答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

ヒント

2024年01月24日 | 三方良しの公共事業

生成AIは嘘をつく。
嘘ではない。ちょっとでも生成AIをかじった人なら誰でもが知っている。
たとえば、ChatGPT(3.5)に「三方良しの公共事業」について質問すると次のような答えが返ってきた。

******
「三方良し」は、公共事業やビジネスにおいて、関係者すべてに利益をもたらすことを指す言葉です。具体的な公共事業において「三方良し」を実現することは、関係する全ての当事者にとって良い結果をもたらすことを意味します。以下はその詳細です。
  1. 当事者一:市民・利用者
    • 公共事業が提供するサービスや施設が市民や利用者にとって便利で質の高いものであること。
    • 安全性やアクセシビリティの向上、環境への配慮が考慮されていること。
  2. 当事者二:事業主・実施者
    • 事業主や実施者にとって、プロジェクトが経済的に持続可能であり、収益を上げる機会を提供していること。
    • プロジェクトが効率的かつ適切に遂行され、リソースの無駄がないこと。
  3. 当事者三:社会・環境
    • 社会全体に対してプラスの影響をもたらすこと。例えば、雇用の創出や地域経済の振興。
    • 環境に対する負荷を最小限に抑え、持続可能な開発を促進すること。
「三方良し」の概念は、公共事業が単なる一方的な利益追求ではなく、広く社会全体に良い影響をもたらすことが期待される考え方です。このアプローチは、事業が短期的な利益だけでなく、長期的な社会的・経済的な利益をもたらすよう計画・実行されるべきであるという視点を強調しています。
******

全体としてはまずまずの解答だ。特に結論はよくできている。
だが、その前提となる三方、つまり「当事者」の区分が、いわゆる「三方良しの公共事業」で提唱されているものとは異なる。
関係者には言わずもがなのことだが、おさらいをしておくと、「三方良しの公共事業」における三方とは、「住民」「行政」「企業」だ。それに対し、ChatGPTの返答では、「市民・利用者」「事業主・実施者」「社会・環境」となっている。その呼称を統一して対比すると、「住民」「行政・企業」「社会・環境」となるだろうか。それが異なっているという点だけを見れば、ChatGPTの答えは明らかに誤りだ。

だがぼくは、ほぉと感心した。ナルホドと膝を打った。他でもない誤答である部分に対してである。
推測するに、その根拠は近江商人の「三方よし」だろう。その理念のなかで三方とは、「売り手」「買い手」「世間」である。対比しやすいように上の引用を並べ替えると、「事業主・実施者」「市民・利用者」「社会・環境」となる。「事業主・実施者=売り手」「市民・利用者=買い手」「社会・環境=世間」とすると、その推測が的を射ているような気になるのは、ぼくだけではないのではないか。
もとより、公共事業の「三方良し」は近江商人の「三方よし」を完コピしたものではなく、その発想および構成とネーミングを「近江商人の三方よし」からいただいたものだ。その起源は、TOC(制約理論)を公共事業の問題解決に応用しようとしたところにある。
だがぼくは、それを承知しているにもかかわらず、あえてそこに「近江商人の三方よし」の本質をリンクさせようとした。TOC普及ムーブメントの一環という位置づけでは、「三方良しの公共事業」を理念として「私と私の環境」を変える、つまり、公共事業(の構成員)が信頼の再構築を図るための理念には成り得ないと考えたからである。平たく言えば、「広がりをもつことができない」ということだ。
だからぼくは、「近江商人の三方よし」の底流にある利他の精神を、公共建設工事というぼくたちの仕事に当てはめようとした。それが、ぼくの意図をはるかに超えるほどにピタリと符合したのは、公共建設工事という業種の本質が、そもそも「利他の精神」を内蔵しており、それを切り離して語ることができないほど重要なものだったからである。
ただ、そんなぼくでさえ、「住民」「行政(=発注者)」「企業(=受注者)」という区分けを疑うことはなかった。束縛されていたと言ってもよい。そもそも「三方良しの公共事業」が産声をあげた18年前から、それぞれの事業や工事において「発注者」と「受注者」はパートナーであると唱えられていたにも関わらず、また、ぼくも一貫してそう説きつづけて来たにもかかわらず、その組み合わせを三方のひとつにしてしまうということは、発想すらしなかった。
だからぼくは、ほぉと感心した。ナルホドと膝を打った。
そうすれば、三方のうちの二方が「じつはパートナーなのですよ」というまわりくどい説明よりも、ひょっとしたらスンナリと腑に落ちてくれるのかもしれないのではないか。それやこれやを考えていくと、まちがいなくこれは、今後のぼくの理論展開において大いなるヒントになる。そう思った。

