実高ふれ愛隊で~す(^^)/
加賀市観光ボランティア大学第17回講座『加賀の白山信仰』で、伊林永幸先生(江沼地方史研究会)
から教えていただいたことをもとにレポートしています。
伊林先生は、実は加賀の人びとの「白山」を信仰する上での対象が、神から仏へと置き換えられた時代が
あったと話されました。そしてその時代とは、7~8世紀ころだったといいます。
538年、日本にはそれまでとは違う新しいタイプの宗教が朝鮮半島から伝えられます。
それが、仏教です。仏教が伝えられた最初の頃は、仏は、蕃神(となりのくにのかみ)として日本の神と
同列にあつかわれ、またその教えへの信仰は都を中心としたエリアに限られていました。
しかし、8世紀ころになると、仏教は急速に地方へと広がりをみせます。
このころは、国の公地公民制というしくみが崩れはじめ、地方を支配する豪族(リーダー)たちの性格が変化
し始めた時代です。それまで、地方を支配する豪族は、それぞれの共同体において神々をまつる
リーダーとして、地域の人々をまとめることができていました。しかし、土地の私有制がじわじわと浸透し
はじめると、豪族はこれまで以上に富を蓄積し、まわりの人びとに比べ経済的に優位に立つことで、
権力を維持する必要が出てきたと思われます。
豪族たちは、まわりの人たちよりも断然豊かにならなければ力を保てません。でも共同体の中で
自分だけが豊かになることには「罪の意識」もあったでしょうし、自分を正当化させる理屈も必要となりました。
ですから、豪族たちにとっては、従来から共同体にいる独自の神々をまつり、人びとをまとめるという発想
とは違う、新しい考え方が求められていたのでした。
そのような中で、日本に伝わった大乗仏教という教えには、「罪の救済が得られる」という考え方があって、
豪族たちにとって、とっても都合のいいものだったのでしょう。
このころ日本には、何人もの遊行僧があらわれ、全国を歩き回って仏教を広めたといいます。
白山を開山したという泰澄もそんな遊行僧の一人なのかもしれません。彼らは、それまで地方の人びとが
知らなかった新しくて呪術的な修行を行い、ときには人びとをビックリさせるような奇蹟も披露しました。
このような摩訶不思議な教えは、従来からある土着の神々のもつ霊験あらたかな力とも重なり合いました。
また富の蓄積や繁栄を肯定する性格ももちあわせていたことから、豪族やそのもとに生活する人々にとって、
受け入れられやすいものだったのかもしれません。
このようにして、7~8世紀には、古くからあった神々への信仰と仏への信仰が結びついていきました。
これを「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」というそうです。
そして、平安時代になると、神と仏の両方を信仰する意味を理論づける考え方も、学者たちの間で
確立していくことになりました。これを「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」といいます。