答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

あばたも

2024年11月29日 | ちょっと考えたこと
あばたもえくぼ。
恋する者の目には、相手のあばたでもえくぼのように見えてしまう。贔屓目に見れば、どんな欠点でも長所に見えてしまうものだということの喩えだ。

といっても、土木施工においてはそうはいかない。
「あばた」は欠陥。しかも施工不良がもとで生じる欠陥のひとつだからだ。こと土木の世界では、どこからどう見ても「えくぼ」に見えることはない。

先日、お城下でひらかれた「よいコンクリート」をつくる施工技術の講習会に行ってきた。斯界の第一人者であるTさんが来ると聞き、自ら志願をしての参加だ。特段あたらしい発見があったわけでもなく、基礎技術を学び直したという形だが、歳を取ると、覚えていたことを次から次へと忘れていくのだから、こうやって再確認するのもわるくない。特にそれが基礎的なことならなおさらだ。

途中、施工不良による不具合の話のなかで、豆板の説明があった。業界で施工に携わるものなら知らないものはないが、ご存知ない一般の方にかんたんに説明すると、豆板とは、型枠に流しこんだコンクリートが隅々まで行きわたらず、砂利などの骨材が表面にあらわれた欠陥のことを指す。岩おこしとか雷おこしを想像してもらうとわかりやすいだろうか。

その豆板、別名をジャンカと呼ぶ。
ところが、「ジャンカという言葉は今は使ってはいけない」とT氏は言う。
同様に、表面気泡をあらわす「あばた」もNGらしい。
初耳だ。
いったいなぜ?
その場で検索してみると、すぐに理由が判明した。内輪でもっとも的確だと思われる文章を引用する。

******
ジャンカはカタカナで記載するので外来語のようですが、これは、あばた(天然痘にかかった後の顔のぶつぶつ)を表現する古い日本語であるじゃんこ(あばた顔のことを「じゃんこ顔」と呼んでいたらしい。)から派生した言葉で、じゃんこのような状態を意味します。実際に現場では「あばた」と呼ぶ職人もいます。
また、痘瘡(あばた)は「かさぶた」を意味するサンスクリット語である「arbuta」の音写である「あ浮陀(あぶだ)」がなまった語であり、かつて病人の治療をもしていた寺の僧侶の間で使われるようになった言葉です。
従って、日本語としては「じゃんこ」がぶつぶつ状態を表す言葉であり、ジャンカは、その派生語である日本語です。
******

ナルホド。さては差別語あつかいなのか?と検討をつけ、さらに探すと、日本コンクリート工学会(JCI)が設けた「コンクリートに関する推奨用語一覧」にたどり着いた。
そこには「ジャンカ」は「豆板」、「あばた」は「表面気泡」と表記することが推奨されている。理由は推して知るべし。たぶん「あばた」という容姿の別名が「ジャンカ」だから、両方揃ってアウトとしたのだろう。といっても、あくまでも一学会の推奨だから、いわゆる禁止用語ではないのかもしれないが、いずれ使われなくなってしまうのだろうと推測される。

そういうぼくだとて、「ジャンカ」や「あばた」といった表現を使うことができないからといって、別になんの不都合もないのだもの、少なくとも公の場においては、そのような理屈に対して異を唱えてまで、あえて使おうとはしないだろう。

以上、余計なお世話かもしれないが知識として。
もちろん、けっしてそれがよいことだとは思っているわけではないが、そのうちに、昨今流行りのアバターという言葉なぞも、NGになったりするかもしれないし。
ん?ないない、ゼッタイない?わからないよぉ。


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〈私的〉建設DX〈考〉その18 ~令和6年のファックス通信~

2024年11月25日 | 〈私的〉建設DX〈考〉
ある人のデスクに置かれていた一枚の紙は、どうやらファックスで送られてきたもののようです。表題に惹かれ何気なく内容を確かめていたぼくの目が、次の一文に釘付けになりました。

「申込については、下記URL(申込みフォーム)から必要事項を入力のうえ、◯月◯日までに送信してください」

文末には、そのサイトのURLとQRコードが貼ってあります。
はて?
これを受け取った受信者各自は、いったいどのような対応をするのだろうか?
想像をめぐらしてみました。

紙に記載されたURLをひと文字ずつ入力してサイトへ飛ぶ?
まさか、スマホで写真を撮ってURLのテキストをクリックするとサイトへジャンプするという技を知っていたりするのだろうか?

