きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

「神は呼ばれた(וַיִּקְרָא)」

2016年09月05日 | 羊の声


全体で聖書を読むこと、それが今学んでいる『30分de一巻シリーズ』の目的。一つ一つの細かい解き明かしももちろん重要ですが、それらがどのように聖書全体のテーマに繋がっていくのか、それを掴んでこそ聖書の真髄です。特に旧約聖書は、長いし、ムツカシイし、訳わからない記述も多いし、イエス様の前のことだし、などなど敬遠される理由はたくさん。しかし、聖書は66巻すべてイエス様について書かれていて、金太郎飴のようにどこを切ってもイエス様を見ることができるのです。イエス様が出て来ないと思うのは、大きな間違い。旧約聖書を読む時、大切なことはイエス様の光に照らして読むこと。そして同時に、遥か昔のことと、あるいは遠い中東の一国のことと切り離さずに、今を生きる私にどう適応できるのかを念頭に置くこと。この二点が大切です。

闇雲に読むだけでは、深く暗い霧の中を小さな懐中電灯一つ手にして歩いているようなもの。目の前のことだけを見ていても真の姿はわかりません。つまり、限られたところしか照らさない私たちの知識や経験という手元の道具だけに頼っていても、全体像は見えて来ないのです。イエス・キリストという真の光に照らし出されてこそ、今いるところ、そして歩いて行く先が見えてきます。そのためには上を見上げること。神様の光は、圧倒的な輝きをもって、大きすぎて見ていなかった、しかしほんとうに大切なことをそこに照らし出して見せてくれます。






第一巻(創世記)、第二巻(出エジプト)同様に、第三巻のレビ記もまた、本来のタイトル、ヘブル語での最初の言葉にそのテーマを見ます。それは、「神は呼ばれた(וַיִּקְרָא)」。神様が呼んで、神の国への旅路を始めた民に、モーセを通して語られたこと。どうしたら神に近づくことができ、どのように神と歩むのか。礼拝を忘れてしまって奴隷と化した民に、何よりも大切な「礼拝」について、主ご自身が教えてくださっている神様の言葉なのです。

1-10章:どうしたら神様に近づくことができるのか?
11-24章:どうしたら神様と共に歩むことができるのか?
25-27章:礼拝することによって与えられる祝福の約束

どうしたら神に近づくことができるのか。これは献げものの規定として最初に記載があり、動物の生贄という現代では全く関係ないことのように読んでしまいます。が、「献げもの」とは、神様を礼拝する時に携えて来るもの=心。可愛がっている猫が時々贈り物を持って来ます。はっきり言って、迷惑極まりない贈り物なのですが、猫にとっては日頃の食事やケアに感謝を表す精一杯の恩返し。その気持ちを知ると受け取らざるを得ない、また可愛さが増すのは必至でしょう。神様もまた、その品やお金を受け取るのではありません。大切なのはその「心」です。

自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき霊的な礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。(ロマ12:1-2)

そして、どうしたら神と共に歩むことができるのか。これは「聖別」すること。ヘブル語では、賛美にもある「カドシュ(Kadosh)」で、本来の意味は「分離させる、取り分ける」。聖なる神と共に神の国に住む者として、神の絶対的聖を汚すことはゆるされることではなく、そのために日常生活においても、聖と俗(汚れたもの)とを峻別する指針が記されているのです。

あなたたちは自分自身を聖別して聖なる者となりなさい。(11:44)




しかしこの「聖別」は、人間の力で成し遂げること、続けることはできませんでした。命は命によってしか贖うことができません。だからイエス様は、十字架という究極の方法で全人類の救いを導かれたのです。そのイエス様も公生涯で仰った“最も大切な教え”もまたこのレビ記あります。

自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。(19:18)

少し前のメッセージでも聞きましたが、この直前には、「復讐するは我にあり」があります。さばきは神様がされます。私たち人間は、さばき合うのではなく、愛し合う存在として創られました。神様を愛し、人を愛する。それこそが神の御国であり、イエス様の光の中で見出せる“最も大切な教え”なのです。


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