もとより、生成AIに意思はない。意志もない。拠りどころとする理念もない。
文章生成AIは、インターネット上に散らばる膨大な数のデータを基として与えられた文字列につづく文字列を生成する変換器にすぎない。
だから平気で嘘もつく。
だが、「ウソとハサミは使いよう」と言うではないか(言わないけど)。
その活用において重要なポイントのひとつは、「インターネット上に散らばる膨大な数のデータを基として」いるという点にある。たとえその生成された文字列に事実と異なる部分があったとしても、そこから得るものが何もないとは限らないのである。

ちなみに、語呂のよさだけで思いついた上記「ウソとハサミは使いよう」というテキトーな言葉をテーマにエッセイを書いてとChatGPTに依頼すると、次のような文章が返ってきた。所要時間は数秒である。

******
You
「ウソとハサミは使いよう」というテーマでエッセイを書いて

ChatGPT
タイトル
ウソとハサミ:使いようを知る知恵と創造性
はじめに
「ウソとハサミは使いよう」という言葉には、単なる欺瞞や傷つけることを指すものではなく、知恵や創造性を活かすために必要な柔軟性を意味しています。本エッセイでは、この言葉が持つ深い意味を追求し、ウソとハサミが人生においてどのように使いようがあるかを探求します。
第一章: ウソの芸術とコミュニケーション
ウソは時にはコミュニケーションの手段として使われることがあります。社会の中で円滑な関係を築くためには、相手の気持ちを考慮し、時に真実を控えることが必要です。しかし、これは悪意をもって欺くことではなく、相手を思いやり、共感する手段としてのウソの芸術があるのです。
第二章: ハサミの力と磨き方
ハサミは切ることのできる鋭さを持っていますが、同時に造形する力も秘めています。芸術家はハサミを使って紙を切り裂き、美しい作品を生み出します。人生でも同様に、厳しい決断や断捨離が新たな可能性を切り開くことがあります。ハサミの力を使うことで、過去の枷から解放され、新たな展望が広がります。
第三章: 創造性の源としてのバランス
ウソとハサミを使いようとする際に重要なのは、バランスです。無分別に使うことはトラブルのもとになりますが、適切に使うことで人生に深みを与え、成長を促進します。ウソとハサミの使い方を知り、調和を保ちながら自分らしい人生を築くことが肝要です。
結論: ウソとハサミの使いようを知る知恵
「ウソとハサミは使いよう」という言葉は、人生において必ずしも悪ではなく、むしろ知恵と創造性の源となり得ることを教えています。ウソとハサミを使いこなすことで、人はより豊かな人間関係を築き、新たな可能性を切り開き、自らの創造力を発揮することができるのです。
******

如何だろうか。これが生成AIというやつだ。どう感じるかは人それぞれだが、ぼくはしばらく遊ばれてみようと思っている。


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種を撒くひと

2022年10月08日 | 三方良しの公共事業

 

