答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

ゆず、おわる。

2018年11月18日 | ちょっと考えたこと

ある一方向から見ようとすると見えない。

だが、ちがう一方向からだととはっきりと見える。

ある一方向から採ろうとすると採りづらい

だが、ちがう一方向からだと難なく採れる。

それがある一定の場所でいつもいつでも同じかというとさにあらず、時間とともに状況は変化し、見えないポイントが見えるポイントとなり、採りづらいポイントが採りやすいポイントとなる。

だからといって、見やすい場所が採りやすい場所かというと概ねそうではあるが必ずしもそうではなく、あっちへこっちへとベストポジションを見つけながら作業をつづける。

まことゆず採りはやっかいだ。

かてて加えてあの荊棘(ばら)だ。すんなりとは行かない。

だが、そんなことはゆず採りに限った話ではない。仕事であれなんであれ、すべからくに通じることだ。

偏った見方、偏った考え、偏ったやり方、一方向から見ただけでは全体像を判断できない。

だからといって、偏ることすなわち悪かというと、必ずしもそうともいえない。すべてに偏りなく、とするあまりに中途半端で終始するぐらいなら、いっそ偏ったほうがよい場面もあるはずだ。

そのときたいせつなのは、オレは今、偏向している、全方向から見てはいない、はたまた別の見方もあるはずだと、自分自身を俯瞰してみることだ。なにより危険なのは執着する心だ。ある時ある場での正しいがいつも正しいとは限らないし、正しいと判断したその時その場でも正しいかどうかはわからない。「オレは正しいのだ」と執着してしまう心が判断を大きく狂わせてしまう。

なんてことなどを考えながら、今日もゆずを採っていた。

悪いクセだ。

このオジさんには、なんでもかんでもを大げさに考えてしまう傾向がたしかにある。

たかがゆず採りだ。

そう思えば、苦笑いするしかない。


雨にたたられ、思うようにならなかったこの夏から秋にかけての仕事がおわり、息つく間もなく突入したゆずの季節は、幸いなことに、雨で作業ができないことがただの一日もなかった。十年一日のごとく、相も変わらず自分ではどうにもならないはずの天気に一喜一憂し、右往左往している自分が可笑しくて仕方がないが、たぶん死ぬまで同じことを繰り返すのだろう。


ゆず、おわる。

なにはともあれ祝杯だ。



 

 

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マスト

2018年11月17日 | ちょっと考えたこと

「マストですよ、マスト」

そういう相手の言葉を奇異に感じながら、言葉の意味が飲み込めないわたし。

わからない。だが聞けない。ならば笑ってごまかすしかない。

軽くうなずきあいまいな笑いを返してその場をやり過ごした。

会社までの帰路、「マストとはなんだ?どういう意味だ?」、ハンドルを握りながら考えた。

まず真っ先に浮かんだのはマスト登りのマストだ。

マスト登り・・・不肖みやうち、アレができなかった。嫌いだった。昭和32年生まれ、1960年代後半を小学生として過ごしたわたしは、当時の田舎の子どもにしては珍しくバリバリのインドア派だった。それが原因なのか、たぶんそうなのだろう、圧倒的な筋力不足だったわたしは、かけっこをすれば必ずビリから2番め、知力には自信があったが体力的分野はからきしなダメな小学生だった。それでもそれは、他人よりできないという事実があるだけでけっして嫌いではなく、体育の授業も、その集大成としての運動会も大好きだったのだが、いかんせん見事なぐらいできなかった。その象徴が「マスト登り」だった。

いつも途中で力が足りなくなって登れなくなり、竹(マスト)に抱きついたまま皆の笑い声を聞く。その様を他人に見られるのが恥ずかしくて恥ずかしくて、すぐにでもそこから走り去りどこかへ消えてしまいたくなっていた。いつもいつでも、である。

大嫌いだった。若いころは振り返りたくもなかった。わが人生の汚点だと思っていた。しかし、久々に思い出し、あの体感がよみがえってみると、なんだかやけに可笑しすぎて、当の本人たる今の自分が、竹の途中に抱きついて泣きそうになっている少年を指さして笑ってしまった。

