答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

もうひとつの〈2024年問題〉

2024年08月05日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

大事なことに気づいた

 のつづき

さて、そこでぼくは、とても大事なことに気づいてしまいました。
(というか、けっこう以前からもやもやとしていたことが、ハッキリと形をもって脳内にあらわれたというのが正しいのですけど)
ポイントはここです。

******
ところが、如何せん能力がない。いや、そうは認めたくないが、そう認めざるを得ない現実に、何度も天を仰いで嘆息したものです。しかし、あきらめ切れなかった。その経緯の一つひとつを詳らかにするほど覚えてはいないのですが、牛のように、ゆっくり歩いては立ち止まり、立ち止まってはまたゆっくり歩きをつづけているうちに、気がつけば、「なんとかまあまあ」というぐらいのレベルにはたどり着いたようです。ところがこれは、何より効率を重んじるビジネスの世界では非常によくない。〈時間対効果〉を指標にすれば、自慢げに語るような資格はまったくありません。
******


このような例は、ぼくのようないささか薹が立ちすぎた人間ならば、自慢どころか、むしろ恥じ入ってしかるべきことでしょう。
しかしそれが、まだ仕事を覚えたて、あるいはこれから第一線に立ってバリバリとやろうとする若人ならどうでしょうか。
ぼくは胸を張ってよいと思います。たとえそれが牛の歩みだったとしても、ロング・アンド・ワインディング・ロードだったとしても、はたまた一日一歩三日で三歩そこから二歩下がって合計五日で一歩しか進まないような道程だったとしても、けっして恥じることはありません。
ある意味ではそれが仕事を覚えるということであり、凡人は皆、そうやって一人前になっていくのです。特に〈技術〉や〈技能〉を習得するということは、多かれ少なかれそういうことだとぼくは思っています。

それが、ぼくが気づいた大事なことです。

あら、アナタ、「なんだそんなことかよ」と笑いましたね。
そう、「そんなこと」です。
しかし、ぼくが気づいたのは、考えようによっては背筋が寒くなるような話です。けっして笑いごとなどではないのです。


〈建設業の2024年問題〉が喧しい昨今です。既にみなさんご存知のように、直接的な要因は、建設・運送・医療の3業種に限って一部の施行が猶予されていた働き方改革関連一括法の全面施行が今年度から開始されたことです。
かつては美風とされていたこともある長時間労働が完全アウトとなりました。はたらくことより休むことの方がランクが上です。寝食を忘れてはたらくなど以ての外です。
それらに反するものは、すべて〈ブラック〉の烙印を押され、悪と決めつけられてしまいます。

といっても、ぼくは基本的にそれがわるいことだとは思っていません。原則論で言えば、あきらかにソッチの方に歩があることも、じゅうぶん承知しています。

わるくないと考える理由はふたつあります。
ひとつは、これまでの業界の労働環境が他産業に比べてよくなかったこと。端的に言うと休みが少ない。とはいえそれはあくまで相対的なものですので、それのみをもって一概にわるいと決めつけるのも乱暴な話ではあるのですけれど、その比較が単なる統計上の数字にとどまることなく、建設という仕事そのものの評価となって表れている以上、せめて他産業並みにしなければ土俵に立つことができません(ご推察どおり、ぼくはそれに対して異論を持つ者です。さはさりとても・・です)。

ふたつめは、きのうも書いたように時間対効果です。端的に言うと、”Time is money"=〈時は金なり〉。時間を効率的に使うことで生産性が向上し、収益は上がります。その理を無視していたずらに長い時間を費やすことは、そこにあるはずの収益や利益の損失を意味します。残業フリーで休日出勤もオッケーとなれば、少くない数の人たちは、なぜだかついつい時間を浪費してしまいます。ですから、上手に時間を使うためにはある程度の規制を設けた方がよい効果をもたらす場合があります。与えられた時間が限られていれば、必然的に短い時間で効率的に仕事をしなければならなくなるからです。効率を優先的に考えるならば、それが正解でしょう。
それが前提です。


技術の道にショートカットはない

しかし、あくまでもそのロジックは、〈利益の追求を使命とする企業活動〉における〈仕事〉についてのものです。
とはいえ、それだけが〈仕事〉と呼ぶものでしょうか。
わかりやすい例が、まだ仕事を覚えたて、あるいはこれから第一線に立ってバリバリとやろうとする若人でしょう。そこにおいては、知識の学習があり、技能の習得があり、感覚の練磨がありと、様々なものを学び鍛錬することもまた、〈仕事〉の範疇に入れるべきでしょう。

そこでは、常には重要な物差しであるはずの時間対効果を、そのまま当てはめるわけにはいきません。なんならばそれは、そもそも時間がかかるものであり、それ相応の時間を積み重ねなければ得るものも得られないからです。
であれば、そこに時間を費やすのを規制するという行為は、「そんなにがんばって仕事を覚えなくてもよいのだよ」と宣言しているに等しいのです。
言い換えればそれは、組織の未来へとつながる投資です。であれば、時間対効果や費用対効果という物差しではなく、別の基準で考えるのが筋というものでしょう。
ただでさえぼくたちの仕事である建設業は、それが技術であれ技能であれ、基本的に時間がかかるものなのです。

だからといって時間がかかってそれでよし、と言っているわけではありません。人より早く覚え、他者より早く習得することは、組織のなかの個人にとって大きなアドバンテージとなりますし、そうすることによって、その先もより多量でより多岐にわたる知識や技術を自分のものにする可能性が広がります。
また、自分ひとりの経験には限りがあるため、1は1でしかありませんが、既に先達が取得済みの経験や知識を学べば、1が2にも3にもなり、〈学習の高速化〉を図ることができます。
「時間がかかるもの」などと言って、それにあぐらをかいている人のその先は推して知るべしでしょう。

いやいや、だからこそデジタルテクノロジーではないか。と言われれば、まことにもって仰るとおりかもしれません。たしかに、IoTやAIといったあたらしいテクノロジーにその役割の一端を担わせて、時間を短縮するのはアリでしょうし、今という時代に生きて土木という仕事をしているのですから、その方策は探っていくべきだと思います。

かつて羽生善治は、ITとインターネットの進化によって、将棋が強くなるために必要なことを誰もが共有し学ぶことができる時代が訪れたことを「学習の高速道路が敷かれた」と表現しました。それは何も将棋の世界だけではなく、ビジネス、趣味、遊びなどなど人間がからむあらゆる分野に共通することとして、今という時代が成り立っています。
そこで羽生がもち出した「ITとインターネットの進化」は、たしかにその当時はそのものズバリをあらわしたのでしょうが、今となっては、羽生善治の〈学習の高速道路〉理論の要点をあらわした言葉となって、学習の高速化にデジタルテクノロジーが果たす役割を象徴しています。

