昨秋逝った愛犬Run。
性別メス、享年17歳ぐらい(生後半年ほどでもらってきたので推定。正確なところは不詳)。
画像は3年前の3月。
Runなんて名前をつけたせいだかどうかはわからないが、小さいころから激情派で、何度も脱走を繰り返した彼女も、すでにこのときは目も見えず耳も(ほとんど)聞こえない状態だった。それなのに、何かを見て何かを聴いているようなこのときの姿がやけに愛らしかったのを覚えている。
そんな毎朝の散歩が長いあいだわたしの日課だった。
「お父さん犬飼いたい」
なんて子どもがねだるのはどこの家でもあること。御多分にもれず17年前の我が家にもそれはあり、当初はあまり気乗りしなかったわたしだが、「(いずれ死ぬ)生き物を飼うのも教育のうち」とかナントカ要らぬ理屈をつけて許可した。その際2人の娘につけた条件は、「必ず朝夕かわるがわる散歩に連れていくこと」。それも「教育の一環」だと、これまた要らぬ理屈で自らを納得させたはいいが、まさか17年も生きるなどとは、そのとき夢にも思わない。
時は経ち、娘たちは家から離れ、残されたのはわたしたち夫婦だけ。となると必然、犬の散歩はわたしたちがするしかない。朝はわたし、夕方は妻と、手分けしてつづけた結果、気がついてみるとわたしたちの方が娘たちよりずいぶん長い期間散歩をつづけたのは今となってはご愛嬌だ。
Runが逝ってから約半年。秋が過ぎ冬が過ぎ春がやってきたというのに、わが身はとんと季節を感じにくくなってしまった。
朝の空気、空の色、雲のかたち、川のせせらぎ、樹々の色あい。愛犬との朝の散歩中、それらに触れることで季節が変わっていくさまを肌で感じつつ一日をスタートさせていたことがウソのようだ。
独りですればよいではないか。
なんてことを思わぬでもない。いや何度も思ったが、そこはそれ、根っからが怠惰にできているわたしのことだ。出かけるまでには至らない。
今ごろ桜はどんなだろう。
各地から桜の便りを伝えるテレビニュースを見ながら、歩いて何分もかからぬ川畔の桜に思いをはせ、失ったルーティンのことを思う。
そういえば・・・
西谷川を背景に雨に濡れた花びらを撮ろうとして、カメラを構える手のもう一方の手が持つ綱の先の彼女がアッチへ行こうとしたりコッチへ行こうとしたりするものだから、何枚撮っても上手くいかなかったことなどを思い出す。
→『咲いた桜に』(2014.3.26)
春なのだ。
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