実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

加賀百万石文化が作りあげた「九谷焼」

2013年05月17日 | 日記

隊員NO.5いくので~す(^_^)v

 

加賀市観光ボランティア大学第3回講座 「これであなたも九谷焼博士

-こだわりの人 吉田屋伝右衛門-」で、講師の石川県九谷焼美術館

副館長・中矢進一先生から教えていただいたことをもとにレポートします。

九谷焼」は、江戸時代わが国最大の外様大名であった加賀前田家が醸し出した

最高傑作です。

加賀藩3代藩主・前田利常(1596~1658年)は利家が56歳の時に生まれた

子供でした。利常子どものいなかった2代藩主・利長の養子となり、その後を

継ぎました。「武士の天下は回り持ち」といわれた時代、豊臣秀吉恩顧の大名で、

五大老の一人であった前田利家がつくった加賀藩120万石はいつも

徳川幕府によって警戒される立場でした。ですから、利常は徳川家の警戒を

解くため、とても苦心したといいます。

利常がわざわざ鼻毛を伸ばして「バカ殿様」を演じた話は有名ですよね。

かれは1639(寛永16)年、長男・光高に金沢80万石、次男・利次に富山10万石、

三男・利治大聖寺7万石を譲って、小松に隠居領をもうけて藩主の座を譲りました。

これも徳川幕府の警戒を解く作戦だったのでしょうね。

しかし、利常にはいつも徳川家に対する強い対抗心があったのです。武力でダメなら、

「文化で天下を取る!!」という意気込みで加賀文化の創出に力を入れました。

利常は、京都や江戸から当代一の名工を集め、金沢金工・金沢蒔絵を作りあげます。

またこの当時双璧といわれていた狩野派や琳派の絵師を集め、素晴らしい作品を

描かせました。さらに利常は茶道具への造詣が深く、鑑賞陶器にとても関心がありました。

長崎平戸のオランダ東インド会社を通じてオランダのデルフト焼きという陶器の注文をした

記録があるほどです。そして日本で最初に色絵磁器をつくったのが、

唐人・志いくわんから技術を学んだ肥前有田の初代柿右衛門ですが、

柿右衛門が作った作品を最初に購入したのも加賀藩・前田利常なのです(1647年)。

この当時中国では王朝の交替があり、明王朝から清王朝に替わりました。その政変により、

世界最大の磁器生産地であった「景徳鎮(けいとくちん)」の陶工たちは海外に

流出し廃れていました。そのため、日本の肥前有田焼がヨーロッパの人びとから一躍注目を

集めることになったのです。

「文化で天下を取る!!」という意気込みを持った利常は、当然色絵に関心を持ちました。

「できることなら、加賀の地で色絵磁器をつくって、世界を驚かせてやろう!」と考えた

だろうと想像できます。そんなとき、三男の大聖寺藩主・利治が金山開発を

進めていた九谷村で、陶石だけでなく、鉄・銅・マンガンなど絵の具の原料が採れることが

分かったのです。九谷の地で色絵磁器の生産が始まったのはその頃です。

古九谷窯が開かれたのは、今から約360年前の1655(明暦元)年のことでした。

古九谷の図柄には、当時の大名たちの間で流行していた最先端の意匠が施されています。

前田利常の「文化で天下を取る!!」という意気込みが九谷焼をはじめとする

加賀伝統工芸の源なのです!

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