答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

土木初心者のための教科書としてはどれがよいか?

2020年07月21日 | 土木の仕事

SOS!

という発信が某SNSであった。

いわく、

「この業界の知識ゼロでわからないことだらけなのが悔しい」

言葉の主は、SOSを発信したその人ではない。

彼の会社に勤める新米エンジニアだという。

つづいていわく、

「本を読んで勉強したいらしいんですけど、オススメの教科書ってないですか?」

いくつかの反応あり。

列挙してみる。

 

絵とき測量』(包国勝他)

2級土木施工学科&実地試験』(土木施工管理技術検定試験研究会)

動画・マンガでわかる建設業 ただいま工事中!!』(札幌建設業協会HP)

マンガでわかる若手技術者育成のための〇〇ハンドブック シリーズ』(東日本建設業保証協会)

復興の道しるべ~三陸鉄道北リアス線震災復旧工事~』(東急建設公式Youtube)

絵でわかる地図と測量』(中川雅史)

SLAM DUNK(スラムダンク)全31巻完結セット』(井上雅彦)

 

すわ、とばかりに返信したのは、半分がわたしの知人で、あとの半数は知らない人。

それにしても・・・

どれもが、まったくのピントはずれではない。それぞれの「土木」に対する立ち位置や考え方があらわれていておもしろい。人というものは、「同じ問い」に対してこれほど異なった反応をするものかと、興味深く見ていたわたしは、もちろんただの傍観者ではなく、イノイチバンに答えを提示していた。

そのオススメとは。

 

 

土木への序章 いつも通る路、渡る橋』(田中輝彦)

30年前、32歳と11ヶ月という少々とうが立ちすぎたルーキーとして土木業界入りしたわたしが、数冊目に読んだ本だが、わたしにとってはこれが、「土木関連書」の嚆矢となったという感覚がたしかにあり、今に至っても初心者向けとしてはベストだという思いがある。

その内容はというと、

・・・・・・

 では、みなさんは土木についてどんなことを知っておられるでしょうか。土木とは一体何でしょうか。この問いに答える土木を紹介するいくつかの本はありますが、いささか専門的のように思われます。

 この小書は、一般の人々にも土木について理解していただけるように、日常のごくありふれたことがらを交えながら、土木とはどんなものかを述べたつもりです。

(「はじめに」より)

・・・・・・

まさにこのとおり。

いくら噛みくだいて説明しようとしても、いくら平易に解きあかそうとしても、その道のプロというものは、「いささか専門的」になってしまいがちなものだ。それなのに、京都大学土木工学科から鹿島建設というこの道のエリートであるにもかかわらず、田中輝彦氏が書いたこの本は、「土木とは一体何でしょうか?」という問いに対する答えとして、わかりやすいことこの上ない。

したがって、「知識ゼロの人にオススメは?」と聞かれると、いつもいつでもわたしはまず真っ先にこの本を挙げることにしている。

そうそう、ゲオルク・ジンメルの文章に出会ったのもこの本だった。

また引きとはなるが、文中より引用する。

・・・・・・

2つの場所のあいだにはじめて道を作った人びとは、もっとも偉大な人間的事業のひとつをなしとげたことになる。

(中略)

道づくりはいわば人間固有の作業のひとつである。

動物もたえず、そしてしばしば驚くべきたくみさと至難のわざとをもって、距離を克服している。

しかし、この距離の始点と終点とはついに結合されることがない。

動物は道の奇跡、すなわち、運動を凝結させてその開始と終結とをふたつながらに含む固定像をかたちづくる、という奇跡を生みださない。

橋をかける行為にいたってあの人間固有の作業はその頂点に達する。

(『ジンメル著作集12』より)

・・・・・・

これを受けて、「この言葉は、人間の根源的な営み、そして土木というものの持つ本質を語っている」と田中氏は述べている。

あれあれ?

初心者向けじゃなかったの?