自らを種を撒くひとだと定めたのはいつのころか。

しかとは覚えていない。

ということはたぶん、きっかけとなる何かがあったわけではなかったのだと思う。

誰に頼まれたわけでもない。

しいて言うならば自分自身の要請にしたがったということだろう。

兎にも角にも種を撒くのだ、撒きつづけるのだと決めた。

とはいえその種を撒くは、通常いうところのそれとは異なり、撒いた種が芽生えたのか結実したのか、その結果にお目にかかることはまずないと言っていい。

また、たとえ目の前にその成果があらわれたとして、その芽がその実が、自らが蒔いた種が基となってそうなったものなのかどうか、それを判別することはこの上なく難しい。

たとえばそれは、山ひとつ見えぬ無限の平野に爪の先ほどにもならぬ小さな種を撒くようなものであり、前を向いてもうしろを見てもポツンと独り、言いようもない徒労感に襲われたことも一度や二度ではない。

だからこそ、たまさかその芽生えを実感したときには、言葉では表せないほどの感動がある。

「三方良しの公共事業カンファレンス2022高知」終了の翌朝、城山に登り独りそれを実感している。

余韻に浸るのはここまで。

また種を撒こう。

 

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私たちのお客さんは住民です。

2022年10月05日 | 三方良しの公共事業

 

早いもので、(有)礒部組二代目社長礒部昌平氏が亡くなってから5ヶ月になる。そんな折り、たまさか見つけたのが6年前の建通新聞記事だ。

そこにはスピーチをしている彼の顔写真があった。記事の内容は、高知県建設優良工事施工者表彰式についてである。そのとき、受賞者を代表して謝辞を述べたのが先代社長だった。

けっして外に出るのがキライなわけではなかったはずだが、その姿カタチを公にするのからは徹底的に逃げていた人だから、顔アップの写真がメディアに載るのはきわめて珍しいことだ。だから、そうかそういうこともあったなと思い出すと、少しおかしかった。

直後、ある考えがアタマをもたげてきた。

健在の折りならば、テメエコノヤロウと怒ったであろう当の本人は既にこの世にいない。であれば、掲載された顔写真とともに、そのときのスピーチ全文を公開してもよいのではないか。

というのは半ば冗談で、本当は、その内容をかんがみれば十分記録しておくに値するスピーチであり、むしろ公開して残しておくのが長いあいだ番頭として彼を支えてきたわたしの務めではないか、そう考えたのである。

ということで、本人の了解をとらずに掲載する。

以下、平成28年度高知県優良建設工事施工者表彰受賞者代表謝辞である。

 

******

本日、平成28年高知県優良建設工事施工者表彰をいただきました15の企業を代表いたしまして、僭越ながら謝辞を申し上げさせていただきます。まずもって、栄誉ある賞をいただきましたことに深く感謝しております。誠にありがとうございました。

弊社では、平成18年から三方良しの公共事業、すなわち「住民良し、発注者良し、受注者良し」を基本理念のひとつとして工事に取り組んでいます。公共建設工事という仕事を行っていくとき私たちは、ややもすると「発注者と受注者」という二項対立的な発想をしてしまいがちです。得てしてそこしか目に入らないようになってしまいがちな現実があります。しかし、その「発注者と受注者」という仕組み、あるいはその発想には、非常に重要かつ基本的なものが抜け落ちています。

公共建設工事の本当の発注者は誰なのか。

それは住民です。

私たちのお客さんは住民です。

そのことをふまえ、「発注者と受注者がチームワークで、共通のお客さんである住民の安心安全のために、より良いモノをより早くつくる」というモットーのもと、一つひとつの工事を行って来ました。

そのスタートから丸10年の今年は、奇しくも弊社創立60周年でもあります。そのような節目の年の高知県知事賞受賞は、これまでの歩みと今後の方向性を再確認する良い機会となりました。

これからも「地域とともに生きていく」地元建設企業として、「地域のために」「住民のために」を心がけ、一つひとつの工事に取り組んで、一つひとつの現場で地域住民の信頼を得て、さらに現場で生まれたその信頼をストックしていくよう努めたいと考えております。

