答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

「引き出しがいっぱいありすぎて、かえって困ることがあります」(仲代達矢)

2020年06月08日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

「それってもっと違うやり方があるんじゃないか?とか、こんな風にしたらもっとうまくできるのに、とか思ったことは遠慮せずに口に出してよ」

とわたしが言う相手は、土木技術者の道を歩みはじめることになった若者だ。

無言でうなずく彼に、わたしが説明したその理由とはこうだ。

 

「還暦を過ぎたオレは言うにおよばず」

「・・・」

「AさんとかBさんとか、四十歳ぐらいのうちのメンバーでも、20年選手ながよ」

「・・・」

「そうなるとね、染みついチュウが」

「・・・」

「なにが染みついチュウかというとね、既成概念が染みついチュウがよ、しかもべったりと」

「・・・」

「思い込み、って表現してもえいね」

「・・・」

「それも”良かれの思い込み”。自信があるキ、なおさらタチが悪い」

「・・・」

「だからね、思ったことは声に出してほしいわけ。経験がないから、とか思わずに」

「・・・」

「経験が多い人間がすべて正しいとは限らん。少ない経験から出てくるフレッシュな考えが正しいこともよくあることやキネ」

 

今朝、つい先日のそんな情景を思い浮かべたのは、新聞の隅っこに載った言葉を目にしたからだった。

・・・・・・

キャリアを捨ててかからないと、新しいものに突っかかっていけません。(仲代達矢)

・・・・・・

高知新聞『きょうの言葉』。

それを受け、筆者矢口誠さんはこう書いている。

・・・・・・

 私たちは年をとって経験を積むと、そこに安住してしまうばかりか、時には若者を下に見てしまうことさえある。しかし仲代はそれを戒める。と同時に、長い経験がデメリットとなりうる危険性を指摘する。

「台本をもらうとつねに『新人のつもりでやろう』と思うのですが、引き出しがいっぱいありすぎて、かえって困ることがあります」

・・・・・・

思わず目を見はり、ふたたび凝視するわたし。

「引き出しがいっぱいありすぎて、かえって困ることがあります」

 

「引き出しを増やす」

これが仕事の練度を高めるための肝であると、かねがねわたしは思ってきたし、今も変わらず信じている。

そしてその「引き出し」は、多ければ多いほどよい。

とはいえそれは、ただただ数があればよいわけでもなく、その時その場所その場面に応じた「引き出し」を適切に使い分けることができてはじめて、「引き出し」が本当の意味での「引き出し」となる。

ただただ年数を積み重ね経験や体験が増えたところで、「引き出し」を増やすことはできない。同じ仕事を40年以上つづけたところで、ほとんど「引き出し」がない人がいると同時に、わずかな経験で自分のものとして使えるたくさんの「引き出し」をストックできる人もいる。

いずれにしても「引き出し」は、多ければ多いほどよいというのがわたしの考えだ。

であれば、「引き出しがいっぱいありすぎて、かえって困ることがあります」とは、一体どういうことだ?と訝しげに読むはずなのだが、不思議なことに今朝は、そうはならなかった。

「そういえば・・」

思い当たる節が多々あり、逆に感じ入ってしまったのである。

多くの経験から生み出された「経験と勘」は、「土木のしごと」においては何物にも代えがたい貴重なものだ。しかし、その自信に居着いてしまい、おのれの「引き出し」と「経験と勘」を過信するようになれば、最大の武器であるはずのそれは、錆びついて使えない刀となる。いや、錆びついた刀ならば磨けば光る余地がある。見かけばかりの竹光になってしまえば、二度とふたたび使い物になることがない。そうならないと誰が言えるのか。少なくとも自身で断言することはできないなと、過去にあった色々様々な場面を思い浮かべながら思ったのである。

 

問題解決の処方箋は、自分自身の「引き出し」にだけあるのではない。

その場その時その場面で、適切なソリューションを選択し、実行するには、その心持ちを忘れてはならない。

 

以上、6月8日月曜の朝、『きょうの言葉』を読んで考えたはよいが、

「うん、悪くない週初めぢゃないか」

そう独り言ちて悦に入るのだから、このオヤジ、まったくもって俗物。

 

 

 

 

 

 

