答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

桃知さんのPPTを読んで自問自答してみた。

2018年09月18日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

15日、浅草で桃組の勉強会が開かれた。

今年こそはと行く気満々で、早々と申込みをし、飛行機と宿の予約をし、参加するであろう幾人かに「今回は行くからね、ヨロシク」とごていねいにメッセージを送りつけていた。だが、諸般の事情によりやむなくキャンセル。10年ぶりの参加は泡と消えた。その勉強会で桃知さんが使ったPPTが、"momo's blog" アップロードされていた。

桃知さんが脳梗塞で倒れる5ヶ月前、2009年3月作のPPTだという。そのほとんど(7割強)は難解だ。内容は当時、桃知さんのブログでよく説かれていたもので、そのころのわたしはといえば、その理論がブログに掲載されるたび、一生懸命に理解しようと努めてはみたが、さっぱりわからぬまま終わってしまっていた。今でもそのことだけはよく覚えている。もちろんそんな有様だから、今回読み返してみても同様だ。ということで、今日はそこではない。当時強く感じ入った言説が最初の方に詰まっていた。「ご自由にお使いください。」とのことなので、冒頭からのスライド10枚ほどを転載させていただくことにする。


 

 

 

 

 

 

 

 

 


・情報は変化しない

 システムは変化する

 

・組織(企業・協会)

 というシステムをつくる情報

 =組織のDNA

 ≒ミーム

 ≒社風

 

・環境変化へ適合するために

 組織のDNAを書き換えることは可能か

 

・進化論のアナロジー的には

 可能だということになっている

 

・しかし

 全てを書き換えるわけではない

 

・書き換えられるもの

 文化と業務の慣行

 個別の目的と戦略

 

・書き換えられないもの

 基本的な価値観

 基本的な目的

 

・書き換えられないものを超える環境変化で大進化は起きる。

 若しくは書き換えられないものを書き換えようとすることで淘汰/成功する。

 骰子一擲

 

 

もちろん、当時のわたしにとっての焦点が最後の2枚、

・書き換えられないもの

 基本的な価値観

 基本的な目的

・書き換えられないものを超える環境変化で大進化は起きる。

 若しくは書き換えられないものを書き換えようとすることで淘汰/成功する。

そのなかでも最後の「書き換えられないものを書き換えようとすることで淘汰/成功する。」であったことは言うまでもない。

ということで、久しぶりに相対したこのスライドを読んで、自問自答する。

「汝、果たしてそれを成し得たや否や」

どうひいき目に見てもYesとは言えない。しかし、Noと言下に否定するのが妥当かといえば、それこそNoだ。「わたしとわたしの環境」をそこまで卑下するものではない。

と、あることに気づいた。

「書き換えられないものを書き換えようとすること・・・」

たしかにそこにはそう書いている。

「書き換えること」ではなく、「書き換えようとすること」が「淘汰/成功」に結びつく。ということはつまり、「書き換えようとする」意志のもとで「書き換えようとする」プロセスを繰り返すことが肝要であって、「書き換えられる」かどうかの結果は副次的なものだと、そういうことか?いったんはそう解釈し、ブルルとカブリを振り否定する。

 

書き換えようとした「組織のDNA≒ミーム≒社風」、つまり「基本的な価値観」と「基本的な目的」は、現状を一見すると書き換えることができたようでいて、依然として根っこのところでは書き換えることができておらず、それはやはりどうやっても「書き換えられないもの」だったのかと思わぬでもない。そこのところを無視して、「書き換えようとする」プロセスをあきらめずに繰り返してきたから過去がよし、繰り返しているから今もこの先もそれでよしと解釈するのは、

「そりゃアンタ、そういうのをご都合主義と言うのだよ」

別のわたしが右斜め60度上あたりから指摘するのを受けて、

「ソイツぁそのとおりだ」

とボリボリとアタマを掻く。


「だとすれば、どっちなんだい?」

と先ほどの自問自答をふたたび繰り返し、「むむむ・・・」と目を白黒させてゴホゴホと咳き込む2018年9月18日、朝。

 

 

 

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あしたのために

2018年08月25日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

近ごろ、こんなふうに思うのだ。

「悪い結果は振り返らない」

当然その逆バージョンもある。

「良い結果は振り返る」

もちろん、工事が終われば合格(評定点)通知が届いた日からおおむね1ヶ月以内に反省会と称した「ふりかえり」は行うし、思うような点数に届かなかった項目に対しては検証し次に活かすためにはどうするかを考えもするが、ことさらそこに執着しようとは思わない。「悪い結果」は失敗なのかもしれないし、弱点なのかもしれない。失敗を次へ活かそうとすること、弱点を克服すること、そのプロセスが成長や成熟の糧となる。次の結果がどうであれ、そのプロセスこそがたいせつだ。そういう意味では、「ふりかえり」という行為を避けて通ることはできない。ただ、「ふりかえり」や反省に割くエネルギーや時間は、ほどほどにしておくこと。ましてやそれに執着するに至ってしまっては、骨折り損のナントヤラになってしまう可能性大だ。そこそこでケリをつけて、すぐに明日を向く、これが肝要だ。

