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黙とう一人の震災の日

2013年03月14日 | 足跡
3月11日午後14:46JR京葉線の電車の中にいた。東京発14:33発快速蘇我行。一週間ほど前から大荒れの秋田の天候、3月10日過ぎには回復するだろうと決めて房総、館山行を決めていた。友人のS氏がA新聞館山支局を最後に退職するというのである。

S氏とのつき合いの始まりは、減反が始まった昭和46ごろからだったから40数年となる。秋田を離れ、札幌や本社、パリ支局、日曜版編集長時代も良くハガキや手紙が届いた。S氏の退職が館山市だったのが何かの因縁で館山市訪問は2回目だった。

氏と約束したのは両方の日程に合わせて決めたのが3月11日だった。約束日があの「東日本大震災の日」だったのを決めてから気づいた。気づいた時からあの14:46のときどこにいるのだろうと気になっていた。近年あまり上京することのない自分にとって、あの喧騒の東京駅は大の苦手。
まして京葉線か総武線への乗り換えなどどちらへ行くのかも想像しても浮かんでこない。
標識通りでいいのだといっても慣れない駅構内ではどうしようもない。などと思っていた。

3月11日、京葉線午後14:33発蘇我行にやっとのことで滑り込んだのは発車寸前だった。
幸い座ることができたが、例の14:46はどこを通過するのか気になっていた。
14:33定刻に発車した電車が14:46に舞浜着であることは座ってから気づいた。
八丁掘、越中島、潮見、新木場、葛西臨海公園で車両内の乗客数は約60人ほどだった。座席前の二人の会社員はしきりに話し込んでいる。女子高生は携帯。マスクの主婦は居眠りか。
全体を見回してもほとんど無表情。

いよいよ舞浜着14:46私は姿勢を正し、合掌黙とうした。黙とう中あのものすごい揺れと激しい津波、福島第一原発の爆発などを連想して目頭が熱くなった。あれから二年経過しても315,000人もの仮設住まい、原発事故で指定された区域外に避難した人は113,000人と言われている。

黙祷の時間が過ぎあたりを見回して驚いた。誰一人黙とうのそぶりがなかった。
いつ震災前の生活に戻れるのか想像つかない。戻れない人は何万人いるのだろうか。誰もわからない。神戸大震災と比較にならない位大きな被害。たった二年目で人々の記憶から震災被害の意識が消えつつあるのだろうか。

振り返れば車内放送もなかった。昨年の一周年には各JRは車内放送で追悼したと聞くが二年目となればこうも変わってしまうのか。

「皆さん、福島原発からは計り知れない放射能の垂れ流しが続いていますよ」叫びそうになった。

2013年3月11日14:46電車は京葉線舞浜駅通過。
多くの人々からありふれた「絆」などとの言葉の消えてしまったのではないか。それとも先行へ展望を見いだせそうもない社会情勢への沈黙だろうか。

2013.3.11.14:33東京駅発京葉線蘇我行き 沈黙の車両風景



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