と、

「マストですよ、マスト」

運動会の記憶をさえぎるように、さっき打ち合わせで聞いた言葉が耳の奥で鳴る。

ああ、マストか。

解けた。

なんのことはない。マスト(必要)なのだ。

だったらマストじゃなく必要と言ってくれよ。そう独りごちながらクルマを運転する。

ま、いいか。

胸の奥にしまっていた遠い日の恥ずかしくてたまらない記憶を思い出させてくれたのだもの。

 

「マストですよ、マスト」

 

うん、たまには、振り返ることもマストなのである。



・・・・・・・・

と、何を気に留めることもなく、マスト、マストと連呼しましたが、ふと思いたち調べてみると、わたしたちにとっては運動会の必須競技だった「マスト登り」は、高知(四国?)ローカルな競技だったということが判明しました。

ということで、他県の皆さまに説明用の画像をひとつ。

こんな競技です。


四万十田舎暮らし』さんから拝借させていただきました。


あゝ、また恥ずかしさが込み上げてきた (^_^;)


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口癖

2018年11月13日 | ちょっと考えたこと

玄侑宗久和尚が『まわりみち極楽論』にこんなことを書いていた。

・・・・・・・・・

 世の中には不思議なことを研究してる人がいるものですが、ある人が、太っている人に共通の口癖を発見したっていうんですね。それはどんなものかと言いますと、「これを食べなきゃ太らないのに、この一口が我慢できないのよね」とか、「寝る前の、この一口が太るもとなのよね」とか、「私って、水飲んでも太るのよ」って言いながら水を飲む。お菓子を食べる。そうやって期待をかけられると、寝る前の体も、おそらく期待に応えようとするんじゃないでしょうか? 

(略)

 口癖の力って大きいですよ。だから、どうせなんかの口癖を言うなら、自分を「楽」の方へ連れていく口癖にしなくちゃいけないんです。

(『まわりみち極楽論』玄侑宗久、Kindleの位置No.484~499)

・・・・・・・・・

 

はて、オレの口癖はなんだろう?と考えてみる。

数秒後浮かんだ言葉は、

「なんで(どうして)?」

「なんでよ(どうしてよ)!」

「なぜ?」という問いかけは一般的には悪い言葉とみなされてはいないような気がする。だが、そうでもないぜと「なんで」を口癖とするわたしは思う。疑問としての「なぜ」と詰問としての「なぜ」は、同じ言葉でもまったく異なった性格を持つからだ。ということは、必然的にその言葉がもたらす結果も、たいていの場合は大きくちがってくる。

前者はたとえば、有名な「トヨタの5つのなぜ」のように、問題解決に大きく寄与する前向きな「なぜ」であるのに対し、後者は、発した当人がどう思おうと、問い詰め方が執拗であればあるほど真の意味での問題解決に結びつくことはほとんどない。わたしの「なぜ」は、多くの場合後者だった。もちろん、当の本人はそんなつもりはない。意識としては善意である。だが、時として「善意の押しつけ」ほどタチが悪いものはない。たとえ悪意がまったくなかったとしても、意図しなかったことや気がつかなかったことを免罪符にすることは真っ当な大人のすることではない(と言いつつしょっちゅうしてる気がするんだけれど)。

「なぜを問う」という行為は、彼我の関係次第では凶器となる。もちろんこの場合の彼我とは、(立場として)「我が強く彼が弱い」場合であり、その逆、つまり「彼が強く我が弱い」場合は、「なぜ」を何度繰り返したところで凶器までにはならない。せいぜいが「しつこいやっちゃなコイツ」とうっとうしがられるぐらいのことだ。つまり、「我が強く彼が弱い」場合に「なぜ」を使う「われ」にはよほどの配慮と注意が必要なのだ。

ではどうすればよいのか。

「なんで?」をどのような言葉に替えればよいのか。

つらつら考えてみたが良案は出ない。

思いついては折りにふれ、そんなことを考えつづけていると、「なぜ?」「なんで?」「どうして?」という言葉を使う頻度が減ってきたような気がする。代わって使い始めたのが、