しかし、それはあくまでも習得時間の短縮であり〈高速化〉です。ショートカットではありません。技術者の道にも職人の道にも、残念ながら〈近道〉はありません。ぼくが言う「基本的に時間がかかるもの」というのは、そういう意味であり、それを言い換えれば「時間をかけなければ得られないもの」となります。
たしかに過去との比較では、相対的な時間は縮んだ。しかし、技術の道にショートカットがない以上、一つひとつを積み重ねて学ぶという原理は変わることがない。これがぼくの認識です。

さて、従来その学習の時間には、たいがいの場合、現場の実務とは別の時間が割り当てられてきました。
もちろん、現場人にとって学習の基本はオン・ザ・ジョブ・トレーニングです。現場の仕事は現場での労働を通じて学習していくのが基本です。しかし、それだけでは足りません。自らをスキルアップさせるには、そうして身につけた技術や技能の裏づけとなる知識や理論を学習することも必要ですし、それをまた〈現場〉にフィードバックして互いを相乗補完させ高みにあげていくことが求められます。
その繰り返し、これが現場人の学習です。そしてそれらはすべて、〈労働〉としてカウントされなければならないとぼくは考えます。

とすれば、余暇の付与を手段として労働環境の改善を図った労働時間の規制は、同時に〈学習時間の損失〉によって技術者や技能者の成長を妨げる制度となってしまいます。もちろん、どのような場合でも個人差はあります。しかし、少なくとも、成長の度合いが遅くなるのは確実ではないでしょうか。

遅かれ早かれ70歳定年時代がやって来るでしょう。ぼく個人の感覚では、少なくともわが業界ではすぐそこまで来ています。そうなると、昭和の御代から比べると15年も延長されたことになります。それと比例するように老化が鈍化し(どちらが卵でどちらがニワトリか定かではありませんが)、健康ではたらける年代が高くなっています。そもそもその前に、少年→青年→壮年→老年という人間的成長の過程がどんどんと遅くなっています。
であれば、たとえ仕事における成長の度合いが遅くなったとしても、時代の流れとして致し方がないことなのではないか、という見方もできなくはありません。たとえ遅くなったとしても、成長していさえすれば、それはそれでけっこうなことです。

だとしても、ぼくは思うのです。〈働き方カイカク〉という美名のもとに、〈仕事としての学習時間〉を削ることは愚かなことだと。その結果招来されるのが、学ばず成長しようとしない人たちを生産しつづける未来だとしたら、自縄自縛になりはしないかと。

念のために再度申しあげておきますが、ぼくは長時間労働の推奨者ではありません。〈時は金なり〉、仕事においては、いつもこの理を念頭におき、時間を意識していることが必要だという考え方の持ち主です(それをもってぼくの現実を糾弾するのはやめてください。実際がどうかはまた別の話です)。ムダな残業とかダラダラの休日出勤などというものは、昔から嫌いでした。
しかし、若者や業界への新規就労者には、意識をして〈労働としての学習〉あるいは〈仕事としての学習時間〉を与えてやることが必要です。
それを埒の外において、やれ休め、やれ早く帰れ、と喧伝ばかりするのは、ちとピントがずれていると思うのですが、そういう己がそうなのですから、「先ず隗より始めよ」ではあるのです。

以上、以前からもやもやとしていた〈もうひとつの2024年問題〉を考えてみましたが、やはりぼくにとっては、ちょっと背筋が寒くなる話です。貴方は如何でしたでしょうか。

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失敗を隠すな

2024年03月27日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

  人は失敗を隠す。

 それが人の性分であり特性だ。

 たとえ繕ってそう見えないようにしたとしても、隠していることに変わりはない。
 ぼくなどは特にその傾向が顕著な人間だ。だからだろう、まことに失礼なことだけれど、そうしない人間は一人としていないのかもしれないなどと、つい考えてしまう。

 ところがぼくは、そんな自分を棚に上げ、「失敗を隠すな」と言う。自家撞着もよいところだが、隠さず明かすことの有用性が肌身に沁みているからそう言うのである。また、あえてそう表明することによって、自分が「隠す」ことがらの何割かを「隠さない」に転換させようとする意図もある。そして、そうすることで、「隠す」自分の何割かでもを「隠さない」自分へと変換させようとしてもいる。
 人間というのはよくしたもので、そうこうしているうちに、いつのまにか「隠さない」の割合が以前よりも多くなってきたりする。あくまでも数値という指標がない自己評価なので、その割合の程度がいくらと示すことはできないが、長い年月をかけ、あきらかにマシにはなってきた実感がある。

 とはいえ、いまだに隠す。失敗を隠す。それが人の本性であるかぎり、生半に改善されることはない。すると、そんなこんなを繰り返しているうちに、自分の都合がよいように記憶は塗り替えられ、歴史が改ざんされる。
 と書くと、さも特別なことのように感じるかもしれないが、それはどこの誰の日常どこにでも頻繁に起こり得ることだ。すると、そのあとそれはどうなっていくか。そうこうするうちに年月が経ち、隠したり改ざんしたりした当初は自覚があったそれも記憶の彼方へと消え去って既成事実となり、やがて、隠したことも塗り替えたことも忘れてしまう。そうなると、あとへつづく者たちはおろか、未来の自分にも残らない。

 「隠す」と「隠さない」を比べれば、どちらがより困難だろうか。と考えれば、一見、隠さずに白状してしまう方がかんたんそうに思えたりもする。たしかに、「隠す」にはそれなりの覚悟が必要だし、発覚しないようにとする努力もいるかもしれない。だが、少し考えれば、より困難でエネルギーを必要とするのは「隠す」の方だということがすぐわかる。
 「隠さない」には勇気がいる。自分自身を晒す勇気と、そのことによって起こる不都合への責任を引き受ける勇気だ。それにともなって生まれる覚悟は、「隠す」とは比較にならないほど大きい。それを自分の身で引き受けることへの怖れが、「隠す」という行為を産み出すといってもよい。
 といっても、たいていの場合それは案ずるより産むが易しで、明かすことによって起こる不都合より、隠すことの弊害の方が影響がちいさかったりするのはよくあることだ。大局的かつ長期的な観点からみれば、なおさらだ。

