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川連城址散策記

2019年09月11日 | 村の歴史

川連城が築かれたのは源義家東征の「後三年の役」のころ、寛治年間(1089~1093)野武士の一団が国見山の中腹に城を築き始めた。当時奥羽一円に威勢を張っていた清原武衡、家衡の一党「梶美作守」が首領。当時陸奥に乱をなす清原一族の平定のため、朝廷の命を受けて東征してきた源義家の大軍に国見の堅城といわれた「梶美作守」の砦(川連城)が無残に敗れた。

廃城となった川連城に長い年月が流れ稲庭城に小野寺氏が居城する頃に、小野寺道基が川連城に居館して築城したとされる。「稲川今昔記 いなかわのむかしっこ」平成12年11月15日刊 佐藤公二郎著引用 

稲川町史昭和59年(1984)3月31日刊によれば「川連城は嘉慶二年(1388)に小野寺左京蔵人道兼・黒滝に城を築いて隠居すと「大舘村創村記」などに見える」。とある。「大舘村創村記」は、享保十六年(1731)川連村より「大舘村分郷」の中に記された一部で、筆者は加藤政貞。(高橋喜右衛門所蔵) 

「戦乱の後、豊臣秀吉の天下統一で太閤検地が天正18年(1590)仙北地方に発せられ、越後の太守、上杉景勝を検地奉行とし、大谷刑部小輔吉継を副使として仙北三郡の検地を10月から開始された。六郷で農民、武士の一揆が起こり、増田、川連等小野寺家の武士、農民ら2千余人が一揆に起こし城に籠ったが上杉景勝一万二千人の軍を率いてこれを討った。一説には川連城主を大将として一揆を起こしたともある。戦いは上杉勢の圧勝で終わり、その後最上義光勢が雄勝郡内に進出、小野寺氏の滅亡ともに川連城に春のよみがえことはなかった」。 稲川町史 引用 

「城郭は三つの郭群の連郭式で、北に五段の帯郭を成し、その南に比高5mで四段の帯郭群がある。この間は上幅五m、基底二mの空濠で遮断される。東に犬走、腰郭が認められる。主郭はこれに南接する東西三〇m、南北六〇mの平坦地で南東隅に二〇m四方の高台を持ち、神明社を祀る」。          

 川連城址城郭図(稲川町史引用) 文字注入筆者

この度、北側の通称「サンザェン(三左衛門)塔婆、マサエン(政右ヱ門)翁の記念碑、天神様のある場所から登る。

 

8月に途中のミズナラの「ナラ枯れ」被害木の伐採作業が行われ、比較的山道が登りやすい。

通称 穴門 

登り始めて間もなく地元で「穴門」と呼ばれているところにつく。古城址全体が約40度前後の山城。この場所は明らかに人の手でS字状に掘り下げられたものと分かる。この穴門は川連城への入り口とされている。

五段帯郭の北端

ミズナラ等の雑木林から間もなく、鬱蒼とした杉林に入ると三つの郭群からなる連郭式の城址、五段の帯郭にたどり着く。その上部の四段の帯郭、約600年前の全て人力作業の難儀さが伝わってくる。この帯郭の右側をさらに進むと約5m高さの四段の帯郭に着く。

 五段帯郭と四段帯郭

五段帯郭と四段帯郭の境目、写真の反対側が二mほど下がって「犬走り」が南側主郭の東側に続いている。ここから主郭まで道らしき姿が見えない。主郭の近くなのでまっすぐに進むこともできる。また四段の帯郭を進むことも可能だ。帯郭の段差はせいぜい二mに満たない。