「ん?」

ほとんど言葉とはいえない音と、それと同時に小首をかしげる仕草だ。あれ?待てよ、とその時の自分自身をふりかえって俯瞰してみる。

いやはやまったくどうにもこうにも、、、とアタマを掻く。かえって悪くなったような気がしてならなくなってきたからだ。

苦笑いしつつまた考える。たぶんたいせつなのは、「なぜ?」という問いを「受容できない心」で発するか「寛容する心」で発するかというマインドセットの問題なのだろう。とはいえ、「要は気分の持ちよう、心がまえなのだ」という結論づけは安易で危険だ。

さてさてどうしたもんじゃろうかのう、、、と沈思黙考。ここで玄侑和尚の言葉をふりかえってみる。

 

口癖の力って大きいですよ。だから、どうせなんかの口癖を言うなら、自分を「楽」の方へ連れていく口癖にしなくちゃいけないんです。

 

たかが短い言葉じゃないか、とあなどるなかれ。古来より言霊というではないか。僻みや妬み、怨嗟や呪詛の言葉を繰り返していると確実に人は病んでいく。その反対に、ことさらでよいからポジティブワードを使うように心がけていると、なんとはなしに心が前向きになっていくのを実感することが確かにある。わたしがよく使うところの「なんで(どうして)?」「なんでよ(どうしてよ)!」もまた、「原因を究明しその後のカイゼンにつなげたい」という本人にとっての大義名分とは裏腹に、怒りをベースとし、また腹立ちが前提としてあるかぎり、ネガティブワードとなって相手に届いてしまうのだ。

 

そうか、、、

あることに気づいた。

 

「なぜ?」「なんで?」「どうして?」という言葉の使用を強制的に止めるのではなく、「なぜ?」「なんで?」「どうして?」を発する前に別の言葉、つまり、”自分を「楽」の方へ連れていく”言葉を置けばよいのではないか。たぶんそれは、「受容」系または「認め」系あるいは「許す」系の言葉のはずだ。

と、ひらめいた文句があった。

だが、今は書かずにおく。何年か先に、事態が改善されていたら披露するだろう(きっと)。

では改善されなかったら、、、

もちろん、そのときも書くけどね(たぶん)。

 

 

まわりみち極楽論 (朝日文庫)
玄侑宗久
朝日新聞出版

 

 

 

・・・・・・・・・・

そういえば、、、と久しぶりにあったある読者がひと言。

「あのブログランキング、どうしてやめたんですか?」

「んんん・・・・覚えてない」

「ポチッとしてたんですよ、わたし」

(そういやたしかにそんなのあったなあと遠い目)

  

ということで、しばしのあいだ復活。

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身の丈

2018年11月11日 | ちょっと考えたこと

先日、某団体主催の県内企業研究会という催しに参加してきた。わが社から派遣されたメンバーはわたしを含め3名。合同企業説明会というのだろうか、そういったリクルートイベントには初めて参加するわたしたちである。当然、要領がよくわからないので、先立って何回かの打ち合わせをした。わたしたちがやってきた(いる)こと、わたしたちが目指してきた(いる)もの、わたしたちのストロングポイント、他社とわたしたちのちがうところ、、、。結論としては、まず第一に「小ささ」を強調しようということになった。なぜなら・・・

40あまりが参加するという県内企業のなかでわたしたちのような小さな会社はほとんどないであろうと予想したからだ。他産業はいざ知らず、わが業界のことを考えたとき、アソコとあそことあの会社・・・参加しそうなところを想像すれば、ウチはきわめて小さい。しかし・・・

この10年あまりで残してきた成果はといえば、彼らに伍してひけを取らない。

いやいやひけを取らないどころか、むしろ、こちらが明らかに上だと断言できることさえある。

それは何か。

深く考えるまでもなくスラスラと答えは出てきた。

簡単だ。

自らがやってきたことをアトランダムに挙げていけばいいだけのことである。

 