 以上が、ぼくが色んなことを棚に上げておいて「失敗を隠すな」と言う理由だ。

 ところがそれは、あくまでも組織内における組織の構成員としての論理である。組織が成長し、また成熟していく上で、失敗を隠すことによる利益はほとんどないとぼくは信じている。
 組織全体が外の世界に対してどうするかは、また別の論理が存在してしかるべきだ。なかには、包み隠さずどころか、隠しとおして墓場までもっていかなければならない話もあるし、現にぼくは、いくつも腹にそれを入れたままだ。

 それを含みおいてなお、ぼくは言う。失敗を隠すなと。失敗を隠すのが人間の本性であると信じているがゆえに、あえてそう言う。他人に言い、また自分にも言ってきかせる。


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世代交代

2024年03月23日 | ちょっと考えたこと(仕事編)
 立川志の輔3年ぶりの高知公演を聴いてきた。ぼくにとっては当代ナンバーワンの噺家である志の輔は、御年70歳になったばかり。衰えるどころか、ますます練達の度合いが深まった感がする高座だった。 
 よく言われる説に、落語という芸能は演者が六十代になってからがもっともよいというものがある。ぼくとてそれに全面的な異を唱えることはなく、おおむねそのとおりだとは思うが、あえて当たり前のことをそれらしく言うとそれは人それぞれで、イキがよかった若いころがよかった人もいれば、五十代がよかった人もいたり、老いてわるくなった人もいる。そして、これは落語という芸能の奥深さであると同時に彼の人の凄さだとぼくは思うのだが、昭和の大名人と謳われた六代目三遊亭圓生などは、残された音源を聴く限り、79歳で没するまでその芸が枯れるどころか、どんどんと熟練上達していったような感を受ける。つまり、それやこれやを押し並べての落としどころが六十代だということなのだろう。

 そこにはいわゆる世代交代論が入り込む隙はない。
 交代したいならば超えてゆけ、でしかない。

 正直羨ましいなと思う66歳のぼくは、近ごろではそれも少し治ってはきたが、「なぜオレがバリバリと音の出るような仕事をしてはいけないのか」と、忸怩たる思いをもつこともしばしばだった。
 もちろん、詮無いことだと承知はしている。ぼくがそうすることによって、あとからつづく者の道を塞いでしまっては何にもならないからだ。それゆえ、控える。そういった思考に拠って立てば、自分のエネルギーをフルパワーで出力することは半ば悪である。

 「もうアナタが表に出てる場合じゃないでしょ、そろそろ世代交代をしないと」

 少し年長のある県職員に面と向かってそう言われたのは、今をさかのぼること15年以上も前のこと。ところがその時分といえば、ぼく自身も会社としても、後々の礎となり骨格を形成することとなる取り組みが端緒についたばかりの頃で、内心では、「まだはじまったばかりぢゃないか。それにオレ、まだまだ若いし」とまともに取り合うことなく、曖昧に生返事をしたのを覚えている。
 だが、今になって考えれば、当事者として真剣に世代交代を意識しはじめたのは、あの発言を嚆矢としてもよいのではないだろうかと思うほどに、それはズサッと胸に刺さった。

 そういう意味では、あの発言に感謝するべきだろう。そう忠告した本人は、ただの一般論を述べただけで、ぼくとわが社の行く末を真面目に案じた上での発言ではなかった蓋然性はかなり高い。だいたい、いかにもそれらしい正論を吐くそんな人たちに限って、自分がいない未来に責任をもたないという意味で、自分がいる今にも責任をもっていないに等しいと、捻くれ者のぼくはいつも思ったりする。
 だが、その意図がどうあれ、またそこに意図があろうとなかろうと、人の言動は、受け手がどう入力するかで、その影響力の大小が決まる。繰り返すが、その文脈では、あの発言に感謝すべきだろう。


 さて眼前の志の輔だ。
 ここにはいわゆる世代交代論が入り込む隙はない。
 交代したいならば超えてゆけ、でしかない。

 御年70を数え、ますます練達の度合いを深めてゆく芸を堪能しつつ、いまだに正直羨ましいなと思うぼくはしかし、「なぜオレがバリバリと音の出るような仕事をしてはいけないのか」と忸怩たる思いをもつことはない。
 なぜならばそれは、ぼくの身が置かれた環境に応じてぼく自身が選んだ道に他ならないからだ。
 たしかにそのような需要はあり、それを受けての選択にはちがいなかったのだけれど、その責任を自らの内に引き受けたのは誰あろう、ぼく自身に他ならない。であれば、行くしかないではないかこの道を。ねえ。

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自分事他人事

2024年03月22日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

 

【サクランボとリンゴ】

 サクランボは冷蔵で保存しない方がよいことをご存知だろうか?

 そもそもサクランボは、急激な温度変化に弱いデリケートな果物なのだそうだ。と聞くと、すぐに冷蔵保存と意識が直結するのが現代人の性だが、あれに限ってはそれをすると逆効果なのだという。したがって、ほとんどの場合、常温で売られており、その保存の基本は冷暗所で常温。というのが、その筋では当たり前のことらしい。
 とはいえ、初夏の果物だ。冷やして食べる方が美味いに決まっている。というのもまたテクノロジーにまみれて生きている現代人の悲しい性だが、さあ、となればどうすればよいのか。食べる1時間ほど前から冷蔵し、頃合いをみはからってやおら食す。これがもっともよい食べ方だという。

 そんなことを知ったのは、一昨年初夏のある贈与がきっかけだった。東北在住の知人から届いたそのサクランボは、梱包をあけて箱の中を見ると、たとえば時間がたって凝固した血液がそうなるように、深く暗い朱色をしていた。アメリカンチェリーのような、と言えばわかりやすいだろうか。だがそれは、アメリカサクランボではなく、れっきとした佐藤錦である。

 これはどうしたことだろう?と訝しがった妻は、あえて贈り主ではなく、箱に書かれた生産者のところに電話をした。事情を説明する妻に、年配男性とおぼしき生産者は、すぐさまその原因が「クール便」であることを特定したという。聞けばそのおじさん(たぶん)は、「冷蔵で送らないでくれ」というのが、発送に際しての基本的スタンスなのだという。とはいえサクランボは傷みやすい。そのため、どうしても遠隔地に送る場合は、冷凍にするか、もしくはそのことを承知してもらったうえで冷蔵保存による輸送を選択する。それ以外は、あえてそうしないでくれと念押しをしているという。ということは、非は運送会社にある。

