答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

巣立ち

2019年03月19日 | 北川村やまなみ太鼓

手紙をもらった。

わたしの言葉に助けられたのだという。わたしの言葉でがんばることができたのだという。わたしの言葉で救われたのだという。「弱虫だったぼく」を強くしてくれたのだという。

その言葉は、

「あきらめるな」。

手紙の主さんは、わたしが太鼓を教えてきた小学生だ。

コチラの伝えたいことがどうあろうと、発信者が放つたくさんの言葉のなかからどれを選択して自らの胸にしまい込むかは受け手にゆだねられている。発信者がなにを伝えたかろうと、いったん言葉として放たれた以上、それをどう受け取るかは受け手の自由だ。じじつ、別の子らは、「やさしさ」であり「失敗をおそれない」であり「身体の使い方」でありと、それぞれにさまざまなキーワードを選んでいた。各人各様人それぞれ。どれが正解でどれがまちがいかなどということはない。どれもこれもが、わたしが言葉や態度であらわしてきたものにはちがいないのだ。

その圧倒的な受信の自由のなかにおいて少年は、

「あきらめるな」

を選び、心にとめた。

もとよりわたしは、『メッセージのコンテンツが「ゼロ」でも、「これはメッセージだ」という受信者側の読み込みさえあれば、学びは起動する。』という内田樹さんの言説に諸手をあげて賛成する人であり、

「あきらめるな」

というメッセージを伝えた(らしい)オジさんが、受信の自由のなかでそれをチョイスして行動指針とし体現しようとした彼に、ちょっとしたキッカケを与えた存在にすぎないのは百も承知している。しかし、そんな吹けば飛ぶよなヘッポコ先生だからこそ、感激もひとしおだ。

 

「いやあ、なんべん読んでもたまらんわ」と独りごちながら、何回も何回も読み返しては杯を重ねる昨夜。

一杯いっぱい、また一杯。

この先、いくらでもつらいことやたいへんなことがやってくる。

けれど、何度でも立ち止まって何度でもやり直せばいい。

少年たちよ

これからも

「あきらめるな」

といってはまた呑むオヤジ。

呑みたいだけ?

うん、そうとも言う。

とまた一杯。

春まだ浅い弥生三月、巣立ちの季節だ。



 

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ローアングル ~ モネの庭から(その344)

2019年03月18日 | 北川村モネの庭マルモッタン


 

 

 

 

ローアングル

ローアングル

そして

ローアングル。

 

どれもこれもがローアングルなのには、チョイとした理由(わけ)がある。

先日買った LUMIX FZ-300 の背面ディスプレイが、縦横右左自由自在に向きが変わる、バリアングル式液晶モニターだったのがその理由だ。

 

 

広角25mm~望遠600mmが一台でカバーできるのと、全域でF値が2.8だというレンズ性能に惹かれ、それプラス、ファインダーをのぞきながら撮れるというのが購入の決め手だったのだが、コンデジを仕事で使うようになってからこのかたの、長いあいだの習性とはおそろしいもので、ついつい背面モニターにたよってしまうわたしがいた。そんな自分自身にちょっとしたとまどいを覚えつつ、コイツを使っているが、これがまた具合がいいったらありゃしない。

そのひとつが、バリアングル式のディスプレイだ。

横でも縦でもローアングルでもハイアングルでも、地面すれすれの超ローアングルでも、これさえあればバッチグー(古いか?しゃあない、”昭和”だ)。おかげで、撮った写真を確認してみると、ローアングル、ローアングル、ローアングルのオンパレード。まったく調子に乗りやすいオヤジだネ、と自分自身で苦笑いするが、まあそれもいつものことといえばいつものこと。このマイブームが、しばらくはつづきそうな気配である。

しばらく?

そうさねえ、やはり、水面すれすれからのローアングルを600mmの望遠で撮るまでは。

もちろん、その被写体は青い睡蓮。

考えるだけでわくわくして、夏が来るのがまちどおしいオジさんなのである。

 

 

 

 

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夢のあと

2019年03月17日 | ちょっと考えたこと

 

春がきたというのに、

山の上の集落跡に

春を待つ人はいない。 

 

 

昭和の残骸?

 


夢のあと。

 

 

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Play in the puddles

2019年03月16日 | ちょっと考えたこと

 

 

この画像に

「人生が土砂降りっぽい時は どろんこ遊びを愉しんじゃえ」

というキャプションをつけて、知人がフェイスブックにアップロードしていたのはいつだったか。

しかとは覚えてないが、その心持ちはしかとちょうだいしたことを覚えている。

とはいえ、今のわたしがそういう状態におかれているわけでもなんでもないのだが、そんな「プーさん」を思い出した先日が、そうやって自らを鼓舞し「あきらめるな」と言い聞かせる一日だったことはまちがいない。

「なんてこったい」

そうやって、自らの想いと今そこにある現実とのギャップに失望するのは勝手だが、その現実には自分自身も加担しているのだという現実に目をそむけ、「他人のせい」にばかりしているかぎり、その想いもそこから現(うつつ)となる行動も身勝手な自己充足にとどまるしかない。

「土砂ぶり」だと感じる現実は、もしかしたら「土砂ぶり」でもなんでもなく、「そぼふる雨」とまでは言わないけれど、「少し強めの雨」ぐらいなのかもしれないではないか。よしんばそれが本当に「土砂ぶり」だったとしても、「土砂ぶり」を恨んだり、その境遇を悲観したりしていても、ことは転回しない。

 

"When life throws you a rainy day,play in the puddles."

