答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

当たり前田の・・

2018年11月07日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

某月某日、とある現場の状況をチェックしていたときこう思った。

「10年前なら優良工事やな」

もちろんそれは、

「(このままでは)今なら厳しいかな」

という感想と表裏一体のものとしての「10年前なら・・・」だ。

それほどに、高知県建設優良施工者表彰受賞工事のレベルは上がった。

わたしが見るところ、そのレベルアップに大きく貢献したのが、わたしが勝手に「高知システム」と名づけた審査システム。なかでも、公開で行われた二次(最終)審査だった。そこで手の内をすべてさらけ出さなければ、受賞の栄誉と、そこから派生するもろもろの実利(有り体に言えばその後の受注)を授かることはできないゆえのフルオープンの真剣勝負。しかも一次審査の点数をリセットしたうえでのプレゼン一発勝負が、その場に立った技術者(企業)のみならず、次の年にはその場に立とうと思い定めて壇上を凝視する技術者(企業)たちのレベルアップに寄与したことは、わたし自身がそのどちらの立場もを経験してきたゆえによ~くわかる。どちらに拠って立つものにもあしたは保証されてない。だからこそ、フルオープンの晒しっこで勝負するしかない。その繰り返しを意識的につづけてきた者たちがスキルアップレベルアップしないはずがない。

その「高知システム」も今は昔。

と、それについては、いくらでも書くこともしゃべることもあるのだが、今日のテーマはそこではない。

 

その真っただ中に身を置いてきたわたしが心がけてきたこと。それが、桃知さんに教えてもらった、「とりあえずは大きな流れの中で流れて、それ以上のスピードで流れることで独自性を保つ」(川俣正)だった。しかし、その「大きな流れ」の先には、フルオープンの必然としての大渋滞が待ち受けていた。そして、その「大渋滞」を抜けるための指標としたのが、この考えだ。


・・・・・・・・・・・・

「知の高速道路」を大渋滞まで疾走して一芸に秀でる経験は、のほほんと生きている多くの人たちに対して、絶対的な競争力を持つはずだ。そう信ずることだ。(『ウェブ時代をゆく-いかに働き、いかに学ぶか』、梅田望夫、P.101)

レールがあると思っていても、実はそのレールがどこまで続いているかなんて誰にもわからない時代である。だから、迷ったとき悩んだときには、時代の大きな流れに乗った新しいことにあえて巻き込まれてみる。そしてそこで試行錯誤を繰り返してはその先の可能性を手探りしていく。変化の激しい時期ならではのそんな生き方も、あんがい自由で楽しいものだ。(P.243)

・・・・・・・・・・・・


そんな心持ちを保ちつつ、ときには大渋滞を真っ向から飛び越え、またときには大渋滞の脇をするりと抜けして、今に至っている。

「10年前なら・・・」

そして

「今なら・・・」

という現実は、誰あろう他ならぬわたしたち自身が一翼を担ってそうなったものだ。

「あゝ」

ため息のひとつもつきたくなってきた。

「ふ~っ」

なんだか可笑しくなってきた。

とはいえそれも、ずい分と前から織り込みずみの未来が想定どおりに到来したにすぎない。それゆえまことに残念ながら、その戦線から自ら離脱するという選択肢は今のところまったくない。

であれば、「10年前なら」にしがみつくことなく、「今なら」を打開するすべを模索しつづけるしかない。

そんなことは「当たり前田のクラッカー」ぢゃないか。

唐突に脳裏に浮かんだ古い惹句に苦笑いする辺境の土木屋。

 

 

 

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自己満足のすすめ

2018年09月30日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

『サラメシ』というTV番組が好きだというのは前にも書いた。食事中の自分を見られるのにはからきし弱いくせに、人がメシを食ってるのを見るのは好きなのだ。

さてその9月25日の放送に登場したのは京都の女性瓦葺職人さん。番組中、彼女が発した言葉に得たりとうなずいた。

「自己満足の世界やから」

自身が生業(なりわい)とする職人という仕事は自己満足の世界だと彼女は言う。たしかにそう、そのとおりだとわたしも思う。あれあれ?そんなことをわたしが言うと、拙話を聞き拙稿を読んでくれている人には少しばかり奇異に映るかもしれない。口を開けば、やれ「世間のために」、やれ「地域のために」、やれ「他人さまのお役に立つ」、やれ「ふつうの暮らしを下支えする」、ほいでもって「利他」だの「利助」だの、「自分はさておき」という話ばかりをしているこの辺境の土木屋が自己満足をすすめるとは。「そりゃアンタ、話がちがうだろ」てなもんではないだろうか。しかし、事実わたしは、「まずは自己満足」だと思う人であり、「自己満足がなくては始まらない」とも思う人なのだ。

