2023年1月20日(金)
生石高原にある生石ヶ峰は、淳仁天皇の墓です。
その墓の石室は、淳仁天皇の生母である当麻山背(たいまのやましろ)の墓に向けて造営されていました。
それらの点を結んだら星の形が浮かび上がりました。
淳仁天皇の墓と、淳仁の父である舎人親王の墓と不動七重滝は、正三角形を描きます。
2023年1月20日(金)
生石高原にある生石ヶ峰は、淳仁天皇の墓です。
その墓の石室は、淳仁天皇の生母である当麻山背(たいまのやましろ)の墓に向けて造営されていました。
それらの点を結んだら星の形が浮かび上がりました。
淳仁天皇の墓と、淳仁の父である舎人親王の墓と不動七重滝は、正三角形を描きます。
2023年1月9日(月・祝)
淳仁天皇の墓から淳仁天皇陵までと淳仁の父である舎人親王の墓までとは二等辺三角形を描きます。
孝謙天皇の墓と淳仁天皇の墓と舎人親王の墓は一直線に並んでいます。
新年早々、空海コードは冴えていますよ~~!
2021年10月10日(日)
7日夜の首都圏直下、震度5強で、日暮里・舎人ライナーが緊急停止し脱輪のニュース。
このニュースは、私には舎人親王のメッセージと思えて仕方がない。
舎人親王は、日本書記の編纂に関わった藤原不比等と太安万侶との三人の一人である。
『舎人』・・の二文字を見て、「何と読むのだろう?」と一瞬思ってしまうのは私だけだろうか・・。
舎人親王の墓は、寺山(大阪府羽曳野市古市)です。行ける人は、どうぞ行ってあげてください。
2020年10月18日(日)
「十市皇女は、天武天皇の皇子との仲も噂されていたのよ」とも〇重さんは話していましたが、なんと! その事実も地理院地図上に残されていました。
噂の主は、キトラ古墳に眠る天武天皇の皇子の高一皇子でした。
十市皇女と高一皇子のロマンスは、『御破裂山』が語り継いでいますねぇ。
高一皇子の墓(キトラ古墳)と十市皇女の墓と御破裂山(ごはれつやま)は、二等辺三角形を描いています。
二人の仲は、御破裂したと・・。
・・
高一皇子の墓から十市皇女の墓と弘文天皇の墓と明星ヶ岳は一直線に並んでいます。(赤いライン)
高一皇子の墓は、天武天皇の墓からその子供たちである高一皇子、大津皇子、舎人親王と北西へ一直線に並んでいる。(青いライン)
2020年7月4日(土)
日本書記が世に出て1300年と言います。
日本書記編纂に関わった天武天皇 藤原不比等 太安万侶 舎人親王の4人が眠っている墓の位置には綺麗な関係性がありそうです。
天武天皇の墓である衣笠山から太安万侶の墓までと、舎人親王の墓である寺山までは、共に32㎞で二等辺三角形を描きます。
藤原不比等の墓と太安万侶の墓と舎人親王の墓は、直角三角形を描きます。
天武天皇の墓と藤原不比等の墓と秦河勝の墓は、ケプラー三角形を描きます。
又、イエス・キリストの墓と藤原不比等の墓と弘法大師廟の三点もケプラー三角形を描きます。
間違いなく先人達は、この大地に確かな遺言といえる足跡を刻んできます。
歴史の真実が表に出る時期はそう遠くはなさそうな気がしています。
2020年6月30日(火)
日本書記の編纂には、舎人親王と藤原不比等と太安万侶のお三方が深く関わっています。
私の頭の中には、舎人親王の墓の場所だけが抜け落ちていました。
不比等君はもう1300年の眠りからお目覚めになる御様子ですし、舎人親王のお墓にも手を合わせたいことでしょうから、舎人親王の墓所を探さねばなりません。
・・と言うことで昨日、事務所で久しぶりに午後3時過ぎから先ずは眠ってしまい、それからパソコンの地理院地図とにらめっこでした。
会社はキッチリ5時には終わり、夕食を行きつけの王将で済ませ、家に帰ってお風呂に入って・・、またまた眠りに眠ってからパソコンの地理院地図とニラメッコ。
そうすると・・、数分のうちに舎人親王が眠りに着いた場所が浮かび上がりました。
舎人親王は寺山(大阪府羽曳野市)にお眠りになられたということであります。
んん~~ん、これで間違いなく99点はもらえたのではないかと思いますが・・、まだ解かなければならないものが残っていますでしょうかねぇ。
もう岩が振動していましたからねぇ。飛び出した岩を靴のかかとで蹴ると、「ブルブル、ブルブル」と振動していましたからね。
何度も私の目の錯覚かと近づいて見て、又蹴って・・、目の錯覚でもありませんでしたよ。
不比等君も、もう早く出たがっている様子です。
ですから・・、舎人親王の墓の場所を特定しなければと真剣に昨日は・・、ネ ム リ ました。
だって、答えは向こうの世界にあるのですから・・。
そろそろ「開けごま~~~!」です。
2019年3月4日(月)
西院伽藍講堂の裏に、上御堂(かみのみどう)という建物があります。
奈良時代に、天武天皇の皇子である舎人親王の発願によって建てられたという説と、延長年間(923~930年)に京都にあった普明寺の堂社を移築して創建されたという説がある。
いずれにせよ、現在の建物は、鎌倉時代の再建である。
面白いのは、この建物の向きが、西院伽藍の建物の向きと微妙にづれているのだ。
建物の向きを合わせるということは、難しいことではないので、このづれは、意図的であると考えざるを得ない。
このお堂で拝むと、その先には、京都太秦にある、やはり聖徳太子ゆかりの寺である広隆寺に行きつくのだ。
しかも、この上御堂と広隆寺の本堂(上宮王院太子殿)をつないだラインは、広隆寺の参道を通って、まっすぐに本堂の正面に達する。
広隆寺の本尊、聖徳太子を正面から拝む形になっているのです。
そして広隆寺の参道に直角に西へとラインを伸ばすと、マリアの墓に行きつきます。
法隆寺、広隆寺 マリアの墓は、直角三角形を描くように建物や参道の配置も見事である。