それにしちゃあエラくむずかしくないか?

そうお思いのそこのアナタ。

ごめんなさい。

そう思わせてしまったとしたら、ジンメルの言葉を紹介したわたしの責任だ。

哲学的なのはここだけだ。全編がこうではない。

全体をつらぬくのは、先に書いたとおり、わかりやすいことこの上ない説明だし、土木という仕事に対する誇りと愛情に満ちあふれている。

最後に『苦難を乗り越えて』という最後の項の締めくくり、つまり、この本全体を締める言葉を紹介する。それを読んでもらえば、その一端がかいま見えるのではないだろうか。

・・・・・・

 暑い日にスコップを握り、寒い日にコンクリートを運んだ作業員が「この橋は私がつくりました」と誇らしげにいい、ときに、ちょっとはにかみながら「みんなといっしょに」と付け加えるのを見るとき、私もほほえんでうなずくのである。

・・・・・・

以上、「土木初心者のための教科書としてはどれよいか?」という質問に対するわたしの答え。ぜひ、ご一読あれ。

 

 

 



 

 

 

土木への序章

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「建設業界で働く人達の写真展」を見た

2020年02月01日 | 土木の仕事

 

福島にいる。

今年5月末に開かれる「三方良しの公共事業推進カンファレンス」の打ち合わせだ。

列島をおおう暖冬気分に、ついつい気を許してしまい、帽子を忘れた。

いかに暖冬とはいえ、ここはみちのく。むき身のアタマを冷気が刺す。

そんななか、会場となる予定の「コラッセ福島」で、身も心もあたたかくなるような催しに出会った。




「建設業界で働く人達の写真展」

特に、その大半を占める「小中学生の部」が素敵だった。



 

10歳の女の子が撮った作品。

つけられたキャプションは

「初めてみたお父さんの作業姿」

 

 

工事現場で仲よくツーショットの姉妹のおばあさんがつけたキャプションはこうだ。

・・・・・・

自分のじいちゃんが毎日どんな仕事をしているか知らなかった孫たち。初めてじいちゃんが仕事をしている姿をみて「すごい」「かっこいい」と喜んでいました。重機に乗せてもらったり、会社の方のお話を聞かせて頂いたりして良い経験をさせて頂きありがとうございました。

・・・・・・

 

「いいじゃないか」

心のうちでそうつぶやき

「ダメじゃないか」

すぐに打ち消す。

 

「初めてみたお父さんの作業姿」

「毎日どんな仕事をしているか知らなかった」

「初めてじいちゃんが仕事をしている姿をみて」

 

どれもこれも素敵な写真ばかりだが、それを認めたうえで、あえて言う。

身内にすら自分の仕事を発信できなくてどうするのかと。

他産業はいざ知らず、わたしたちがそうであってはいけないのだと。

なんとなれば、「自ら発信しなければ“なんだかよくわからないもの”は“なんだかよくわからないもの”のままであり、それは好き勝手に解釈されるものでしかない」(桃知利男)のだから。

とはいえ、遅きに失することなど何もない。

なにより、ささやかなスペースではあるけれど、あきらかに開かれた場所で、このような催しをすることに意味がある。「閉じた円環」の内側でないことがすばらしい。皆が皆、いつかどこかで見かけたことがあるはずの「土木という現場ではたらく人々」を、あらためてオープンにすることで、なんとなく「見える」ものを「見せる」、そして「伝える」。

 

 

「誰もわかっちゃくれねえか・・」と嘆く前に、やることはいくらでもあるはずだ。

10年来くりかえしてきたこの台詞をかみしめながら、何度も何度も行きつ戻りつし、子どもたちが撮った写真に勇気をもらうオジさん(いや、彼彼女たちからすれば爺さんか)なのだった。

 

 

 

