先日、とある1on1のオンラインコンサルティングを受けたことを書いた。大方のご想像どおり、そのようなものは初体験だ。別に溺れてはいるわけではないが、わたしにも、たまには藁にでもすがりたいことがある(としておこう)。あ、ごめんなさい。けっして相手の方が「藁」だと言う意味ではない。この場合、「藁」というメタファーには反応せずに、「すがりたい」という願望の方を汲みとって読んでいただきたい。とともに、とても有意義で勉強になったことを書き記しておかなければならない。
全3回の最終日、いくつかのゲーム(のようなもの)をした。たとえばそれは、提示されたある言葉からひとつの語句を連想し、その連想をどんどんつなげて書いていくものとか、「趣味とか好きなことを思いつくままあげてその理由を書いてみよう」というものとか。それぞれに、1分、3分という制限時間が設けられている。
「趣味や好きなこととその理由」というお題で、3分という制限時間内に思い浮かんだのは3つだった。まず「太鼓を叩く」。つづいて「本を読む」。ここまでは理由も含めてすんなりと書けた。最後に浮かんだのが「写真を撮る」。
その理由を、どれがどれに対するものかは説明せずにただ羅列すると、「チームでする」「自分を高める」「人に伝える」「知らなかったことを知る」「ひとりになれる」「自分を表現できる」「思いどおりになったときの快感、思いどおりにならないときの悔しさ、そこからの試行錯誤」、などなど・・・。
あとでそれらを見返していると、ふ~んそうなんだ、と気づいた。それぞれの理由に、通底しているものがあり、そしてそれが、わたしという人間をかたちづくってきたことを、である。共通項は、「(自分の知らないことを)知る」と「(自分を)高める」。キーワードにするべく、さらに縮めると、「知る」と「高める」。齢耳順が5年を過ぎようとしてもなお、それらについてのわたしの欲は衰えることがない。
わたしが長いあいだ行動指針としてきた言葉に、それがぴたりと当てはまるまで、さほど時間はかからなかった。指針とは「好奇心」「向上心」「行動力」だ(これをして”私的3K”と呼びます)。そのうち、当てはまったのは前のふたつ、「好奇心」と「向上心」だ。その2つが、ものごころが付いたころから、わたしという人間と切っても切り離せないものだったことは、自分自身でよく承知している。それをそのまま終わらせることなく、「あした」への推進力とするために、「行動力」という、自らにに欠けがちな要素を最後に加え、自分自身を鼓舞激励してきたという寸法だ。
あらためて、それらに思い当たったあと、だがチト待てよと考えた。
冷静になって思えば、わたしが「好きなこと」(趣味)である「和太鼓」や「読書」や「写真」と、わたしのモットーである「好奇心」や「向上心」は、固有に紐づけされているものではなく、わたしという人間が単に、自分自身が好んでする行為に自らで理由としてリンクさせているに過ぎない。それが他のもの。たとえば、今わたしの目の前にあるパソコンや、その横にある落語のCDから派生する何かだったとしても、それを「好き」に昇格させ、継続して行っていく際に、わたしという人間が意識するしないにかかわらず採用する動機づけは、つまるところ、そこに行き着くのである。
そうであればだ。
さらに思い当たったことがある。
継続はチカラなり。これほど言うのは易いが行なうのが難しいこともない。それを実行するにあたって障害があったとき、「チームでする」「自分を高める」「人に伝える」「知らなかったことを知る」「ひとりになれる」「自分を表現できる」「思いどおりになったときの快感、思いどおりにならないときの悔しさ、そこからの試行錯誤」などなどを動機づけとして採用すればよいのではないか。キーワードは、「知る」と「高める」。つまり、「好奇心」と「行動力」だ。そう、ときと場合によっては逆からの発想があってもよいのである。
ふむ。わるくない。
思いつきに自己満足したのを契機に、考えるのを止めた。
今日のところは、方法論の引き出しがひとつ増えただけでよしとしよう。
いずれにしても、わたしの「好奇心」と「向上心」は、いくつになっても衰えを見せない(今のところ)。やるかやらぬかは、そのときどきの自分次第だ。