余人は知らず。齢(よわい)を重ねるほど、何かにつけて、「あゝ、オレってたいしたことないな」という思いを強めることが多くなっていくわたしだが、その一方で「ふ~ん、オレってけっこうヤルやんか」という自己満足を忘れない。そこはたぶんに性格的なものだろう。だがその性分が、ちょっとした自己満足を「ささやかな成功体験」としながら、「一日一歩三日で三歩、三歩歩いて二歩下がる」という歩みではあるが、とにもかくにも自分自身の成長あるいは成熟につなげてきた。であるがゆえ、特に若い人たちには、「まずは自己満足」をすすめるのだ。

もちろん、自分自身が成したことに対して冷静かつ客観的に自己評価をするというのは大切な心持ちだし、過度の自己満足は厳として戒めなければならない。なぜならば、自己満足だけで終わってしまっては何ごとも生み出すことはできないし、自己満足で自己満足していては、いつまでたっても次のステージへ上がることができないからだ。それを踏まえたうえでなお、自己満足は必要不可欠だとわたしは言い切ってしまう。

そして、その自己満足をスタート台として、「他人(ひと)さまのため」「世間のため」「地域のため」を考え行動する。その精神と行為があったとき、自己満足は単なる自己満足で終わることがない。「自利」を「利他」へと昇華するとでも表現すればよいだろうか。

だからこそ、ささやかに、そして慎ましやかに自己満足せよ。 


以上、

「自己満足の世界やから」

という職人さんの言葉をきっかけにして考えた。

(若い人たちへの)「自己満足のすすめ」(のようなもの)である。

「そんなんもアリやな」とココロに留め置いてくれるとありがたい。

 

 

 

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桃知さんのPPTを読んで自問自答してみた。

2018年09月18日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

15日、浅草で桃組の勉強会が開かれた。

今年こそはと行く気満々で、早々と申込みをし、飛行機と宿の予約をし、参加するであろう幾人かに「今回は行くからね、ヨロシク」とごていねいにメッセージを送りつけていた。だが、諸般の事情によりやむなくキャンセル。10年ぶりの参加は泡と消えた。その勉強会で桃知さんが使ったPPTが、"momo's blog" アップロードされていた。

桃知さんが脳梗塞で倒れる5ヶ月前、2009年3月作のPPTだという。そのほとんど(7割強)は難解だ。内容は当時、桃知さんのブログでよく説かれていたもので、そのころのわたしはといえば、その理論がブログに掲載されるたび、一生懸命に理解しようと努めてはみたが、さっぱりわからぬまま終わってしまっていた。今でもそのことだけはよく覚えている。もちろんそんな有様だから、今回読み返してみても同様だ。ということで、今日はそこではない。当時強く感じ入った言説が最初の方に詰まっていた。「ご自由にお使いください。」とのことなので、冒頭からのスライド10枚ほどを転載させていただくことにする。


 

 

 

 

 

 

 

 

 


・情報は変化しない

 システムは変化する

 

・組織(企業・協会)

 というシステムをつくる情報

 =組織のDNA

 ≒ミーム

 ≒社風

 

・環境変化へ適合するために

 組織のDNAを書き換えることは可能か

 

・進化論のアナロジー的には

 可能だということになっている

 

・しかし

 全てを書き換えるわけではない

 

・書き換えられるもの

 文化と業務の慣行

 個別の目的と戦略

 

・書き換えられないもの

 基本的な価値観

 基本的な目的

 

・書き換えられないものを超える環境変化で大進化は起きる。

 若しくは書き換えられないものを書き換えようとすることで淘汰/成功する。

 骰子一擲

 

 