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ピントの話から

2020年01月29日 | 土木の仕事

「写真なんてもんはピントとブレとのたたかいよ」

目の前の彼は、わたしともうひとりの女性に対してそう言い、「お説ごもっとも」とうなずくわたしがいた。

とある展覧会場でのことである。

しかし、内心では「そうかなぁ」と疑い、「ばかりでもないんだよなー」と思ってもいた。思いつつ、反論をしても説き伏せる自信はなかったし、なにより、わたしのなかで論戦を挑む必要性が感じられなかった。そんな心とは裏腹の「お説ごもっとも」だったのが正直なところだ。

テクニカルな部分にこだわり、テクニックを追求する。

その繰り返しのなかで、よりクリアなものを求めようとする。

写真を趣味としている人にとっては、しごく当たり前のことなのだろう。

趣味だと呼べるほどの入れ込みようはないわたしでも、「写真を撮る」あるいは「気になったものを写す」という行為を好んでいるのだもの、ブレていたりピントが甘かったりする写真はボツ、お蔵入りにするのが基本である。

しかし、「でもない場合もあるんだよなー」という考えが、たしかな実感としてある。

伝えたいものがそこに表現できていれば、手ブレやピントの甘さは第二義として考えてよい、と信じているからだ。

なんてことをエラそうに書いているわたしだが、そのことに気づいたのはそんなに昔ではなく、その意を強くしたのは、わずか半年ほど前のこと、山崎エリナさんの写真集『「ただいま」「おかえり」』を観たのがきっかけだ。

 

「ただいま」「おかえり」
山崎 エリナ
小学館

 

この写真集を紹介した拙ブログでは、こんな感想を記している。

・・・・・・

すんなりとは腑に落ちてこないが、じわじわと染み入ってきて、そして突然胸をつかれる。

まったくもってだらしないことこの上ないが、わたしにはこの魅力を表現する語彙の持ち合わせがない。

・・・・・・

このなかに収められた作品には、ピンぼけだったりブレブレだったりするものが多い。

それが意図的なのか無意識なのか、素人のわたしにはわからなかったし、今となっても判然としない。意図的にブレさすという手法や、わざとピンぼけにしてしまうという方法も、テクニックとしてはありだろうが、彼女の写真からはそのような感じは伝わってこない。

たぶん、そのような思惑をはるかに超えたところに、この作品群の価値や魅力があるのだろう。それを表現でき得る語彙を持ち合わせていないのは、今になっても相変わらずだが、そう確信はしている。

唐突だが、「土木」の世界もそうではないだろうか。

昨今喧しい、生産性向上がどうしたこうしたの話からわたしが受ける違和感は、「情緒」とでも表現するべきものがそこにないからだ。テクニカルな部分だけを見ていては、見落とすものがある。

なんとなれば、土木技術者にとってもっともたいせつなものは感性だからだ。

感性の話を抜きにして、テクニックやテクノロジーの話をしているばかりでは、たいせつなものを見失ってしまう。

 

「写真なんてもんはピントとブレとのたたかいよ」

そううそぶく御仁に「お説ごもっとも」とうなずきながら、そんなことなどを考えていた辺境の土木屋、62歳と1ヶ月。

 

 

 

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地域の建設業は「訛っている」ことこそが重要な美点(武器)なのです。

2020年01月01日 | 土木の仕事

2020年元日、外はまだ暗い。

床のなかで、「何時だろう」と枕元のケータイを見ると、5時を少しすぎたばかりだった。

ダイレクトメッセージがひとつ届いている。

昨年知り合った、ある学校の教員からだ。

年頭にあたっての所信表明(のようなもの)が記されている。

「ああ、そういえばそんな手もアリだな」

そう思った。

2020年いのイチバンの当ブログに何をどう書くか、についてである。

「所信表明(みたいなもの)にしてみようか」

まだ身体は床のなかだ。

さて・・・

すぐに降りてきた惹句がある。

 

地域の建設業は「訛っている」ことこそが重要な武器である。

 