 ところがその生産者は、それを盾に自分を正当化するどころか、自分事として謝罪をし、なおかつそのあと、何も言わずに別のものを送り届けてくれた。しかも彼は、贈与主である知人にはまったく知らせることなくその一連の行為を遂行した。そんなことがあった後、その生産直売農家が、妻のお気に入りに登録されたのは言うまでもない。
 
 生産直売といえば、別の例もある。これもまた場所は東北、産物はリンゴである。そことの付き合いは長い。といっても彼我の関係は売り手と買い手にすぎず面識もないが、兎にも角にも贔屓にしていたその味があきらかに落ちたのはいつ頃だったろうか。ほぼ時期を同じくして応対も親切ではなくなった。   
 「代替わりをしたんだろうか?」
 さびしそうに妻がつぶやく言葉がぼくの脳内に残っている。
 何年かそれがつづき、彼女は他所に代えることも真剣に考えていたようだが、変更することなしに購入をつづけてきた。まったくダメ、というわけではないからだ。それはそれなりに、フツー以上の品質を保っており、あくまでも元との比較において劣化したというだけで、他人様への贈与として失礼なものではないと判断していたからだ。

 ところが、もうそろそろ、と思っていた矢先の昨年、それがみごとに復活した。といっても、以前好んで取り寄せていた品種ではなくなったのだが、いずれにしても、あきらかに美味くなった。


【かつおのタタキ】

 もうひとつの例をあげよう。地元高知だ。県を代表するといっても過言ではないある人気飲食店のことである。カツオのタタキが看板であるそこは、かつてはどちらかといえば観光客向けではなく、地元民に愛された店だった。だが、今という時代は、そんな店を放ったらかしにしておいてはくれない。おそらくネットの口コミで広がった評判は、いつのまにかそこを超有名店の座に押し上げていた。

 そんな人気店へ久しぶりに赴いたのは昨年秋のことだ。連れは県外から来た客3人。じつはその前夜、魚の旨さには定評がある居酒屋に連れて行ったはよいが、カツオのタタキで失敗していた。火がとおりすぎていたのである。高知県外の方はご存じないかもしれないが、カツオのタタキというやつは鮮度がよい魚を使えばよいというものではない。そこには料理のウデが求められる。「タタキ」という料理において、焼きすぎるなどというのは致命的なウデのなさか、完全な失敗だ。
 このままでは高知県民として遠来の客に申しわけが立たない。そのリベンジとして選んだのが、くだんの有名店だった。

 ところが、その目論見はみごとに外れる。新鮮で焼き加減も上々。あいかわらずウデはたしかだ。だが、あろうことか、薄すぎる。かつては1.5~2センチほどはあったものが、おおよそ1センチほどになっている。心なしか枚数も一枚少ないような気がする。
 きっとよほどの事情があるのだろう。そう考えたぼくは、当日夜のゼロ次会でもその店を選んだ。アテはもちろんタタキである。連れは地元民ではないが、その店を訪問した数はおそらく両手の指で余る。これまでの味と品質を熟知しているといっていい。

 だが、期待に反して結果は同じだった。そしてそれから約1ヶ月後、これまた県外からの来客を連れて行った妻が、帰ってくるなり同じことを告げた。それで容疑は確定だ。


【自分事他人事】
 
 これらの例から考えさせられることは色々さまざまある。だが、ぼくが言いたいことはひとつ。信頼とはなんぞや、である。

 まずサクランボの例は、信頼や信用はどうやって築き上げられるのか、について教えてくれる。食べ物に限らず、商品を売る場合にもっとも上位にくる価値は何かと問われれば、品質であるというのが一般的な解だろう。だがぼくは、そうとばかりも言えないぞという考えの持ち主だ。もちろん、箸にも棒にもかからない場合は論外だが、ある一定以上の品質さえ備えていたら、あとは売り手の人柄とか人間性、俗に言う「よい人」かどうかが大いに左右すると思っている。
 そんなことを言うと、ママゴトじゃねえんだから、という向きもあるかもしれない。だがそれは、立派にビジネス戦略として成立するものでもあるとぼくは信じている。何よりそこには、自分の商品にまつわるすべてを自分事として捉え責任をもつという一貫した姿勢がある。そこから生まれた信頼があるかぎり、今後、たとえ大儲けはできなくても、商売は安泰だろう。昨今流行りの「持続可能な」という冠をつけたビジネスにとっては、もっとも大切なスタンスではないだろうか。

 「リンゴ」の場合は、品質の劣化に対応のわるさが重なるという救いがたいパターンだ。だが、買い手は見放さなかった。そうするうちに、何が要因でそうなったかはわからないが、品質が復活したことによって顧客をつなぎとめることができた。品質劣化の根本原因が解消されたかどうかは読み取れない。だが、たとえそれが解決したうえでそうなったとしても、その生産直売農家の商売は危ういとぼくは思う。その商売におけるスタンスは、「サクランボ」とは正反対に位置しているような気がするからだ。

 では「タタキ」の場合はどうだろうか。これはもう、考えられるかぎり最悪のパターンである。品質が落ちたのではない。だが、サイズという要素が味と食感を大きく左右することを知ってか知らずか、たぶん、承知の上で薄くした。そこには、「これぐらいなら」という自分都合にもとづいた判断があるのではないか。そして、ぼくがなんとしても救いがたいなと感じるのは、そこに欺瞞があることだ。顧客を欺いている。百歩譲って、コスト的にやむを得ない事情があったとしても情状酌量とはならない。それならば、理由を説明して価格に上乗せするべきだろう。たとえそのことによって客が離れていったとしても、そうするしか道はない。

 「リンゴ」と「タタキ」に共通するのは、自分事にしない姿勢だ。食うのは他人。つくる自分の都合が何より優先する。つまり他人(ひと)事なのである。ぼくがここで言う「自分事」とは、「他人(ひと)の事」を「自分の事」だと考え行動できることを指している。そういう意味で、あくまでも「他人(ひと)事」としか捉えられないスタンスとは決定的に異なっている。
 仕事というもの、さらに広く言えば人間というものが、人と人との関係性のなかでしか存在しないことを思えば、この姿勢のちがいは、ビジネス社会をどのように泳ぎきっていくか、あるいは、人としてどう生きていくかを決めてしまうほど重い。

