏡のような沼の面に神社が映し出されていた。杉林と沼とのすばらしい環境の佇まい、幻想的な光景。社殿には神仏習合の観音像、「十一面観音菩薩立像」、「聖観音菩薩立像」が佇立しているという。普段は秘仏として開扉されることはなく、夏と正月の例大祭のときに限り、開帳されるという。この時期は冬囲いのビニールシートで覆われて、静寂さがより強調されていた。もうすぐ雪の季節だ。


小沼越しの小沼神社 2014.11.13

文政11年(1828)この地を訪れた菅江真澄の記は以下となっている。「十一面観音、小沼山という所に鎮座している。別当は角館の真言宗成就院である。この山は四十四代元正天皇(680ー748)の御世の草創であるとされ、霊験あらたかなのは衆目のところである。昔は小沼山源東寺と言い、古い真言宗であったらしい。観音山の麓を小沼村と言う。急な参道を登るを仁王門がある。この門を入ると山神の社がある。

この下の山沢に雷天清水があり、昔雷を祀ったものであろうか。観音堂は南向きで、前に小沼という湧水の池がある。直径十間ばかりに丸い池である。魚は鮒のみで、ここの鮒をとって喰う者は、たちまち祟りがあるを聞く。この沼に祈願する人たちは、そのお礼として鮒を放って奉ると言う」。「菅江真澄」遊覧記 月の出羽路仙北郡3 引用


菅江真澄の描いた小沼 文政11年(1828)

神道において「鈴」は、参拝時に神社の拝殿で振り鳴らして用いられる。神社の拝殿には、鈴緒とよばれる縄の上のほうに大型の鈴が取り付けられており、参拝する時は鈴緒の下のほうを手で振り動かして鈴を鳴らし、神様へ呼びかける。

参拝した後も大きな鈴に目が行く。ほぼ同じ大きさの二つの鈴。二つあっても形が大小等違うのが多く見受けられるが、小沼神社の鈴はほとんど同じ大きさだった。御神体の「十一面観音菩薩立像」、「聖観音菩薩立像」との関連はあるのだろうか。御神体から沼はどう見えるのだろうか等閃いて、神社側の鈴の間から今にも雨になりそうな杉木立と小沼を見渡すと、不思議な感動に陥った。帰りに再度二人で二つの鈴を同時に鳴らし神社を離れた。

近くに平成11年度「林業空間整備事業」の説明版があり枝打ちや間伐、天然林整備等がなされたことが書かれていた。林道が整備されていて、神社の冬囲いに訪れたのか車のタイヤ跡があった。参道に標識があり山城十六沢城跡は1kとあった。10世紀に築いたとされる山城十六沢城は、戦国時代に白岩氏が角館城主戸沢氏の支配下に組み込まれると、戸沢氏の属城となった後に廃城となったとある。 現在は「いこいの森」公園となっていて、城跡展望台から仙北平野を望めるということなので向かったが、晩秋の曇り模様の天候はとうとう雨になった。雨が激しくなり途中から退散した。汗と雨に濡れたが、素晴らし場所に佇む小沼神社を探索できて満足な一日となった。

後に仁王像を制作した皆川氏と懇談した。今回はケヤキ材で約1tの重さがあったという。重福寺のように平場と異なり、今回の仁王門は急峻な山の中、現場まで運ぶのが大変だったらしい。急な登りの参道、狭い仁王門へ安置されるまで時間がかかったことがみてとれる。今回も製作に約1年半かかったという。阿形、吽形像は仁王門に安置でその役目が果たされる。








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