今、思いついた言葉ではない。

ここで書いたことも、発表者あるいは話者という立場で何度か他人さまに披歴したこともある。

オリジナルな言葉でもない。

元ネタは林英哲。

かつて英哲さんは、その著書『あしたの太鼓打ちへ』のなかで、

地域の特徴を生かした「郷土芸能」であることが存在意義になっている太鼓では、「共通語」でしゃべることは何の価値にもなりません。

という前提のあとに

太鼓は「訛っている」ことこそ、重要な美点(武器)なのです。

と記した。

辺境の土木屋兼太鼓打ちたるわたしが、それをもじったのが 、

地域の建設業は「訛っている」ことこそが重要な武器である。

という惹句だ。

じつはこれまで「美点」という言葉を意識して外していた。「武器」という表現だけにしたほうが、わたしの伝えたいことがストレートに伝わるかなという思いからだ。

なにを伝えたかったのか。

2015年10月、「土木学会CIM講演会in高知」を前にして書いたテクストを引いてみたい。

・・・・・・

地域に根ざし、地域のことを熟知しているところから存在意義が生まれる地元建設業だからこそ、「訛っている」ことが重要な武器となる。

さりとて、土木技術という世界に生きる者なれば、どんな辺境に身を置いていても、「共通語」や「標準語」を理解しかつしゃべれることもまた不可欠だ。

そういうことを踏まえると、「共通語でしゃべることは何の価値にもなりません」とまでは断言できないが、少なくとも、「訛っている」ことを、「共通語」や「標準語」でしゃべることより上位に位置づけておかなければならないとわたしは思う。

・・・・・・

いつもながらに思い切りが悪い。

「ぼくはAを支持します。かといってBを否定するわけではありません。どちらもたいせつですが、どちらかといえばAのほうがBよりたいせつです。だからBのこともないがしろにせずにAをたいせつにしましょう」

という論法は、理屈としてまちがってはいないのだろうが、読むあるいは聴く相手に対するインパクトという意味では、Bを切り捨てるほうがより効果的だろう。ま、そこんところは、わたしのわたしたる所以ということで、自分で自分を許すとしておいて、それを踏まえて断言してみる。

地域に根ざし地域のことを熟知していることから存在意義が生まれる地域建設業において、「共通語」でしゃべることは何の価値もありません。地域の建設業は「訛っている」ことこそが重要な美点(武器)なのです。

やはり、「美点」という語彙を入れたほうが断然よい。

単なる武器ではなく、自分たちが備えている「美点」を「武器」とする。自分たちが有している「美点」だからこそ「武器」となり得る。

辞書を引くまでもない。「美点」とは、「すぐれた点」であり「よいところ」であり「長所」だ。

まずは、「すぐれたところ」「よいところ」「長所」を認識することからはじめなければならない。

という文脈から考えると、「美点」という言葉をわざと省いて「本歌取り」をした(つもりになっている)2015年の惹句は、「画竜点睛を欠く」というものだろう。肝心要が雑である。

ま、そこんところも、わたしのわたしたる所以だ。元日だもの。またまた自分で自分を許し、もういちど断言してみる。

地域に根ざし地域のことを熟知していることから存在意義が生まれる地域建設業において、「共通語」でしゃべることは何の価値もありません。地域の建設業は「訛っている」ことこそが重要な美点(武器)なのです。

よし。

これでいこう。


 

以上、2020年元日、高知県安芸郡北川村にて。

やれ情報化だ、やれICTだ、と喧しい「今という時代」のこの業界だからこそ、地域建設業にとってもっともたいせつなのは「訛り」であり、それを踏まえた情報発信なのだと肝に銘じる辺境の土木屋、62歳と5日。

本年もごひいきに。



 

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オジさん、お嬢さんに会う。

2019年11月21日 | 土木の仕事

若いお嬢さん、と書いて、歳をとったお嬢さんなどというものが存在するのか?とふと考えたが、まあいい、若いお嬢さんは若いお嬢さんだものと思い直し、この稿、書き始める。