どうしてもぼくの想像は、ファックスというその情報伝達手段ゆえに、受け取り手を勝手に情報弱者と決めつけてしまっていますが、当たらずといえども遠からずでしょう。

そもそもそのQRコードの行く末が謎です。
そこに付いているQRコードをスマホで読み取り、申込みフォームに記入するのは、受け取り手自身なのでしょうか、あるいは他の誰かなのか、それとも誰かに教わりながら自分でやるのでしょうか?

想像は、送信者側の事情へも及んでしまいます。
ぼくが試しにと飛んでみたそこは、それが手づくりか既存のものかは不明ですが、いわゆる申込サイトです。
ということは、その存在や利用方法を知っている担当さんは、ITリテラシーが低いオジサンあるいはオバサンではない。少なくとも、今という時代のWebコミュニケーションというものについて無知ではなく、無視をしてもいないのは確かでしょう。
なのにファックスです。なぜファックスでなければならないのか。そこには何らかの理由でそうあらなければならない理由があるはずです。しかもそれは、少数の声が大きい者の意見ではなく、多数派としてのファックス希望者の存在があるのではないか。

「ファックスで寄越せっていってるだろうが」
「ファックスにしろっていったじゃないか」
そんな声が聞こえたような気がすると同時に、用いたくもない伝達手段をイヤイヤ使っている若者の姿が見えたような気がしました。

といってもぼくは、ファックス通信を全否定しているわけではありません。なんとなれば、実際に未だにそれが主流の業界も少なからずあるようです。以前、物流、卸売、不動産などではそうなのだと聞いたことがあり、驚きつつも、さもありなんと頷けなくもなかった記憶がよみがえってきました。
実際に、視認性、信頼性、確実性、リアルタイム性、誰でも使えて誰でもわかる、かんたん、手軽、、、などなど利点を挙げようと思えばたやすく浮かんではきます。


******
とある家族経営の薬局に届いた「まみこ」という女からの1通のファックス。そこには「この薬さえ飲めば、この世とも貴方ともさようなら」と意味深なメッセージが。これを宛先を間違ったファックスだと思った薬局の主人は、その返信をファックスで送るが・・・ファックス合戦はエスカレートして行き、事態は予想外の展開に・・・
******


立川志の輔の新作落語『踊るファックス』は、そんなファックスのメリットとデメリットを上手に活かし、日常ありそうな場面をとんでもない方向に展開させた、志の輔落語の真骨頂とも言える、まことにバカバカしい傑作です(この場に及んではじめて思い当たったこじつけですが)。

とはいえ、それらの利点をメリットとして捉えることができない今のぼくが、それを使うことはまずありません。もちろん、周りの人間が使おうとすれば全力で止めるはずです。どのような形で関わっているにせよ、i-Constructionという時代の公共建設業界構成員であるならば、上から下、周縁からど真ん中まで、当然至極のことだからです。
それに、ぼくが引っかかってしまったのは、ファックスが時代遅れだからだということばかりではありません。
ファックスにはファックスで返信。これが情報交換の常道ですし、そうあってこそ双方向コミュニケーションと呼べるものになります(だからこそ志の輔の『踊るファックス』のおもしろさがあります、これもこじつけですけど)。なのに、ファックスの返信を申込サイトからせよと言う。そのチグハグさに引っかかってしまったのでした。

しかし・・・ここでぼくは、ぼくの想像のひとつを思い起こします。
そこに関わる誰もが進んでそうしているわけではないとしたら・・・。
そこにIT化やデジタル化や、ひいてはDXに積極的かつ率先的に携わり、そこで足掻く人たちの葛藤やジレンマが秘められているのだろうなと思うと、少しばかり悲しくなってきました。

そうそう、公共土木の世界では、前をゆく者のひとりとして著名な知人がこんなことを教えてくれたことがありました。
彼いわく、「DXセミナーの案内がFAXで来たんですよ」。