・地域のために、地域を向いて、地域とともに。

・(応急)災害復旧の実績(機動力、これぞわが社の伝統でありアイデンティティー)

・チームの力で勝負する。

・高知県建設優良工事施工者表彰12年連続受賞の内訳は9名在籍している技術者のうち8名(あとの1人は今年入った見習いくんなので実質的には全員)。

・ここだけの話、わたしがその気で喧伝すれば全国的な成功例としてTOC界隈でもてはやされるかもしれないクリティカルチェーン・プロジェクト・マネジメント(CCPM)の12年におよぶ実践(でも、しないんだもんねえ)。

・地域の宝「モネの庭」をつくった(のは多分に偶然だが)。

・それらの総体としての「小さい企業だからできることがある」。

・そして、コミュニケーション、コミュニケーション、コミュニケーション。

などなど。

 

ほ~

この会社、けっこうイケてるじゃないか。

不遜を承知で言わせてもらうと、マジメにそう思ったわたしなのである。そして・・・

身の丈に合っている。

そうも思った。

しかし・・・

と同時にこうも思った。

「身の丈」を越えて行こうとする営為の積み重ねがあったからこそ、今、結果論として(あくまでも途中経過に過ぎないけれど)「身の丈に合っている」とそう思うのだ。「身の程知らず」のチャレンジの数々から「身の丈に合った」ものが残ったという事実は確かにそのとおりなのだけれど、であるとともに、いささか身の丈を越えていたのだけれど、いつのまにか「身の丈に合ってしまった」ものがあるのではないだろうか。むしろソッチが占めるウエイトが大きいのではないだろうかと。

 

おお、

この会社、けっこうイケてるんじゃないか?

できあがった資料をためすながめつしながら、来し方と行く末に思いを至らせちょっとした感激を覚え当日にのぞんだわたしたちが目の当たりにした生徒さんたちの反応とういう現実は想像どおりに厳しいものだったが、なぜだかまったくメゲてはない。

「身の丈」を少しずつでも越えて行こうとする営為の積み重ねで今がある。

それが「身の丈に合った」ものとして今がある。

それを確認することができたのだもの、メゲているひまはない。

「変わらずに生き残るには変わらなければならない」

と同様に、「身の丈に合った」という現実を生み出すためには「身の丈」を少しずつでもよいから越えて行こうとする営為を積み重ねるしかないのだもの。

 

 


・・・・・・・・・・


そういえば・・・と読者からのひと言。

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在庫一掃

2018年11月09日 | ちょっと考えたこと

つくづく「きぶん」の人だなと思う。

はんぺんやちくわではない。自分で自分のことを見ていての感想だ。

今に始まったことではない。

これでも若いころに比べれば、ずい分とムラっ気が薄れてはきたのだが、それでもまだまだ相当なものだ。仕事人としてのわたし、家庭人としてのわたし、社会的人間としてのわたし、置かれている環境はそのつど違えど、気分がのるのらないで、やりたいこと、やらなければならないこと、をこなす速度や量や質が半端なく異なってしまう。

もちろん、褒められたことではない。こんなことをウェブで告白してしまうのもどうかなとも思うが、書きかけてしまったのでこのままつづける。

「書きかけ」

といえばこのブログにも、書きかけて捨て置かれた草稿がけっこうな数ある。「下書きで保存しているのだ」といえば体裁はよいが、現実は、気分がのらずに完結させることができなかったテクストや、着想だけを思いついたはよいがその先へと展開させることができなかったタイトルがアチラコチラにゴロゴロと転がっているだけのことだ。

きのう思い立って、ブログ編集画面にある記事一覧を150までカウントしてみると、そのうち23が「下書き」だった。なんだ、ぜんぜん多くはないじゃないか。ちょいと肩透かしだが、晒しついでだ。そのタイトル(仮)を少しだけ書き出してみよう。

 