もちろん、当時のわたしにとっての焦点が最後の2枚、

・書き換えられないもの

 基本的な価値観

 基本的な目的

・書き換えられないものを超える環境変化で大進化は起きる。

 若しくは書き換えられないものを書き換えようとすることで淘汰/成功する。

そのなかでも最後の「書き換えられないものを書き換えようとすることで淘汰/成功する。」であったことは言うまでもない。

ということで、久しぶりに相対したこのスライドを読んで、自問自答する。

「汝、果たしてそれを成し得たや否や」

どうひいき目に見てもYesとは言えない。しかし、Noと言下に否定するのが妥当かといえば、それこそNoだ。「わたしとわたしの環境」をそこまで卑下するものではない。

と、あることに気づいた。

「書き換えられないものを書き換えようとすること・・・」

たしかにそこにはそう書いている。

「書き換えること」ではなく、「書き換えようとすること」が「淘汰/成功」に結びつく。ということはつまり、「書き換えようとする」意志のもとで「書き換えようとする」プロセスを繰り返すことが肝要であって、「書き換えられる」かどうかの結果は副次的なものだと、そういうことか?いったんはそう解釈し、ブルルとカブリを振り否定する。

 

書き換えようとした「組織のDNA≒ミーム≒社風」、つまり「基本的な価値観」と「基本的な目的」は、現状を一見すると書き換えることができたようでいて、依然として根っこのところでは書き換えることができておらず、それはやはりどうやっても「書き換えられないもの」だったのかと思わぬでもない。そこのところを無視して、「書き換えようとする」プロセスをあきらめずに繰り返してきたから過去がよし、繰り返しているから今もこの先もそれでよしと解釈するのは、

「そりゃアンタ、そういうのをご都合主義と言うのだよ」

別のわたしが右斜め60度上あたりから指摘するのを受けて、

「ソイツぁそのとおりだ」

とボリボリとアタマを掻く。


「だとすれば、どっちなんだい?」

と先ほどの自問自答をふたたび繰り返し、「むむむ・・・」と目を白黒させてゴホゴホと咳き込む2018年9月18日、朝。

 

 

 

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あしたのために

2018年08月25日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

近ごろ、こんなふうに思うのだ。

「悪い結果は振り返らない」

当然その逆バージョンもある。

「良い結果は振り返る」

もちろん、工事が終われば合格(評定点)通知が届いた日からおおむね1ヶ月以内に反省会と称した「ふりかえり」は行うし、思うような点数に届かなかった項目に対しては検証し次に活かすためにはどうするかを考えもするが、ことさらそこに執着しようとは思わない。「悪い結果」は失敗なのかもしれないし、弱点なのかもしれない。失敗を次へ活かそうとすること、弱点を克服すること、そのプロセスが成長や成熟の糧となる。次の結果がどうであれ、そのプロセスこそがたいせつだ。そういう意味では、「ふりかえり」という行為を避けて通ることはできない。ただ、「ふりかえり」や反省に割くエネルギーや時間は、ほどほどにしておくこと。ましてやそれに執着するに至ってしまっては、骨折り損のナントヤラになってしまう可能性大だ。そこそこでケリをつけて、すぐに明日を向く、これが肝要だ。

 

先日、本年度のメイン(のひとつ)と定めた現場の工事評定点が届いた。一般的な標準からいけば悪くない点数だったが、わたし(たち)の思いにはそぐわない結果だった。よくあることだ。昨年度などは、想像より10点近く低い結果になった工事があった。どちらも、担当者さんに「なぜ?」を確認した。ことわっておくが、詰問する「なぜ?」ではない。点数をつける側には、それなりの根拠があり道理がある。平たく言えば、わたし(たち)が望む数字を、向こうは望んでない。わたし(たち)が望む点数にその現場は値しないと彼らは考えている。問い詰めなくとも、冷静に聴き客観的に判断すれば、たいがいの場合、その「なぜ?」は判明する。

いや、判明させてしまうのだ。

納得するのではない。判明させて理解するだけでよい。

そしてその理解は、結果にケリをつけて次へのスタートをきるためにする理解であって、得心するための理解である必要はない。

 