いやそれはきっとジョークというやつですよ。
向こう側はファックスの向こうにいつのがアナタと知って、反応を想像してたのしんでいるにちがいない。
ぼくはそう返しました。

眼の前にあるのは、たかがA4サイズの一枚の紙にすぎません。けれども、それを通じて建設DXについて思いを至らせ、象徴的でさえあると考えてしまったおじさんは思うのです。とはいえ「今という時代」のファックス通信は深いと。

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不「不惑」

2024年11月23日 | ちょっと考えたこと
どうも勘違いをしていたようだ。
『論語(為政)』に記された孔子の言葉、

吾十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(みみした)がう。
七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず

における年齢の解釈を、である。
この言葉に対して、ぼくが次のように書いたのはつい一週間ほど前のことだ。

古代中国における平均寿命が、いったい幾つなのか、今となっては知る由も調べようもないが、ごく大雑把な感覚としても、そこにおける70を現代の90と置き換えても、なんら不都合はない気がするし、むしろ、プラス20ぐらいがちょうどよい加減のような気もする。
(中略)
となると、まもなく60と7つを数えるぼくの場合は、「天命を知る」少し前ということになろうか。つまり、そこになってはじめて、自分の人生についての天命や運命がどういうものであったのかがわかる。そして首尾よく80まで生きることができれば耳順、すなわち、他人の意見に反発を感じることなく、素直に耳を傾けられるようになる。

ここでぼくは孔子が引き合いに出した年齢を、寿命、つまり死亡する年齢から逆算した齢だと捉えている。しかし、原典を素直に読んでみれば、それは曲解というものだろう。
孔子は、例えば70歳を例にとると、その齢になって「矩(のり)を踰(こ)えず」、つまり、思ったように振る舞っても道を外れるということがなくなったと言う。それはすなわち、そうなるまでに自分は70年もかかったと述べていると同義だ。そこにおける70歳という数字は、生後何年が経過しているかという絶対値であって、その当時の中国で暮らす人たちの平均的寿命との相対値ではない。どれだけの年月を経たらそうなれるか、あるいはそうなったかについて述べているのであって、世の中の寿命の相場がどうだとか死ぬ年齢から逆算してどうだとか、そういうことを言っているわけではないのである。

ということは、現代における人間の寿命が当時と比べて20年ほど長くなっていようといまいと、たとえば「不惑」における40も「耳順」における60も、2500年孔子が述べた値となんら変わることはない、同じ数字だとして考えなければならない。
といっても、孔子という歴史上に燦然とかがやく巨人がそうだからといって、それをぼくやアナタのような凡夫の身に置き換えることに無理がある。そもそも、誰しもが40歳になれば惑うことがなくなり、50歳となれば天命を知ることなど、できるはずがないではないか。

となれば、凡夫としての正しい在りようはこうだろう。

昔むかし、ロングロング・ずっとずっと・とてつもなく・アゴーの中国に、孔子という偉い人がいてね、
吾十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(みみした)がう。
七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず
なんて言葉を残してるんだけど、みんなも、孔子と同じ歳では無理かもしれないけど、そして、結局のところ全部をクリアできないだろうけど、ひとつの指標として心がけるようにしようね。

と、ここまで書いて腕を組んで考えた。
あれ?
となると、一週間前と結論は変わらないのではないのか?

その結論とはこうだ。

う~ん・・・今さらながらではあるがそれは、齢を積み重ねればそうなるという類のものであるはずがない。それに、ぼくの場合においては、天命よりも耳順よりも不惑、すなわち「惑わず」がもっとも困難で、ほぼ実現不可能なもののような気がしてならない。つまり、いかにその基準となる年齢を変えようと、こうなるわけだ。

40にして惑い
50にして惑い
60にしてなお惑い
70になったらなおいっそう惑い
80になってもまだまだ惑う
思い惑い心惑い
戸惑い暗れ惑い
ふらつき
ぐらつき
ためらって
途方に暮れてオロオロする