身体とつきあうこと、人とつきあうこと

身の丈にあった

情理を尽くして語る

ひとりのためにつくる

ヒトは他者に翻弄されやすく

作用反作用

自分が存在しない未来だからこそ責任を持つ

口癖の力って大きいですよ。だから、どうせなんかの口癖を言うなら、自分を「楽」の方へ連れていく口癖にしなくちゃいけないんです。(玄侑宗久)

などなど

 

なかには『7つの顔を持つ男』なんぞという、いかにもくだけた内容を想像させるものもあるが、総じて真正面から真面目に取り組まなければ書けないような稿ばかりが未完で残っている。つまり、気分がのらないというよりは根気がつづかない、あるいは根気がないがゆえに、下書きもしくは下書きまでにも到達せずに眠っているということなのだろう。やはり、気分の人なのだ。

ということで、20余りの「下書き」を記事一覧のトップに羅列してみるなり、俄然スイッチが入ってヤル気になったオジさん。じつはきのうの稿も、そのなかのひとつをリニューアルしてアップしたもの。唐突に在庫一掃セールの始まりだ。


うむ、まずはひとつ完了。

さて、どこまで陽の目を見せてやることができますやら。


やっぱり気分次第なんだろうケド(たぶん)。


・・・・・・・・・・


そういえば・・・と読者からのひと言。

「あのブログランキング、どうしてやめたんですか?」

「んんん・・・・覚えてない」

「ポチッとしてたんですよ、わたし」

(そういやあそんなのあったなあと遠い目)



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読者へ

2018年11月08日 | ちょっと考えたこと

「だからブログ読んでますって」

 とある女性からそう言われた。

 「なんでそんなこと知ってんの?」

 そう問いかけたわたしへの返答だ。何年もあってはいないのに、そして何回もあったことがないのに、あまりにわたしの近況について詳しいから、ついつい「なんで?」が口をついて出たとたん、笑いながら彼女が答えてくれた。

先日も、

「いつも読んでます」

「おもしろい」

こんなふうな言葉を幾人かから立てつづけにいただいた。皆さん初対面だ。

そうそう、この夏に一献を傾けた、初対面だがブログをずっと読んでくれていたというある方などは、「おもしろい。文は人なり。人柄があらわれてます。」とまで評してくれた。気恥ずかしくて、穴があったら入りたいと思いつつも、生来の自分大好き人間だ、うれしくないはずがない。その評に値するかどうかは別として、ありがたく頂戴して胸にしまっている。

いくつになっても褒められて伸びるオジさんではあるが、こんなとき、決まって困ったことが起きる。わたし自身の心持ちが変わるのだ。

せっかくだもの、「ためになる」稿を「役に立つ」テクストをと気負いこみ肩に力が入ってしまい、あげくの果てには、いっとき何を書けばよいかがわからなくなってしまうのだ。

笑わないでほしい。他人さまから見れば笑い話でしかないだろうが、当の本人はこのうえなく真剣だ。もちろん、わたしだけの勝手な思い込みにしか過ぎない。考えてみれば、皆が異口同音に口にするのは「おもしろい」というキーワードなのだ。誰も「ためになる」ものや「役に立つ」ものを求めてはいない。「このオジさん、おもしろいじゃないか」と思うから、「今日ものぞいてみてやろうか」となる。

では、その「おもしろい」とは一体どういう意味なのか。「笑える」「こっけいだ」「可笑しい」という意味での「おもしろさ」ではないだろう(明らかに”お笑い”狙いのネタもあるにはあるが)。ということで「おもしろい」を調べてみた。

 

 興味をそそられて、心が引かれるさま。興味深い。「何か―・いことはないか」「仕事が―・くなってきた」「この作品は―・くなかった」
 つい笑いたくなるさま。こっけいだ。「この漫画はなんとも―・い」「―・くもない冗談」
 心が晴れ晴れするさま。快く楽しい。「夏休みを―・く過ごした」「無視されたようで―・くなかった」
 一風変わっている。普通と違っていてめずらしい。「―・い癖」「―・い声」
 (多く、打消しの語を伴って用いる)思ったとおりである。好ましい。「結果が―・くない」
 風流だ。趣が深い。

(コトバンクより『デジタル大辞泉』の解説)