 

先日、本年度のメイン(のひとつ)と定めた現場の工事評定点が届いた。一般的な標準からいけば悪くない点数だったが、わたし(たち)の思いにはそぐわない結果だった。よくあることだ。昨年度などは、想像より10点近く低い結果になった工事があった。どちらも、担当者さんに「なぜ?」を確認した。ことわっておくが、詰問する「なぜ?」ではない。点数をつける側には、それなりの根拠があり道理がある。平たく言えば、わたし(たち)が望む数字を、向こうは望んでない。わたし(たち)が望む点数にその現場は値しないと彼らは考えている。問い詰めなくとも、冷静に聴き客観的に判断すれば、たいがいの場合、その「なぜ?」は判明する。

いや、判明させてしまうのだ。

納得するのではない。判明させて理解するだけでよい。

そしてその理解は、結果にケリをつけて次へのスタートをきるためにする理解であって、得心するための理解である必要はない。

 

近ごろ、こんなふうに思うのだ。

「悪い結果は(ほどほどにしか)振り返らない」

当然その逆バージョンもある。

「良い結果は(積極的に)振り返る」

ウィークポイントを補強するという姿勢をなくしてはならないが、ウィークポイントをストロングポイントにするのは生半なことではない。それに対してストロングポイントを磨きさらなるストロングポイントとして高めるのはできなくもなさそうだ。

ということで、反省もしくは「ふりかえり」はほどほどに。

あしたのために。

 

 

ちなみに、本文とは何の関係もないが、この稿、北川村納涼祭の出待ちあるいは合間合間にスマートフォンで書いた。やればできるもんだと、ほんの少し自己満足なのである。


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プレゼンテーションのネタ

2018年08月01日 | ちょっと考えたこと(仕事編)
一番伝わる説明の順番
田中耕比古
フォレスト出版

 

Kindleの位置No.647あたりに、こんな文章がある。

 

「40秒で支度しな!」

 これはアニメ『天空の城ラピュタ』に登場する有名なセリフです。

 空中海賊の首領・ドーラに捕まっていた主人公・パズーが、ムスカに捕まったヒロイン・シータを助けるために一緒に連れて行ってほしいと懇願したときにドーラから言われるセリフです。

 パズーは、おそらく、瞬時にいろんなことに優先順位をつけたはずです。

 物語の最初のあたりで、シータと一緒に逃げたときには、用意していた朝食をカバンにつめ込むことを優先事項に入れたパズーですが、海賊と共にシータを救出に行く際には、食べ物を持って行くことの優先度は極めて低くなります。

 こういう”絞り込み”の技術を身につけないと、ドーラが連れて行ってくれません。それでは、シータを助け出すことができなくなってしまいます。

 

「優先順位をつける」

それは、CCPMと出会ってからのこの12年、わが組織内においてはもとより他所さまに伝える場合でも、幾度となく繰り返してきたキーワードであり、工程管理や現場マネジメントの肝である。それを説明する際のネタとして、「40秒で支度しな!」という逸話のなんと魅力的なことか。さっそく調べてみる。もちろん、あの名作『天空の城ラピュタ』を知らないわけではなく、幾度か見るとはなしに見たこともあるのだが、テレビジョンで流れるそれは、いつもなぜだか真剣に観賞する対象となり得たことがなく、結局物語の筋もよくわかってないわたしだ。

だから調べてみる。

と、こんなサイトを発見した。

 

「40秒で支度しな」ドーラおばさんの名言から役立つビジネススキル

サイトの主さんいわく、

天空の城ラピュタの有名なセリフの一つである「40秒で支度しな」というドーラおばさんの言葉から、様々なリーダーシップを学ぶことができます。ドーラおばさんに学ぶリーダーに必要なビジネスに役立つ資質をまとめました。

 

う~ん、イマイチわかったようでわからない。

そいつぁそうだ。

なんと言ってもこのわたしは、「40秒で支度しな!」の実物を見たことがないか、見ていても記憶にない(見てないといっしょだ)。まずは現物を確認するのが先だろう。

とはいえ「40秒で支度しな!」、あらたなネタとなりそうな予感。

じっくり練ってみたいと目論む、辺境の土木屋なのである。


 

 