サウイウモノニワタシハナリタイわけではないけれど、そうならそうで、一生惑うと思い定め、そこに拠って立つのもわるくないかもしれない。

不「不惑」、いや、わるくないと思うよ。

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ぼくと娘とヒノショーヘイ

2024年11月22日 | ちょっと考えたこと
「火野正平に似ている」
これまでに幾度となくそう言われてきた。
以下は、そんなぼくとぼくの家族のあいだで、かつて繰り広げられた「ひの的エピソード」だ。

******

「宅急便が届いちゅうよ」
「誰から?」
「自分がなんか注文したがじゃない?」
「いやー覚えがないなぁ」

大きなその荷物の送り先を確認しようと持ってみると、やけに軽い。
「これだから、Amazonってやつはイヤなんだ」

これまでに、いく度口にしたか知れない独り言をまたつぶやきつつ、送り先を読もうとして愛用の遠近両用メガネをかけていないことに気づく。まこと年寄りというのは面倒くさい。

メガネをかけて仕切り直すと、その大仰な図体に比して異様に軽い荷物は、予想に反してAmazonではなくZOZOからだ。表書きには、首都圏に住む次女の名前が記されていた。

さては…
「父の日のプレゼントかなー」

勝手に決めつけ急いであけると、贈答用とおぼしき銀色の包みが。
ピンと来た。

「なに?」
妻が訊く。

「ほれ、アレよアレ。この前の父の日の。CMの。動画を。ほれ。見せたやろ。アレ」
「わからん」
「たぶんシャツ」

喜び勇んであけたその中身は、われながらのご名答。バンドカラーのワイシャツだった。

「ほれ、わかるやろ?」
身体に合わせて妻の方を向くと

「あ、ヒノショーヘイか」
気づいたようだ。

そう、さかのぼること3日前の日曜日、父の日のプレゼントだといってメーカーズマークを持ってきてくれた長女が
「こんなんあるで」
と教えてくれたCMのなかで、火野正平が着用していたものと同じバンドカラーのホワイトシャツだ。

たしかにあの日、あの動画を、
「こんなシャツを着てみたくなった父なのであります」
という言葉とともに送ったぼくに次女が返した短い言葉は、
「ええやんか」

そうか…
なんにしても、贈り物、特に思いがけないそれはうれしいものだ。

「着てみて」
妻の口からその言葉が出たそのときにはすでに、着ていたポロシャツを半分ほど脱ぎかけていたわたしが、その贈り物を身につけ、ヒノショーヘイ然とした(つもり)ポーズをとり、写真を撮ってもらうまでにさほどの時間はかからなかった。

もちろん、テーブルの上にはメーカーズマークの瓶と、手にはロックグラス。
ところが、切り撮られた画像に写っているのは、かの稀代のプレイボーイとは似ても似つかぬオジさんだ。

やれやれ…これが現実だ。
気をとりなおして娘たちに画像を送る。

「色気も渋さもナッシング」
自虐的なコメントをつけて。

さっそく返事がやってきた。
長女からだ。

「爆笑」
と一言だけ。

ほどなくして届いた次女からの返信にはこう書かれていた。

「家がおしゃれじゃない」
(ほっといてくれ)
「なんか僧侶感がすごい」
(たしかに)
「日に焼けてみたら?」

すると、また長女から矢継早のLINEだ。

「ちょっと角度とライティングが」
「もう少し遠くから低めに暗く」
「縁側で後ろ姿はどう?」

時は2020年初夏、かくして親父ヒノショーヘイ化プロジェクト粛々と進んでいく。





******

いっとき、娘たちに遊ばれた昔を思い出し、在りし日の火野さんを偲ぶ。
謹んで御冥福を祈り、合掌。
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16.43835616

2024年11月21日 | ちょっと考えたこと
今朝、ブログ編集画面を開くなりまっ先に、左上隅にあるブログ開設からの日数を表示する箇所に目がとまりました。ふだんなら気にも留めないところです。だなのになぜ・・・
理由は、考えるまでもなくすぐに判明しました。









ブログ開設から6000日。
たまさかの、きれいに丸まった数字にふと思いつき、365で割ってみました。
答えは、16.43835616。
かつてのように「ほぼ毎日」となることは二度と再びないでしょうが、もう少しつづけようと思っています。
以上とりあえず、ご報告まで。

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