少し前のことだ。若いお嬢さんと会った。

旧知の女性だ。

彼女と会ったのは何年前だったろう。女子高生と、民間講師として赴いたオジさんというシチュエーションで、である。『いつも通る道、渡る橋』と題して行った話のあと、皆から感想文をもらった。そんななか、彼女の文章はよく覚えている。その他何人かとともに「かっこいい」というキーワードを使ってくれていたからだ。

「かっこいい」

「土木の仕事が“かっこいい”」なんて……じ〜ん……。

そのときの感動がよみがえった。

しばし、はずんだ会話のあと、彼女と別れて会社に帰り、どれどれたしかこのへんにあったはずと、適当だと目ぼしいところを開くと、ほぼピンポイントで「土木とは“地球を相手にする仕事”だという言葉がとても心に響きました」という書き出しではじまるそれはあった。

その締めくくりはこうだ。

・・・・・・

一回の土木の仕事は何回も何回も重ねた失敗の上に成り立っているんだなと気づかされました。そして、土木の人は雨の中でも頑張っているんだと思うと、仕事とは簡単なものではないんだと感じました。それを思うと、土木の仕事をしている人達を誇りに思い、かっこいいと感じます。土木の仕事は本当に素晴らしいです。今日は本当の土木の仕事を教えてもらいとても良かったです。とても感動しました。貴重なお話をありがとうございました。

・・・・・・

あのときを思いだして、ふたたび、じ〜ん……

そして、久々に彼女と会ったその数時間前の会話の最後を思い出す。


「ほれ、あのときくれた感想文で“かっこいい”って書いてくれたやんか」

そういうわたしに、彼女は何のてらいもためらいもなくこう言ったのだ。

「えー、忘れました」

「ホンマか?」

「ハイ、ぜんぜん覚えてない」

 

「ちょっとよい話」にオチをつけて申しわけないが事実である。

だがまあいい。それでよくはないが、「伝える」という行為の繰り返しのなかではそんなこともある。

けれど、それが「伝える」ということでもあるのだし、だからといって「伝える」をあきらめる理由にはならない。

そして、彼女があのときわたしにくれた「かっこいい」という言葉がわたしにもたらしてくれた「気づき」とその価値は、そのようなことでは揺るぎもしない。

「がんばりよ」

別れぎわ、そうかけたわたしの言葉に、黙ってニコッと笑う彼女の顔が、「オマエもな」とわたしに語りかけているような気がしてならない辺境の土木屋、まもなく62歳。

”あい・わず・はっぴー・つー・みーちゅー“、なのであるよ。

 

 

 

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(仕事の)常識

2019年11月06日 | 土木の仕事

「水位は?」

「だいぶ下がりました。もうちょっと下がってくれたらいいんですけど」

という言葉のやりとりのあと、

「もう大きな雨はないわ、11月やし」

という言葉を口に出しかけて、「いや待てよ」と飲みこんだ。


ここいらの「土木の常識」で言えば、川の仕事はこれからの季節が本番である。

理由は簡単。もちろん、遊漁期が終わったというのもあるが、第一番には「雨が少ない」からだ。当然のことだが、雨が降らなければ水位が上がることはない。水位が下がれば仕事がしやすくなる。したがって、河川工事のみならず、すべからく「川に関係する仕事」は、11〜2月の「雨が少ない」時季にがんばらなければならない。これが、ここいらの「土木の常識」だ。

しかし、その常識が通用しなくなってきている。11月でも12月でも、その回数と確率はぐっと少なくはなるにせよ大雨は降る。昔も降らないことはなかったのだが、近年たしかにその確率が高くなってきている。現に、今朝の新聞を見ると、はるか南の海上ではあるが、またまたドデカイ台風ができていた。