 たぶん自分にはない責任を「自分事」として引き受けたサクランボ農家と、あきらかに自分にある責任を、「他人(ひと)事」であるかのように商売をするリンゴ農家や居酒屋。おそらく、その信頼と信用を築き上げるには、三者三様に並大抵ではない努力と苦労があったにちがいないと推察する。
 だが、漫然と手をこまねいていてはそれを継続することができない。どころか、崩れるのはあっという間でもある。もちろん他人事ではない。公共建設業と生産直売農家や飲食業をいっしょくたにはできないだろうが、という向きもあるだろうが、これらを自分事としてとらえることができなければ、明日はわが身だ。まちがいない。


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それぞれの「万国公法」

2023年12月08日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

 

8月に『全建ジャーナル』という全国建設業協会の広報誌に拙文を寄稿した。『いまの仕事の進め方、正しいですか?それとも間違っていますか?』という、全国各地の土木技術者が代るがわる受けもつ連載の第8回目だ。

内容はといえば、ココでは再三書いてきたことのリメイクであり、読者さんにとって目あたらしいものはなにもないが、発表する媒体が異なったり、また字数の制約があったりすると、ダラダラと思いつきで書いている普段とは少しばかり雰囲気がちがうような感じを受けるから、我ながらおかしい。

今朝、ひょんなことからそれを思い出したので転載する。

(以下、『全建ジャーナル令和5年8月号』からの転載)

 

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見出し画像

 

 よくあるランキングに「好きな歴史上の人物は?」というものがあります。その時々の傾向があって、アンケートを実施する年によりランクに違いがあらわれるようですが、過去何十年ものあいだ、必ずベスト3にランクインする人物がいます。坂本龍馬です。
 ことほど左様に龍馬の人気は持続的であり、しかも他を圧するものがあります。その理由には、さまざまなものが挙げられますが、そのなかの一つとして先見性や先取の気風があります。それをあらわすエピソードとして有名なのが、土佐勤皇党の同志である檜垣清治とのあいだのやり取りです。作り話だという説もあり、実話かどうかは不明ですが、いかにも龍馬チックな逸話です。それを紹介するところから拙稿をはじめたいと思います。
 当時、土佐藩士のあいだでは長い刀を差すことが流行していました。ある時、久々にあった檜垣が長い刀を差しているのを見た龍馬は、「そんなもんは実戦には使えん」と、自分の腰にある短めの刀を見せます。それに感心した檜垣は、それ以来短い刀を持つようにし、次に龍馬と再会したときに、どうだとばかりに見せます。それを見た龍馬は、「刀の時代は古い、これからは拳銃よ」と、懐から短銃を取り出して見せます。またまたそれに感化を受けた檜垣はすぐに拳銃を買い求め次の再会でそれを見せると、龍馬ニッコリ笑って「これからはコレよ」と懐から一冊の本を取り出します。万国公法、現在でいうと国際法について書かれた書物です。それまで懸命に龍馬のあとを追いかけていた檜垣ですが、残念ながらそこが限界、それ以上ついていくのをあきらめたという話です。

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 この逸話での檜垣は、時代遅れの象徴で半ば嘲笑の対象として語られるのが常です。しかし、かねてより私は「そうだろうか?」と感じていました。その理由を具体的に述べます。

  
          *


 まずエピソード1では長い刀を捨てます。
 当時「流行っていた」という事実から考えると「長い刀」にもそれなりのメリットがあったはずです。しかし、例えばそれが「皆が採用しているか」とか「見栄えがよろしいから」とかの、武器としての存在価値以外のものであったとしたら、太平の世が終わりを告げようとしているその時代に実戦用武器として通じるものではありません。それが理解できずに、ただ多くの人が差しているからという理由で「長い刀」という従来のツールにしがみつく人は多い。しかし彼は代えました。エピソード2も同様です。戦闘のスタイルが変化し、そこにおいて主要な位置を占める武器が刀から短銃に変わりつつあることを理解できずに、または、「オレは変化した」という成功体験意識から脱却できずに、「短い刀」という手法を捨てることができない人もま
た多いはずです。しかし彼は、たとえそれが人真似ではあっても時代の変化に適応していきました。
 とはいえ、そんな檜垣の限界が露呈してしまったのがエピソード3です。「長い刀」から「拳銃」までは純粋な意味における武器、つまりツールや
手法のカイゼンあるいは進化という文脈で同じ延長線上にあります。しかし、「拳銃」から「万国公法」への変化はちがいます。
 コペルニクス的転回といってよいでしょう。純粋武器を使った戦闘だけが戦いではなく、国際法を駆使するのもまたネゴシエーションという場における戦いなのだという、いわばフェーズの異なるステージに立たなければ理解できない変化がそこにはあります(史実として龍馬は、「いろは丸事件」において国際法を駆使し、紀州藩に多額の賠償金を支払わせています)。残念ながら檜垣には、その本質が理解できなかったのでしょう。ビジネスの世界に置き換えてみるとそれは、仕事に用いるツールや手法は変える(カイゼンする)ことができたが、仕事のスタイル(やり方)を変えることはできなかったということです。


           *


 私たちの仕事でも、そのような例が多くあります。一例をあげましょう。株式会社トプコンが開発したレイアウトナビゲーター(以下杭ナビ)は、ワンマン測量で位置出しや杭打ち作業を手軽にかんたんに行えるようにつくられた自動追尾トータルステーションです。杭ナビ標準アプリだけではなく、快測ナビ(建設システム)と連携させることで利用用途が一気に拡大し、今や土木現場における測量ではスタンダードと言ってもよいぐらいに普及しました。しかし、ほとんどの場合にそれを使用するのは従来のように現場技術者であり、その使い方からは、最低2名必要だった作業が1名で行えるようになったという成果しか上がっていないのが多くの建設現場における現状です。といっても、これまでの生産性が倍になったのですから、それは目ざましい成果にはちがいなく、このツールと手法の画期性を否定するものではありません。しかし、先の龍馬エピソードに即して考えると、その活用方法は「長い刀」→「短い刀」→「拳銃」という延長線上にとどまっているに過ぎ
ません。

 

画像
(画像出典:KENTEMホームページ)

 