近ごろ、こんなふうに思うのだ。

「悪い結果は(ほどほどにしか)振り返らない」

当然その逆バージョンもある。

「良い結果は(積極的に)振り返る」

ウィークポイントを補強するという姿勢をなくしてはならないが、ウィークポイントをストロングポイントにするのは生半なことではない。それに対してストロングポイントを磨きさらなるストロングポイントとして高めるのはできなくもなさそうだ。

ということで、反省もしくは「ふりかえり」はほどほどに。

あしたのために。

 

 

ちなみに、本文とは何の関係もないが、この稿、北川村納涼祭の出待ちあるいは合間合間にスマートフォンで書いた。やればできるもんだと、ほんの少し自己満足なのである。


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プレゼンテーションのネタ

2018年08月01日 | ちょっと考えたこと(仕事編)
一番伝わる説明の順番
田中耕比古
フォレスト出版

 

Kindleの位置No.647あたりに、こんな文章がある。

 

「40秒で支度しな!」

 これはアニメ『天空の城ラピュタ』に登場する有名なセリフです。

 空中海賊の首領・ドーラに捕まっていた主人公・パズーが、ムスカに捕まったヒロイン・シータを助けるために一緒に連れて行ってほしいと懇願したときにドーラから言われるセリフです。

 パズーは、おそらく、瞬時にいろんなことに優先順位をつけたはずです。

 物語の最初のあたりで、シータと一緒に逃げたときには、用意していた朝食をカバンにつめ込むことを優先事項に入れたパズーですが、海賊と共にシータを救出に行く際には、食べ物を持って行くことの優先度は極めて低くなります。

 こういう”絞り込み”の技術を身につけないと、ドーラが連れて行ってくれません。それでは、シータを助け出すことができなくなってしまいます。

 

「優先順位をつける」

それは、CCPMと出会ってからのこの12年、わが組織内においてはもとより他所さまに伝える場合でも、幾度となく繰り返してきたキーワードであり、工程管理や現場マネジメントの肝である。それを説明する際のネタとして、「40秒で支度しな!」という逸話のなんと魅力的なことか。さっそく調べてみる。もちろん、あの名作『天空の城ラピュタ』を知らないわけではなく、幾度か見るとはなしに見たこともあるのだが、テレビジョンで流れるそれは、いつもなぜだか真剣に観賞する対象となり得たことがなく、結局物語の筋もよくわかってないわたしだ。

だから調べてみる。

と、こんなサイトを発見した。

 

「40秒で支度しな」ドーラおばさんの名言から役立つビジネススキル

サイトの主さんいわく、

天空の城ラピュタの有名なセリフの一つである「40秒で支度しな」というドーラおばさんの言葉から、様々なリーダーシップを学ぶことができます。ドーラおばさんに学ぶリーダーに必要なビジネスに役立つ資質をまとめました。

 

う~ん、イマイチわかったようでわからない。

そいつぁそうだ。

なんと言ってもこのわたしは、「40秒で支度しな!」の実物を見たことがないか、見ていても記憶にない(見てないといっしょだ)。まずは現物を確認するのが先だろう。

とはいえ「40秒で支度しな!」、あらたなネタとなりそうな予感。

じっくり練ってみたいと目論む、辺境の土木屋なのである。


 

 

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工程計画における因果と縁起

2018年05月18日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

縁起(『コトバンクーブリタニカ国際大百科辞典』より)

仏教用語。他との関係が縁となって生起すること。自己や仏を含む一切の存在は縁起によって成立しており、したがってそれ自身の本性、本質または実体といったものは存在せず、空である、と説かれる。

因果(『コトバンクーブリタニカ国際大百科辞典』より)

原因と結果。事象を成立せしめるものと成立せしめられた事象。「因」に並んで、仏教は「縁」を立てるが、「因」が直接的な原因をさすのに対し「縁」は間接的な動機、原因をいう。

 

 

 

自然を生きる

玄侑宗久・釈徹宗

東京書籍

  

・・・・・・・・

玄侑 縦の方向はどうしても普通にできてきてしまうものですよね。因果的な思考という習慣のせいで。だけど、横の目線というものも大事じゃないかということであえてもち出したのが、わたしは縁起ではないかと思うんです。

 因果律に基づく思想や宗教は他にもありますが、たしかに因果律に、先生の表現で言うところの横が入るところに仏教独特の立ち位置があります。縁起だと因と果という順番にならない場合だってありますよね。結果から原因が特定されるとか、あらためて考えてみたらあれだったなあというような。