コメント

休日確保

2020年03月20日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

「休日の確保を行っている」

『工事成績採点の考査項目別運表~施工状況~』のなかにあるチェック項目のひとつだ。

以前からあった。

とりたてて目にあたらしいものではない。

しかし、昨年来、そこのチェックが厳しいような気がする。

アノ「働き方改革」の影響だろうか。

たぶんそうだろう。

まず、休日出勤をしているかどうかをチェックされる。

”No”ならそれでよし。

問題は”Yes”の場合だ。

代休を確保しているかどうかを問われる。

問われるのみならず、書類や記録でそれが確認できるかどうかをチェックされる。

当社の場合、幸いそれでNGになったことは今のところなく、休日出勤をしていても代休がKYの記録などで確認されてOKとなるのだが、そういう場面に遭遇するたびにココロの声でわたしはつぶやく。

 

「まるで、人よりよけいにはたらくことがわるいみたいぢゃないか」

 

「休みを返上してはたらく」

いつからこれが悪になったのか。

ふたつのことが思い浮かんだ。

 

ひとつは、わたしの個人的体験だ。

「能力ないんやったら時間でかせげや!」

とわたしに言い放ったのは20代後半に勤めていた会社のボスだ。

当時、その会社の誰よりも多くの時間を「はたらく」ことに充てていたわたしは、当然のようにそれに反発したが(ちなみに、同様に誰よりも多くの時間を「呑む」ことに充てていた。当時のわたしにひとつだけ言いたいことは、「寝ろよ」。)、かといって、その言葉の内容そのものに腹を立てたわけではない。

もちろん、そのような物言いがよいか悪いかといえば、パワーハラスメントなどという言葉の萌芽もない時代ではあったが、おそらく当時としてもよろしくはなかっただろう。しかし、そう言われたわたしは、内容そのものはおっしゃるとおり、至極もっともな発言だと認識していた。

 

もうひとつは、内田樹さんの言葉だ。

・・・・・・

仕事というのは「額に汗して」するものであり、先般も申し上げたように本質的に「オーバーアチーブメント」なのである。

(『内田樹の研究室』2005.5.19『資本主義の黄昏』より)

・・・・・・

おっといけない。

順序があと先になってしまった。

これには次のような前段がある。

・・・・・・

賃金と労働が「均衡する」ということは原理的にありえない。
人間はつねに「賃金に対して過剰な労働」をする。
というよりむしろ「ほうっておくと賃金以上に働いてしまう傾向」というのが「人間性」を定義する条件の一つなのである。
動物の世界に「とりあえず必要」とされる以上の財貨やサービスの創出に「義務感」や「達成感」を感じる種は存在しない(たぶん)。
「糸の出がいいから」という理由で自分用以外の巣を張る蜘蛛や、「歯の切れがいい」からという理由で隣の一家のためにダムを作ってあげるビーバーを私たちは想像することができない。
そのような「過剰な労働」は動物の本能にはビルトインされていない。
人間は「とりあえず必要」である以上のものを作り出すことによって他の霊長類と分岐した。

・・・・・・

わたしは、この「ビーバーのくだり」が大好きだ。

また、内田さんはオーバーアチーブについてこうも書いている。

・・・・・・

人間には「好きにやっていいよ」と言われると「果てしなく手を抜く」アンダーアチーブタイプと、「やりたいことを寝食を忘れてやる」オーバーアチーブタイプに二分される。

このどちらかだけを作り出すということはできない。

そして、ブリリアントな成功を収めた組織というのは、例外なく「『好きにやっていいよ』と言われたので、つい寝食を忘れて働いてしまった人たち」のもたらした利益が、「手を抜いた」人たちのもたらした損失を超えた組織である。

(『内田樹の研究室』2012.10.24『人々が「立ち去る」職場について』)

・・・・・・

休みを多くするのもけっこう。

労働時間を短くするのもけっこう。

その趨勢に逆らおうとは思わないし、個人的には、むしろ率先して範を垂れるべきだろうと思わないでもない。

しかし、「休日を返上してはたらいた」ことが悪であると断罪するのはどうだろう。

「休まないでがんばった」ことを、わるいことだと評価するのはどうだろう。

「過剰な労働」には、「ただただ過剰なだけの労働」と「評価されるべき過剰な労働」とがあるはずだ。

「能力ないんやったら時間でかせげや」的発想がよろしくないのと同じレベルで、「過剰な労働」を十把ひとからげで悪ときめつけるのもまたよいものではないと、わたしは思う。

 

 

 

↑↑ インスタグラム ーisobegumiー 

 

↑↑ 土木のしごと~(有)礒部組現場情報

コメント

させて◯◯

2020年02月24日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

・・・・・・

「させていただけないでしょうか」を連発する人は、一見礼儀正しいようで、ビジネスより嫌われないことを優先しているのだ。

・・・・・・

こんなことが書かれてあるWeb記事を読んだ。

あの『電通報』だ。

記事のタイトルは『させていただけないでしょうか」禁止令』。

では具体的にどのような文章にすればよいのか?