さて、本県建設業はまた、近い将来必ずやってくるであろう南海トラフの巨大地震という宿命と向き合って生きていかざるを得ません。その際に、経営基盤がしっかりし、機動力技術力がある中小建設業者がいるのといないのとでは、その応急復旧に雲泥の差が出るのみならず、復興自体が立ちいかなくなるのではないかと、かように私は考えております。県庁をあげて取り組んでいる地域防災力強化の取り組みをバックアップする意味からも、この受賞を励みに、さらに一層の技術力向上に努め、地域を守り地域に必要とされる企業として、みずからの必要性と重要性をあらためて認識しつつ、良質な社会資本整備に全力を尽くしていきたいと考えていますので、なにとぞ今後共ご指導ご鞭撻をたまわりますよう、よろしくお願いいたします。

終わりに、ご列席の皆様方のますますのご健勝とご多幸を心より祈念いたしまして、お礼の言葉とさせていただきます。

本日はどうもありがとうございました。

 

平成28年9月26日

 受賞者代表 有限会社礒部組代表取締役 礒部昌平

******

 

 

 

 

 

 

 

 

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「りえき」と「りやく」

2022年09月22日 | 三方良しの公共事業

 

利益。大人ならわざわざ読み方を指南しなくてもよいだろうが、あえて言おう。「りえき」と読む。

平たくいえば儲け。経済学的な表現(ホントか?)をすると利潤。損得のうち得になる方を利益という。

その利益に敬意をあらわす語句である「御」をつけ御利益とすれば、「ごりえき」と読むかというとさにあらず。こちらは「ごりやく」だ。これもまた、あえて訳知り顔で指南するほどのことはない。年端もいかない子どもでもなければ、おそらく誰でも知っている。

といっても、「御」をつけたからその読み方が変わったわけではなく、もともと利益には「りやく」という異なる読み方があった。呉音で発語すると「りやく」で、漢音だと「りえき」らしい。日本史の時系列でいうと、漢字の読み方的には呉音が先でそれにとって変わったのが漢音。つまり、「りやく」にとって変わったのが「りえき」だ。ところが、どこでどうしてそうなったのか、元をただせば同じだった言葉がいつのまにか、ちがう意味を持つようになった。

利益(りやく)。デジタル大辞泉には、「仏・菩薩が人々に恵みを与えること。仏の教えに従うことによって幸福・恩恵が得られること。また、神仏から授かる恵み」とある。「りえき」が物質的な得をあらわすのに対し、「りやく」の得は精神的だ。即物的な御利益を求める人も数多いかもしれないが、だとしても、そこには多分に精神的な意味合いも含まれているのではないだろうか。

利益と利益。「りえき」と「りやく」。「りえき」はどちらかといえば自利。「りやく」の方は授けられるにしても与えるにしても利他的だ。

うかつにも、この対比はまったく考えたことがなかった。対比といっても、これは相反するものではなく、セットで考えるべきものだろう。「りえき」を得るだけでは半人前。他者に「りやく」を与えてはじめて一人前のひとであり企業だと呼べるのではないか。

 

なんてことを、半年に一度の膵管内乳頭粘液性腫瘍の定期検査の待合室で考え、これって「三方良しの公共事業」を語る際に使えるんぢゃないか?と、独り思いつきにほくそ笑み、ニタニタ笑って周りに訝しがられるおじさんなのである。

 

 

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今年の三方良しの公共事業推進カンファレンスは高知で

2022年09月08日 | 三方良しの公共事業

 

 

 

今年の三方良しの公共事業推進カンファレンスは、「地域で考え地域で実践する担い手づくり」と題して高知で開催します。

高知工科大学渡邊教授に基調講演をしてもらったあと、四国ローカルで独自の取り組みをがんばっている会社と地元企業と連携し授業を行っている高校の担当者レベルに事例を発表してもらい、それを受けて経営層がパネルディスカッションをするという形式です。リアルとオンラインの双方で行います。

わたしはしゃべりません。プロデュースとディレクションを担当します。

 

え?

