答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

たかが「ちょっとだけ」されど「ちょっとだけ」

2023年12月07日 | ちょっと考えたこと

 

近ごろ桂二葉さんがお気に入りだ。ご存知ない方に説明しておくと、めきめき売出し中の若手落語家さんだ。ツイッター(どうも”X”と呼ぶのに拒否反応があるのです)でもフォローしている。

彼女のきのうのツイート(どうも「ポスト」と呼ぶのに抵抗があるのです)はこんなだった。

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あー、あそここない言うたらよかったのになぁと思うことばっかりで、嫌になるけど、あーあそここない言うたらよかったなぁと先週思ったことは今日ちょっとだけ言えたからよかったとする。来週もがんばろう。

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読むなり心中で、「がんばりや」とつぶやいた。

この発言でもっとも重要なのは、「先週思ったことが今日言えた」ではなく、その先、「ちょっとだけ言えたからよかったとする」だろう。「ちょっとだけ」を成功体験としてカウントするその思考だ。

こんなふうにしたらよかった。あんなふうにしたらよかった。それが明日への糧となるのはわかっていても、そう思うのはやはり、たのしくはない。反省と言えば聞こえがよいが、一歩まちがえば、鬱々としたネガティブシンキングループに陥ってしまう危険性もはらんでいる。

けれど、「先週思ったことは今日ちょっとだけ言えた」。だからヨシとする。そう考えるだけで明日への希望が湧いてくる。

そうなればコッチのものだ。あとは野となれ山となれ、いや、あとはなんとかなるだろう、いや、なんとかなるのではない、なんとかするのだ、なんともならないかもしれないけれど、なんとかしてみるのだ。それが「来週もがんばろう」という締めくくりにあらわれている。

ということで、ほっこりとしたおじさんは、ちょっとだけでも二葉さんにあやかろうと、何度も何度もそのツイートを読み返す。

******

あー、あそここない言うたらよかったのになぁと思うことばっかりで、嫌になるけど、あーあそここない言うたらよかったなぁと先週思ったことは今日ちょっとだけ言えたからよかったとする。来週もがんばろう。

******

たかが「ちょっとだけ」、されど「ちょっとだけ」。

 

 

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「何を写すか」と「何が写り込んでいるか」

2023年12月06日 | ちょっと考えたこと

 

先日、あるSNSに投稿した写真に対してコメントをもらった。

「何を写すか(被写体は何か)もそうだが、何が写り込んでいるかが重要。そういう意味でグッジョブ」

ふむ・・・コメントを読むなり、天井を仰いで考えた。

写真には、いつになく自然体な笑顔のぼくと、その背景にはまだ何ができるか判別できないような状態の構造物。つまり、現場にいるぼくの写真だ。

ということはもちろん、他人が撮った。しかも、写真を撮るという行為なぞとはほぼ無縁であろうと推測される現場の人が、「オレも撮ってよ」とぼくが渡したiPhoneで撮った。

たしかに、そこに納められたぼくの笑顔は彼我の関係性をあらわしている。その人の存在が、ぼくをしてその顔にさせたのはまちがいない。しかし、構図は偶然だろう。たまたま彼の立ち位置とぼくの立ち位置の延長線上に施工中の構造物があった。しかも絶妙な距離で。そして、たまさか切り撮られたワンショットに、少なからぬ人たちが「いいね」を押した。そのこと自体は、その写真の値打ちを下げるものではない。「写真という表現」には、本質的にそのようなところがあるからだ。

考えたのは別のことだ。

「現場ではたらく人」にフォーカスした写真を撮ろうと思い立ったのは、直接的には山崎エリナさんの影響であるが、萌芽はその数年前からあった。

「モノをつくっているのは、それぞれに顔があって名前がある人間なのに、ぼくらはなぜ、その人たちに焦点を当てずにモノの話ばかりをしてるのだろう」

どんどんとふくらむその疑念を払拭するひとつのアクションとして、その少し前にはじめたインスタグラムを表現の場として利用しようと思い立った。

それから5年。近ごろのぼくは、人にフォーカスすることを重要視するあまりに、その人が拠って立つ現場を軽んじてはいないだろうか。たとえば魅力的な表情をしているその人のその顔が、どのような背景で生まれているのかを写さずして、その魅力が本当に伝わっているのだろうか。

答えは口に出さずとも、自分の作品を思い起こせばすぐにわかる。

ナルホドとうなずいた。

胸から上をクローズアップするのは、表現方法としては有りだろう。しかし、そればかりでは、ぼくの写真はただのポートレートでしかなくなってしまう。あくまでも、撮りたいのは「現場ではたらく人」であり、伝えたいのは「現場ではたらく人」の魅力だ。そしてそれを切り撮ろうとするのは、他の誰でもない。ぼく自身だ。だったらそこには、「現場の人」としての観点と視点がなければならない。ならばそこには、「現場のリアル」が表現されていなければならない。

