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農の祭典「第137回秋田県種苗交換会」

2014年11月11日 | 足跡
第137回県種苗交換会が男鹿市で開かれた。恒例の如く農機会社の招待で出向いた。高速道路の湯沢から横手道から秋田道で昭和・男鹿半島インターで降り、開催地の男鹿市の会場まで約2時間半のマイクロバス。

秋田県内はもとより、岩手、宮城、山形、遠く新潟ナンバーのマイクロバスが並ぶ農機具展示会場。海のない内陸から海端での農機具展示会場へ、「農機と海」の珍しい風景。米の概算金暴落の中でもトラクター、コンバイン、田植機の実演等にいつもと変わらない人だかり。精一杯説明を聞きながらも「今年の米の値段では手が出ない」と自嘲気味の言葉を吐く参加者の象徴される交換会農機具会場だった。主会場で農産物が出品展示されている男鹿市総合体育館までシャトルバスで約30分かかるという。ごった返す観客で帰途の時間まで十分な時間がなく今回はあきらめた。


海の側の農機具会場 2014.11.1 男鹿市

種苗交換会の柱は「農産物の出品・審査」と「談話会」といわれている。今から19年前の平成7年第118回種苗交換会は横手市で開かれたときのテーマは「転換期に対応する水田農業の確立」だった。全県から10名参加で工藤東北大助教授の司会で意見交換した。JA稲川有機米研究会として参加したことは忘れられない。まだ有機の呼び名が市民権を得てない時代だった。

秋田県種苗交換会史が「明治編」・「大正・昭和編」・「昭和編(2)・百年の歴史」・「昭和編(3)・平成編」がある。平成9年(1997)の第120回まで記録されている、「昭和編(3)・平成編」は800ページにもなる大作で、各年度の農産物の受賞者や談話会の記録が記録されている。

10月30日から一週間に渡って開かれた今年の第137回県種苗交換会に85万人が足を運んだという。毎年この時期に開かれる種苗交換会は秋田の風物詩、交換会が終わると冬が到来する。

参考文献として種苗交換会の歴史がJA秋田中央会より刊行されている。貴重な文献なので以下に引用し紹介する。

『明治11年(1878年)9月、県勧業課長樋田魯一が主催して、秋田市の浄願寺を会場に第1回の勧業会議が開催された。

当時県庁職員であった石川理紀之助翁は、その会議の推進役となり第2回目からは幹事に就任している。 この会議に出席したのは、農事に堪能な、民間から選ばれた45人の勧業係員で、その際、由利郡平沢の佐藤九十郎か『種子交換会の趣意の見込書』が提議され、これを樋田会頭が採用、歴史的な種苗交換会の発端となった。

同15年からは、技術・経営情報の交換を主とする勧業会議(勧業談会・現在の談話会の前身)と種子交換会を合体して、名実ともに「秋田県種苗交換会」と呼称された。この間、明治12年、県は地域指導に当たった4老農、大館の岩沢太治兵衛、秋田の長谷川謙造、雄勝の高橋正作、湯沢の糸井茂助を勧業ご用係に任命。翌13年には「夫れ道を学ぶに友なかるべからず。・・・」の趣意で始まる歴観農話連が設立され石川理紀之助翁が催主(会頭)となっている。

明治19・20年は、県主催による開催があやぶまれ、また22年も休会となるところを、歴観農話連が後援し、同連の会員が各々私費を投じて交換会を存続させている。こうした結果、種苗交換会は日清・日露・太平洋戦争中といえども一度も休会することなく136回目を数えるに至っているのである。

この継続の精神こそ、秋田の「農の心と技」を、「話し合い・ふれあい・助けあい」の3心によって広めようとする熱意に他ならない。

思いおこしてみても、数里先の隣村、農家同士の交流もない閉鎖社会というのが、明治初期の県内農村の実情であった。これをお互い公開し、話し合い、見せあうことを強く進めたのが石川理紀之助翁、森川源三郎翁で、歴観農話連の同志もこれをバックアップしたのだった。
明治33年(1900年)、県農会が法定設立され、種苗交換会の主催者は全面的に、県から県農会へ移管されることになった。交換会会頭は、小西文之進、小山巳熊、と代わり、同41年から斉藤宇一郎翁に引き継がれた。談話会員からの要望を入れて、地方開催に踏み切ったのは、明治42年からのことである。

これが現在まで忠実に順を逐って開催される端緒となり、このあと池田亀治、佐藤維一郎に次いで片野重脩が会頭となり、新穀感謝祭がとり行われている。時代は下って、太平洋戦争後の混乱期に農業団体の再編とその育成に尽力した武田謙三は、種苗交換会の継続にも意を注いだ。やがて、民主化された県内農協の新生・再建への礎を築いた長谷山行毅会頭の下で、農業(事)功労者表彰、交換会史の編纂がなされている。

こうして主催者は、県及び農話連から明治34年に県農会、昭和19年に県農業会、昭和23年に県生産農協連、同29年からは県農協中央会とかわり、開催地も秋田市~北秋田~平鹿~山本~仙北~鹿角~南秋田~雄勝~由利とほぼ10年ごとにめぐってくるようになったわけである。

種苗交換会では、明治13年からの審査を加えて農産物の展示・交換が、今日にまで延々と継続されている。水稲・畑作物・及び工芸作物・果樹・野菜・花き・農林園芸加工品・畜産品及び飼料・林産品の区分で出品、選賞を行っている。また主要行事である談話会は、県内農家の実践者で構成され、その体験や意見発表を通し、本県農業の振興や農家生活の向上、農協運動の発展に大きく寄与してきた。例年、新穀感謝農民祭とともに開幕し、農業功労者の表彰と農産物の審査発表が行われる。会期末には交換会関係者(談話会員,JA役職員)の物故者追悼会が営まれて、最終日の褒賞授与式によって閉幕している。

歴史と伝統を誇る種苗交換会を語るとき忘れてならないのが、石川理紀之助翁と森川源三郎翁、斉藤宇一郎翁の3大人である。種苗交換会の開催にあたり、私達は先人の偉業を讃え、これを現代に生かさなければならない。

交換会のサブタイトルになっている「先人に学び農業の未来をひらく」という言葉は、ここからきているのである』。

長文を引用した。秋田の農民はこの種苗交換会で一年の農の作業終了を迎える。当然畜産は毎日の作業、りんごの収穫は最盛期、ハウスの作業は続くので一年の終わりとは言えないが、稲作中心にみれば作業はほとんど終わりとなり雪の季節に向かう。4月の消費税導入から雲行きが怪しい経済情勢の中で、衝撃的な米の暴落概算価格で顔色がさえない晩秋となった。今日知人の来宅があった。話の中で「来年から稲作を他の人に委託することにした」という。

田圃からリタイヤが広まっている。このままで進めば国産の食べ物は一部の人にしか手に入らなくなるのかもしれない。農家は自分が食べる分は可能な限り作りつづける。



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