 徳島県に株式会社大竹組という地場ゼネコンがあります。第2回i-Construction大賞優秀賞を受賞したのでご存知の方も多いでしょう。大竹組
では測量=技術者がやるものという既成概念にとらわれることなく、その作業を若手の軽作業員に担当してもらっている間に技術者は他の業務(例えば書類作成などの内業)をこなすことで技術職員の残業を減らすことに成功しました。この例は広く紹介されており多くの方が承知しているとは思いますが、その本質を理解し、自分の仕事に適用している人がどれだけ存在しているでしょうか?
          *
 私が見聞きするかぎり、測量という自らの仕事を手放したくない技術者はあまりにも多く、それが「あらたな仕事のやり方」を生み出す障害となっていることに気づいていない人もまた多数存在します。「それしきのこと」、と思われるかもしれませんが、私はここに「万国公法」を感じます。
 「万国公法」というフェーズがそこにあるのに気づかないか、あるいは自分を守るために無視するか、いずれにしても、そこから「仕事のやり方を変える」ことはできませんし、「あたらしい仕事のやり方」を生み出すこともできません。
 BIM/ CIMもまた同様に考えることができます。かつて、手描きの図面から2次元CADへという革新的な変化がありました。私はこれを同じ延長線上にあると考えます。定規とシャープペンシルがパソコンに変わったことで飛躍的に効率が上がりはしましたが、それは所詮、スーパー文房具としてのPCが成し得た成果でしかありません。
 ではBIM/ CIMはどうでしょうか?そこに私は、龍馬が「拳銃」から「万国公法」へとコペルニクス的転回を果たしたと同じような本質があると思うのです。
 といっても、時が経てばそれは常識となっていき、その本質に気づかなかった者も、等しくそのツールや手法の恩恵を受けることができるようになる。そういう例もまた数多くあります。「だから待つのだ」という態度をとる人は少なくありません。ではそのとき、「あたらしい仕事のやり方」を模索した人たちの苦労は水の泡となるのでしょうか?私はそうではないと信じます。なぜならば、そこには「変える」を模索しつづけるという姿勢が一貫してあるからです。その繰り返しはやがて、「変える」を方法にします。  
 「変えるという方法」が仕事のスタイルとなります。それは、一つのことに留まらず、さまざまなことに適用できる本質を内包するという意味で「方法」です。「待つ」を選択する人たちには永遠にそれが訪れることはありません。ということは、自ら「変えるという方法」を身につけることができれば、自らを取り巻く環境がどのように変化しようと、今という時代の建設業を生き抜いていく上で大きなアドバンテージを得るということです。


          □■□


 「万国公法」を手にする機会は皆に等しくあります。それが「万国公法」なのかどうか。あるいはそれを、「万国公法」にするのかしないのか。いつ
もいつでもそれを模索しつづけること。それが今という時代の建設業を生き抜く秘訣(のようなもの)だと私は思うのです。

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「思い出」発「現在地」考

2023年12月04日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

 

「アンタには現場を選ぶ権利がない」

クルマの助手席で笑いながらそう言い放ったのはボスで、もう20年以上も前のこと。「次はどこそこの現場がいいですね」と、まだ経験したことがない種類の工事を担当してみたい旨の希望を口にしたぼくへの返答だった。

「いや、選択権がないのはわかってますが、希望ぐらいは口にしてもいいんじゃないですか?」

ハンドルを握るぼくがささやかな抵抗を試みると、

「口にするだけやったらしてもええけど、まずそのとおりにはならんな」

つまり、彼が決めた仕事をするしか道はないという宣告だ。

それはそれで雇われ人という立場なのだもの、従う他はない。だが、やっかいな工事をひとつかたづけたばかりで、達成感と開放感に満ちあふれたときに聞きたい言葉ではなかった。

「アタシに回ってくるのはは難儀な仕事ばっかり。たまには◯◯さんみたいにずっとおんなじ現場を鼻歌まじりでしてみたいもんですわ」

思い起こしてみれば失礼な発言。同じ現場は二度ない。同じような仕事でも、その時々で問題課題は変化するのが現場一品生産という特殊形態をもつこの仕事の宿命だ。その◯◯さんだとて、まさか鼻歌まじりでしてはいなかったのだろうが、少なくとも当時のぼくの目にはそう映っていた。

「それもないな」

にべもない返事に、会話をつづけるだけムダだと押し黙った。

がっかりはしていたが腹を立てていたわけではない。「デキるからそうするのだ」という信頼と期待が感じられたからだ。「選ばれし者の幸福」というやつだろうと自分に言い聞かせた。

だからといって、命じられた仕事をこなすだけでは癪にさわる。それならばコチラから攻めてみようと、アレもできるコレもできるとばかりに申告したマルチタスクを自らに課した。受動的な姿勢でいるとすぐに「追い込まれる」が、逆にアグレッシブに立ち向かうと「追い込む」こともできる。そんなことはめったにないが、そうなったらコッチのものだ。その繰り返しが身体に沁みこみ血肉となって今のぼくがある。言い換えれば、その繰り返しがなければ今のぼくはない。であれば、今となっては感謝するしかない。

そう結論づけたあと、ひとつの疑念が生じた。

当時のボスがとったような態度を、今のぼくは部下に対してとれるだろうか?

答えは「とれない」だ。「時代がちがう」という理由が真っ先に浮かんだ。

本当にそうだろうか?もしも今、あの頃のぼくが目の前にいたとしたら、今のぼくはそうしないだろうか?自問した。

よくよく考えてみればボスも、ぼくに対してはそうしたが、皆にそうしたわけではなかった。幾人かの顔を思い浮かべ、むしろぼくへの態度の方が例外的だったことに思い当たった。

たしかに「時代はちがう」。しかし、苦難を成長の糧にできる人間がいなくなったわけではない。困難をただの苦しみとだけ感じる人間は、今も昔も存在する。時代はちがってもそこは不変だ。

どちらか一方だけで組織が成り立つわけではない。かつてのぼくのようなオーバーアチーブな人間だけを集めたら、成果を上げつづける組織ができるものでもない。肝心なのはバランスだ。成果は個人だけが生み出すものではない。チームの所産としてそれはある。

バランスとひと口に言うが、それは何も均衡ということではない。その時々のメンバー構成に応じた役割分担が適切で上手に機能するかどうか、それがぼくの言うところのバランス(平衡)である。そのためには、人材が流れ動く大都会ならいざ知らず、この田舎では、チームの構成が変化した場合には「成果」を変えることも含めて考え、行動することもアリだろう。

「時代はちがう」のではなく「人がちがう」だけなのかもしれない。

そう考えると、結局のところ昔も今も、やらなければならないことはあまり変わらないような気がしないでもない。

誰も気に留めないような何気ない朝の会話から、そんなことを思い出し、こんなことを考えた。

相も変わらず、「こうするべきだ」「こうした方がよい」という結論が出たわけではない。

 

 

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失敗ありき

2023年10月31日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

 