そこに思いが至ると、「何を写すかもそうだが何が写りこんでいるかが重要」というコメントが、さらに味わい深く染み込んできた。

しかし・・・今さらそれに気づくとは、まったくもって迂闊の極み。

そして・・・気づいたからといって、それが表現できるとは限らないのだけれど。

 

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メッキのひと

2023年12月05日 | ちょっと考えたこと

 

口に出す出さないは別として、相対する人の物言いに反応することは多い。

「そういうものの言い方はないんじゃないか?」というやつだ。

その言葉が意味する本質ではなく、皮相の表現方法にムッとしたりカチンと来たり。まずはそこで第一印象がかたちづくられ、相手が言ったことの本質がよいかわるいかを吟味することはない。どころかその第一印象に直感で反応する。そうなると会話があらぬ方向に行ってしまうか、会話自体が成り立たない。余人は知らないが、ぼくにはよくあることだ。

あとになって冷静に考えてみると、うん、彼(彼女)が言わんとしていたことは正しいかもしれない、なのにその機会を損なわせてしまったのはぼくの感情的な反応のせいだ。そう反省することもしばしばだ。

ではどうすればよいのか。答えはとっくの昔に出ている。何度かココにも書いた。

判断を留保する。もしくはストレートに反応しない。気づかないふりをするというのもアリかもしれない。

急がない、という意味ではどれも同じだ。しかしぼくは、ことビジネスにおいてはスピードを是とし、即断即決を信条としてきた。ぼくの仕事辞典に「ゆっくり」という文字はなかった。それを今さら変えようとしても、生半なことではない。

もちろん、今のぼくが置かれている立場が、そればかりではダメなものだというのは承知している。だが、幼いころからの性分と仕事で身についた習い性が合体したものが、容易に変わるはずもない。たとえその場その時々で、そうはするなと脳が命令するとしても、少し気を許せば性根が顔を出す。メッキを塗り重ねたとしても、その下に地金があるかぎり、時が経てばあらわれる可能性が常にあるのと同じだ。

だからむずかしい。だがその困難さはそれを止める理由とはならない。なぜならば、誰かに変えろと命令されたわけでもなく、変えてよと懇願されたわけでもなく、自分自身の意志と責任でそれを引き受けようとしたからだ。そして、その営為の結果としてのメッキは、すでに幾重にも塗り重ねられてきた。今さらそれを全部剥ぎ取って地金をあらわすなど、してよいというものではないし、できるはずもない。

と、ここまで書いて脳裏に浮かんだのは、とんでもなく厚化粧のスキンヘッドのじいさんだ。

いや笑いごとではない。考えてみれば、それがぼくの現実なのかもしれない。いやはやまったくこりゃどうも・・・ではあるけれど、塗り重ねつづけるしか他に道はない。

 

 

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「思い出」発「現在地」考

2023年12月04日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

 

「アンタには現場を選ぶ権利がない」

クルマの助手席で笑いながらそう言い放ったのはボスで、もう20年以上も前のこと。「次はどこそこの現場がいいですね」と、まだ経験したことがない種類の工事を担当してみたい旨の希望を口にしたぼくへの返答だった。

「いや、選択権がないのはわかってますが、希望ぐらいは口にしてもいいんじゃないですか?」

ハンドルを握るぼくがささやかな抵抗を試みると、

「口にするだけやったらしてもええけど、まずそのとおりにはならんな」

つまり、彼が決めた仕事をするしか道はないという宣告だ。

それはそれで雇われ人という立場なのだもの、従う他はない。だが、やっかいな工事をひとつかたづけたばかりで、達成感と開放感に満ちあふれたときに聞きたい言葉ではなかった。

「アタシに回ってくるのはは難儀な仕事ばっかり。たまには◯◯さんみたいにずっとおんなじ現場を鼻歌まじりでしてみたいもんですわ」

思い起こしてみれば失礼な発言。同じ現場は二度ない。同じような仕事でも、その時々で問題課題は変化するのが現場一品生産という特殊形態をもつこの仕事の宿命だ。その◯◯さんだとて、まさか鼻歌まじりでしてはいなかったのだろうが、少なくとも当時のぼくの目にはそう映っていた。

「それもないな」

にべもない返事に、会話をつづけるだけムダだと押し黙った。

がっかりはしていたが腹を立てていたわけではない。「デキるからそうするのだ」という信頼と期待が感じられたからだ。「選ばれし者の幸福」というやつだろうと自分に言い聞かせた。

だからといって、命じられた仕事をこなすだけでは癪にさわる。それならばコチラから攻めてみようと、アレもできるコレもできるとばかりに申告したマルチタスクを自らに課した。受動的な姿勢でいるとすぐに「追い込まれる」が、逆にアグレッシブに立ち向かうと「追い込む」こともできる。そんなことはめったにないが、そうなったらコッチのものだ。その繰り返しが身体に沁みこみ血肉となって今のぼくがある。言い換えれば、その繰り返しがなければ今のぼくはない。であれば、今となっては感謝するしかない。

そう結論づけたあと、ひとつの疑念が生じた。

当時のボスがとったような態度を、今のぼくは部下に対してとれるだろうか?