主郭は東西三十m、南北六十mの平坦地、高さ約五mの南東隅に約二十m四方の高台があって現在神明社がまつられている。

 主郭 

神明社は昭和五十年代の周囲の杉が小さく、集落からもよく見えたが強風で東の呻沢に吹き飛ばされてしまった。現在の神明社は四〇数年前再建されたものだ。呻沢の水の流れは主郭、神明社の高台から約五〇m下にある。沢の上流、水源地付近の湧き水を川連城の主郭に水を持ってきていた。現在では周りの雑木が繁茂し、その水路の跡は見えないが40年ほど前だとはっきりと等高線沿いに水路の形跡は見られた。呻沢は四〇度近い急傾斜、斜面には城址特有のシャガがびっしりと群生している。シャガは川連城隆盛の時代からの植生かもしれない。

主郭から高台の南側に空掘りがある。千本杉の地名がありかつては南西の方角あった三梨城の方向まで道筋があった。享保一六年(1731)の川連村古図には城正面の西側の集落から急坂な道筋が見える。

呻沢は「うなりさわ」という。小野寺道高が戦死した際、その首がうなりを発して転々と沢に落ちていったというところからウナリ沢の地名が生まれたといわれる。国見岳と鍋釣山の間の沢は内沢といい、最深部は集落から3㌔ほどを「オヤシキ」、綱取に「エボシクラサワ」、中心部に「マンゲノコヤ」等呼び名の地名が残っている。この名からかすかに中世の趣が感じられる。

神明社とシャガの群生

神明社に狛狐、一般的には狛狐は稲荷神社が主ともいわれている。地元では川連城址の神社は稲荷大明神社との言い伝えもある。稲川広報の昭和54年3月10号、町の歴史と文化 城下町・川連㈥には通称森コの「明神様、稲荷神社と川連城址の明神様とはご姉妹」との説もある。

神明社 狛狐

神明と字が逆な明神は違いを調べてみると次のような解説があった。「日本の神道の神格一般を指す言葉だが、神明は特にその中でも天照大神をさす」。神明系(天照大神・豊受大神が主祭神)と明神系(神仏習合による仏教用語で神々に対する称号がはじまり。古代は「大神」)とあった。

稲荷神社の狛狐のくわえているものは五穀豊穣を願う稲穂、巻物は知恵の象徴、鍵は米蔵の鍵、玉は宝珠等の4種類といわれる。神明社の狛狐のくわえているものはこれらの⒋種類以外のものに見える。くわえているものを神社関係者等に聞いても今のところ分かっていない。 諸説はあるが川連城の落城は天正19年4月、その後江戸時代のいつ頃神明社が建立されたのか、狛狐のくわえものにこめられた大きな意味があるありはしないか等々興味が尽きない。

国土地理院の地理院地図によれば、川連城址内沢林道の入り口が標高176.7m、穴門付近が209m。五段の帯郭付近が280m、主郭の平らな場所は296m、高台が303mとなっている。住宅ある場所から高低差約120mで主郭部に着く。五段の帯郭、四段の帯郭部、さらに城郭を囲む急斜面は鬱蒼とした杉林になっている。帯郭付近にはびっしりと見事なミズが群生している。

この場所は湯沢市稲川庁舎から直線距離でせいぜい2kmほどの場所。住宅地に近いのだが訪れる人はほとんどいない。鬱蒼とした杉林に囲まれた城址はいつも静まりかえっている。あまりの静寂さに現実から超越した空間さを感じる。ネット検索してみたら秋田県のお薦め中世城郭二〇選に選んでいる方がいた。またユーチューブで平成17年5月10日作成、散策の川連城跡の動画の投稿があった。下記をクリックすると観られる。

https://www.youtube.com/watch?v=uxd-rAiezes

ミズナラ等の雑木林を抜け、杉林に入ると数年前から放置されていた倒木を今回チェンソーで払いのけながら進んだ。途中チェンソーのトラブルで主郭までの倒木整理はできなかった。五段の帯郭をすぎ四段の帯郭付近にはまだ倒木がある。主郭までの歩道の整備は次回の機会に終えたい。

※川連城の築城、小野寺の時代の構築に年月、城主名に資料によって異説がある。      

     


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