 

"I see it" だ。

あきらめず、水たまりで遊んでみよう。

プーさんよ。

 

 

 

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執着に堕したとき、信念は悪となる。

2019年03月15日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

きのう、「一年前のこの日、アンタこんなブログをアップロードしたんだよ」というメールがgoo blogより届いた。

「1年前の記事通知メールを受信する」という設定にしておけば自動的にそれは届くのであって、そしてわたしは、その機能ができてよりこの方、ずっとその設定をオンにしっぱなしなのだが、ある時分から、とんと来なくなっていた。原因はわからない。

それが突然の再会、いや再開と表したほうが適当か。

Outlook にあらわれたタイトルに思わず目を見張る。

『「ゆらぎながら、新たな重心を常に捜し、そのときに一番いいやり方を、模索するべきではないか。」(玄侑宗久)』。

もちろん、たとえ記憶力激減退の昨今のわたしといえど、一年前に書いた記事だもの、「そうそう、そんなこと、たしか書いたことがあったな」ぐらいには、おぼろげながら覚えている。いや、記事はおぼろげだが、その言葉が載っていた本のことは、くっきりはっきりと覚えている。

さっそく、「一年前のこの日、アンタこんなブログをアップロードしたんだよ」というメールに促され、2018年3月14日のブログを読んでみた。

読み終わり、「天啓」という言葉が浮かんできた。いやいや、「天啓」と言い表すのは大仰すぎるかもしれないが、「いま一度肝に命ぜよ」と誰かに言われているような気がした。

そこに書かれていたのは、わたしが忘れたくない、忘れてはならないと信じている心がまえである。ゆえに、来年の今日3月14日、「一年前のこの日、アンタこんなブログをアップロードしたんだよ」というメールがgoo blogより届くのを期待して、一部を加筆修正のうえ再掲しておくことにした。


・・・・・・・・・・・

「風流」という言葉の歴史は古く、禅語として用いたのは、十一世紀中国の白雲守端禅師だという。

「不風流処也風流」

(風流ならざる処もまた風流)

玄侑宗久さんがその「風流」という言葉を解していわく、

これは本来「ゆらぎ」という意味で、目の前の現実に合わせて自身がゆらぎながら重心を取り直すことである。(P.124)


ないがままで生きる (SB新書)
玄侑宗久
SBクリエイティブ

 

「ゆらぎ」

という言葉の響きと「現実に合わせて・・・ゆらぎながら重心を取り直す」という文章にぐぐっと心が引き寄せられてしまったわたしは、そのあとつづく宗久和尚の言葉に膝を打った。

現場を見て、状況の変化を見ながら、間違っていたと思えば計画も変えていいのだ。ゆらぎながら、新たな重心を常に捜し、そのときに一番いいやり方を、模索するべきではないか。(P.125) 

即断即決(特に現場では)を旨としていると、

「あ、オレ間違うちょったかな?」

と悔いることなど日常茶飯事だ。

そしてそれへの対応は、その場そのときの状況で異なってくる。

ときには、

(ゆらぎながらも)頑として変えない。

そしてときには、

(ゆらぎに身をまかせ)柔軟に変更する。

いずれにしても、心のうちの逡巡を他人さまに悟られるような素振りは、厳として戒めながら現場で起こるさまざまな問題に対処していく。

そのうちまた問題が起こる。

「あ、コレおかしかったかな?」

という後悔が生まれる。

そしてまた対応する。

ときには、

(ゆらぎながらも)頑として変えない。

そしてときには、

(ゆらぎに身をまかせ)柔軟に変更する。

この繰り返しだ。

 

宗久和尚はこうも書いている。

ある程度信念を持つことは、むろん必要なのだろうが、状況を見なくなるとそれも単なる執着に堕する。(P.125) 

「執着に堕する」とき、多くの場合その判断と行動は間違ったものとなる。

その一例を紹介する。

大雨のなか台風で寸断された国道の応急復旧をしていた。つねに危険と隣り合わせの現場だった。わたしが置かれた立場は総責任者だ。工事中、それまでにあった何度かの失敗、そこから先の工期の厳しさ、その他もろもろによりわたしの心に「何がなんでもやらなければならないのだ」というヒロイックな情念が生じ、ソイツが増幅して、作業中止という判断を躊躇させた。

轟音とともに山が崩れた。

幸いなことに死者負傷者ともにゼロだった。全員がかすり傷ひとつ負わなかった。ほんの少し前の作業員さんの言葉がわたしを我に返らせ惨事を回避するキッカケとなったのだ。


宗久和尚の言葉を借りれば、あれこそが「執着に堕する」ということなのだろう。もちろん、「信念」を持つことはたいせつなことだ。リーダーの「信念」が原動力となってことが動く。またことを動かす。しかし、状況が見えない(状況を見ない)まま「信念」に固執するようであれば、その「信念」は悪になりかねない。いや、その「信念」そのものが悪である。

現場を見て、状況の変化を見ながら、間違っていたと思えば計画も変えていいのだ。ゆらぎながら、新たな重心を常に捜し、そのときに一番いいやり方を、模索するべきではないか。(P.125)


玄侑宗久さんの本を読み、「現場監督の仕事」のことなぞに想いを馳せる朝。

・・・・・・・・・・・


読んでいて、轟音とともに崩れ落ちる山と身体を容赦なく叩きつける雨が、たしかな体感としてよみがえってきた。

執着に堕したとき、信念は悪になる。

突然、goo blogより届いた「一年前のこの日、アンタこんなブログをアップロードしたんだよ」というメール。やはり、天啓だ。少なくともわたし自身は、そう思うことにした。

 

 



 

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