玄侑 逆流するとか、渦巻くとかね。

 そうですね。一因一果ではなくて、実はいろんな要素が絡み合って、一時的な状態を保ってそういう状態になったという、それが仏教独特の立場ということになるんでしょうね。

・・・・・・・・

 

CCPMに出会って「工程計画とは因果関係をつき詰め因果関係を解きほぐし因果を組み立てていくこと也」と目覚めたわたしはしかし、途中からこの「因果」という言葉の響きがどうにもしっくりこなくなって「つながり」という言葉を採用し、今日に至っている。そこでは、「つながり=因果関係」である。しかし、「つながり」には、因果という縦糸のつながりと縁起という横糸のつながりがあり、因と果の関係をつき詰めることのみに意識が奪われていたのでは、本当の「つながり」を解明することができないのではないか。縦糸だけで工程を計画するのは片手落ちである。。。。

と、ここまで書いて、「ん、待てよ?」と自分自身に問いかけてみる。


そんなことは、とっくの昔にわかっていたことではないのか。

たとえ意識が因果にあったにせよ、それだけで本物の工程が組み立てられるはずはないではないか。

少なくともわたしがやろうとしてきたこと、あるいはやってきたことは、縁起という横糸も考慮に入れながら工程という織り物を紡ぐことだったのではないか。

だからこそ、無意識のうちに「因果関係」という言葉を捨て、「つながり」という言葉を採用したのではなかったのか。 

 

むむむむむ・・・・

「工程計画における因果と縁起」

すぐに結論は出そうにないが、コイツはなかなかにおもしろそうだ。


「日本人が物事を真面目に考えたら、どうしても仏教になってしまう」(養老孟司)

という言葉にハゲしくうなずくわたし。

 

 

 

 

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時間外労働

2018年04月27日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

夜、依頼されていた資料をつくり終わり、ファイルを添付したメールを送ろうとして、待てよと思いとどまる。

たぶん相手は今、仕事をしてはいない。それならば明朝送っても同じこと、あわてて送ることはない。ひと晩寝かせて、再度チェックしたあとにしようとパソコンを閉じ帰宅した。

少し前までならそうはしてなかった。それなりに、「あわてて送る」理由が存在したからだ。「夜までがんばっていたのだ」というアピールとしてメールを使っていたのだ。知人には、メールを送るためだけにわざわざ休日出勤をしていたという、涙ぐましい努力をしていた人もいる。目くそ鼻くそを笑う。可笑しすぎるが、人のことは笑えない。

今から思うとじつにくだらないことをしていた。

あまつさえ、そのくだらない行為をさも立派なことかのように後輩に推奨していた。

まったくもってナニヲカイワンヤだ。

労働に多くの時間を割くということが美徳だった時代の名残りではあろう。そんな時代に仕事を覚えてきた人間には、珍しくもないことなのかもしれない。

 

35年も前になるだろうか。

「能力ないんやったら時間でかせげや!」

と叱責されたことがあった。

「この会社の誰よりも多く働いてます!!」

と反論した記憶がある。

今という時代の風潮から見れば、怒ったほうも、言い返したほうも、どうも理屈がおかしいのだが、たぶん互いに真剣だった。

ほどなくして、その会社を辞めた。長い時間働かされるのがイヤで辞めたのではない。だいいちその長時間労働は、わたしを叱責した経営者がいみじくも言ったように、時間をかけなければ仕事ができないゆえに自分自身が選択したものであって、けっして上から無理強いさせられたものではなかった。辞職の原因(のひとつ)は、そんな従業員の状態を把握すらしていない経営者に嫌気がさしたことだった。

長時間労働をしてはいけない時代なのだそうだ。 

だが、ことは労働時間の長短ではないと思う。

むしろ、ときとして、過剰なほどに働くことはたいせつだ。この「働き方改革」のご時世に何を言ってるのかオマエは、との誹りは甘んじて受けよう。だが、たとえばその「働き方改革」にしてからが、それを立案推進する総本山たる官僚さんたちは、たぶん寝る間もなく働いて働いて「働き方改革」をすすめようとしているはずだ。パラドクスではあるが笑い話ではない。そういうものなのだ、ということをわたしは言いたいだけである。