 

わたしに向けて発せられた「おもしろい」は、上記1と4を足して2つに割ったようなものだろうか。

そういえば・・・、これもまたこの夏、とあるセミナーで回収されたアンケート用紙に記入されていた「わたしへの評価」を思い出した。

いわく、

「ものの見方が独特で”おもしろい”」

本人それほど意識的にやっているわけではなく、わたしにとってはしごく当たり前のものの見方であったり切り口であったりだが、「少々変わっているらしい」ということは、60年も生きてきたのだもの、自覚してないことはない。

ということは、ふつうにやっていれば「おもしろい」ということになりそうなものだが、発想や着眼点がいくらよくても、それを「おもしろい」と感じてもらうためには、表現する力や構成する力、つまり書くということにおいては文章力というやつが必要なわけで、Webで10年書きつづけては来たもののどっこいそれがままならない。いやいやまったく上達してないかといえば、そこまで卑下するものでもなく、10年という、それなりではあるが上手くなろうと努めてきた月日はけっしてムダではなく、それなりに上達したのではないかと自分で思ってはいる。

だが、それなりはそれなりだ。

未だに接続詞はマトモに使えないし、テニヲハだっておぼつかない。

とてもじゃないが、上手の域にははるか及ばない。


「だからブログ読んでますって」

そう宣言してくれた冒頭の女性は、よくよく聞いてみると7、8年前からの読者さんらしい。

じつは近ごろ、生身で受ける好評価とは裏腹に、アクセス数が激減して少々落ちこんでいた。だが、そんなふうに立ち寄ってくれる人が現に何百人もいるのだもの。それを思うと、とてもしあわせなことだ。書き手たる当の本人は、その読者さんたちが、何を求め何をおもしろがって訪問してくれているかについて、まったくといってよいほどわかってはいないし、リサーチすることもないが、「おもしろく」読んでもらうために、も少しつづけてみようと思っている。

だから、生身のわたしに出会ったら「読んでるよ」と声をかけてほしい。

いい齢をしたオジさんが、顔を赤くしてうつむきモゴモゴっと口ごもってロクにお礼も言えないかもしれないが、まちがいなくうれしがっている。

思い立ったが吉日だ。この際だから言っておこう。まとめて感謝の意を表すという省略を許してほしい。


いつもありがとうございます。

どうか今後もごひいきに。

 


そういえば・・・とくだんの女性がひと言。

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「んんん・・・・覚えてない」

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ほうれんそう

2018年11月03日 | ちょっと考えたこと

「報連相がない」という。

ほとんどの場合それは、”下”から”上”への「報連相がない」ということだろう。

「そりゃそうだ、そもそも報連相っていうやつは”下”が”上”へとするものであって、”上”から”下”への報連相なぞ必要ないじゃないか」とおっしゃるそこのアナタ、じつをいうとそれがそうでもないのだ。

ちょいと考えてみてほしい。

言わずもがなのことかもしれないが、報連相とは報告・連絡・相談の省略形だ。それをふまえて考えてみてほしい。”上”から”下”への報告、”上”から”下”への連絡、”上”から”下”への相談、はたしてそれらは必要ではないのだろうか。

わたしは断固として「要る」派だ。

ただし、「今の」という括弧がつく。たぶん昔はそうではなかった。いや、「たぶん」などと曖昧な物言いをしてはいけない。たしかにそうではなかった。報告や連絡や相談をするべきは”下”であって、”上”はそれを受け止めて解決策を与え、”下”を指し導くものだと信じていた。ごくごくあたり前のこととして疑うこともなかった。断固として「要らない」派だった。というより、そもそも「要る」か「要らない」かなどは考慮の埒外にあった。