それやこれやが巷間いわれるところの「地球温暖化のせい」かどうか、判別できる知見がわたしにはないし、どちらかといえば、「地球温暖化」については「そうでもないかもしれないんじゃないか?」と懐疑的な見方もするべきだというのが、わたしの意見だ。それは、「生まれ持ってのひねくれ者」というこの性分ゆえかもしれないが、それを差し引いたにせよ、地球史という辺境の土木屋ふぜいでは想像もつかないような悠久のスパンから考えれば、「今ある温暖化」が、いわゆる「地球温暖化」であるかどうかという結論は、市井の井戸端会議ならともかく、公の場で軽々に口にするものではないと思っているからだ。

まして、年端もいかない娘さんが国際会議という場で口を極めて大人を罵るのに拍手喝采を送り、「彼女こそが正義なのだ」とでも言わんかのような論旨で煽りたてるに至っては、ナニヲカイワンヤである。「そういう意見を持ち、公衆に訴えるのはけっこう。けどね、相手を罵倒しちゃあいけないよ。事が科学的知見にかかわるものならなおさらだ。」ぐらいのことを言って、若い人を軽くいさめたりするのが「正しいオジさん(もちろんオバさんも)」というものである。

あらあら、ついつい筆がすべり、話がちがう方向へ行ってしまったようだ。

話を戻す。

ん?どこまで戻す?

そうだな、「常識が通用しなくなってきている」まで戻そうか。

よし、ではそこからだ。


仕事をする上で、常識はなにより大切なものである。

その職種、その仕事、その類、それぞれの場で、まずは自分がたくわえてきた常識を基準にものごとを考え、その常識をふまえて、右か左か上か下か、はたまた行こか戻ろかなどなどを判断しなければならない。それが仕事をうまく進めるための王道だ。リスクを回避するためのメインロードだ。もちろん、成果をあげようとすれば、それだけではダメなのであって、常識を逆手に取った奇手もまた必要なときがあるのだが、とりあえずは奇をてらわず常識を拠りどころとする。不確実性だらけの現場で、本当に想像もつかなかったことが起こったとき、冷静かつ余裕を持って事にのぞみ問題解決を図るためには、まずは想定可能なリスクを、自分自身がたくわえてきた「常識の引き出し」を頼り一つひとつつぶしていかなければならない。

しかし、その常識がいつまでも常識ではないのもまた常識だということを肝に銘じておかなければならない。

きのうの常識は今日の常識ではない(かもしれない)。

本当にたいせつなのは、この「かもしれない」という心持ちだろう。自分自身の常識に対して懐疑の目を向けることなく、ただただ盲信するのみでは、いつか必ずそのしっぺ返しがやってくる。

 

以上、なにもそこまで考えて「いや待てよ」と言葉を飲みこんだわけでもないが、たぶんこんな感じだったのじゃなかろうか、自分自身のアタマのなかを整理しながらつらつら書いてみた。

どうか、「これが整理?いや混沌でしょう?」と笑わないでほしい。

では。

 

 

 

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実年行進曲

2019年11月05日 | 土木の仕事

バックホウが2台とダンプトラックが1台。いわゆる床掘という作業をしている現場でドローンオペレーターをしていて、ふと気づいたこと。現場正面上空から俯瞰して、右から68歳、60歳、69歳。その年齢構成に思わずニコリ。ある歌が脳内で流れた。

♪ オレたちゃ実年 文句があるか ♪

青島幸男の歌詞に大滝詠一が曲をつけ(逆か?)、歌っているのはハナ肇とクレージーキャッツだ。

実年。

今では誰も使うことがなくなったその言葉は、実年行進曲がリリースされる前年の1985年、当時の厚生省が公募にもとづいて決めた50〜60歳代をあらわす言葉で、当時においても、お役所が期待したほどには普及しなかった。