黙っていれるのか?

 

もちろん。

男は黙ってサッポロビールです。

 

興味がある方も、興味がない方も、ぜひ!

 

 

詳細とお申し込みはコチラから

↓↓

https://www.sanpouyoshi.jp/forum/

 

 

 

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14年前のPPT

2022年03月03日 | 三方良しの公共事業

 

中国地方のとある団体から、年度が明けてからの講演依頼が届いた。たしかな見覚えのある名前である。時は2008年12月。場所もはっきり覚えている。

第一回の「三方良しの公共事業改革フォラーム」が開催されたのが、その前年の2007年5月。2006年末から翌2007年にかけて高知県のワンデーレスポンス試行工事を行ったことで、事例発表者としての参加を要請されたものの、「その任にあらず」と再三断るわたしを、「冥土の土産に」と口説き落とした県庁職員とともに参加。そこで発表したのがキッカケだったか、ほんの少しずつだが県外からスピーカーとしてのお呼びがかかりはじめた。静岡を皮切りに、埼玉、群馬、青森、北海道、そしてその次が、今回オファーをくれた団体。しかも与えられた時間は、それまでにない1時間という長丁場だ。口八丁手八丁となった今では、1時間といえば、1時間「も」ある、ではなく1時間「しか」ない、という感覚だが、さすがに当時は「できるだろうか?」という不安が満載で、どうにかこうにか「こなした」という記憶が残っている。

「はて、どんな内容だったのか?」

そんな疑問がアタマのなかをよぎったが、当時のレパートリーは、考えてみずとも一択だ。だが、念のためにそのときのPPTをひっぱり出してみた。案の定、お題はそのものズバリの『三方良しの公共事業改革』。サブタイトルとして『ー自らが変化することでしか問題は解決しないー』というお題がついている。そしてその締めくくりには、桃知さんのブログから次のような文章を引用していた。

******

今、「公共工事という産業」が行うべきは、自らが行う〈公共工事に対する信頼の再構築〉でしかありませんが、それにはまず、〈公共工事という産業〉の全ての構成員(発注者、政治、中小建設業)が、〈自らが変化することでしか問題は解決しない〉ことに気づかなくてはなりません。その気づきがなければ、動き出す力も湧いてこないでしょうし、環境は永遠に好転することもないでしょう。「公共工事という産業」が自ら環境を救えるとすれば、自ら動き出し、自ら変化するしかありません。その行動の相互作用に、環境は好転への可能性を残すのです。

******

少しおかしかった。なんだ、14年前も今も、言いたいことは同じではないかと思ったからである。2002年に発行された桃知さんの著書である『桃論』にも、少し言い回しは異なるが同様のことが書かれているから、本家本元の彼からしたら14年どころではない。20年も前の主張だ。ところがそれは、今もなんら色あせてはいない。

それが何を意味するのか。とりあえずここでは掘り下げないでおくが、ひとつだけ、わたしのなかで言える確かなことがひとつ。

これをそのまま使うことはないにせよ、これからもたぶん、手を変え品を変え同様のことを訴えていくのだろうということだ。

そう考えると、また少しおかしくなった。

我ながらそうと承知はしていたが、このオヤジ、いささかしつこい。

 

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2021年09月23日 | 三方良しの公共事業

 

今日も『リフレクティング~会話についての会話という方法』(矢原隆行)より、その基本のさわりだけ。

リフレクティング・チーム形式の会話をおこなうための基本構成は、イシュー(問題、課題、話題)提供者、面接者、リフレクティング・チームの三者からなり、その最小人数は各1名×3で三人。この「三」という数字に大きな意味がある。

それを踏まえて、二者間の会話と、リフレクティング・トークの最小構成である三者による会話との比較を説明したくだりがある。

まず二者間の会話の特徴から。

・直接的に相手に向けられたリニアなものになりがち。

・両者の関係は、その位置づけ(たとえば専門家とクライアント、上司と部下など)により、一方向的な傾向の強いコミュニケーションになりがち(たとえば相談と助言、指示と服従など)。