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工程計画における因果と縁起

2018年05月18日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

縁起(『コトバンクーブリタニカ国際大百科辞典』より)

仏教用語。他との関係が縁となって生起すること。自己や仏を含む一切の存在は縁起によって成立しており、したがってそれ自身の本性、本質または実体といったものは存在せず、空である、と説かれる。

因果(『コトバンクーブリタニカ国際大百科辞典』より)

原因と結果。事象を成立せしめるものと成立せしめられた事象。「因」に並んで、仏教は「縁」を立てるが、「因」が直接的な原因をさすのに対し「縁」は間接的な動機、原因をいう。

 

 

 

自然を生きる

玄侑宗久・釈徹宗

東京書籍

  

・・・・・・・・

玄侑 縦の方向はどうしても普通にできてきてしまうものですよね。因果的な思考という習慣のせいで。だけど、横の目線というものも大事じゃないかということであえてもち出したのが、わたしは縁起ではないかと思うんです。

 因果律に基づく思想や宗教は他にもありますが、たしかに因果律に、先生の表現で言うところの横が入るところに仏教独特の立ち位置があります。縁起だと因と果という順番にならない場合だってありますよね。結果から原因が特定されるとか、あらためて考えてみたらあれだったなあというような。

玄侑 逆流するとか、渦巻くとかね。

 そうですね。一因一果ではなくて、実はいろんな要素が絡み合って、一時的な状態を保ってそういう状態になったという、それが仏教独特の立場ということになるんでしょうね。

・・・・・・・・

 

CCPMに出会って「工程計画とは因果関係をつき詰め因果関係を解きほぐし因果を組み立てていくこと也」と目覚めたわたしはしかし、途中からこの「因果」という言葉の響きがどうにもしっくりこなくなって「つながり」という言葉を採用し、今日に至っている。そこでは、「つながり=因果関係」である。しかし、「つながり」には、因果という縦糸のつながりと縁起という横糸のつながりがあり、因と果の関係をつき詰めることのみに意識が奪われていたのでは、本当の「つながり」を解明することができないのではないか。縦糸だけで工程を計画するのは片手落ちである。。。。

と、ここまで書いて、「ん、待てよ?」と自分自身に問いかけてみる。


そんなことは、とっくの昔にわかっていたことではないのか。

たとえ意識が因果にあったにせよ、それだけで本物の工程が組み立てられるはずはないではないか。

少なくともわたしがやろうとしてきたこと、あるいはやってきたことは、縁起という横糸も考慮に入れながら工程という織り物を紡ぐことだったのではないか。

だからこそ、無意識のうちに「因果関係」という言葉を捨て、「つながり」という言葉を採用したのではなかったのか。 

 

むむむむむ・・・・

「工程計画における因果と縁起」

すぐに結論は出そうにないが、コイツはなかなかにおもしろそうだ。


「日本人が物事を真面目に考えたら、どうしても仏教になってしまう」(養老孟司)

という言葉にハゲしくうなずくわたし。

 

 

 

 

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時間外労働

2018年04月27日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

夜、依頼されていた資料をつくり終わり、ファイルを添付したメールを送ろうとして、待てよと思いとどまる。

たぶん相手は今、仕事をしてはいない。それならば明朝送っても同じこと、あわてて送ることはない。ひと晩寝かせて、再度チェックしたあとにしようとパソコンを閉じ帰宅した。

少し前までならそうはしてなかった。それなりに、「あわてて送る」理由が存在したからだ。「夜までがんばっていたのだ」というアピールとしてメールを使っていたのだ。知人には、メールを送るためだけにわざわざ休日出勤をしていたという、涙ぐましい努力をしていた人もいる。目くそ鼻くそを笑う。可笑しすぎるが、人のことは笑えない。

今から思うとじつにくだらないことをしていた。

あまつさえ、そのくだらない行為をさも立派なことかのように後輩に推奨していた。

まったくもってナニヲカイワンヤだ。

労働に多くの時間を割くということが美徳だった時代の名残りではあろう。そんな時代に仕事を覚えてきた人間には、珍しくもないことなのかもしれない。

 

35年も前になるだろうか。

「能力ないんやったら時間でかせげや!」

と叱責されたことがあった。

「この会社の誰よりも多く働いてます!!」

と反論した記憶がある。

今という時代の風潮から見れば、怒ったほうも、言い返したほうも、どうも理屈がおかしいのだが、たぶん互いに真剣だった。

ほどなくして、その会社を辞めた。長い時間働かされるのがイヤで辞めたのではない。だいいちその長時間労働は、わたしを叱責した経営者がいみじくも言ったように、時間をかけなければ仕事ができないゆえに自分自身が選択したものであって、けっして上から無理強いさせられたものではなかった。辞職の原因(のひとつ)は、そんな従業員の状態を把握すらしていない経営者に嫌気がさしたことだった。