報連相をするべきは彼らだ。

なんでオレが。。。

てなもんである。

しかし今は、断固として「要る」派だ。

なぜか。

われこう思う、ゆえにアナタにああ述べた。その顛末の結果や途中経過を報告したり連絡したり相談したりは発信者から受信者へのコミュニケーションとして必要かつ不可欠だ。ところが、わたしと君と彼彼女が生きる現実にはそれが実現できていない。だからこそ「報連相」「報連相」「報連相」と念仏を唱えるがごとく繰り返す。しかし、まことに残念なことに、そこにあるのは”上”が”下”へ求める「報連相」であり、”下”もまたそれを必要としていることを、多くの”上”は理解しようともしていないのではないか。

報連相は、発信者から受信者へのコミュニケーションツールだ。発信者と受信者という区分けをした場合は、”上”からも”下”からも”下”からも”上”からも同等だ。であれば、報連相は双方向でなければならないし、双方向の報連相だからこそコミュニケーションツールとして有効となる。


じつをいうとこれ、「報連相がないんだよね」と嘆くある人を見ていて感じたことだ。もちろん、それが実行できたからといって、打ち出の小槌的なソリューションになり得るかというと、そんな簡単なものではないことは承知している。しかし、問題解決の一助ぐらいにはなるかもしれないと記しておくことにした。


とはいえなんのことはない。

「報連相がないんだよね」

と嘆くある人は、そのとき眼前にあるある人であると同時に、たぶんわたし自身なのであるが。。。

 

 

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「自分が語ることで自分に念押しする」(安藤桃子)

2018年11月01日 | ちょっと考えたこと

・・・・・・・・・・

『NHK NEWS WEB』 (2018.10.30)より

高知市在住の映画監督、安藤桃子さんが30日、高知市の中学校で講演し、映画作りの経験をもとに、信じることを貫き通すことが大切だと語りかけました。
この催しは、生徒たちに将来の進路について考えてもらおうと、高知市の愛宕中学校が、県内で映画監督として活躍する安藤さんを招いて開きました。
中学校の体育館に集まった450人余りの生徒たちは、自分たちで事前に考え画用紙に書いた質問を一斉に掲げ、安藤さんが質問に答えていきました。
「サンタさんを信じますか」という質問に対し、安藤さんは「信じます」と断言したうえで、「100人がいないと言っても、あなたがいると思えば、自分の中に存在が生まれる」と話し、信じることを貫き通すことが大切だと語りかけました。
また、「夢は叶いません」と切り出したうえで、「夢と言ってる時点で、遠い世界の空想事です。未来をすべて現実のことだと思って、まずは近い未来から想像して動いてみてほしい」と呼びかけていました。

・・・・・・・・・・

 

「おっしゃるとおり」

おととい、TVニュースを観ていたわたしがひざを打った言葉は、じつはこのWEBニュースには書かれていない。それは、桃子さん自身が出前授業というやつで話をしたことに対しての感想だった。

「自分が語ることで自分に念押ししている」

いささかくどくなるが、わたしの勝手な想像で括弧をつけるとそれはつまり、

「自分が(他人に)語ることで(他人に語ったその内容を)(それを聴いている)自分に念押ししている」

ということなのだろう。

「自分に念押しする」という行為は、「自分が語る」というアクションがあってはじめて、それに伴ってくるものとしてある。自分の考えを言語化してアウトプット(出力)することなしには、自分へのフィードバックはない、か、もしくはあったとしてもたかが知れている。なぜならアウトプットをすると「わからない」自分を「わかる」ことができるが、アウトプットをしなければ、いつまでたっても「わからない」自分は「わからない」まま。つまりアウトプットは、「わからない」を「わかる」へと変換するためのスタートであり、さらに次の「わからない」へと誘(いざな)うためになくてはならない行為なのである。

よく「自戒の念をこめて」という。

わたしもよく使っていたが、ある頃合いから使うのを控えるようになった。あまり頻繁に使用すると、なんだかチトよい子ぶりすぎているような気がしだしたからだ。いや、「よい子」ではないな、「よいオジさん」だ。使っている当の本人は、まことにもって真面目至極にそう思うからこそ「自戒の念」という言葉が素直に出てくるのだが、思い浮かんだ言葉を素直に出せばそれでいいというものではない。ましてや、いい歳をした大人ならなおさらだ。そんなことを考え始めると、使えなくなった。それが、「ある頃合い」である。

