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麓と上野の「観音講」

2018年03月08日 | 村の歴史

川連集落には麓と上野に二つの観音様があって、観音講行事は現在も続いている。麓は行政区が二つになっており麓の2地区の有志が中心になって構成されている。班編成で毎年5月上旬に開かれている。麓の観音講を「岩清水の観音様」と敬意を込めて呼ばれている。しかし現在の岩清水神社に祀られている本尊は観音像とは違うようだ。本尊は約30㎝程の石の像で右手に宝剣、左手の宝珠らしきもの持った立居姿の像になっている。前回のぶろぐ「麓の子安観音」考で「子安観音」は、この神社にあったものを何らかの事情でが移動されたと書いた。現在ある本尊はそのことと関係あるものと推察されるが詳細は不明だ。

昭和21年観音講の始まり申し合わせ

「岩清水」は歴史が古く、朝廷が源頼義・その息子義家の軍勢を送り込んで、奥羽を完全支配しようとした「前九年、後三年の役」の時代に、源義家によって発見されたと語り継がれている。その清水は1000年近く枯れるれこともなく湧き出ている。清水のすぐそばに神社が建てられ岩清水神社と呼ばれている。この小祠がいつの時代からあったのかは不明。現在のお堂の屋根改修は昭和33年、49年に行われている。

祭典当日朝の掃除、準備 平成22年5月5日

この清水は枯れなることがない。かつて下流の田んぼはこの水源を頼りにして耕作していた。
旧稲川町が現在地「平城」に役場庁舎を建てた昭和52年頃、この地の地下水は飲み水に適さず当局は「岩清水」の水を役場庁舎にとの計画があった。圃場整備が進んでいた時期だったが山際の田んぼは沢水が主流であったため、役場庁舎に集められた耕作者の賛同を得ることができなかった。今でも名水としての評価されている。

1000年近く枯れることのない「岩清水」は霊験豊かで「岩清水神社」は「乳神様」又「乳仏様」としても地域では崇められてきた。鬱蒼としたこの場所の杉は戦後伐採され、なだらかな傾斜面は冬季はスキーなどの遊び場になっていた。スキー等で怪我しないようにとこの場所に来ると安全を願って「岩清水神社」を拝礼することの決まりがあった。

この「岩清水神社」は神社の呼び名ではなく、古くから岩清水の「観音様」と呼ばれ「乳神」、「乳神観音」として定着していた。「乳神観音」としてのお堂には願祈成就の「おはたし」に、多くの布で作った乳房型を奉納されていた。かつて飢饉で食べ物が制限され栄養不足で多くの人が亡くなった時代から母乳の出が良くないことは乳児の死を意味した。お参には「母乳の出がよくなるように、あるいは安産を願い、あるいは乳の病気の平癒」を祈る形で多くの女性たちの参拝があり地元はもちろん雄勝、平鹿郡や遠く東京都と書い乳型が奉納されていた。

「観音様とは観音菩薩のこと、観音菩薩とは阿弥陀仏の慈悲を象徴する菩薩。「観音」とは「世の音を観る」ということで、衆生の苦悩の声を聞く」という意味。人々の憂い嘆きの声に耳を傾け、相手の苦しみに「わかる。わかる」と共感し、ただ聞くそれが「観音」という意味」とある。一般に「子安観音の信仰は、中国の慈母観音の影響を受けたといわれ、幼児を抱いた慈母の姿で、西日本に多く、堂または神社の形をとって祀られている。これに対して子安地蔵は路傍の石像が多く、東日本に多く見られる」という。(世界宗教大事典)

現在、岩清水の観音さんと呼ばれながらご本尊は観音像とは明らかに違っている。前回のブログで触れた「子安観音」(マリア観音)はかつてここにあったといわれているが、現在知っている人はいない。一般的に昔から神様の御神体は見てはならないとしてきた。見たら目がつぶれる、罰が当たる、御守の御利益がなくなってしまうというようにいわれてきた。このことから多くの人はご神体、ご本尊に関心を示さないできたことがもしかしたら背景にあるのだといえる。例えば京都の石清水八幡宮のご神体について『八幡愚童訓』「神躰事」は「右垂迹の実躰におきては、神道幽玄にして、凡夫不浄の眼にて奉見事なければ、伝書に不及」。とある。礼拝対象の仏像やキリストやマリア像が見えるように祀られているの教会等とは違っている。

現在も続けられている「麓の観音講」は昭和21年秋に企画され麓2組を中心に栗林雄一、後藤安太郎氏を世話人に選び20名で始った。昭和22年旧3月18に観音講として祀りが行われた。発起人は30,40歳代が中心でその上の世代の名は記録にはない。昭和36年度の講中加入者は32名の記録がある。「浜崎サンタ・マリア館長」の言うように長い年月の中で「子安観音」、「乳神様」又「乳仏様」として受け継がれて「マリア観音」は変容を繰り返しの中で埋没してしまったのかもしれない。

昭和21年敗戦後に始まった「観音講」は村づくりへの大きな支えだったに違いがない。講中参加者の変遷があり現在は20名で構成、二人一組交代で約70年「観音講」行事が続いている。現在の講の構成20名は昭和21年の開始時の2世、3世代に移って続けられている。さらに昭和50年ごろから、塔婆に鎮座している寛政6年(1794)建立の庚申塔、23夜塔、さらに関係者中心で祀っていた報徳記念碑等が合同で祀りが行われるようになった。

庚申供養塔他

昭和22年第一回から現在まで約70年の「観音講」行事は年番、開催日、参加者、祭典経費等記録した「岩清水神社祭典宿巡番帳」に詳しい。行事が終わると次年度の担当者へと引き継がれる。講の直会は近年生活様式の変化等で個人の家では対応が難しくなり、約10年前から集会所で行われている。



上野の「観音講」は毎年4月下旬に開かれている。主役は子供達。上野は対象が全戸の37戸が対象、当番の家を中心に講が続いている。講は一軒の家を中心に班で構成、37年で一回回ってくる決まりのようだ。
「子安観音」は集落から400m程離れ通称「鹿野滝沢」の岩の窪みに鎮座している。

上野 子安観音 写真は仙北市渓風小舎さんからの引用


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