著者があげている例は次のようなものだ。

まず「させていただけないでしょうか」的例文。

・・・・・・

先日のキャッチフレーズについて、その後、再度あらためて検討したところ、方向性や考え方(コンセプト)はおおむね問題ないものの、キャッチフレーズそのものの内容につきましてあらためてご検討・ご相談させていただきたいのですが、ご検討いただければ幸いと存じます。

・・・・・・

この文章を「嫌なことをやんわりと表現した結果わかりにくい上にかえってイラつく文面になった現象」だという著者が訂正したものが次のとおり。

・・・・・・

すいません!キャッチフレーズの新案を書いてください。

・・・・・・

う~ん。

わからないではない。

だがむずかしい。

ここまで開き直るのはかなり困難だ。

と感じたわたしは、「させていただけないでしょうか」は言うにおよばず、「させていただけたら」「させていただきたく」「させていただきました」などなど、「させて◯◯」という表現をよく使う人だ。

そのココロはといえば、「へりくだり(のようなもの)」であろう。

それをしてこの記事の著者は、

「背景にあるのは”嫌われたくない”という心理だ」

と喝破している。

たしかに、そう指摘されてみれば当たらずと言えども遠からず。わからなくもない。

ちなみにこの著者、『言葉ダイエット』(橋口幸生)という本を書いており、そこでは「伝えにくいことを、短く&感じが良い文章にする方法を、例文とともに解説」しているのだそうな。

そこまで読んで、「なんだ本の宣伝かよ」と思いはしたが、「ことのついでだ」とAmazonをのぞいてみたら、Kindle unlimited 、つまり、無料で読める対象だった。無料でので、とりあえずクリックしてライブラリーに加えてみた。

 

 

すぐ読むか。

それともあと回しにするか。

どちらとも決めてはいないが、近ごろ重い本読みに疲れているわたしだもの、なんだかすぐ読みそうな気配・・・

(と思うまもなく表紙をめくっていたのだけれど)。

 

 

 

↑↑ インスタグラム ーisobegumiー 

 

↑↑ 土木のしごと~(有)礒部組現場情報

コメント

ある日の質問2

2020年02月11日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

ついでにもひとつ。

きのう紹介した「ある日の質問」の続編だ。

 

Q:常に先進的なものを導入されているように思いますが、それはなぜでしょう?

 

A:

1.とりあえずは大きな流れの中で流れ、それ以上のスピードで流れることで独自性を保つため。

(受け売りです。川俣正発桃知利男経由わたし着)

2.惰性に陥ることを避けるため。

  変わらないで生き残るためには変わらなければならないから。

(パクリです。映画『山猫』)

3.あと戻りすることができなくなってしまった(苦笑)。

 

以上、読み返してみると、ついつい書いてしまった最後の言葉が、われながらおもしろおかしく、かつ、ほんのちょっぴり切なく哀しかったので、臆面もなく晒してみた。

次は、

ない。

(たぶん ^^;)

 

 

 

↑↑ インスタグラム ーisobegumiー 

 

↑↑ 土木のしごと~(有)礒部組現場情報

コメント

オジさんの悩み

2020年01月31日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

ふだんはぼーっとしているが、いざとなったら軽やかなフットワークで素早く動き、とまどうことなく決断する。

そういうキャラクターの代表格といえば、「昼行灯」大石内蔵助だろう。

ところがコレ、口で言うほど簡単なものではない。

軽やかなフットワークも、素早い動きも、正しい決断も、常にそう在ろうとして準備を怠らず、感度をめいっぱい上げておかなければ、なかなか実現できないものだからだ。そうしておいてもなお、生半なものではない。いきおい、それを現実のものにしようとするならば、「触れなば切るぞ」的風情や「血ぃ見るどワリャー」的態度をとりつづけることとなり、昼行灯的常態とはかけはなれたものとなる。