そのようなことはまあいい。

実年行進曲である。

オジさんたちの流れるようなチームワークに別れを告げ、車上の人となったわたしのクルマには、なぜかその実年行進曲を収めたCDが積んである。

発車と同時にCDオン。

 

♪ 俺たちゃ実年 文句があるか

背は低いが 血圧高い ♪

 

「実年、悪くないやんか」

そう独りごちながら、柚子色のスズキハスラーを駆って緑のなかを走り抜けていく辺境の土木屋なのだった。



 

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関東地方整備局内河川関係排水ポンプ車稼働状況

2019年10月16日 | 土木の仕事

関東平野の浸水箇所もだいぶんとしぼられてきたようだ。

ただ、その報道の仕方を見ていると、「浸水している」はニュースとなるが、24時間体制で「水を抜いている」という事実は一顧だにされていないようだ。

あいも変わらずといえばあいも変わらずだが、もちろんのことながら、自然に水が抜けるのを待っているだけでこのように早く排水できるはずもなく、その裏(という表現も変だが)で懸命にはたらく人たちの存在があればこその、「あとひと息」であるのは厳然たる事実だ。

わたしにとって数少ないが何人かいる現役国土交通省職員のFB友のひとり(関東地方整備局河川部勤務)が、そんな状況を毎日教えてくれている。

となると当然、わたしのやることはひとつ。

誰に頼まれたわけではないけれど、やることはひとつ。

彼が教えてくれた国土交通省関東地方整備局発表資料である

台風19号の大雨により、国土交通省の排水ポンプ車の稼働状況について【10月14日22時時点】

国が管理する河川における堤防決壊箇所(9箇所、延べ1530m)と浸水区域(約40km2)の図面と排水ポンプ車の稼働状況を提供します。堤防決壊9ヶ所すべてで緊急復旧工事中です

から、画像を引いて、その奮闘状況を拡散したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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台風一過で考えた

2019年10月14日 | 土木の仕事

幸いにして当地にはまったくといってよいほど被害をもたらせなかった台風19号。とはいえ、そんなわたしでも多摩川沿いのアパートに暮らす娘のことを想うと夜半まで気が気ではなく、また関東に住む縁戚には避難した者もありと、それはそれなりに落ち着かない時間をおくった。まずもって、亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被害にあわれた方々が一日でも早くふつうの暮らしに戻ることができるように祈るばかりである。

 

「地球温暖化の影響による台風の強大化」

じつのところを言うとわたしは、すでに定説になったかのような、あるいは誰も疑問をさしはさむ余地がないかのようなこのフレーズを耳にするとき、「本当にそうなのか?」といつも違和感をおぼえてしまう人である。地球温暖化などという大きなテーマにここでどうこう言うつもりはない。ただ、昨今あきらかに日本列島に襲来する台風が大きくまた強くなったことを、ただそれだけが理由にしてしまうのはいかがなものかと、いつも違和感をおぼえてしまうのだ。

俗に昭和の三大台風という。

1934年9月の室戸台風、1945年9月の枕崎台風、1959年9月の伊勢湾台風だ。

そのどれもが、910~930hPaほどの猛烈な強さで上陸している。

その他にも、上陸時の中心気圧の低さだけで並べても、第二室戸台風(1961年)925hPa、ルース台風(1951年)935hPaなどなど、1930~1960年代にかけては日本に接近する台風には強くて大きなものが多かったというのは歴史的な事実である。つまり、地球温暖化うんぬんにかかわらず、日本という国は強大な台風に襲われてきた。その事実をふまると、この50年ほどは、昭和の三大台風をはじめとした、かつて襲来していたようなスーパークラスの台風が日本に接近してこなかった(専門家ではないので理由はわかりません。そして沖縄などの離島は除きます)という、ごくごく幸せな期間だったにすぎないと考えるべきだろう。