久々に、わたしが大好きな文章を引く。

内田樹さんだ。

 

仕事というのは「額に汗して」するものであり、先般も申し上げたように本質的に「オーバーアチーブメント」なのである。
このことは繰り返し学生諸君にお伝えしなければならない。
賃金と労働が「均衡する」ということは原理的にありえない。
人間はつねに「賃金に対して過剰な労働」をする。
というよりむしろ「ほうっておくと賃金以上に働いてしまう傾向」というのが「人間性」を定義する条件の一つなのである。
動物の世界に「とりあえず必要」とされる以上の財貨やサービスの創出に「義務感」や「達成感」を感じる種は存在しない(たぶん)。
「糸の出がいいから」という理由で自分用以外の巣を張る蜘蛛や、「歯の切れがいい」からという理由で隣の一家のためにダムを作ってあげるビーバーを私たちは想像することができない。
そのような「過剰な労働」は動物の本能にはビルトインされていない。
人間は「とりあえず必要」である以上のものを作り出すことによって他の霊長類と分岐した。

どうして「とりあえず必要」である以上のものを作る気になったのか。
たぶん「とりあえず必要」じゃないものは「誰かにあげる」以外に使い道がないからである。
人類の始祖たちは作りすぎたものを「誰か」にあげてみた。
そしたら「気分がよかった」のである。
あるいは、「気分がよい」ので、とりあえず必要な以上にものを作ってみたのかもしれない。
(『内田樹の研究室』2005.5.19『資本主義の黄昏』より)

 

世の中のありとあらゆるところは、オーバーアチーブタイプによって支えられている。それが自然発生か意図的かのいずれにかかわらずアンダーアチーブを実践する人たちが、「組織としての成果」という恩恵を等しく受けているのは、オーバーアチーブタイプの存在があってこそだ。

だからといってわたしは、手放しでオーバーアチーブメントを勧めているわけではない。

ことは労働時間の長短という単純な問題ではない。長ければいいというものではないというのではもちろんないし、短くすればいいというものでもない。長いから悪い、短くすればOK、という議論はことの本質とは離れている。

肝要なのは、仕事に対してどのようなスタンスで臨むかという心持ちである。

労働に自分自身のなにもかにもを捧げてはならない。何もかにもを労働に収れんさせてはならない。

心をしばろうとしてはならない。

心をしばられてはならない。

心をしばられようとしてもならない。

それが、オーバーアチーブメントタイプな人、あるいはそうならんと欲する人、はたまたそう強いられている人にとってたいせつな心持ちなのではないだろうか。

 

あらあら、たかだかメールを送るか送るまいかと逡巡したことについてを、面白おかしく書こうと思って始めたが、いつものことではあるけれど、なんだかとても大げさな話になってしまった。

これもまた大好きな文章を引いて、今日のところは終わりにしよう。

平川克美さんである。

 

社会と会社も別の文脈で考えるべきです。もちろん、それらは画然と区別されるわけではありませんが、少なくとも会社というものが持っている限界、お金儲けとか効率化というものが会社の中では重要な要素ですが、それを社会全般や個人の哲学に適応できるわけではないということに自覚的であるべきです。

(『移行期的乱世の思考』平川克美、PHP研究所、P.163)

 

移行期的乱世の思考 「誰も経験したことがない時代」をどう生きるか
平川克美
PHP研究所

 

わたしの現実がそうなっているかどうかは別として(たぶん違うんだろうな)、心のなかでは、いつもいつでもそう思うようにしている。

でわ。

 

 

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エイジフリー

2018年04月24日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

わたしの友人である自動車メーカーの経営者は、エイジフリー・バリアフリーカンパニーを目指して、実行しています。練達の職人には、指導者、指南役として、定年を過ぎても会社に残って後進を指導する役割が与えられます。もちろん、本人が退職したいと願い出れば、それは自由なのですが、働きたい意思があるならば、年齢は問わない。自動化された現代の製造システムの中では使われない技術であっても、古い職人の技術の中にあったモノづくりのための、感性や、思想を、直接目で見させ、肌で触れさせる指南役です。そうした、現場感覚を研ぎ澄ます中から、新しい時代に転換可能な技術が生まれてくると信じているからです。(『21世紀の楕円幻想論、P.116~117、太字宮内)