長時間労働をしてはいけない時代なのだそうだ。 

だが、ことは労働時間の長短ではないと思う。

むしろ、ときとして、過剰なほどに働くことはたいせつだ。この「働き方改革」のご時世に何を言ってるのかオマエは、との誹りは甘んじて受けよう。だが、たとえばその「働き方改革」にしてからが、それを立案推進する総本山たる官僚さんたちは、たぶん寝る間もなく働いて働いて「働き方改革」をすすめようとしているはずだ。パラドクスではあるが笑い話ではない。そういうものなのだ、ということをわたしは言いたいだけである。

久々に、わたしが大好きな文章を引く。

内田樹さんだ。

 

仕事というのは「額に汗して」するものであり、先般も申し上げたように本質的に「オーバーアチーブメント」なのである。
このことは繰り返し学生諸君にお伝えしなければならない。
賃金と労働が「均衡する」ということは原理的にありえない。
人間はつねに「賃金に対して過剰な労働」をする。
というよりむしろ「ほうっておくと賃金以上に働いてしまう傾向」というのが「人間性」を定義する条件の一つなのである。
動物の世界に「とりあえず必要」とされる以上の財貨やサービスの創出に「義務感」や「達成感」を感じる種は存在しない(たぶん)。
「糸の出がいいから」という理由で自分用以外の巣を張る蜘蛛や、「歯の切れがいい」からという理由で隣の一家のためにダムを作ってあげるビーバーを私たちは想像することができない。
そのような「過剰な労働」は動物の本能にはビルトインされていない。
人間は「とりあえず必要」である以上のものを作り出すことによって他の霊長類と分岐した。

どうして「とりあえず必要」である以上のものを作る気になったのか。
たぶん「とりあえず必要」じゃないものは「誰かにあげる」以外に使い道がないからである。
人類の始祖たちは作りすぎたものを「誰か」にあげてみた。
そしたら「気分がよかった」のである。
あるいは、「気分がよい」ので、とりあえず必要な以上にものを作ってみたのかもしれない。
(『内田樹の研究室』2005.5.19『資本主義の黄昏』より)

 

世の中のありとあらゆるところは、オーバーアチーブタイプによって支えられている。それが自然発生か意図的かのいずれにかかわらずアンダーアチーブを実践する人たちが、「組織としての成果」という恩恵を等しく受けているのは、オーバーアチーブタイプの存在があってこそだ。

だからといってわたしは、手放しでオーバーアチーブメントを勧めているわけではない。

ことは労働時間の長短という単純な問題ではない。長ければいいというものではないというのではもちろんないし、短くすればいいというものでもない。長いから悪い、短くすればOK、という議論はことの本質とは離れている。

肝要なのは、仕事に対してどのようなスタンスで臨むかという心持ちである。

労働に自分自身のなにもかにもを捧げてはならない。何もかにもを労働に収れんさせてはならない。

心をしばろうとしてはならない。

心をしばられてはならない。

心をしばられようとしてもならない。

それが、オーバーアチーブメントタイプな人、あるいはそうならんと欲する人、はたまたそう強いられている人にとってたいせつな心持ちなのではないだろうか。

 

あらあら、たかだかメールを送るか送るまいかと逡巡したことについてを、面白おかしく書こうと思って始めたが、いつものことではあるけれど、なんだかとても大げさな話になってしまった。

これもまた大好きな文章を引いて、今日のところは終わりにしよう。

平川克美さんである。

 

社会と会社も別の文脈で考えるべきです。もちろん、それらは画然と区別されるわけではありませんが、少なくとも会社というものが持っている限界、お金儲けとか効率化というものが会社の中では重要な要素ですが、それを社会全般や個人の哲学に適応できるわけではないということに自覚的であるべきです。

(『移行期的乱世の思考』平川克美、PHP研究所、P.163)

 

移行期的乱世の思考 「誰も経験したことがない時代」をどう生きるか
平川克美
PHP研究所

 

わたしの現実がそうなっているかどうかは別として(たぶん違うんだろうな)、心のなかでは、いつもいつでもそう思うようにしている。

でわ。

 

 

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エイジフリー

2018年04月24日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

わたしの友人である自動車メーカーの経営者は、エイジフリー・バリアフリーカンパニーを目指して、実行しています。練達の職人には、指導者、指南役として、定年を過ぎても会社に残って後進を指導する役割が与えられます。もちろん、本人が退職したいと願い出れば、それは自由なのですが、働きたい意思があるならば、年齢は問わない。自動化された現代の製造システムの中では使われない技術であっても、古い職人の技術の中にあったモノづくりのための、感性や、思想を、直接目で見させ、肌で触れさせる指南役です。そうした、現場感覚を研ぎ澄ます中から、新しい時代に転換可能な技術が生まれてくると信じているからです。(『21世紀の楕円幻想論、P.116~117、太字宮内)