ややもすればそれは、「そこに対話(dialogue)の相手としての他者は存在せず、ただ独話(monologue)が発せられているような閉鎖的状況」となってしまい、次のような結果を生み出してしまう。

******

こうした状況は、外的会話において創出される意味を一面的なものに収束させ、多様な内なる声が外へ向けて表現される機会を閉ざしてしまい、結果、会話の場は、窮屈で硬直したものとなるでしょう。(P.30)

******

「外的会話」「内的会話」については昨日の稿を参照していただいきたい

これに対して、三者によるリフレクティグ・チーム形式の会話では、会話の場を硬直させることなく、生き生きとした流れが創出されるのだが、その前に、それがどのように推移していくのかをかんたんに説明する。

まず、イシュー提供者と面接者の会話があり、リフレクティング・チームは、二者間の会話に口を出さず、ただ「きく」だけ、つまり、「そこでの外的会話の流れに巻き込まれることなく内的会話に集中する」。

それにつづいて、面接者とリフレクティング・チームの立場の人間との会話となり、イシュー提供者はこれまた口を出さず、ただ「きく」ことによって内的会話に集中する。

第一のポイントは「きく」、すなわち内的会話だろう。

そして、その内的会話を次なる外的会話に「うつし込む」。

******

このように内的会話のための時間が確保されていることで、会話の参加者は深く呼吸をするようにゆったりとした気持ちでさまざまなことを考える余裕を得るわけです。こうした状態で他者の会話を聞くことは、まさに新しく「きく」(内的会話をおこなう)ことを意味します。そして、内的会話の間に各々のうちに浮かび上がってきたことばは、次なる外的会話の機会に新鮮な風を通し、生き生きとした新たな意味の流れを生み出す契機、すなわち、新しく「はなす」(外的会話をおこなう)契機となります。

(略)

そこではリニアな二者間の会話に比べ、じっくりと内的会話をおこなうための「間」と、内的会話を次なる外的会話に新たにうつし込んでいくための「間」、そしてそれらを各々の参加者がダイナミックに立場を転換させながら折り重ねていくダイナミックな「場」が創出されているのです。

(P.31)

******

こうした会話のスペースを著者はリフレクティング・トライアングルと名づけ、「三」という数字がもつ含意については老子を引用している。

いわく、

「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」。

その意味はというと、『NHK100分で名著』2013年5月号『老子』(蜂屋邦夫)にはこうある。

******

最初に出てくる「道」は、天地よりも先に存在する「なにか」であって「無」を指します。それを姿かたちのない存在として認識したものが「一」としての気。さらにそれが陰陽の二つに分かれて、「二」となり、沖気(陰と陽の気を作用させること)が作用して「三」となり、そこから万物が生まれてくるというわけです。

*****

 

う~ん・・・

このブログの読者なら、すでにご推察のとおり。

約15年にわたって「三」方良しの公共事業推進の旗振り役を務め、10年近く土木工事現場への「三」次元モデル活用を推奨してきたわたしだもの、この「トライアングル」、すなわち「三」に心を動かされないはずがない。

 

ん?

なんだって?

もしや新ネタ?

何をおっしゃるか。

当方、純粋にリフレクティングに心を動かされているのだ。

けしてそのようなさもしい根性は・・・

 

(少ししかない)

 

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読み聞かせ

2019年06月02日 | 三方良しの公共事業

近ごろ孫と仲がよい。

と思ってるのは爺さんだけなのかもしれないが、そしてそれはたぶんそうなのだろうが、少なくとも自分自身はそう思っている。

いや、そう思いたい。

近ごろ孫と仲がよいと。

金曜日、やつらが来た。

なごやかな晩餉の時間が終わったあと、2才児が絵本を持ってきて読めと言う。

依頼もしくは懇請を表現する言葉は彼の語彙ではすべて「テ」、つまり「して」の「テ」であり「やって」の「テ」であるが、絵本を手に持って「テ」と言っているのだもの、それはもう「読め」と懇願しているに決まっている。