近年になって頻発する地震もまたしかり。偶然か必然か、高度経済成長と期を同じくして、日本という国は大きな自然災害がそれほど起こらなかった(あくまで「それほど」です)。「(それほど)起こらなかった」という直近の事実だけで「起こらない」と考えるのは危険である。そして「起こりはじめた」今を、なんだかまったくこれまでと異なる大きな事象(たとえば地球温暖化)のせいにするのは、少しばかり論点がちがうのではないか。

ことの本質は、「わたしたちはそういうところで暮らしている」ということだろう。

もちろん、だからあきらめなさいとか、だから手をこまねいてみているしかないのだとか言う気は毛頭ない。

むしろわたしは、「だから」という順接のあとに次のような言葉をつづけなければならないと考える人である。

だから国土を強くしなければならない。

だから日本には「土木」が必要だ。

したがって、いくらハードを整備しようとも「起こること」が避けられないのであればハードに金を注ぎ込むのはムダだ、という論には与しない。わたしたちがそういうところに住み、ふつうの暮らしを維持していこうとすれば、ハードをよりいっそう強固なものにしようという営為を放棄してはならない。土木国家だなんだと揶揄されようと、この列島で暮らしていくかぎり、その営みを放棄するのは自殺行為にひとしいとわたしは思う。

「なんだかんだと理屈をつけて、けっきょく土木屋の我田引水ぢゃないか」

そう誹られようと、大まじめにそう思う令和元年体育の日。

 



 

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辞書のなかの「土木」

2019年09月28日 | 土木の仕事

三省堂の大辞林が改訂されたついでに「土木」という言葉の解説が変わったというニュースを目にした。

・・・・・・

(日刊建設工業新聞2019年9月25日より)

従来は土木について、「道路などを造る事業」という断片的な定義だったが、5日発売の第四版では土木が担う役割に目的を追加。2番目の解説に、「道路・橋梁・鉄道・港湾・堤防・河川・上下水道など、あらゆる産業・経済・社会等人間生活の基盤となるインフラを造り、維持・整備してゆく活動」と記した。

・・・・・・

「へーそうなんだ」と興味をひかれたわたしは、ちなみに・・と従来の第三版を引いてみる。

・・・・・・

1.土と木。

2.土石・木材・鉄材などを使用して、道路・橋梁・鉄道・港湾・堤防・河川・上下水道などを造る建設工事の総称。〔従来は家屋などの建築を含んだ〕

・・・・・・

してみると、「あらゆる産業・経済・社会等人間生活の基盤となるインフラを造り、維持・整備してゆく活動」という文章が追加されたということになる。土木を生業(なりわい)とする人間にとっては、ごくごく当たり前のことだが、遅まきながらでも記してくれたのは、なにはともあれよいことだろう。

それはそれでよいとして、くだんの第四版では、1番目の解説として従来の「土と木」に加えて「また、飾り気のないことのたとえ」という言葉が入ったという。

あらあら、「土木」が持つ意味のひとつとして「飾り気のないこと」があるなんて・・浅学にして初耳だ。

また調べてみる。お次は精選版日本国語大辞典で「土木」を引いてみた。

・・・・・・

1.土と木。比喩的に、飾らない粗野で素朴なものをいう。→けいがい(形骸)を土木にす。

・・・・・・

こうなると止まらない。

・・・・・・

(goo辞書より)

形骸を土木にすの解説

《「晋書」嵆康伝から》容姿を気にかけない。身の回りを飾らない。

・・・・・・

そうか。そんな意味があったのか。またひとつ賢くなった気がして独り悦に入る。

それにしても、「土木=飾り気のないこと」とは・・・

「イイじゃないか、悪くない」

そう独りごちようとして、あわてて否定する。

そんなことを言って喜んでいた日には、いつまで経っても「私と私の環境」は救えない。

「あらゆる産業・経済・社会等人間生活の基盤となるインフラを造り、維持・整備してゆく活動」を知ってもらうためには、「飾り気」もまた、大いに必要なのだもの。


 

 

 

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