 

21世紀の楕円幻想論 その日暮らしの哲学
平川克美
ミシマ社

 

「土木」というわたしたちの仕事においても、これからますますこのような考え方とその実践が必要になってくるのではないだろうか、と思いつつ『21世紀の楕円幻想論』の一節を読む。

もちろん、ただただ働きつづけていればよいというものではなく、パサーとしての「伝える」側には「伝ようという意思」と「伝える技術」が必要なのだし、一方のレシーバー、「伝えられる」側には、そのパスの本質を読み取る感性とそれを受けて次へ活かすのだという強い意欲が求められる。しかし、その両方の邂逅は希少である。そのための環境を整備するという意識を経営者が持ち、その実践がないところでは、実現は容易ではない。


多くの建設業経営者は、若年労働者不足の代替手段として致しかたなく高齢者の雇用をつづけている(ようにわたしにの目には映る)。その気持を代弁すると、「若くてイキのいいやつが入ってくれば、いつまでもこんなロートルたちを使わなくてもいいのだが・・・」てなもんではないだろうか。

必要な人材として企業に残ってもらう。その「必要」とは、員数合わせのための「必要」ではなく、経験と智恵、感性と思想などを次代に受け渡すための「必要」である。そのための意識づけとモティベーションアップを、技術者や技能者個人に要求するだけでなく、老兵がただの老兵で終わらぬようにきちんとした方向性を指し示すのは経営者の責務だ。そしてそれは、その高齢者たちのためばかりではなく、あとへつづく若者たちのためでもある。

技術や技能や感性や思想という先人から受けた「贈与」を返す相手としての先人は、組織内にはすでに存在しない。「返礼」しなければならないという意識があれば、その返礼先として次世代を選択するしかないのだ。その「贈与と返礼のサイクル」の中にその身があるのだという意識づけと、そのために自分自身が何をなすべきかを自分の頭で考え、自分の身体を使って動くという方法を、老兵たちが自分自身で採用するべきだ。しかし、、、生き方、死に方、生き場所、死に場所、、、自らそれを見つけられる人はそれほど多くはない。その現実を踏まえると、全国に数多存在する高齢技能者高齢技術者にそれを与え、次代のために「奉公」してもらう場を設けることができる立場と、それを実行しなければならない役割を誰が担うかは自ずと決まってくるのではないだろうか。

バカとハサミは使いよう。

使う側の力量や能力によって人材が人材たり得るのもまた事実。

「ないものねだり」より「あるものさがし」。

そんな視点を持つこともたいせつなのではないだろうか。

 

 

と、ここまで書き、投稿をするために頭から読み返してみると、あらあら、いつもよりなんだか少し言葉が硬い。それに、選ぶ言葉もヒラカワ的になっているような・・・・・・

ま、いいか。

ボリボリとアタマを掻きつつアップロード。



 


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街角のヴィーナス

2018年04月23日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

姪っ子の結婚式に参列するため大阪へ。

写真撮影班のおねえさんがやたらと格好よくて、ことあるたびに、

「オレ、反射してない?」

とか

「光り過ぎてない?」

とかとちょっかいをかける酔っ払いのオジさん。

そんな戯言を受け流しながら、自らに与えられた仕事をこなしていく彼女を見て、思わず独りごちた言葉。

「プロやなあ。。。」

 

生き生きと、そして軽やかに仕事する人を見るのは楽しい。


 

 

街角のヴィーナス


中島みゆきを口ずさみながらオジさんは考える。

君やアナタや僕や私、、、公共建設工事という業界の構成員たるわたしたちにもっとも欠けているものは、この軽やかさであり、このにこやかさなのではないかと。

欠けていることが悪いというわけではないけれど、そのことに対し無自覚であること、あるいは、「だからどうよ」という態度は、厳として否定されなければならないとわたしは思う。

 

 

 

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オジさんたちへ

2018年03月08日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

3月3日に行われた卓球のジャパン・トップ12で第一人者水谷隼が全日本チャンピオン張本智和を破って昨年の世界選手権と今年の全日本選手権で敗れた雪辱を果たした。全日本で張本くんに負けたあと、「何回やっても勝てない」と話した28歳の水谷くんが一矢を報いた形となったそのゲームについて書いた”JIJI.COM”(時事通信社)の『卓球「10代革命」に一矢 水谷雪辱の意義』という記事がおもしろかった。特に、こんな箇所に得たりとうなずいた高知県安芸郡北川村在住60歳の「辺境の土木屋」なのである。


