アイ!サラマッポ in フィリピン & ジャパン!

‐Ay! Salamat sa Pilipinas at sa Japan!‐
 フィリピン、そして日本にありがとう!

浦島太郎?異邦人?まるで帰国子女のように…。Just like children who have returned from abroad

2015年03月12日 | フィリピン人看護師・ケアギヴァー

 日本で十分な介護者を確保できず、崖っぷちの状況でフィリピンに一時避難しようと、単身成田からマニラに渡ったのが16年前、1999年の今日だった。

ボーイング747旅客機(拙著『アイ!サラマッポ』表紙)

誰も知り合いのいない新天地へ飛び込んでいったのだから、決して楽なスタートではなかった。生きるのに必死だった。

 フィリピンで、日本人介護難民としての暮らしを15年ほど続けて、一時帰国した2013年5月の思いがけないアクシデント(大腿骨頚部骨折・Femoral neck fracture)から、フィリピンに戻れなくなってもうすぐ2年になろうとしている。
 生き得る可能性のある場所を求めて、金沢から和歌山へと移り一年間を過ごす。そして調布市へやって来て早8ヶ月。
 15年ぶりの日本での生活。大腿骨頚部骨折後は、20ヶ月余り、もがき、あがきながらも、新しいことにチャレンジし、何とか複雑な母国日本の社会に適応しようと必死に過ごした日々だった。
「日本は変わった…。」「居場所がない…。」「安らげない…。」
といった私の感覚は、きっと帰国子女が日本に抱く感覚と似ているのだろう。いつも「何とかしてフィリピンに帰りさえすれば…。」と希望を持ち続ける自分がいた。 

 そういえば、マニラへ渡った当初の自分の感覚が、日本で生き場を求めて試行錯誤を繰り返した、日本へ帰ってきてからのこの2年間と似たような感覚だったかもしれない。
「落ち着けない…。」「なじめない…。」「ヤバい…。」 

 今現在の私の感覚も、やはり普通の日本人の感覚とはズレがあるのだろう。
 例えば、先般厚労省が公表した「外国人介護人材受入れの在り方に関する検討会」の考え方(中間まとめ)にしても、フィリピンでの感覚を身につけた自分には理解するのが難しい。

 フィリピンでは、「私、今度サウジアラビアの病院へ…。」、「僕は、台湾の老人ホームに…。」、「私は、スイスの老婦人の家にステイ・インして介護を…。」といった様子が、日常茶飯事のようにあった。正規の雇用契約の下で、必要とされている所へ当たり前のように働きに行く。言葉の壁はあっても、そこは徐々にクリアされていく。そこに国家が介入して「待った!」をかける国は聞いたことがない。そういった環境の中に15年間も身を置いていたわけだから、感覚的にズレがあるのは仕方がない。いわば、日本に留まってもう2年になろうという今も、自分は「浦島太郎状態の異邦人」なのだろう。

 調布市の障がい福祉サービスを受けながら、ようやく生活が落ち着き始め、体調もボロボロだった昨年からみると、良い方向に向かっているように思う。

 選択肢の極めて少ない、管理され切った施設での生活を思い起こすにつれ、どういう選択もでき得るような「今」が、何ともかけがえのないものであることだけは確かだ。



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