 

21世紀の楕円幻想論 その日暮らしの哲学
平川克美
ミシマ社

 

「土木」というわたしたちの仕事においても、これからますますこのような考え方とその実践が必要になってくるのではないだろうか、と思いつつ『21世紀の楕円幻想論』の一節を読む。

もちろん、ただただ働きつづけていればよいというものではなく、パサーとしての「伝える」側には「伝ようという意思」と「伝える技術」が必要なのだし、一方のレシーバー、「伝えられる」側には、そのパスの本質を読み取る感性とそれを受けて次へ活かすのだという強い意欲が求められる。しかし、その両方の邂逅は希少である。そのための環境を整備するという意識を経営者が持ち、その実践がないところでは、実現は容易ではない。


多くの建設業経営者は、若年労働者不足の代替手段として致しかたなく高齢者の雇用をつづけている(ようにわたしにの目には映る)。その気持を代弁すると、「若くてイキのいいやつが入ってくれば、いつまでもこんなロートルたちを使わなくてもいいのだが・・・」てなもんではないだろうか。

必要な人材として企業に残ってもらう。その「必要」とは、員数合わせのための「必要」ではなく、経験と智恵、感性と思想などを次代に受け渡すための「必要」である。そのための意識づけとモティベーションアップを、技術者や技能者個人に要求するだけでなく、老兵がただの老兵で終わらぬようにきちんとした方向性を指し示すのは経営者の責務だ。そしてそれは、その高齢者たちのためばかりではなく、あとへつづく若者たちのためでもある。

技術や技能や感性や思想という先人から受けた「贈与」を返す相手としての先人は、組織内にはすでに存在しない。「返礼」しなければならないという意識があれば、その返礼先として次世代を選択するしかないのだ。その「贈与と返礼のサイクル」の中にその身があるのだという意識づけと、そのために自分自身が何をなすべきかを自分の頭で考え、自分の身体を使って動くという方法を、老兵たちが自分自身で採用するべきだ。しかし、、、生き方、死に方、生き場所、死に場所、、、自らそれを見つけられる人はそれほど多くはない。その現実を踏まえると、全国に数多存在する高齢技能者高齢技術者にそれを与え、次代のために「奉公」してもらう場を設けることができる立場と、それを実行しなければならない役割を誰が担うかは自ずと決まってくるのではないだろうか。

バカとハサミは使いよう。

使う側の力量や能力によって人材が人材たり得るのもまた事実。

「ないものねだり」より「あるものさがし」。

そんな視点を持つこともたいせつなのではないだろうか。

 

 

と、ここまで書き、投稿をするために頭から読み返してみると、あらあら、いつもよりなんだか少し言葉が硬い。それに、選ぶ言葉もヒラカワ的になっているような・・・・・・

ま、いいか。

ボリボリとアタマを掻きつつアップロード。



 


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街角のヴィーナス

2018年04月23日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

姪っ子の結婚式に参列するため大阪へ。

写真撮影班のおねえさんがやたらと格好よくて、ことあるたびに、

「オレ、反射してない?」

とか

「光り過ぎてない?」

とかとちょっかいをかける酔っ払いのオジさん。

そんな戯言を受け流しながら、自らに与えられた仕事をこなしていく彼女を見て、思わず独りごちた言葉。

「プロやなあ。。。」

 

生き生きと、そして軽やかに仕事する人を見るのは楽しい。


 

 

街角のヴィーナス


中島みゆきを口ずさみながらオジさんは考える。

君やアナタや僕や私、、、公共建設工事という業界の構成員たるわたしたちにもっとも欠けているものは、この軽やかさであり、このにこやかさなのではないかと。

欠けていることが悪いというわけではないけれど、そのことに対し無自覚であること、あるいは、「だからどうよ」という態度は、厳として否定されなければならないとわたしは思う。

 

 

 

