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川連 三大絵師・画人 続 「源尚元」

2020年02月11日 | 村の歴史

源尚元 源光 後藤彦四郎? 天保11年~明治後期(1840~19--?)                    

江戸後期の絵師、源尚元の生没年は今までほとんどわからないできた。前回の「川連 江戸の絵師 1 源尚元」の後、「ニザエモン」宅から新しい掛軸「十三仏」に「源尚元行歳六十一画」とあった。絵師が描いた絵に年齢を記しているのは少ない。この「十三仏」は私が拝見できた源尚元の絵の中で特筆すべき輝きに見えた。さらに自家から一点、発見できたので前回の「川連 江戸の絵師 1 源尚元」、「続 源尚元」として紹介してみる。

十三仏の軸の裏側に明治34年7月吉日とあった。換算してみると明治34年(1901)61歳の生年月日は天保11年(1840)であることが分かった。前回のブログで「後藤逸女」と「源尚元」の軸に逸女62歳とあり逸女の62歳は明治8年、源尚元36歳となる。

                          十三仏 源尚元 61歳 明治34年7月吉日

十三仏(じゅうさんぶつ)は、十王をもとにして、江戸時代になってから日本で考えられた、冥界の審理に関わる十三の仏、正確には(仏陀と菩薩)。また十三回の追善供養(初七日~三十三回忌)をそれぞれ司る仏様としても知られ、主に掛軸にした絵を、法要をはじめあらゆる仏事に飾る風習が伝えられる。十三仏とは、閻魔王を初めとする冥途の裁判官である十王と、その後の審理(七回忌・十三回忌・三十三回忌)を司る裁判官の本地とされる仏。(ウィキペディア引用)

十三仏は現在もお盆や年回法要等に使われている。

養蚕の作業図        

                                       養蚕作業

この軸はわが家の掛け軸。絵には猫が描かれている。この軸には源尚元の落款だけで号は書かれていない。養蚕農家は、実に大切に手をかけて蚕を飼育していた。そんな中で、ネズミに蚕を食い荒らさられる被害に悩まされた。天敵の猫を飼って防御にしたことから作業風景の軸に猫が描かれた。各地の養蚕神社には狛猫が鎮座している。この軸の猫はそのことをあらわしている。この軸は前回も見てきた軸と何か趣が違うに思える。

ウカオノミタマノカミ(宇迦之御魂神)は伏見稲荷大社を総本社とする稲荷神社のご祭神で豊穣の神として有名です。そんなお稲荷様とも ...ウカオノミタマノカミ(宇迦之御魂神)という神様は女神ともされる説が多くある。

前回ブログの画と、この2点の軸を比較して少し相違点があるように見える。源尚元の描画にはより緻密さが加わり、養蚕作業画には写実に近い。我が家では江戸後期から明治後期まで「染物」業をしていた。養蚕は昭和20年(1945)代まで続いていた。源尚元の掛軸は前回ブログ紹介の「養蚕大神」と今回の「養蚕作業」の二軸は大切にしてきた。「養蚕作業」画に号は無く落款だけ、イメージとしての源光(源尚元)描画と違うように見えていたので見逃していた。今回改めて落款を注視、かすかに「尚元」とあった。

源尚元は明治34年(1901)61歳「十三仏」の軸を描いたころは、日清戦争(1894)と日露戦争(1904)へと突っ込んでいった端境期である。日本は明治33年(1900)北清事変で出費が大きく、日清戦争後の戦勝ブームで企業勃興が相次いだが、一方では株価が暴落、倒産企業も続出し資本主義恐慌に陥っていた。さらに明治35年(1902)の「足尾台風」はこの地に甚大な被害をもたらした。そして日露戦争に突入した。日露戦争前後、源尚元は北海道に渡ったと思われる。その後の状況を知る人はいない。

前回のぶろぐ発表のあと二つの軸が見つかり源尚元の生年、天保11年(1840)が判明したので「川連 江戸の絵師 1 続「源尚元」とした。次回は「川連 江戸の絵師 2 滕亮昌」を予定だが「川連 江戸の絵師」のタイトルは、「川連 江戸期、明治の絵師」とすべきかもしれない。

次回の「滕亮昌」は貞享元年(1684)生まれ、源尚元より約156年前に生まれ、同じ集落で活躍し源尚元にも影響を与えた絵師。

 


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