少なくとも、わたしの場合はそうだった。

常在戦場、いつもいつでも臨戦態勢。いささか極端に過ぎる表現だが、心の内はそうだったと言っても過言ではない。

それでいて尚できないのだもの、当たり前のことだ。

長らくそう思っていた。

しかし、いつまでもそんなスタイルをとられていたら、周りの人間はたまったものではない。

ということで、必然的に「触れなば切るぞ」的風情や「血ぃ見るどワリャー」的態度を放棄する方向へと舵を切った。

すると、困ったことが起こった。

勝負勘がにぶってしまったのだ。

切れ味が悪くなってしまったのだ。

元来がそれほど鋭利ではなかったものを、努力して磨いた刀だったから、錆びつくのも早い。考えてみればすぐわかりそうなものだが、そうなるとは微塵も思わないし、想像もつかなかったのだから、うかつといえば迂闊。

かといって、この路線変更がまちがっているかといえば、断じてまちがってはいないのであり、元のスタイルに戻るという選択肢もあり得ない。なんとなれば、「わたしという自分」は、他者との関係性においてはじめて「わたしという自分」たり得ている。「自分らしさ」などというものが存在するとすればそれは、他者との関係性においてはじめて成り立つ「自分らしさ」であり、当然のごとく不変なものであるはずもない。

「触れなば切るぞ」的風情や「血ぃ見るどワリャー」的態度を放棄する方向へと舵を切ったのが必然であるとは、その文脈において当然のことだったのだ。

では、どうすりゃいいのさ思案橋。

 

かくして今日も、おのれの器量の小ささと、それに比して、ときにはやや大きめ、またときには大きすぎる自分自身への期待とのはざまで、オジさんは悩む。

悩みはなにも若いものだけの専売特許ではない。

イイ年をしたオジさんもまた、けっこう悩み多いのだよ。

 

 

 

↑↑ インスタグラム ーisobegumiー 

 

↑↑ 土木のしごと~(有)礒部組現場情報

コメント

続・名刺

2020年01月15日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

1月9日の稿~『名刺』~で紹介した「友人の建設会社経営者Mさん」とは、福島市にある寿建設の森崎社長だ。

じつはあのあとすぐ、拙文を読んだ彼からメールが届き、くだんの名刺の「画像を載せてもいいよ」と告げてもらったのだが、「いやいや秘すれば花よ」と丁重にその申し出をことわっていた。その翌日、すすんで自らのブログで名刺を公開するという行為に彼がおよんだのは、わたしが画像掲載をことわったからか。いやいやそんなことはあるまいと、苦笑しながらあらためてその物を見てみると、やはり、これがなかなかおもしろい。

ということで、画像転載。

 

 

さっそく、宣言どおりにパクらせてもらった。

 

 

森崎さんの名刺は、「トンネル坑口の向こうに社名と姓名その他情報がある+QRコード付き」というところがミソなのに比して、わたしのそれは、単に「QRコード3つ」というアイデアをもらったにすぎない。

さてさて、反応やいかに。

いやいや、面と向かった反応はなくとも、それはそれだ。

森崎さんいわく、

「昨今、スマートフォンとQRコードの連携が大きな情報発信に機能しているのだから、これくらいやるべきではと考えたのだ。」

 

ま、そういうことである。

 

 

 

↑↑ インスタグラム ーisobegumiー 

 

 

↑↑ 土木のしごと~(有)礒部組現場情報

コメント

名刺

2020年01月09日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

名刺管理アプリ”Eight”を愛用しはじめてどれぐらいになるだろう。

いつでもどこでもインターネットを受信することができる端末さえあれば、知人友人、よく知っている人あまり知らない人、何回も会っている人一回しか会ってない人、記憶にくっきりと刻まれている人まったく覚えてはいない人、そんなこんなの区別はいっさいなく、検索して情報を得ることができる。

はるか以前は、会社に電話をして、

「名刺ファイルのなかに◯◯さん、ってあるはずやけど調べてくれん?え?ない?おっかしいなあ。」

などと、自分自身の整理の悪さは棚に上げ、そんなことを口走ったりもしていたが、今ではそのようなことは一切ない。

”Eight”のおかげだ。まこと便利なものよのう、と重宝している。

その”Eight”、わたしが登録している人のうち、これまでにメンバーではない誰かが使いはじめたら、「◯◯さんが使いはじめましたよ」という知らせが届くことになっている。

