実高ふれ愛隊で~す(^^)/
加賀市観光ボランティア大学で勉強した『加賀の白山信仰』についてレポートさせていただいています。
奈良時代にあらわれた「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」という考え方は、平安時代に入って、
「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」へと発展していきます。
この本地垂迹説は、律令国家(「律」は人びとが「してはいけないこと」をまとめたきまり、
「令(りょう)」は「人びとがしなくてはならないきまり」、のことで、中国から導入され、7世紀の
終わり頃から8世紀の初めに整えられていきました)と貴族の保護で栄えた平安仏教の
学問的な仏教理論でした。そして、その内容は、「日本の神々は、実は仮の姿(垂迹神)にすぎず、
本当の姿は仏(本地仏)なのだ」という考え方でした。
そのため、「白山」の神々も、その本当の姿は仏であると説明されるようになっていきました。
すなわち、主峰の御前峰にいる神「イザナギ」の本当の姿は、「十一面観音」となり、大汝峰の神である
「オオクニヌシノミコト」は「阿弥陀如来」になりました。また別山の本地仏は、「聖観音菩薩
(しょうかんのんぼさつ)」とされました。
しかし、このような考え方は、あくまでも都にいる貴族や仏教界による考え方ですから、地元でくらす
加賀の人びとは、従来とほとんど変わらない態度で「白山」を信仰していたと考えられます。
この頃の加賀の人びとにとっては、神と仏の優劣など関係なく、また神仏の区別などもなかった
ようです。人びとの心には、普段の農耕生活の中で、今までと変わらぬ「水の神」「農業の神」
として「白山」は写っていたことでしょう。
「白山」は、中央の人びとの机の上での解釈とは別に、加賀の人たちにとって、いつも生活に
かかせない大切な存在だったのです。