そんなわたしの胸に「自分に念押ししている」という彼女の言葉は、やけに素直でさわやかに響いた。

 

「自分が(他人に)語ることで(他人に語ったその内容を)(それを聴いている)自分に念押ししている」

 

れっつアウトプット、あんど、れっつ念押し。

出力しようぜ、えぶりばでぃ。

 

 

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風をうけて

2018年10月30日 | ちょっと考えたこと

バックミラー越しにうしろを見ると、娘と4歳と1歳の孫が風をうけてほほえんでいる。何を話しているでもなく、三人三様にひたいに当たる風を感じているさまが気持ちよさげだ。

ふと思いたちアタマのなかで指折りかぞえてみる。1986年生まれの娘は30と2歳。彼女があれを初めて体験したのは、家族そろってこの地へ帰ってきた4つのときだ。

そうか。

あのときのわたしは今の彼女と、あのときの彼女は今の彼と同い年なのだと初めて気づいた。

齢(よわい)は一人ひとりに分けへだてなく重なっていく。しかし、齢(とし)をとるかとらないかには、たしかな個体差がある。

耳順(じじゅん)を過ぎ、それなりに落ち着いた物言いができはじめたのではないだろうかと自分自身では思わぬでもないが、付け焼き刃に付け焼き刃を重ね、メッキにメッキを重ねて今がある身なれば、ついつい地金があらわれてしまうことも少なからずある、というか、しょっちゅうだ。

そんなオジさんだもの、木鶏たり得るなど夢のまた夢、悪戦苦闘七転八倒を繰り返すなかで、嗚呼道程未だ遥かなりと嘆く日々。

どうせとるなら、よい齢(とし)のとりかたをしたいものだ。

なにがそんなに楽しいのか、風に髪をなびかせキャッキャウフフとじゃれあう子らをバックミラー越しにながめながら、そう決意する爺さんなのだった(風をうけても、なびく毛髪はないのだけれど)。




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人のふり見て

2018年10月23日 | ちょっと考えたこと

「それオレ言うたよね」

「何回も言うたはずぜ」

この類の言葉はわたしもよく口に出すが、考えてみればあまり褒められたことではない。実行しない(できない)相手にだけ罪があり実行を促した自分に罪はない、という宣言はつまり、「言った」という自分の行為と「言ったはず」の自分の言葉を、結果が伴わないことへの免罪符として用いているだけであって、「口に出す」ことと「伝える」ことはちがうことへは考えが及んでいない。

な~んてことを先日、

「それオレ言うたよね」

「何回も言うたはずぜ」

と他人が他人に対して詰問するのをそばで聞きながら思った。

「その言い方っておかしいんじゃないか?」

なんのことはない。わたしも同じ穴のムジナだ。

そして、即座に思い浮かんだのが橋本治の名著『上司は思いつきでもの言う』のこのフレーズ。

 

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部下を愚かなままにしておく上司は、「いい上司」でも「正しい上司」でも「賢く正しい上司」でもないからです。部下の愚かを野放しにしておくのは「愚かな上司」です。

「愚かな上司と正しい部下」の組み合わせはあり、「愚かな上司と愚かな部下」の組み合わせもあって、「正しい上司と愚かな部下」というペアはないのです。

(『上司は思いつきでものを言う』橋本治、集英社、P.156より)

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上司は思いつきでものを言う (集英社新書)
橋下治
集英社

 

自分が言葉で伝えたと思っていることが相手の行動として現れないのには、それが相手に起因するものかコチラに原因があるかの別はあるにせよ、何らかの理由があるはず。そこへ考えを及ぼすことなく、いつまでも同じ叱責同じ愚痴を繰り返すのであれば、能無しなのはアチラではなく自分自身だったという、笑えない笑い話となるしかない。

もちろん、上司と部下の関係のみにとどまった話ではない。上下強弱の関係がある場合にすべからく言えることだ。立場が上(強い)のものはいつも心に留め置く必要がある。

人のふり見てわがふり直せ。

勉強になりました。



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