答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

オンラインセミナーふたたび(の続き)

2020年07月08日 | オヤジの情報発信修業

5日前、『オンラインセミナーふたたび』という稿を書いた。

生身の観客が目の前にいない、という、いわゆるオンラインセミナーにのぞむ自分自身の心持ちと心がまえを、色々様々に探ったあげく、こんなところではあるまいかと理屈をこね回してみた。

その翌日、自身二度めとなるオンラインセミナー講師を務めた。

その途中、前日こね回した理屈の中に欠けていた重要なピースを発見した。

それは、こんな言葉とともに脳内に降りてきた。

 

「そうか、慣れているのだオレは」

 

ブログというものをはじめて丸12年が経過した。

インスタグラムというやつに手を出したのは約1年半前だ。

今や、ブログ2本、インスタグラム2つを掛け持ちする身だ。

余人は知らず。わたしが運営主となっているそれらは、「コメント」という反応が、あまりない。まったくないわけではないが、ほとんどといって差しつかえがないほど、ない。

つまり、一年三百六十五日のうちの三百日以上、「反応のない発信」という行為に知力と労力を割いているというわけになる。

厳密に言えば、「反応がない」わけではない。

「見てますよ」

「読んでますよ」

という反応を生身の人間からいただくことは、たまにある。

しかし、肝心なところでなぜだか照れ屋になってしまうわたしは、そんな場合の大半で、薄ら笑いを浮かべてうつむいてしまい、相手の顔さえ見ることができない。したがって、全体として「よい」か「よくない」か、あるいは具体的にいついかなるときのどんなテキストが「よかった」か「よくなかった」かというコメントをゲットしたことは、ほとんどない。ただ「見てくれている」「読んでくれている」というその事実をもってして、好意的に解釈し、明日への糧としているだけだ。

そういう営みを丸12年もつづけ、あまつさえ、その範囲を拡大しようとさえしているこのアタマのなかを、理路整然と分析してくれる人がいたら、どうぞどうぞお願いしますと、素直に提供したいと思っているが、そんな奇特な御仁が存在するはずもなく、半ば意地になってつづけている。

そう、その結果として、

「このような行いに、慣れているのだオレは」

と、4日前に気づいたのだ。

「じゃあまったくの無観客試合ばかりをつづけてもよいのか?」

と問われれば、

「そ、それは、困る」

とアタマを書くしかないのだが、とりあえず、オンラインセミナーというものへの耐性を自分自身が確認できたところで、本日はおしまいにしよう。

 

以上、「オンラインセミナーふたたび(の続き)」でした。

オソマツ。

 

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『街場の親子論 父と娘の困難なものがたり』(内田樹、内田るん)を読む

2020年07月07日 | 読む(たまに)観る

 

父と娘の往復書簡、しかも内田樹父娘という形式に興味をひかれ、久々に「内田本」を読んでみようと思った。

父が列記した自分の欠点、すなわち、態度がでかい、ものごとを舐めてかかる、粗雑、自分勝手、無反省・・・について、「私の中のお父さんのイメージとはまるで違う」と反証する、娘(内田るんさん)の分析がみごとだ。

・・・・・・

「態度がでかい」というのは常に他者に対して訝しんでいる気持ちが素直に出てしまっているだけだし、「ものごとを舐めてかかる」というよりは、「どうせ真摯に対応したところで納得できるものは得られない」と諦めがちなだけに見えますし、「粗雑」は、感覚を研ぎ澄ましてしまうと入ってくる情報が多すぎて無意識に色々シャットダウンしてるっぽい、むしろ「病的に繊細」の裏返し。「自分勝手」は、「こうしたら皆にとって良い結果を生む」と、自分だけに見えてるビジョンに突き動かされてしまってるだけで、「無反省」も、厳密な反省点をすべてピックアップしていたら身動きが取れなくなるから、仕方なく細かい部分は切り捨てる習慣がついている、という感じに見えます。

(中略)

 私としては、お父さんといえども、お父さんの悪口は受け入れがたいので、お父さんはお父さんに気を遣ってあげて欲しいです。

(Kindleの位置No.845)

・・・・・・

なんとすてきな。

自分で認識している自分自身の欠点を、じつの娘にこんなふうに分析してもらえるなんて、この幸せ者めが、と嫉妬しつつ、『街場の親子論 父と娘の困難なものがたり』(内田樹、内田るん)を読む。

よいなぁ、この父娘。

 

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梅の雨 〜 モネの庭から(その413)

2020年07月06日 | 北川村モネの庭マルモッタン

降る音や耳も酸うなる梅の雨

 

芭蕉、寛文7年24歳の作が耳に住みついてはなれないここ数日。

今日はあたらしくできた庭へと行くついであり、こんなものを試してみた。

 

 

 

 

カメラが濡れるのを気にしなくてよいので、現場ではたらく人たちを撮るのにも使えそうだ。

 

 

 

 

 

 

それにしてもこの梅雨、

けっこう手強い。

 

 

 

 

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オンラインセミナーふたたび

2020年07月03日 | オヤジの情報発信修業

あした、自身2度めとなるオンラインセミナー講師をつとめる。

初っ端の体験は、大きなトラブルはなかったものの、こちょこちょと小さなトラブルが続発する少々スリリングな展開に、おもしろがったり緊張したりで、総じていえばたのしかった。

肝心のウケはどうだったか。

画面からかいま見えるのは一部の受講者の表情や態度でしかなく、150人ほどいた聴いている人たち全体にとってよかったのかよくなかったのか、正直言ってわからない。

しかし、「アリャあアンタにゃむいてない」という友人知人たちの大方の予想をくつがえし、わたし自身としては手応えを感じた。

お客さんの反応もわからないのに「手応え」ってのはおかしいんじゃないか、と訝る方もいるだろう。

たしかに、受け手が発する「気」によって醸し出されるその場の空気感や、発信者と受信者がないまぜになってつくり出されるグルーヴ感を感じ取ることができないのだから、「手応えがあった」という表現はおかしいのかもしれない。

