きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

祝福を選ぶこと

2008年08月12日 | 羊の群れ
 今週はいつものカフェに集い、それぞれの礼拝メッセージを分かち合い、気になった点、わからないところを取り上げました。GNS礼拝の「ヤロブアムの道」では、救いを妨げるものとして5つの点を語られました。「世界観」、「生活習慣」、「罪」、そして「傷」。これらが私たちの内にある限り、そこに居座り続け、そこから私たちを唆し、それらを増長させようとする悪魔のRight to Stay(居住権)になってしまうということ。

 更に、霊の世界には中道(グレイゾーン)はなく、「祝福」か「災い」か、そのどちらかの選択しかないということを採り上げました。分かち合いの内に課題がありました。例えば、遅刻を繰り返してしまうのは、「怠惰」な罪ゆえの災いなのか? それとも「自力」から解放されるための「御声」なのか? という質問。いくつかの証しがされましたが、残念ながらはっきりした答えは得られなかったと思います。一方、もう一つの礼拝メッセージ中には、「反応ではなく対応を」 と語られました。これもまだ魂で消化中のため、今の段階では、明確な違いを文字にし難いのですが、一つの喩え話を聞きました。

 英国のある晩餐会でのこと。食卓に置かれた見事な銀細工の胡椒入れに心奪われ、出来心でポケットに入れてしまったチャーチル首相の側近がいました。セキュリティが近づき、事態を悟ったチャーチルは、ポケットを見せるように迫られる側近の前に出て、「どうやら私たちは見つかったらしいよ。」と言いながら、自分のポケットから銀の塩入れを取り出した、というお話。

 不名誉に対して叱責や切捨てなどの「反応」ではなく、悔いる心へ進ませるよう「対応」した、というのがその違いだそうです。その時、課題について思うことは、遅刻が災いか御声かを考えるよりも、すべきことを改めていく時、その答えを得られるのではないか、それが「対応」ではないか、ということです。救いを妨げるものの内、世界観はBeingの部分で、生活習慣はDoingです、と伺いました。BeingなしにDoingはなく、逆もまた然りです。「愛」は行動なしにはあり得ません。

行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。(ヤコブ2:17)

 キリスト者であっても、完全ではありません。救われた後でも罪を犯し、悪習に引きずられてしまうことがあります。しかし、その罪や悪習に気付き、確かに悔い改めることができれば、それは祝福の道へと変えられるのです。神様は身を持ち崩した放蕩息子(娘)であっても、決死の思いで戻ってきて赦しを乞う時、走りよって来て抱き寄せて下さる方なのですから。

御声部屋で、そんな神様の愛の大きさ、深さ、広さ、長さ、偉大さに触れてもらえれば、と思います。来週の火曜日はサウスベイへお越しください! 
〔写真は銀細工のカエル。(胡椒入れじゃありません)〕



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1 コメント

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英国は愛のツワモノぞろい (よかったさん)
2008-08-16 02:06:08
 チャーチルさんのお話、いいお話ですね。そこで、私の知っている、いいお話しをお分かちしたいと思います。

 英国に訪れていたある国の指導者のためにエリザベス女王が晩餐会を開きました。その晩餐会の席で、透明な液体が入った小さな銀の器が出されました。その指導者は、その銀の器を持ち上げ、飲み始めたのです。周りにいた人々は、びっくり!なぜなら、その器は、汚れた手を洗うために用意されたフィンガーボールと言うものだったからです。その時の晩餐会の空気は、一瞬でも緊張したものとなったでしょう。しかし、その後、周りにいた人々は、もっとびっくり!します。エリザベス女王が同様にそのフィンガーボールを持ち上げて、中の水を飲み干したのです。そして、何事もなかったかのように、その指導者に笑顔を向けて、晩餐会は続きました。

 小学校の道徳の教科書に「本当のエチケット」と言う題で載っていたお話ですが、私はエリザベス女王様にエチケット以上のものを感じました。
私たちは、どうしても相手の間違いを追及してしまいがちですが、本当の愛は、相手の弱さを補って余りあるものへと変えることができるのですね。

 私たちも、チャーチル首相やエリザベス女王のようなすばらしい愛をお手本として、本当の愛=イエス様の愛を身に着けていきましょう!
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