きのう、その知らせが届いたのは、友人の建設会社経営者Mさんだった。

のぞいてみると、わたしがもらったことがない名刺が、彼のものとして載っていた。

いちべつして驚いた。

これまで見たことがないレイアウトのものだったからだ。

最上部に会社名とロゴマーク。その下には役職名と名前。そのまた下には住所、電話番号、FAX番号、メールアドレス。ここまではごくごく普通でありきたりなデザインなのだが、彼がいつのまにかリニューアルしていた名刺の特徴的なのは、最下段に3つのQRコードがならんでいたことだ。その内訳は、左から、ホームページ、フェイスブックページ、インスタグラム。

ほほ~、この手があったか。

感心するわたしが現在使っている名刺はといえば、「住民よし!行政よし!企業よし!三方良しの公共事業実践中」「13年連続高知県優良建設工事施工者表彰受賞」など、これでもかというほどの情報が満載で、あろうことか自分自身を模したイラストまで鎮座している。ひとつ前のレイアウトには「労働安全コンサルタント」という資格まで入れていたのだが、スペースがなくなっため、やむなく削ったという経緯もある。

そういえば・・・たしか年末に読んだWeb記事に書いていたぞ。

たしかそこには、「情報量の多い名刺を配る人は仕事ができない」とか「名刺で自己アピールする人にはビジネスセンスがない」とか書かれていたはずだ。

「ふ~んナルホドね」と飛ばし読みしたその記事が脳裏をかすめたあと、Mさんの名刺に目を戻す。

ほほ~、この手があったか。

もいちど感心した。

気づいたら改めるのをためらってはいけない。

さっそくパクらせてもらおうと心に誓う。

さて、どれを削るか・・・

わたしのような人間にとっては、結局それがイチバンむずかしいのだが ^^;

 

 

 

↑↑ インスタグラム ーisobegumiー 

 

 

↑↑ 土木のしごと~(有)礒部組現場情報

コメント

年のはじめに

2020年01月07日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

長い休みのなかであらためて思ったこと。

 

「もっと休日を」

「もっと余暇を」

そのためには

「もっと労働(時間)を少なく」

ソッチ方面では、ただでさえ他産業と比較して遅れているわが建設業界だもの、それに応えることができなければ未来はない(たぶん)。

しかしその一方で、「では、皆が皆そうであって、それで未来はあるのか?」という疑念がアタマから離れない。

そんなとき、いつも思い出すのが内田先生が「オーバーアチーブメント」について書いたテクストだ。

・・・・・・

仕事というのは「額に汗して」するものであり、先般も申し上げたように本質的に「オーバーアチーブメント」なのである。

(『内田樹の研究室』2005.5.19『資本主義の黄昏』より)

人間には「好きにやっていいよ」と言われると「果てしなく手を抜く」アンダーアチーブタイプと、「やりたいことを寝食を忘れてやる」オーバーアチーブタイプに二分される。

このどちらかだけを作り出すということはできない。

そして、ブリリアントな成功を収めた組織というのは、例外なく「『好きにやっていいよ』と言われたので、つい寝食を忘れて働いてしまった人たち」のもたらした利益が、「手を抜いた」人たちのもたらした損失を超えた組織である。

(『内田樹の研究室』2012.10.24『人々が「立ち去る」職場について』)

・・・・・・

この説に全面的に同意するわたしは、だからといってオーバーアチーブな働き方を他人に押しつけようとは思わない(今は、です。過去は思ってました。のみならず熱心な信奉者でした。)。しかし、オーバーアチーブタイプがいなければ、ひとつの組織が「ブリリアントな成功」を収めることはできないのみならず、世の中そのものが成り立っていかないのだということを、オーバーアチーブな働き方を選択しない人たちは正しく認識するべきだろうとは思う。たとえば、いわゆる「働き方改革」にしてからが、それを立案し推し進めていこうとする人々のオーバーアチーブな労働に支えられているのだろうということぐらいは、想像できなければならない。

結局のところ、「誰か」がやらなければならない。

その「誰か」が誰になるのか。

その「誰か」を誰がやるのか。

その「誰か」をどのようにしてつくるのか。

その「誰か」のモティベーションをどう高めどう維持していくか。

だからといってわたしは、手ばなしでオーバーアチーブな仕事を勧めるものではないし、オーバーアチーブメンターを養成できさえすれば問題が解決すると考えるほど能天気でもない。