ではいったい何に「手応え」を感じたのか。

そもそも、CPDSのユニット取得を目的とするセミナーにおいて、わたしの話が聴きたくて来場する人などは、(県内は別として)わずかしかいない。なかには、インターネットで見つけたからと、わざわざ県境の町から県都まで遠路はるばるを何時間もかけて来てくれたような奇特な人もなかにはいるが、それはごくごく特殊な例で、そのほとんどは、「会社から行けと指示された」だけの人だ。つまり、そのほとんどが、身を入れて聴こうしてそこに来てはいない。

だからといって、手を抜くなどという気は毛頭ないし、「伝える人」としての使命をおびて(誰にたのまれたわけでもなく自分で自分に課しているだけのことだが)やっているのだもの、そのつど、あつくるしいほどの全力投球ではある。

だとしてもそれは、聴く気を起こさせることができるかどうかとは別問題だ。

「オレの話の途中で眠るやつはひとりもいない」

と豪語する話者を何人か知っているが、そう断言できるほどの自信が、わたしにはまったくない。

ましてやわたしの話たるや、「肝は工程管理なのだ」とか「信頼をつくる三方よし」だとか、まったくもって「公共建設業の今」という時流に沿ったものではない(たぶん)。であるのだもの、現にわたしの話の途中(いわゆるセミナーというやつでは)、すやすやと眠りに落ちる人なぞ、ざらにいる。

そんなこんなを勘案すると、こと「伝わる」か否かにおいては、それほど多くの人には届いていないのが現状だろう。

ましてや、そこからなんらかの行動を起こす人は、1割も存在すれば御の字だと推定している。だから、少しでも弾は多く打つ。つまり回数を稼ぐことによって子数を多くしようと努めている。

そんな考えのもとやっていると、生身の人間を目の前にしたときに、ある傾向が顕著にあらわれてくる。しだいしだいに、幾人かは必ずいる熱心な受講者に集中しはじめるのだ。

そりゃそうだ。まったく聴く気がない人はもとより、あまり気のない人の反応を気にして、自分自身を消耗させるより、たとえばウンウンとうなずいてくれる人や、たとえば熱心にメモをとってくれる人や、またたとえば目をキラキラさせて聴いてくれる人やらを対象にした方が、自分自身を盛り上げるためのセルフマネジメントとして、よほど効果があるにきまっている。しだいしだいに、幾人かは必ずいる熱心な受講者にわたしの意識が集中していくのも当然のことだ。そんな体験を重ねていくうち、いつしかその「幾人か」を選ぶようになった。

つまり、わたしはいつも、「幾人かは必ずいる」という前提のもと、その話を展開している。

そしてその前提は、少なくとも同じような主旨で話をする場合にくつがえされたことがない。

話のデキを大きく左右するのが受け手であるのはまちがいのないところだが、受信者をその気にさせるのが自分自身の話のデキであるのもまたちがいがない。

それらは、「あぁあ、今日もいち日なげえよなー(ま、冷房の中だからいいけど)」という「空気」と、「何もんだよアンタ」という視線と、そのなかでごく少数の「おもしろそうじゃないかコイツ」という期待(らしきもの)を糧に、(ほぼ)アウエーでたたかってきた経験から導き出された事実だ。

だとすると、デキさえ悪くなければ「そこそこには届く」という希望的推論が成り立つし、その希望をもって話を進めるのだもの、よほどのことがなければそれほどヒドいデキにはなりようがない。

 

あれ?

書いていて少し恥ずかしくなってきたぞ。

あらあら、

あまりにもナルシスティックで身勝手な推論だったろうか。

まあいい。

それぐらいの厚顔無恥さがなければ、このような行為をつづけることなどできはしないのだから、多少の我田引水でナルシスティックな言動は笑って許してもらおう。

なにより、そもそも他人の需要に応えることでスタートし、需要があるからつづけていることだもの、「やっぱりリモートのほうの需要が多いよね」となったときへの備えぐらいはしておくのが筋というものだろう。

となれば

「顔が見えないから」

とか

「反応がわからんから」

とかで

「ヤダねオレは」

と放り出していいというものではない。

(よね)

(たぶん)

 

 

 

 

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コーヒーブルース

2020年07月02日 | ちょっと考えたこと

札幌市中央区南4条西5に“NOX“はある。

夜中、トイレに行こうと寝間をぬけだすとき、ふと枕元に置いたケータイに目をやると、「オールディーズ昭和歌謡小さなライブバー」というサブネームがつけられたその店から、短いメッセージとともに動画が届いていた。送り主は、北の大地在住のわが盟友Mさんだ。

どうやら歌のようだ。

音をごくごく小さくして聴いてみる。

 

♪さんじょーへ いかーなくーちゃ♪

 

中学生のとき、はじめて聴いた高田渡がその『コーヒーブルース』だった。

メロディーへの詞の乗せ方が、それまで耳にしたことがない類のもので、とても不思議な感覚を抱いたのを覚えている。

特に印象に残ったのが「なに、好きなコーヒーを少しばかり」というフレーズだった。

以来、しばらくのあいだ、折にふれ口ずさんでいた。

 

♪三条へいかなくちゃ

三条堺町のイノダっていう

コーヒー屋へね

あの娘に逢いに

なに 好きなコーヒーを

少しばかり♪

 

トーインくん、

コマっちゃん、

Mさん、

ありがとう。

あゝ、無性に行きたくなってきた。

南4条西5のNOXっていうライブバーへ。

 

 

 

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