その絵本のタイトルは『泣いた赤鬼』。

浜田廣介が書いた普及の名作に、アノ浦沢直樹がイラストを描いたものだ。

 

泣いた赤鬼 (絵本)
長崎 尚志,浦沢 直樹
小学館

 

これがなぜだか彼のもっともお気に入りで、これ以外の絵本を読めというのは、母や婆には依頼をしても、わたしにはけっして頼まない。

しかしてなぜだかこれだけは、わたしに頼むのである。

人間というものは他人のニーズで動かなければならないものだ。

「他者のため」に行動するとき、人間のパフォーマンスは最大化するようにできている。

当然のこと、読まなければならない。

しかも、熱意を込めて読む必要性がある。

全身全霊を込めて語って聞かせる。

すると、絵本にしては長い物語だもの、終いまで2才児の興味がつづくはずはない。

ひっきょう、飽きる。

だが、わたしは彼を膝の上から離さない。

がちっとホールドして読みつづける。

そんなことをするから嫌われるのだと女房殿や娘は言うが、そこはしっかりとケジメをつけなければならない。

 

 

途中から入った5才児ともども膝の上に抱き、『泣いた赤鬼』を読み聞かせながら、故山岸俊男が名著『安心社会から信頼社会へ――日本型システムの行方』のなかで唱えた「意図に対する期待としての信頼」を説くジジイ。

 

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)
山岸 俊男
中央公論新社

 

わたしオリジナルの発想や知見ではない。

『泣いた赤鬼』を題材にとって「信頼とは?」を考察した『信頼学の教室』(中谷内一也)にヒントを得て、山岸俊男と合体させ、各地でしゃべっている。


信頼学の教室 (講談社現代新書)
中谷内一也
講談社



「赤鬼」が得た信頼、

近江商人が得ようとした信頼、

かてて加えて、

宮本常一「石工の話」における「石工」にとっての信頼。


庶民の発見 (講談社学術文庫)
宮本 常一
講談社

 

それぞれの信頼を比較しながら、ではわたしたち建設業に身を置くものはどうすればよいのか、がここ2年間というもの、わたしが各地で説いてきた「三方良しの公共事業」ばなしだった。

な~んていうのは、

おさなご達にはどうでもよいこと。

どうやらやつら、この絵本を読むとなると、なにがなんだかよくわからないが、突如として熱く熱く読み聞かせはじめる爺をおもしろがっているみたいだ。

 

近ごろ孫と仲がよい。

また遊んでもらったようだ。



  

↑↑ 土木のしごと~(有)礒部組現場情報

↑↑ インスタグラム ーisobegumiー


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「ジャガイモがゴロゴロ入ったカレーと三方良しの公共事業」理論提唱者の現在地

2018年06月15日 | 三方良しの公共事業

誰よりも「執着する人」であるわたしが、『執着しないこと』(アルボムッレ・スマナサーラ)を読む。

本人的には、なんの不思議もない。ないどころか、むしろ当然だ。「執着する人」だからこそ「執着しないこと」を目指すからである。

 

執着しないこと
アルボムッレ・スマナサーラ
中経出版

 

・・・・・・・・・・・・

 肉料理を食べると、自分は幸福を感じる。それは、「肉」だからではありません。「好きなもの」「食べたいもの」を食べているからです。

 ということは、菜食主義の友達も同じように、「好きなもの」「食べたいもの」を食べると幸福を感じるでしょう。なので、相手に喜んでもらうためには、「私が好きだから、あなたにも肉料理をご馳走する」ではなく、「あなたが食べたいものをご馳走します」となるのです。

