答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

偶然を必然にするために足掻く!

2021年05月07日 | ちょっと考えたこと

なんとかなるものだという人がいる。なんとかなってきたからだという。

運に恵まれたという人がいる。折にふれ偶然が幸いしてきたのだという。

わたしとてそのような体験がないではない。そして、そう口に出すことがないではない。しかし、そのじつ心のなかではこう思っている。

 

なんとかしてきたのだ。

偶然を必然にするべく足掻いた結果として、なんとかなったのだ。

 

だからといって、偶然とか運とかいうものの存在を信じていないかといえばそうではない。

たしかに偶然はある。僥倖といってもさしつかえない偶然にめぐりあうこともある。いや、生きるということは偶然の繰り返しであり積み重ねであるといっても言い過ぎではない。

めぐりあった偶然を目の前にして、手をこまねいていては、それを掌中にすることはできない。その偶然を運だとかラッキーだとかというふわふわした気分でかたづけることがない人間の行動が、偶然を必然に昇華させる。

その文脈から言えば、むしろ、必然こそがないのだとわたしは思っている。必然とはつくりだすものである。向こうからやってくるものでも、あらかじめ決められたものでもない。

もちろん、わたる世間はそれほど甘いものではない。どれほど足掻いても、いかほどにがんばっても、結果がともなわないことなどしょっちゅうだ。

だとしても、偶然を必然にするために足掻くこと。偶然を必然にしようと足掻いた結果。それが君やあなたやわたしの足跡であることにまちがいはない。

なんとかなる。

なんとかなった。

それはたしかにそうなのだろう。だが、そこには「なんとかした」人の存在があったはずだ。一事が万事自分がそうだと断言することができないヘタレなわたしだが、でき得れば、ヘタレはヘタレなりに、そちらの側の人間でありたい。

 

なんてことを考えたきのう。新潟県胎内市に拠点を置く株式会社小野組さんが、新入社員研修の様子を公開していたのを目にした。

そのトップに掲載されていたのはわたしの写真だった。

 

 

『まいぷれ新発田』2021/05/06株式会社小野組のニュース、より)

 

 

拙講の250枚以上におよぶスライドのうち、担当者さんが選んだのはこのワンショットだった。

そこには

「偶然を必然にするために 足掻く!」

という文字がおどっていた。

「そこか・・・」

得たりと膝をたたき、思わず微笑んでしまうわたしだった。

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休み明け

2021年05月06日 | ちょっと考えたこと

 

休み明けの朝

出社しようと外へ出ると

きのうの雨の名残りがわたしを呼んだ。

 

 

 

 

 

 

 

おっといけない。

モードが切り替わってないようだ。

あわててカメラをしまいクルマに乗りこむ。

 

よい休みだった。

さてと

社会復帰だ。

 

 

 

 

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柱のきずは

2021年05月05日 | ちょっと考えたこと

 

先日、娘宅に行ったときのこと。

「柱のきず」を見つけた。

正しくは傷ではなく、マジックでつけた印だったのだが、

「柱のきずか・・」

と頰笑ましく見た。

今日、5月5日を代表する歌といえば「せいくらべ」だろう。

 

♪柱の傷は おととしの

5月5日の 背くらべ

ちまきたべたべ 兄さんが

計ってくれた 背のたけ♪

 

さしたる目的もなく、「柱のきずは」という語句で検索してみた。

作曲が中山晋平。言わずと知れたビッグネームだ。作詞は海野厚。あの「おもちゃのマーチ」の詞を書いた童謡作家らしい。

背丈をはかってもらったのは海野の17歳はなれた末弟春樹。「兄さん」が海野であり、一昨年の想い出を回想する春樹少年の視点で書かれている。傷が「おととしの」ものであるのは、その前年、海野が現静岡市駿河区の実家に帰ることができなかったからであり、帰省できなかった理由は、結核治療のため。この詩が雑誌『少女号』に掲載された大正8年の6年後、海野は28歳の短い生涯を閉じている。

冒頭の歌詞のつづき、

♪昨日(きのう)くらべりゃ 何のこと

やっと羽織の 紐(ひも)のたけ♪

をわたしは、昨年は計ることができなかったが、今年いっしょに計ってみると、まだまだ自分の背丈は兄の羽織の紐を結んだあたりでしかない、というふうに解釈していた。

しかし、どうもそうではなかったようだ。今年も兄は帰らない。あれから自分の背丈は「(自分の)羽織の紐の長さと同じ」くらいしか伸びてはいない。会えない兄を想う弟。その末弟に仮託して、兄が弟への想いをつづっている詩らしい。