 では、ベテランが生き延びるすべはないのか。「新しい技術をどんどん覚えれば勝てる。そうすれば経験やパワーがある分、むしろベテランが勝てる。ベテランだから不利ではなく、新しい技術を覚えない選手が不利になる。今の若手もいずれベテランになるんだから。水谷は毎年新しい技術に挑戦して、それがリオデジャネイロ五輪のメダル(団体銀、シングルス銅)にもなった。自分自身が新技術をやっているから新技術に弱いということがない。そこが彼のすごいところ」


読んだ刹那、脳内を鶴田浩二の台詞が流れ始めた。

(歌の意味はまったくちがいますが)

 

♪ 古い奴だとお思いでしょうが、

  古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます ♪

 

新しい技術をどんどん覚えれば勝てる。

ベテランであることが不利なのではない。

新しい技術を覚えないベテランだから勝てないのだ。

ベテランとはいえ28歳は、齢60を過ぎてしまったわたしからみればとてつもなく若い。しかし、そこから学び取れることは大きいのではないか。 

などと考えていると、今度はSHOGUN『男達のメロディー』が聞こえてきた。


♪ 男だったら流れ弾のひとつやふたつ

 胸にいつでもささってる ささってる ♪


完全にわたしの思考は、28歳のベテラン元王者と14歳の少年王者のストーリーから還暦過ぎのオジさんたる自分自身に移っている。そう、「オジさん」(ベテラン)たちには、自分自身が向かっていってできた傷は当然のこと、火中の栗を拾うことによって流れ弾に当たりできた傷もある。それが経験であり、その経験からしか生まれない「勘」の源泉となる。それを踏まえ冒頭の記事に習うと結論はこうだ。


むしろ現場でつちかった経験と勘がある分、新しい技術を覚えた「オジさん」のほうが強い。

そして、新技術に挑戦しつづけてきた経験と実績、そしてそれを繰り返してきたという自負が「オジさん」にあれば、新たに生まれてくる新技術にも対応できる。


わたしがここで言う新技術とは、何もICTやCIMやらのいわゆる「情報化」にまつわる事柄だけを指してはいない。たとえ他業界では目新しくなくとも、わが業界にとっては「新しいこと」「新しいもの」「新しい考え方」、もっといえば自分自身にとっての「新しいこと」「新しいもの」「新しい考え方」、それらを「新技術」と読み替えてもいいとわたしは思う。それらにチャレンジし、ときには自家中毒を起こし七転八倒し、ときには吐き出しつつもそれらを吸収していくプロセスを繰り返す「オジさん」が、「オレは歳だからもうイイもんネ」と新しいことを拒絶しつづけるオジさんと同じであろうはずがない。

とかナントカいってるうちに、今度は竹原ピストルのドスのきいた声が聞こえてきた。


♪ 積み上げてきたもので勝負しても勝てねえよ

  積み上げてきたものと勝負しなきゃ勝てねえよ ♪


とはいえそれは簡単なことではない。それには、いくつになっても精神のしなやかさを保ちつづける柔軟性と、それとはまったく相反することではあるが、負けてなるかという意地と、そしていつまでもチャレンジしつづけるための意志が必要だ。

しかし、だからといって、そこで肩肘を張り気負ってばかりいては「オジさん」の「オジさん」としての価値はない。まあ、いいではないか。それがなくなったとき、そのときは、右手の親指を立て人差し指を右のこめかみにあて、

「バーン」

とひとこと。技術屋としての自分自身に引導を渡してジ・エンドにすればいいだけのことだ、ぐらいの開き直りも必要だろう。

と、脳内でリフレインする『オールドルーキー』をBGMに、自分で自分にそう言い聞かす朝。

おっとその前に、腹が減ってはいくさができぬ。

さて、メシでも食うか。

 

 

 

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私はどんなものをつくればいいの? ~ 『おとなの小論文教室。』(山田ズーニー)を読んで考えた

2018年03月05日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

「私はこれからどこへ行けばいいの?」

「それはどこへ行きたいかでちがうさ」

 

『おとなのための小論文教室。』で紹介されていた『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル)のなかの一節だ。

 

おとなの小論文教室。 (河出文庫)
山田ズーニー
河出書房新社

 

不思議の国のアリス (角川文庫)

ルイス・キャロル

河合祥一郎訳

角川書店(角川グループパブリッシング)

 

読むと同時にそのセンテンスは、わたしの脳内で次のように置き換えられていた。

 

「私はこの場合どんなものをつくればいいの?」

「それはどんなものをつくりたいかでちがうさ」 

 