「もっと休日を」「もっと余暇を」そのためには「もっと労働(時間)を少なく」

ソッチ方面では、ただでさえ他産業と比較して遅れているわが建設業界だもの、それに応えることができなければ未来はないのは火を見るよりあきらかだが、ことが「労働時間を短くすればOKよ」という単純な問題だけにとどまらないことは、常にアタマのなかにとどめておかなければならないだろう。

ではどうすればよいのか。

いつもと同様、確たる答えはない。

いや、そもそも「確たる答え」というようのものが出せる類の問題ではないのだろう。

だが、停滞は悪だ。

とりあえず「動きつづける」。

考えながら「動きつづける」。

ときと場合によって重心を移動させつつ、平衡を保ちながら、「動きつづける」。

その段階ごとに出た「答え」は、正解であることも、まちがっていることもあるだろうが、その繰り返しと積み重ねがひとつの方向性となることだけはまちがいない。それを水先案内人として、そのままその道を歩くか、はたまた別の道を探すか、それはその時点で考えればよいことだ。

 

長い休みのなかで、そんなことなどを考えていた。

(酒ばっかり呑んでたんとちゃうよ ^^;)

 

 

 

↑↑ インスタグラム ーisobegumiー 

 

 

↑↑ 土木のしごと~(有)礒部組現場情報

コメント

130年の重み

2019年12月28日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

この夏のことだ。

わが永遠のアイドル砂子組で一席やってくれとの依頼を受け、無謀にも、役員ほか幹部社員を前にして長広舌をふるったそのあと、同じく登壇したのは新潟県胎内市にある小野組小野社長だった。

小野組は創業明治21年、130年つづく老舗企業だ。

小野さんいわく、「自分はバトンランナー」だという。次代の人がうまくいって、やっとお役御免無罪放免になるのが自らの役割なのだそうだ。

その講話の冒頭、彼が聴取者に投げかけたのは、こんな問いだった。

「100年つづく企業になるためにもっとも大切にしなければならないのはなんでしょうか?次の三つのうちから選んでください」

その三つとは、「顧客」「株主」「従業員」だ。

こう言っちゃあ悪いが、この手の質問を駆使する話がわたしは嫌いだ。

「自分に当てられたらどうしよう」とヒヤヒヤするからだ。小心者の哀しさである。

それに・・これは自らが会社というものをどう考えているか、来し方と行く末における核心をつく質問だ。ドキドキしながら考えてみた。

三つのうち、すぐに脱落したのは「株主」だ。これについては、市場原理主義にどっぷりと浸ってしまったこの御時世では、大いに異論が出るところだろうが、問いには「もっとも」という副詞がついている。わたしの考えではそれは「もっとも」たり得ない。

さて・・・

あとのふたつのうちどちらを選んだらよいか。

有り体に白状すると、これについては少しく悩んだ。

なんとなればわたしは、「わたしたちのお客さんは住民です」を合言葉に、「三方良しの公共事業」の旗振り役としてこの十数年を過ごしてきた張本人だ。「住民が顧客」という前提にたって公共建設工事は行われるべきだと信じている人間だ。

心なしか、ニコッと笑ってわたしを見る講師の目がわたしを試しているかのような気がして冷や汗が出てきた。

しかし、それもいっときのこと。

「やっぱ従業員やろ」

それがわたしの出した結論だった。

すると、そんなわたしの心を見透かしたかのように、目と目が合った講師がふたたびニコッと笑って、誰も指名せず自ら口にした答えは、

「従業員ですよね」

「従業員をたいせつにしない会社は100年つづきません」

そうだよな、絶対にそうだよ、とどちらにしようか悩んだ自分を棚に上げ、「そんな当たり前のことを聞くなよな」ばりの顔を講師に向けたわたし。

半年前のことである。

なにゆえそんな話を思い出したのか。

詳細は他人さまに晒すようなものではないので避けるが、唐突に思い出したわけではない。近ごろ折にふれて、あのときの小野さんの笑顔と言葉がわたしの脳内によみがえってきて、そのたびにわたしはうなずき、こう応えるのだ。

「ですよねー」

と。

 

 

 

 

↑↑ インスタグラム ーisobegumiー 

 

 

↑↑ 土木のしごと~(有)礒部組現場情報

コメント

答えのきざし

2019年12月16日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

朝、答えのきざしが突然おりてきた。

折にふれ、「どうしてこんなに苦しいのだろう」と考えていたことについてだ。

あらあら、11年ものあいだブログという「晒し」の場に自分自身を置いてはきたが、そのようなことを白状するのはきわめて稀だ。

まあよいではないか、ことのついでだ、つづきを行ってみよう。と自分自身に言い聞かせて書いてみる。

なにがそれほど苦しいのか?