それを受けた二番の歌詞はこうだ。

 

♪ 柱に凭(もた)れりゃ すぐ見える

遠いお山も 背くらべ

雲の上まで 顔出して

てんでに背伸び していても

雪の帽子を 脱いでさえ

一はやっぱり 富士の山 ♪

 

結核は当時では不治の病。年間死亡者数が10数万人におよび、長くわが国死亡原因第一位の感染症であったことを考え合わすと、「こどもの日」を代表する、いかにもたのしげな歌の様相が一変し、作者の家族への気持ちと望郷の念がひしひしと伝わってきてもの悲しげでさえある。

 

きのう5月4日、晴天のなか、孫や姪の子らとピクニックに行った。あけて5月5日は「こどもの日」。あいにくの雨である。

未来は子どもたちのためにある。

そして大人はそのためにある。

なんてことを思いつつ、子どもらが去った家のなかから、雨空をながめている。

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ウーダ雑感

2021年05月04日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

OODAループがおもしろい。

この先もずっとそうなのか、また、それが「わたしとわたしの環境」にどういう影響を与えるのか、それはよくわからないが、とりあえず、2021年春の大型連休は、「孫とOODAループ、ときどき畑」のうちに終わりそうだ。

なぜなのだろう。

すぐに思いあたった。

キーワードはスピードである。

 

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  OODAループは端的に言ってしまえば、「人間は観察して、行動を取るまでにどういった段取りを踏んでいるのか」を図式化しただけです。見て、考えて、判断して、動く、「ごく当たり前じゃないか」という行動を論理的な流れにしたものと言っていいでしょう。

 これだけなら「言われてみれば、そうだよね」で終わってしまうのですが、ジョン・ボイドはそこから「より高速な行動原理」と「敵を圧倒する速度での行動」という手法を導き出すことで、まったく新しい行動理論を組み上げてしまったのでした。

  OODAループの特徴はこの高速化にあり、単にループの理論を知っているだけでは何の意味もありません。

(『ドイツ電撃戦に学ぶ  OODAループ「超」入門』夕撃旅団、Kindleの位置No.2より)

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世のなかには、自身がもつわるいところを直そう、欠点を補強しよう、という方向にその努力が向かう人間と、少々の欠点には目をつぶり、長所を伸ばそうとがんばる人のふた通りがいる(そのどちらでもなく、なんの努力をする気もないタイプも現に多数おり、それを入れるとみっつのパターンになるのだが、この際そこは対象外だ)。

わたしは、まちがいなく前者だ。昔からではない。若いころは後者だったように思う。

しかし、自らを変えよう変えなければと思い立った十数年前のある時期から、欠点を直すことに軸足が移りはじめ、いつのまにか長所に磨きをかけることよりも短所を修正することに重きを置くようになった。

もちろん、それがよき方向であり、目指すべき方向だと信じたからである。

思い起こしてみれば、わたしが結果を出してきた仕事において、その要因のうち、もっとも大きいのは判断と行動の早さだったように思う。とはいえ、それはもともと自身の内に備わっていたものではない。即断即決と果敢な行動こそが、現場マネージャとして目指すべき理想形だと信じ、そうならんとトレーニングをしてきた結果、身についたものである。長所といえば、いささか不遜に過ぎるのかもしれない。だが、まあまあそこそこイケテルのではないか、ぐらいのレベルにはあるのではないか。

しかし、当然のことながら、人生にはすべてにおいて裏があれば表がある。素早い行動は、別の言い方をすれば「おっちょこちょい」であり、イケイケどんどんには、そうでない場合より、失敗というリスクが多くともなってくる。速い判断と決断には、独断専行のきらいがつきまとって離れない。

齢を重ねると、それではよくないと思った。

立場が変われば、それではいけないと思った。

成果があがったとしても、その反面にある失敗を大きく感じるようになった。

たぶん長所であったであろう部分を、少なからず欠点だと認識しはじめた。

わるいところは直さなければならない。

よいところに磨きをかけるよりも短所の修正に重きをおかなければならない。

それがここ数年のわたしである。

しかし、それが二十代の青年ならいざ知らず、そう思う当の本人は、60を4つも過ぎたじじいである。もうそろそろ、いくら反省をしても、できないこととできることがあることに気づかなければならない。

いくつになってもその気になりさえすれば、そして、それにともなう努力があれば、自らの欠点を修正できる、あるいは自分に不足していることを身につけることができると思うのは、あまりにも不遜である。できない自分に対して見切りをつけることができない欲張りである。未練がましいと言ってもいい。