もちろん、公共建設工事という、辺境の土木屋たるわたしのメインフィールドでの話、しかもそのなかで主たる位置を占めているはずの現場技術者の話である。

こんなことを書くと、業界の構成員以外の人には奇異に映るのかもしれない。「”どんなものをつくればいいか”を理解せずにモノづくりに携わっている人がいるのか?」と。そして、構成員にも訝しがられるかもしれない。「そんなやつおれへんやろ」と。

いるのである。

現にわたしは、そういう人を数多く見てきた。

施工プロセスチェックの一項目に「設計図書の照査」というものがある。そのため発注者は、「設計図書を照査してますか?」とわたしたちに問う。失礼ながらそしてはなはだ勝手ではあるけれど、わたしはそれをこんなふうに捉えている。

「設計図書を疑ってくれましたか?」

 

そもそもスタートがちがうのだ。設計図書を金科玉条にして、設計を遵守することがおのれに課せられた役割だと勘違いし、設計どおりモノをつくろうというところから始める人と、自分たち施工屋にはない技術力で構築された設計図書を尊重しつつも、地場中小建設業者の智恵と経験と勘をフル動員してその設計が現地に適しているかどうかについて考察するところから始める人と。そもそもスタート地点からしてちがうのだ。

 

「私はこの場合どんなものをつくればいいの?」

 「それはどんなものをつくりたいかでちがうさ」 


設計図書どおりにすべてが進むのならそんな問いもそれに対する答えも必要ないだろう。だとしたら、答えは設計図書に書いて(描いて)いるからだ。しかし、「土木という仕事」では、100%設計どおりに仕事が進むことなどまずあり得ない。自然環境、現地とのすり合わせ、地域住民とのすり合わせ・・・・などなどの要素がからんで、設計図書のとおりにはならない。

「あい変わらずひねくれてるなあオマエ」と思うなかれ。わたしが生来のひねくれ者だからそう思うのではない。厳然たる事実としてそれはある。そんななかで、何ごとかの問題が発生したとき、よく散見されるのが「お伺いを立てる」、つまり、

「私はこの場合どんなものをつくればいいの?」

という問いを発注者に投げかけて指示をあおぐというスタイルだ。

そして待つ。指示待ちの時間を無為に過ごす。いつまでたっても答えは出ない。少なくともすぐには出ない。すると、すぐに出ないことに対して非難する。かといって、おおっぴらには言えない。ゆえに、相手には言わず身内という閉じた円環のなかで咎めだてをする。いわゆる「他人のせい」というやつだ。だが、相手は出ないのではなく出せないのかもしれない。少なくともすぐには出しにくいのかもしれない。ぜか。

「(とりあえず)お伺いを立てる」という仕事のスタイルには、「どんなものをつくりたいか」という施工者の「想い」がないからだ。そもそも、「お伺い」だけですぐに回答をもらおうなどという了見そのものが虫がよすぎるのだ。

いやいや、そうエラそうに言うわたしとて、そうして考えた自分の案が採用されることはそれほど多くない。さまざまな事情を勘案してみても「オレの案のほうに分がある」、と胸を張って言えるのにもかかわらず、経験の乏しい若い監督職員からその案を一蹴され、ついつい、♪ 悲しくて悲しくてとてもやりきれない ♪、なんてメロディーが口をついて出てしまうことも少なからずある。であればいっそのこと、ハナから「お伺いを立てる」、そして答えを待つ。一見するところその方法を採用するほうが楽そうだ。しかし、その姿勢と心持ちに技術者としての矜持はない。

『おとなの小論文教室。』に戻る。


「私はこれからどこへ行けばいいの?」

「それはどこへ行きたいかでちがうさ」


と『不思議の国のアリス』を引用したそのあと、ズーニーさんはこうつづけている。

 

 

自分が、この時代を泳ぎきるのに必要だと思う力を、自分でいくつかあげてみる。

まず、「自分の頭を動かしてものを考える力」。

暗記と応用でなく、正解のないことを自分の頭で考えるには、「問い」が立つことが、出発点だと思う。(問題発見力)

次に、さまざまな角度から見て、(多角的考察力)

それを筋道立てて、検討していく。(論理的思考力)

そして自分なりの新しい考えを打ち出す。(独創性)

(略)

それから、「歴史認識」。

(略)

そして、「自己表現力」。

(略)

他に、「コミュニケーション力」。

五感を働かせて、相手が本当に言おうとしていることをちゃんと受け取り、ちゃんと自分の考えを返していけるように。これは、文章、口頭、それから身体や表情など、いろいろな筋肉を使って。