「希望的観測」という言葉の初出はクレメンス・メッケルだという。明治時代に陸軍が招聘したドイツ軍の参謀である。彼は、日本の軍人をこう評価した。

「彼らは総じて優秀であるが、一点だけ軍人として致命的な性格を共有する。規模の大小に関わらず、まず理想の戦果を特定し、ひたすらそれに向かって作戦を立案する癖である。すなわち、敗北、撤退、混乱といった戦場に充満せる負の要素を一切想定せず希望的観測によってのみ戦争を遂行せんとするのである」

という逸話をオーディブルで聴いたのはきのう、『失敗から学ぶ現場監督技術』というお題(リクエストされたテーマです)を講じた県技術職員研修会からの帰路、高知市から東へ向かう高速道路を走るクルマのなかだった。聴くなりすぐに、その小説(浅田次郎『長く高い壁』)の再生を停止した。結局、話の流れで実現することはなかったが、その講話の最後に紹介しようと考えていた手法、心理学者ゲイリー・クラインが提唱した「事前検死」のことを思い起こしたからだ。

事前検死。そのやり方とは、プロジェクトの実施前に、あらかじめそのプロジェクトが失敗した状態を想定し、「なぜうまくいかなかったのか?」をチームで事前検証していくというものだ。つまり、失敗をしていないうちから失敗を想定してそこから学ぼうとする、グーグルの元CEOエリック・シュミットが好んで使ったという ”Fail fast,fail cheap,and fail smart"(早く失敗、安く失敗、賢く失敗)を地で行くような手法だ。

「失敗するかもしれない」ならば誰もが考えることだ。帝国陸軍が希望的観測を拠りどころにしたのも、ひょっとしたらその不安を打ち消すためだったのかもしれない。「事前検死」はそうではない。そこから一歩も二歩も進め、こう考える。

プロジェクトは失敗した。

目標は達成できなかった。

この状態がスタートで、そこから検死を行う。検視ではない検死だ。すなわち、検視(=遺体や周囲の状況調査)、検案(=検死によって得られた情報を元に死因などを究明する行為)、解剖(=ここまでの行為では断定できない情報がある場合に遺体を解剖して詳細な情報をさぐる)といった流れのすべてを総称したものである。プロジェクトが行われている最中にあるかもしれない失敗を具体化し、その理由をあきらかにして一つひとつを事前につぶしていく。それが「事前検死」だ。

期せずして聞こえてきた希望的観測の由来と「事前検死」のふたつが結びつき、その数十分前までに話していた自身の「失敗」とリンクして、会社に着くまでの約1時間というもの、さまざまな思考が脳内を行き来した。さて・・・どう料理をしてやろうか。むずかしいのがココからなのは言うまでもないが。

 

 

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確証バイアス

2023年10月03日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

 

問題:「2、4、6」という3つの数字はどんなルールで並んでいると思いますか?同じルールで並んでいると思われる好きな数字を3つずつ言って次の4つの答えから正しいものを見つけ出してください。

1.数字が昇り順に並んでいる。

2.偶数が並んでいる。

3.偶数が昇り順に並んでいる。

4.3番目の数字が前の2つの数字の和である並び。

 

一見してもらえればわかるだろうが、1から4までの回答は理論的にはすべて正しい。しかし、ここでの正答はひとつしかないという前提だ。

こういった場合にほとんどの人は、まず仮説を立てる。たとえばアナタが立てたそれは「3.偶数が昇り順に並んでいる」だった。すると、それが正しいか間違っているかを証明しなければならない。それにもとづいて、仮に「8、10、12」と答えてみる。ちなみにここでは、質問者は回答者が正解だと思われる並びを出すたびにその正誤について答えなければならない。

まず一回目は「正」だった。アナタの仮説は正しいかもしれないという可能性が残った。と同時に「4.3番目の数字が前の2つの数字の和である並び」という答えは誤りであるということが判明した。そうなると今度は、たとえば「20、22、24」で確認する。これを3~4回やれば、ほとんどの人には自らが立てた仮説の正しさに確信が芽ばえるはずだ。

しかし、それでもまだ正解かはわかっていない。考えてみてほしい。もし正解のルールが「1.数字が昇り順に並んでいる」だったらどうだろうか?それまでと童謡の確認を延々と繰り返したところで、正解かどうかはわからないはずだ。

そこで、自分の仮説が「マチガイかどうか」を確認するという方向に戦術を変えてみる。そうすると、ずっと短時間で正解が導き出せる。たとえばそれはこういうことだ。「 3、10、11」。それが「正」と判定されれば、「3.偶数が昇り順に並んでいる」という仮説は誤りだったとわかる。言わずもがなであるが、「2.偶数が並んでいる」もマチガイだ。そしてそのあと、たとえば「10、4、 1」とデタラメな数字を降り順で提示してみる。それが「誤」と判定されれば正答は「1.数字が昇り順に並んでいる」だということがわかる。

ここで重要なのは、自分の仮説の正しさを、それに反する数列で検証するという方法を採用したことだ。実際にこれは、かつてペンシルバニア大学で行われた実験で、被験者である学生は、好きなだけ数列を答えてもよいと言われていたのにもかかわらず、正解のルールを見つけ出したのは全体の10%にも満たなかったという。

以上、元ネタは『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』(マシュー・サイド著、有枝春訳)から。そこで著者はこう書いている。

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肝心なのは、自分の仮説に溺れず、健全な反証を行うことだ。我々はつい、自分が「わかっている(と思う)こと」の検証ばかりに時間をかけてしまう。しかし本当は、「まだわかっていないこと」を見出す作業のほうが重要だ。

哲学者カール・ポパーもこう言った。「批判的なものの見方を忘れると、自分が見つけたいものしか見つからない。自分がほしいものだけを探し、それを見つけて確証だととらえ、持論を脅かすものからは目をそむける。このやり方なら、誤った仮説にも(中略)都合のいい証拠をなんなく集めることができる」

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このくだりを読むなりすぐ、誰もいない空間に刃があらわれ、その切っ先がぼくの胸につきつけられたような気がした。

そのあと聞こえた言葉はこうだ。

「オマエもな」

寒くなった背筋を思わず伸ばした。

 

 

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(現場監督の)仕事はたのしいか

2023年10月01日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

 