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オジさんたちへ

2018年03月08日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

3月3日に行われた卓球のジャパン・トップ12で第一人者水谷隼が全日本チャンピオン張本智和を破って昨年の世界選手権と今年の全日本選手権で敗れた雪辱を果たした。全日本で張本くんに負けたあと、「何回やっても勝てない」と話した28歳の水谷くんが一矢を報いた形となったそのゲームについて書いた”JIJI.COM”(時事通信社)の『卓球「10代革命」に一矢 水谷雪辱の意義』という記事がおもしろかった。特に、こんな箇所に得たりとうなずいた高知県安芸郡北川村在住60歳の「辺境の土木屋」なのである。


 では、ベテランが生き延びるすべはないのか。「新しい技術をどんどん覚えれば勝てる。そうすれば経験やパワーがある分、むしろベテランが勝てる。ベテランだから不利ではなく、新しい技術を覚えない選手が不利になる。今の若手もいずれベテランになるんだから。水谷は毎年新しい技術に挑戦して、それがリオデジャネイロ五輪のメダル(団体銀、シングルス銅)にもなった。自分自身が新技術をやっているから新技術に弱いということがない。そこが彼のすごいところ」


読んだ刹那、脳内を鶴田浩二の台詞が流れ始めた。

(歌の意味はまったくちがいますが)

 

♪ 古い奴だとお思いでしょうが、

  古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます ♪

 

新しい技術をどんどん覚えれば勝てる。

ベテランであることが不利なのではない。

新しい技術を覚えないベテランだから勝てないのだ。

ベテランとはいえ28歳は、齢60を過ぎてしまったわたしからみればとてつもなく若い。しかし、そこから学び取れることは大きいのではないか。 

などと考えていると、今度はSHOGUN『男達のメロディー』が聞こえてきた。


♪ 男だったら流れ弾のひとつやふたつ

 胸にいつでもささってる ささってる ♪


完全にわたしの思考は、28歳のベテラン元王者と14歳の少年王者のストーリーから還暦過ぎのオジさんたる自分自身に移っている。そう、「オジさん」(ベテラン)たちには、自分自身が向かっていってできた傷は当然のこと、火中の栗を拾うことによって流れ弾に当たりできた傷もある。それが経験であり、その経験からしか生まれない「勘」の源泉となる。それを踏まえ冒頭の記事に習うと結論はこうだ。


むしろ現場でつちかった経験と勘がある分、新しい技術を覚えた「オジさん」のほうが強い。

そして、新技術に挑戦しつづけてきた経験と実績、そしてそれを繰り返してきたという自負が「オジさん」にあれば、新たに生まれてくる新技術にも対応できる。


わたしがここで言う新技術とは、何もICTやCIMやらのいわゆる「情報化」にまつわる事柄だけを指してはいない。たとえ他業界では目新しくなくとも、わが業界にとっては「新しいこと」「新しいもの」「新しい考え方」、もっといえば自分自身にとっての「新しいこと」「新しいもの」「新しい考え方」、それらを「新技術」と読み替えてもいいとわたしは思う。それらにチャレンジし、ときには自家中毒を起こし七転八倒し、ときには吐き出しつつもそれらを吸収していくプロセスを繰り返す「オジさん」が、「オレは歳だからもうイイもんネ」と新しいことを拒絶しつづけるオジさんと同じであろうはずがない。

とかナントカいってるうちに、今度は竹原ピストルのドスのきいた声が聞こえてきた。


♪ 積み上げてきたもので勝負しても勝てねえよ

  積み上げてきたものと勝負しなきゃ勝てねえよ ♪


とはいえそれは簡単なことではない。それには、いくつになっても精神のしなやかさを保ちつづける柔軟性と、それとはまったく相反することではあるが、負けてなるかという意地と、そしていつまでもチャレンジしつづけるための意志が必要だ。

しかし、だからといって、そこで肩肘を張り気負ってばかりいては「オジさん」の「オジさん」としての価値はない。まあ、いいではないか。それがなくなったとき、そのときは、右手の親指を立て人差し指を右のこめかみにあて、

「バーン」

とひとこと。技術屋としての自分自身に引導を渡してジ・エンドにすればいいだけのことだ、ぐらいの開き直りも必要だろう。

と、脳内でリフレインする『オールドルーキー』をBGMに、自分で自分にそう言い聞かす朝。

おっとその前に、腹が減ってはいくさができぬ。

さて、メシでも食うか。

 

 

 

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