答えは「とれない」だ。「時代がちがう」という理由が真っ先に浮かんだ。

本当にそうだろうか?もしも今、あの頃のぼくが目の前にいたとしたら、今のぼくはそうしないだろうか?自問した。

よくよく考えてみればボスも、ぼくに対してはそうしたが、皆にそうしたわけではなかった。幾人かの顔を思い浮かべ、むしろぼくへの態度の方が例外的だったことに思い当たった。

たしかに「時代はちがう」。しかし、苦難を成長の糧にできる人間がいなくなったわけではない。困難をただの苦しみとだけ感じる人間は、今も昔も存在する。時代はちがってもそこは不変だ。

どちらか一方だけで組織が成り立つわけではない。かつてのぼくのようなオーバーアチーブな人間だけを集めたら、成果を上げつづける組織ができるものでもない。肝心なのはバランスだ。成果は個人だけが生み出すものではない。チームの所産としてそれはある。

バランスとひと口に言うが、それは何も均衡ということではない。その時々のメンバー構成に応じた役割分担が適切で上手に機能するかどうか、それがぼくの言うところのバランス(平衡)である。そのためには、人材が流れ動く大都会ならいざ知らず、この田舎では、チームの構成が変化した場合には「成果」を変えることも含めて考え、行動することもアリだろう。

「時代はちがう」のではなく「人がちがう」だけなのかもしれない。

そう考えると、結局のところ昔も今も、やらなければならないことはあまり変わらないような気がしないでもない。

誰も気に留めないような何気ない朝の会話から、そんなことを思い出し、こんなことを考えた。

相も変わらず、「こうするべきだ」「こうした方がよい」という結論が出たわけではない。

 

 

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年賀状の廃止が SDGs の一環とはこれ如何に

2023年12月01日 | ちょっと考えたこと

 

ぼくは年賀状を出さない人である。いつからそうしたのか確かな記憶はないけれど、そうしはじめてから十数年にはなっているはずだ。

そうなったキッカケは別にない。誰に影響されたわけでもない。ある年から自分勝手にそうすることにした。

最初は、浮世の義理を果たさないということに対する負い目のようなものもあった。なにより毎年送ってくれる相手への心苦しさがあった。だが、そのうちそれもほとんどなくなって久しい。とはいえ、その行為がよいのかわるいのかといえば、世間一般の儀礼を省略するという意味で、あまり褒められたものではないという認識はずっとあった。

つい先日、年賀状を取りやめる企業が多くなっていることを、あるSNSで知った。そこには「新年のご挨拶を控えさせていただきます」というハガキの画像が2つ、実例として添えられていた。ひとつには「地球環境への配慮等サステナビリティーの取り組みの一環として」、もうひとつには「SDGs(持続可能な開発目標)推進の一環である環境保全へ向けた取組みのひとつとして」と書かれていた。

目を疑った。それとこれとがどうつながるのか、がよくわからなかったからだ。

そして「本気でそう考えているのか?」と思った。それとこれとがどう考えてもつながらなかったからだ。

検索してみると、次のような文章があった。

「ペーパレス化やデジタル化を推進している企業にとって、年賀状で大量の紙資源を消費することは、環境問題への取り組みと相反する行為になってしまうからです」

ふたたび「マジか」と思った。紙の浪費というならば、世間一般に履いて捨てるほどの例がごろごろしている。本気でペーパレスを実現しようとするならば、もっと本質的な「仕事のやり方」を変えるところから始めなければならないはずだ。見ず知らずのぼくが、それらの企業がそれをしていないと断言することはできないが、推して知るべしだとは思う。

業務のスリム化の一環として年賀状作成にかかる労力や経費を削減するのなら理解できる。だが、それをSDGsやサステナビリティーと結びつけるのは、単に時流に乗りたいためのカッコつけか、あるいは、それに乗じて面倒くさいことは止めてしまえという思惑か、いずれにしても本音ではないのではないか。もしも本気でそう信じて年賀状という儀礼をなくそうとしているなら、わるいことは言わないからお止めなさいと忠告したい。おのれの所業は棚に上げて。

 

 

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