それを志向するうちに、わるい部分はそれほど直らず、いつしかよい部分が消えていったのでは、本末転倒、ナニヲカイワンヤである。

 そんなことを考えながら、自らのうちにOODAループを仕込んでいる。発酵して醸成されるのか、腐って捨てることになるのか。先のことはわからない。

だが、なんだか少しおもしろくなってきた。そこんところはマチガイない。

 

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ウーダ

2021年05月03日 | 読む(たまに)観る

 

「おきようよ」

孫2号の声に目を覚まし時計を見ると、まだ5時20分だ。

いつもなら起きている時間だとはいえ、せっかくの休みである。まして、きのうとおなじく今朝も寒い。ほんの数分だけ躊躇したがせっかくのご指名だ。誰がこの家でいちばんの早起きかをよく理解している彼の明晰さに免じて、起きてやることにした。

朝餉をいっしょに食い、ほどなくしていると三々五々と皆が起きてきた。お役御免とばかりに部屋にこもって読みかけの本をめくる。

ドイツ電撃戦に学ぶ OODAループ「超」入門』(夕撃旅団、パンダ・パブリッシング)である。

連休に入り、OODAループに関する書籍をたてつづけに読んでいる。

OODAループ思考[入門]』(入江仁之、ダイヤモンド社)

プロジェクトを成功に導くOODAループ入門』(鈴木道代、スローウォーター)

PDCAよりOODAか?違います』(なんとなくなシンクタンク)

につづいて、これが4冊目だ。

OODA LOOP。ウーダループと読む。ジョン・ボイドという人が編みだした理論らしい。

ジョン・リチャード・ボイド(1927~1997)。米国の軍事研究家。戦闘機パイロットとして朝鮮戦争に従軍。その後「戦闘機兵器学校」で教官を務め、学生と勝負をするたびに、どんな不利な位置からでも40秒で逆転できたことからついた異名が「40秒ボイド」というから、なんだか西部劇の主人公みたいだ。48歳で空軍を退役したあと、軍人年金だけを受け取って研究生活に入り、独自にたどり着いた結論がOODAループだという。

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 人間行動学の一種ともいえる「OODAループ理論」には、大きく2つの過程があります。

 まず第一過程で、人間が行動を行うまでの手順を一般化し4つの段階に分けます。すなわち、1.情報を得る「観察」(Observations)、2.そこで得た情報の「方向づけ」(Orient)、3.情報に基づく「判断」(Decision)、そして最後に4.「行動」(Action)と、人間の行動は常に四段階を経ているとし、これらの頭文字を取ってOODAループと呼ぶのです。(『ドイツ電撃戦に学ぶ OODAループ「超」入門』、Kindleの位置No.37)

「人間が何らかの行動をとるときは、このループを無意識に必ず回してから行動に入る」、というのがボイドの主張なのです。(No.47)

 ただし、これだけなら、言われてみればそうかもしれない、で話は終わってしまいます。

 しかし、この第一過程を基に「OODAループを高速に回転させると、”行動も同時に高速化されるため”、スポーツやゲームにおいて敵に対し一方的に優位に立てる」、というのがOODAループ第二過程の運用であり、こちらが理論のキモになってきます。(No.57)

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といっても、スポーツやゲームや、ましてや戦闘で勝つために読んでいるわけではない。

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OODAループはアメリカ空軍大佐のジョン・ボイドが提唱した、敵に先んじて確実に勝利するための基本理論です。当初は、戦闘機パイロットとしての経験に基づいた、まさに一瞬の戦闘に勝つためのものでした。しかし、その後ボイドが諸科学の知見を取り入れて汎用性を持たせた結果、OODAループは戦略、政治、さらにビジネスやスポーツにまで広く活用され、「どんな状況下でも的確な判断・実行により確実に目的を達成できる一般理論」として欧米で認められるようになりました。(『OODAループ思考[入門]』、Kindleの位置No.10)

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そう、ここ2ヶ月ほどつづいている「ためにする読書」の一環である。

せっせと仕込みをつづけてきたものが、ようやっとアタマのなかで形づくられてきたような気がしている。

さてと、そろそろまとめに入ろうか。いやその前に・・・窓の外を見ると、孫らが遊んでいる。春の光がまぶしい。[観察]。考えが変わった。[方向づけ]。弁当をもってピクニックにでも行くか。[判断]。うん、思い立ったら行動だ。さあ行くべ。[行動]。

あらあら、結局、原っぱに寝ころんでビールでも呑むのがオチなんぢゃないのか?

別のわたしがそう問いかけたが、思い直しはしない。

なんたって、OODAループは速やかに回すべしなのだもの。

 

 

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