品質(quality)、コスト(cost)、納期(delivery)の頭文字をとってQCD。建設業の現場監督(マネジャー)は、時に対立しトレードオフの関係にあるそれらすべてを満足させることを求められる。のみならず、それに加えて安全(safety)もまた、けっして疎かにすることができないときたら、その実現は生やさしいことではなく、それらすべてを高水準で達成することがどれだけ困難なことか、あえて説明する必要もないだろう。そもそもそのようなことが易々とできるようなオールマイティーな人間はほとんど存在しないと言い切っても差し支えない。

人間誰しも得手不得手がある。QCDSのどれが得手でどれが不得手か、あるいは、どれが好きでどれが嫌いか。人によってそれが分かれてくるのは当たり前の話なのだが、そんなことを大っぴらに表明しようものなら言語道断職務怠慢と指弾されるに決まっている。「甘えんじゃねえ、それがオマエらに与えられた職務だろうが」てなもんである。とはいえ、誰にでもある嗜好や好き嫌いが、仕事にだけ「ない」と言い切ることには明らかに無理がある。

ただ、そのことを踏まえても、それらを避けたりそれらから逃げたりするわけにはいかないのが、マネジャーとしての現場監督だ。それもまた当たり前のこと。それがイヤならばやめるしかないとなるが、いや、「やめる」という結論を出すのは早計だ。

ではどういうふうにそれを乗り越えていったらよいのか。じつを言うとぼくは、そのことについてずっと考えつづけてきた。この仕事がそのようなものだと理解してからずっとだ。

そのひとつの方策が「たのしむ」ことである。「おもしろみ」を見出してそれを「たのしむ」と言った方が適切だろうか。多岐にわたる仕事のうち、自分が得手とするところはないか。自分自身でそれを見つけ出すのだ。そしてそれに他の事柄を従属させる。そういう関係を自分でつくり出す。たしかにQCD+Sは、あちら立てればこちらが立たずのトレードオフの関係にはちがいないけれど、と同時に、互いが独立してあるものでもない。どこかに必ず結びつく因果関係がある。よしんばそれが見つけられないとしたら、無理矢理にでもつくり出す。たとえ自分勝手な理屈であっても、世間一般の道理から外れていたとしても、何ら差し支えはない。なんとなればそれは、自らの心の内なる問題だからだ。

そこで何より重要なことは、自らが進んでそれを選択することだ。もしもアナタが正解は誰かが与えてくれるもの、あるいはそこへたどり着くための道筋は誰かが指し示してくれるもの、はたまた待っていればいつかはやって来てくれるものがそれだと思っているとしたら、それこそが勘違いの最たるものだ。人は与えられたもの、つまり他者からの押し付けやお仕着せでは、心の底から「たのしむ」ことができない。自らがそれを見つけ出し、自らの意思でそれを選択する。そうやって自らが能動的に動いた結果だからこそ、そこに「たのしみ」が生まれてくる。「たのしむ」の初めの一歩はその一点にあるし、常にそこを外さないように心がけることが肝要だ。

「達成感」などという美辞麗句で自分自身の仕事の魅力を語ってはならない。なぜならばそれは、「達成感」のみにしか魅力を見つけることができない、すなわちプロセスにはなんの魅力も存在しないと言っているに等しいからだ。

その気になりさえすれば、この仕事のプロセスのあらゆるところに「おもしろさ」や「たのしさ」は存在している。それに気づかないか、あるいは気づいていても気づかないふりをして「辛さ」を増幅させているか、だとしたらそれこそが、自らへの裏切りだとも言えるのではないか。

 

以上、「仕事のたのしみ方」に関しての、今のぼくの考えだ。表題には「現場監督の」という括弧をつけたが、世間一般の仕事にも通底するものだと信じている。

だからといって、たかがそれぐらいのいわば心がまえ的なもので「辛さ」が消え去ってしまうはずもない。そんなことは百も承知だ。だからこそぼくは、その「辛さ」を抱え込み、その「辛さ」と表裏一体にある「たのしさ」を第一義にしたい。といっても、事は口で言うほどかんたんではないが、チャレンジしてみる価値は大いにある。ということでアナタもひとつ、いかがだろうか?

 

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居着く自分へ

2023年09月04日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

 

たとえばぼくの属する会社の例で言うと、朝イチバンに技術屋だけの会がある。次にあるのは技能職を加えた全体朝礼だ。日々の定例会はこのふたつだけ。週に一度行われるのは工程会議だ。月に一度の工程会議もある。あ、そうそう、主要スタッフだけの会議もあった。その他、いろんな勉強会があったり、随時の打合せがあったり、そのたびに参加者が陣取る位置には、これといって決まったものがない。

だが不思議なことに、どのメンバーも同じ位置を選ぶ。何回開いても同じだ。何がその選択を左右するのだろうか。性格だろうか、好みだろうか、惰性だろうか・・・。一人ひとりをとると、何も考えずにそのチョイスをしている者が多いのだろうし、そんなこと取るに足らないことのようにも思える。だがその事実は、皆が気づかないうちにそれぞれの思考や行動を束縛している。

同じ角度、同じ方向から見聞きするものと、正反対の位置取りをする人が受けるものは、同じ人を見て同じ話を聞いていても、きっと必ず微妙にちがったものになるはずだ。そして、それがいつしか固定されると、固定観念と惰性を生み出す素となる。そうなることが、組織にとってもその人個人にとってもよかろうはずがない。

やっかいなことに、人間がもつその習性は強力な磁力を有しているようだ。それを打破せんと意識をして、時おりは会での席を変えているぼくにしても、その例外ではない。気がつけば、いつも同じようなところに陣取っている自分がいる。そしてあろうことか、時々はこう思ってしまうのだ。そこはオレの席じゃないか・・・

生物としての人間は変化する。一秒たりとも同じではない。必ず変化している。だが、人の意識は多くの場合に変化を好まない。今日までも、あしたからも、同じ自分が在ると錯覚している。そんななかにあって惰性に陥らないためにはどうすればよいか。日常のちいさなことから、居着かないことを常に意識して日々を過ごすのは、その一方策として効果的だ。

たかが座席の位置だと思うなかれ。「居着く」心はそんなところから始まっている。そして「居着く」は諸悪の根源だ。そこから生ずる惰性や固定観念は、発想や行動を束縛し、創造するちからを奪い取ってしまう元凶だ。

天才級の人物ならいざ知らず、貴方やぼくのような凡人ならば特に、ふだんのちいさなことからそこを意識づけることが居着かないための初めの一歩だ。

ぼくはそれが、たとえば「座席の位置」にあると思う。

結局のところそれは、そうやって意識づけをしなければすぐに居着こうとしてしまう自分への注意喚起であり、警告に他ならないのだけれど。

 

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