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地震、大火、北の黒船と大館村

2018年12月21日 | 村の歴史

「象潟地震、江戸の大火、北の黒船と大館村」は、寛政拾年(1798)二月から天保十一年(1840)二月までの大館村麓、肝煎喜右ヱ門の記録(覚書)。昭和42年3月発行 「稲川町史 史料集 第三集 小松久編」で紹介された。寛政拾年以降 (一)覚書 川連 高橋喜右ヱ門氏蔵とある。その覚書から象潟地震、江戸の大火、松前藩択捉島ヘロシア帝国侵入を追ってみた。

稲川町史 史料集 第三集 小松久編 「寛政拾年以降 (一)覚書 川連 高橋喜右ヱ門氏蔵」

象潟地震について

「文化元年甲子年より中だんひるなり、同元年子年六月四日よる4ツ半頃に大地震なり、五日には暮六つには地震、六日には朝六つには地震。三日之間〇〇やめずにゆるなり、近国大きに家蔵揺り崩れ、庄内三百と坂田(酒田)家蔵大きにひきつぶれ、志を越(塩越)かんまん寺大寺もひきつぶれ、かた(潟)も島もゆれ候、近国他国大きそふとう(相当)なり、坂田志を越に而(しかも)人を死事数不知なり、同六月廿七日朝六つになり一天かけくもりらい(雷)なり大雨ふり、大水出るなり、雨の間には日之暑気なり同七月廿六日大風に而大きに萬物をからす、同年八月十五日御榊杉と申て太さ九ひろ三尺誠にまれなる大木なり、同十五日七ッ時より焼け始る十六日五ツ時焼け失なり」。

象潟地震は、江戸時代後期、文化元年6月4日夜四ツ時(1804年7月10日22時頃)に出羽国を中心として発生した津波を伴った大地震である。松尾芭蕉らにより「東の松島 西の象潟」と評され、「俤(おもかげ)松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふが如く、象潟は憾む(うらむ)が如し。寂しさに悲しみを加へて、地勢 魂を悩ますに似たり。」と形容。松尾芭蕉が象潟を訪れたのは象潟地震の115年前の元禄二年六月。

「由利郡、飽海郡、田川郡で特に被害が著しく、本荘城では櫓、門、塀、石垣が大破し、本荘藩、庄内藩領内周辺では潰家5500軒余(内本荘領1770軒、庄内領2826軒)、死者366人(内本荘領161人、庄内領150人)の被害となり、幕府は本荘藩主六郷政速に金2千両を貸与した(『文化日記』)。象潟(現・にかほ市象潟地区)、遊佐(現・遊佐町)、酒田などでは地割れ、液状化現象による噴砂が見られ、象潟、遊佐付近では家屋の倒壊率が70%に達した」。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

覚書に「志を越(塩越)かんまん寺大寺もひきつぶれ」とある。調べてみると塩越は象潟の塩越村、潰屋389棟、死者69名と非常に大きな被害を受けた。羽黒山では灯籠が倒れ、「宝暦現来集」によれば蚶満寺は大寺であるが1丈余も震込んで砂に埋ったとある。

象潟地震前の塩越湊 蚶満寺(中央左) 象潟郷土資料館 ジオラマ  2018.12.21

 八月十五日焼けた御榊杉は八幡神社だろうか。九ひろ三尺の太さは巨大な大杉。ひとひろ 両手を伸ばし指先から指先までの長さ。通常は1尋=6尺。明治時代に1尺=(10/33)メートルとされたので1尋は約1.818メートルということになるので、御榊杉は胴回りが17メートル強の太さとなる。落雷があったのかその他の原因があったのか覚書には記されてはいない。

江戸の大火

文化三年(1806)の江戸の大火が記されている。文化の大火は江戸三大大火に数えられ芝で出火し浅草方面までを焼きつくしたと言われている。 

「文化三年 ひのえ寅年正月三日星をちるひなり、同三月江戸大きニ焼けるなり諸大名方之屋敷無残四里四方焼ける、人死壱萬三千人御仰被成候、 仍而 尾形様は六月御登被成候 同歳大館村山王様御堂建立致候、同五月八幡様うがい石惣に而寄進」

「人死壱萬三千人御仰被成候」と記されているが、調べてみると死者は1200人、焼失家屋12万6000戸と言われている。江戸に八カ所御救小屋を建て炊き出しを始め、約11万人以上の被災者に御救米銭(支援金)を奉行所が与えた。尾形様は6月に江戸に登ったとある。殿様の御登に相応の負担が課せられたものとおもわれる。大舘に山王様御堂建立、5月に八幡神社にうがい石寄進、手洗石のことだろうか。 

松前国(北海道)に北の黒船

「文化四年卯年五月松前国へどじん赤人陳舟移多見へ候とて、秋田、仙台隣国大名衆外に会津様対陣大しやうと志る。御国横手湯沢御侍久保田迄ニ而も御話は横手杯之御侍具足、武具求候迄百姓迄大きニ難儀致候、其時百姓馬疋杯仰せ付られ迷惑至極致候。同年八月三日八幡宮末社まで焼け疾申候。就ハ四日より一五日限ニ建立致候、宝物迄多く焼申候、隣郷奉賀受」

文化四年の記述。1806年ロシア軍艦は9ヶ月間択捉島、樺太の各地を襲撃し日本人を連行し食料や水を強奪の海賊行為を行った。その残忍性を発揮拉致した日本人を陰惨な方法で虐殺して海に遺棄した。野蛮なロシア人を覚書には「どじん赤人」と記されている。松前藩が幕府へ北方四島を自藩領として申告したのは正保元年(1644)「正保御国絵図」にクナシリ、エトロフなどの島名を明記した。

「文化露寇(ぶんかろこう)は、文化3年(1806年)と文化4年(1807年)にロシア帝国から日本へ派遣された外交使節だったニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件。1807年(文化4年)、ロシアの武装船が択捉島に上陸し、幕府の建物を焼き払い、物品を奪い、利尻島では幕府の船に火を放つ事件を起こした。急を聞いた幕府は久保田、仙台、津軽、南部の奥羽4藩に蝦夷地警備を命じました。久保田藩には5月24日、松前函館奉行所から「東蝦夷地の内エトロフ島へ異国の大船二艘来候」(以上原文のまま)国後島へも寄り着き、争乱を企てる形勢があるので加勢をお願いするとの急報が入った」。

現在、秋田県立図書館所蔵「松前御加勢日記」などによると、久保田藩は即時出陣の用意を整え、翌5月25日に、第一陣として、陣場奉行金易右衛門ほか369人が久保田を出発し、檜山、大館、碇ケ関を経て、津軽三廐から海を渡り6月10日函館に入った。  独立行政法人 北方領土問題対策協会ホームページ引用

江戸幕府はロシア帝国と戦争覚悟で、武力を用いて北方領土を死守した。覚書には「横手湯沢の御侍久保田まで具足(甲冑や鎧・兜の別称)武具、馬疋杯仰せ付られ百姓まで難儀迷惑至極」とある。領土を守るためにこの地からも応分の負担したことが記されている。

覚書に同年八月八幡宮末社の火災、宝物が多く焼失したことが記されている。

この覚書には文化、文政、天保の記述が続く。特に天保二年から十一年までの異常天候、飢饉について大館村の状況が詳細に記録されている。次回以降紹介したい。現在と違って約二百年前情報機関は発達していなかった時代。各藩の末端まで情報が届き、村の肝煎を中心に対応をさせられた。特に文化四年の露人襲来へ難儀、迷惑すごくいたし候とあることは痛々しい。


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