 そうした接待を受ければ、その友達は、「私のことをよく理解している。私が喜ぶことを理解している」と判断して、あなたにとってよい友達となってくれます。

 あなたが他人からされたくないことは何ですか?それが発見できたら、自分に対しても、他人に対しても決して行わないことです。

 一方で、あなたが他人にしてほしいと思うことは何ですか?それが見つかったら、率先して他人にしてあげることです。

(Kindleの位置517)

・・・・・・・・・・・・

 

このくだりを読むなりニンマリし、得たりとうなずくわたしは、知る人ぞ知る、『ジャガイモがごろごろ入ったカレーと三方良しの公共事業』理論(?)を日本で初めて提唱した人である(あとにつづく者の存在は不明ですが)。『ジャガイモがごろごろ入ったカレーと三方良しの公共事業』、要約するとこうだ。

   ↓↓

 我が家のカレー料理担当は結婚以来ずっとわたしだ。そんなわたしはジャガイモが入ったカレーが好きではない。ひっきょう、わたしの作るカレーはジャガイモ抜きとなる。反面、我が女房殿はジャガイモを入れたカレーが好きである。だが、ジャガイモが入らないほうが断然イイと信じているわたしは、その必然としてジャガイモを入れない。

「ジャガイモを入れない」というその判断は、ただただ美味しいカレーを食わせたいという善意から出たものだが、あくまでその基準はつくる人たる自分であり、食べる人としての女房殿ではなかった。

あゝ、、、ときとして、善意の押しつけほどタチが悪いものはない。

食べる人に喜んでもらう。

そのことを第一に考えて行動する。

いわずもがな、カレーの話ではない。「三方良し」である。

「三方良し」は、けっしてツールなぞではない。理念であり考え方だとわたしは思っている。そしてその「考え方」の基本にあるのは「他助の精神」だ。「お客さん=住民」の利益を第一に考えることだ。「お客さん=住民」を喜ばせることを基本に考えて実行していれば、いろんな現場で立ち現れるモヤモヤとした情況を打開するすべは見つかるはずである。


さあ、久しぶりにジャガイモがゴロゴロ入ったカレーをつくってみようか。

おっといけない。あやうく過去と同じ轍を踏むところだった。「ジャガイモ」はあくまでも象徴ではないか。いつもいつでもジャガイモさえ出していれば彼女が喜ぶという、その考えがそもそも違うのだ。要は「食べたいもの」は何かである。

『ジャガイモがごろごろ入ったカレーと三方良しの公共事業』理論(?)を日本で初めて提唱した人、相も変わらず進歩がない。

 

 

 

  ↑↑ クリックすると現場情報ブログにジャンプします

 

 発注者(行政)と受注者(企業)がチームワークで、住民のために工事を行う

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宮古島で「三方良し」を語ったこと

2018年05月25日 | 三方良しの公共事業

 

沖縄離島遠征2日目は宮古島、

 

 

 

ステージが広くて気持ちいいのは、

太鼓打ちの血がなせるわざか。

 

 

9時半から17時までの講演中に記録した

ステージ上での歩数は4000歩あまり。

その数と、聞き手に伝わったかどうかの相関関係などは欠片もないのだろうが、そこはそれ、いつもの我田引水だ。思いのたけを伝えることができた(かもしれない)という、ひとつの表れだろうと意味もない納得をして余韻に浸っていたところへ、終了後、わざわざあいさつに来てくれた人が数名いた。

そのなかに、

「感動しました」

という老紳士の言葉あり(ひょっとして同年配だろうか、うん、そんな気がする)。

いえいえどういたしましてそれはわたしだけのチカラではない、なんとなれば「プレゼンテーションは送り手と受け手の創作物だ」(by 桃知利男)から。

なんて言葉が脳内に浮かんだが、思わず胸がつまり、「こちらこそありがとうございました」とだけ言ってこうべをたれる。


そんなこんなで、2018沖縄離島遠征の業務上のミッションは終了。

宮古島、忘れられない場所になった。

せっかくである、そして、なんてったて沖縄だもの、もう2日ばかり滞在して少しばかり観光をして行こうと思っている。

でわ。

 

 

 

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