伝わらないことがである。

わかってもらえないことがである。

以前はこれほどではなかったはずなのになぜ?

と悩んでいた。

やれ「イメージの共有」だなんだと、いわゆる(自称)「ゆる~いCIM」だの「伝家の宝刀CCPM」だのを駆使し、コミュニケーション&コラボレーションで仕事を進めようとすればするほど、「わかってもらえない」あるいは「伝わらない」現実が次から次へと眼前にあらわれてくる。まるでそれらの一切合切が役には立ってないかのように。

なぜなのだ?

それ以前のほうがうまくいっていたのか?

目指す方向にまちがいはないはず。

だとしたら、採用している手法がまちがっているのか?

と悩みは増すばかりだ。

 

先日、現場で起こったささいなミスについて、昨夜、「農家産直(自分です)生搾り柚子の焼酎ソーダ割り」を呑みながら考えていた。

出た結論は、「オレの伝え方が悪かった」。

つまるところその結論は、現場ですぐに出たものと同じだったのだから、わざわざ酔いにまかせて考えるほどのことでもなかったのかもしれないが、ともあれ、出た結論は「オレの伝え方が悪かった」。

ことほど左様に、ここ数年、わたしのまわりで起こる数々の問題の原因をつらつら考えたとき、その結論にいたってしまうことが多い。ほとんどがそうだとさえ言える。

そういうとき決まって別のわたしがこうささやくのだ。

「反省だけならサルでもできるぜ」

結局のところ、それをカイゼンする意思はあっても、カイゼンしようと実行をしていないのではないか?いやいやそのようなことはない。やることはやっているではないか。自分で言うのもなんだが(誰も言ってくれないので自分で言う)、こう見えてああでもないこうでもないと試行錯誤をしている。

あゝそれなのにソレナノニ・・・てなもんである。

 

一夜明け、「答えのきざし」がおりてきた。

ポイントは「以前はこれほどではなかったはずなのにどうして?」と自問自答する場合の「以前」だ。「以前」のわたしは、さして「わかってもらおう」とはしていなかった。わたしのアタマの回転(たいして速くはないが)、わたしの思索の深さ(ゆうほど深くもないが)、わたしの先読み力(たいして未来がみとおせてるわけでもないが)、などなどをフル回転させながら動きつづけるそのわたしについてこれないヤツ、ついてこようとしないヤツ、わかろうとしないヤツ、問題が問題のままであることの原因はソッチのほうにあり、「わかってもらおう」としないコチラにはない。

事実認識をそこに置いている以上、問題は問題として認識されることはない。

だが今はそうではない。

それゆえ問題を問題として認識するようになった。

そして、より高いレベルを求めるようになった。

そういうことなのではないか?

そういえば・・

そう考えるとイチイチ符丁が合うことが多い。

だとしたら・・

「以前」をそのような心持ちで生きていたとしたら、「わかってもらえない」あるいは「伝わらない」は、わたしにとっての問題ではなく、わたしがわたしを問いつめなければならない所以もない。

そうなのだ。この苦しさは「踏み出したそのひと足」の必然的所産であり終わりがないものなのだ、と気づいたとき、とんでもなく高いハードル(少なくともわたしにとっては)を自らに課したことに今さらながら気づいた。

ことは「ゆる~いCIM」や「伝家の宝刀CCPM」というツールを採用しただけで片がつくほど簡単ではない。

ツールは、いかに優れたものであっても、それ自体が「打ち出の小槌」ではなく、問題解決に向けて採用するなかのひとつの手段にすぎない。それが万能ではないことは「百も承知二百もガッテン」だったはずではないか。

なんてこったい。

おりてきた「答えのきざし」は一筋の光明でもなんでもなく、あらたな問いを自らに立てたにすぎなかった。

考えてみればいつものことだと苦笑いする。

あゝ・・・・道程はるかなり。

時間はそれほど残されてはいないのだけれど、かといって、焦って走ることでもない。

ぼちぼち行こう。

 

 

 

↑↑ インスタグラム ーisobegumiー 

 

 

↑↑ 土木のしごと~(有)礒部組現場情報

コメント