「いいな」と感じた。そして同意した。しかし、「独創性」は必ずしも必須項目ではないのではないか。なぜならば、「独創性」なんて代物はそんじょそこらの人間が身につけているものではないからだ(もちろん、その「そんじょそこら」にはわたし自身も含んでます)。必要なのは「引き出し」を数多く持つことだろう。かといって数が多ければいいってものではない。どれだけ経験と勉強を重ねて「引き出し」を多く持ったとしても、使えなければゼロに等しいからだ。要は、模倣でも受け売りでもかまわないから「引き出し」を数多く持ち、その「引き出し」がどこにあるかを把握し、適切なときに適切な「引き出し」が使えるようにしておくこと。それが本当の意味での「経験と勘」であり、それもまた、問題発見力や多角的考察力や論理的思考力、あるいは歴史認識といったものの繰り返しから導き出される「力」のひとつ、しかもこのうえなく大きく大切な「力」だとわたしは思う。


以上、

「私はこれからどこへ行けばいいの?」

「それはどこへ行きたいかでちがうさ」

 という、『おとなのための小論文教室。』(山田ズーニー)で紹介されていた『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル)のなかの一節から考えたこと。ゆめ忘るなかれ。「土木という仕事」に役立つネタはどこにでも転がっているということを。


 

 

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行動を保留状態にする

2018年03月03日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

あいも変わらずこと仕事においてはスピード優先主義である。いや、「主義」といっても信奉しているわけではない。もちろん脳と身体の奥底には長年つちかってきたスピード優先主義があるけれど、いささかトウが立ってきた今となってはそれも是々非々だということぐらいは十分すぎるほど承知している。ただ、習い性である。身についている。その、身についたスピード優先主義がときおり悪さをする。興に乗ると特にだ。矢継ぎ早に処理しようとして、テンポよく事を進めようとして、ついついエラーをしてしまうことがあるのだ。もちろんそこには大きな失策もあれば、本人以外にはエラーと判別できないぐらい小さなものもあるのだが、内面的な事情からいうとその小さなヤツがけっこう堪えてしまうことがある。ごくごく小さかった悔悟の念が徐々にその存在を大きくして、ボディーブローのようにじわじわと効いてくるのだ。

あゝ、なぜあそこでいったんスピードをゆるめ、

これでいいのか?

という疑念を持って考えてみなかったか・・・

うじうじ・・・

てなもんである。

やはり肝要なのは、いったん速度をゆるめてみたり歩みを止めてみたりすることだろう。デヴィッド・ボームが説くところの「行動を保留状態にする」というやつだ。

 

しかし、そうした行動を保留状態にすると考えてみよう。あなたは自分でも知らなかった想定に気づくかもしれない。(『ダイアローグ』、デヴィッド・ボーム、P.69)

 

ダイアローグ――対立から共生へ、議論から対話へ

デヴィッド・ボーム著

金井真弓訳

英治出版

 

 

じつはこのセンテンスの前フリは、「自分を怒らせるような想定を誰かから聞いた場合、あなたの自然な反応は、腹を立てるか興奮するか、またはもっと違った反撃をすることだろう。」であり、その次に「しかし、そうした行動を保留状態にすると考えてみよう。あなたは自分でも知らなかった想定に気づくかもしれない。」という言葉があったあと、「逆に想定を示されたからこそ、自分にそうしたものがあったとわかったのだ。他にも想定があれば、明らかにしてもかまわない。だが、どれも保留しておいてじっくりと観察し、どんな意味があるかを考えよう。」とつづく。つまり、わたしがここで言おうとした趣旨とは異なり、状況が見えなくなるまで怒りを高めることは他人の敵意によって自分の敵意が誘発されることになるのでそれを阻止するためにもいったん自分自身の「想定を保留」してみよう、という意味で使われている。 

だがそれはそれとして、わたしはこの「行動を保留状態にする」や「想定を保留する」という言葉を、様々な場面で自戒のためのキーワードとして脳内に潜ませている。『ダイアローグ』のなかの文脈どおり感情的になりすぎないようにするために、あるいは目の前の事象や人物を正しく理解するために、はたまた習い性となったスピード優先主義を抑制するために、などなどだ。

たしかに、いったんスピードに乗れば自らそれをゆるめたくはない。テンポよく事を進めたい。リズム感もたいせつだ。しかし、そこで少しばかり速度をゆるめようと、思い切って立ち止まろうと、実際のところは大勢に影響がない場合がほとんどにちがいない。むしろそこで、異なったテンポやちがうリズムを入れてみることのほうがよほど有用だったりもするはずだ。

あゝそれなのにソレナノニ・・・

なぜあそこで・・・

うじうじ・・・。

な~んてことを、夜中、蒲団にくるまり考えていた。

あゝあれは、夢か現(うつつ)か幻か。

「行動を保留状態にする」

あるいは

「うぉーく・どんと・らん」

あらためて、肝に命ずべし。



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