「我、いまだ木鶏たり得ず」
昭和14年、3年間に渡り無敗をつづけた横綱双葉山が、70連勝を目前にして新鋭安芸ノ海に敗れたあと、師と仰ぐ安岡正篤に送った電報の言葉として有名である。彼がそうありたいと願った「木鶏」の出典は『荘子(達生篇)』。
******紀渻子(人の姓名)という人が、ある王の命を受けて闘鶏を飼育していた。十日経ったところで王がたずねた。「どうだ、鶏はもうよいかな。」「いいえ、まだです。まだむやみに強がって気負っております。」それから十日経って王はまたたずねた。「いいえ、まだです。ちょっとした物音や物影にもいきり立ちます。」また十日経って王はまたたずねた。「まだです。 他の鶏を見ると、ぐっとにらみつけて血気にはやります。」さらに十日経って王はまたたずねた。「はい、もう完全無欠です。他の鶏が鳴き声を立てても、様子を変えることがありません。遠目には木彫りの鶏とさえ映ります。本来の徳が欠けるところなく具わりました。他の鷄も相手になろうとするものはなく、背を向けて逃げ出すことでしょう。
(講談社学術文庫『荘子』より)
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齢が古稀まであと4つとなったぼくは、いかにも爺さん然としてきたその外見はともかく、内なる心は、いまだに血気にはやることがしばしばで、そんな自分をなだめたりすかしたりしつつ日々を生きている。これでは木鶏どころか、若鶏にさえ劣ると辟易することも度々だ。
そんなぼくが、昨年来アイフォーンアプリであるリマインダーに記し、毎朝6時50分、すなわち家を出る10分前にリマインドするようにセットしている言葉がこれだ。
相手の反対にストレートに反対しない。反対のための反対ではなく、その反対をゆっくりと相手に投げ返すこと。
出典は不明。だが、自分オリジナルでないことだけはまちがいない。その目的はといえば自戒。つまり、ここまでの流れでおわかりのように、時として感情的になってしまう自分自身に対する戒めの言葉に他ならない。
つい先日のことだ。ある身内に対し感情を爆発させてしまったことがあった。もちろん、そうなる原因はあり、自分としてはそれなりの正当性を有しているという思いもある。ただ、そこまでの言葉を吐く必要があったのかといえば、まったくなかったとしか言えないような場面でのことだった。
翌朝6時50分、アイフォーンがポンと鳴り、いつものようにリマインダーがポップアップした。浮かびあがったのはくだんの文字だ。
いやはや、これではいったい何のために日々リマインドするよう努めているのかわからないではないか。悔悟の念が押し寄せてきた。効果がないのであれば惰性でつづける意味はない。いっそ消すかとも思ったが、いや待てよと留め置いた。
だからこそ要るのではないか。いや、だからこそ必要なのである。
たとえば10のうち7つか8つがこれで止まっているのだとすれば、相応の効果をもたらせてくれているはずだ。なんて、都合のよい解釈でおのれを納得させた。
今さら、「木鶏」たり得ようとまでは思わないが、せめて「かしわ」ぐらいには成りたいものだ。硬いが旨い。噛めば噛むほど味が出るあの親鶏のように。
ならばいっそ、「かしわ」とリマインダーに記してみるのも一つの手ではないか。大真面目に考えてもみた。もちろん、そんな問題ではないのだけども。