答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

北川村モネの庭マルモッタン、2016年シーズンイン

2016年02月29日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

 

 

さて、いよいよ春のたよりである。

明日3月1日は、北川村モネの庭マルモッタン2016年シーズンインの日。

これと同じ画像をFacebookに投稿すると、ほどなくして知人からコメントが届いた。


「4月10日ごろは何が身ごろですか~」


反射的に2つ3つを思い浮かべたわたしだがすぐに返事はせず、ヒゲさんに問い合わせてみることにした。

当然のことながら明確な回答をいただく。

その案内にもとづいて、くだんの知人に返信したのがこれ。

 

まずそのころのメインはチューリップ

桜はたぶん終わってますが

ひょっとしたらフジが咲き始めてるかも。

アイリス類は、花はまだですが葉っぱのグリーンが水際を彩ってくれてるはずです。

いずれにしても

新緑が出始めたさわやかな季節。

見どころはたくさんありますよ~。

ぜひおいでてください (^O^)/

 

皆さんもどんどんドシドシ問い合わせていただきたい。

あいも変わらず、花の名前もよくわからないオジさんだが、いつでも庭へのホットラインはつながっている。

うん、それでいいのだ ^_^

 

 

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『天災から日本史を読みなおすー先人に学ぶ防災』(磯田道史)を読む

2016年02月28日 | 読む(たまに)観る

 

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災 (中公新書)
磯田道史
中央公論新社

 

「TSUTAYAへ付き合ってくれない?」

先週の日曜日、女房殿にそう請われ20kmちょっと離れた安芸市へ。わが家からもっとも近い本屋だが、もっともわたしには「本屋」としての認識がない。TSUTAYAはあくまでレンタルのTSUTAYAである。

が、いつ以来だかまったく記憶にないぐらい久しぶりにそのなかに足を踏み入れ、いきなりテンションが上がる。やはり本屋の匂いはいい。

と、すぐにわたしの目を引いたのが中古本のコーナーだ。

「ほ~」

TSUTAYAが中古本をあつかっているとは知らなかった。

しばし物色し、2冊を購入。『天災から日本史を読みなおす』(磯田道史)と『釈迦に説法』(玄侑宗久)だ。

で、先週は『天災から日本史を読みなおす』を読んでいた。

 

 

防災は前におきた災害の記憶に影響されてしまう。(P.69)

 

防災士講習で聴いたあることを思い出す。今高知県において、30年以内に来るであろう南海トラフの巨大地震への備えを大きく阻害しているのが、敗戦直後の昭和南海地震を経験した人たちの意識や言葉だというのだ。「あのときは凄かった」「あのときは酷かった」という体験談とともに語られるのが、「あのときはこればあやった」「あのときはここまでこんかった」。

経験者の言葉は重い。

だがご承知のとおり、昭和南海地震は、ほぼ100年周期で繰り返される南海地震のうちではそのレベルが低かったことで知られている。いやたとえそうではなくても、現存する人間の経験なぞは悠久たる地球史のなかではほんの一瞬に過ぎない。その経験者のじいさんやばあさんの体験談を含めたとしても、たかだか100年あまりの現実でしかないのだ。経験者の言葉は重いからこそそれを基にした想定が足を引っ張る。その想定を超えるものがあれば「想定外」ということになるのだが、想定自体がその程度のものであれば「想定外」は頻繁に起こってしまう。

同じことは「異常気象」という言葉を使う心象にも当てはまる。「異常」はどの程度を基準にした「異常」なのか。通常も想定も、今を生きるわたしたちやそのじいさんばあさんの体験からだけで得られているものならば、それは大きな勘違いだ。

そのことを正しく理解したうえで先例に学ぶことが肝要だとわたしは思う。


 東日本大震災後、歴史地震についての本が数多く出版された。多くは理系の研究者によって書かれ、地震や津波の実態を明らかにするもので、大変参考になる。一方、本書は、地震や津波ではなく、人間を主人公として書かれた防災史の書物である。防災の知恵を先人に学ぶとともに、災害とつきあい、災害によって変化していく人間の歴史を読みとっていただけたなら、幸いである。(P.215)

 

オススメの本である。



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トムとジェリー

2016年02月27日 | ちょっと考えたこと

朝イチバンで女房殿が言う。

「夜、ネズミが出始めたわよ」

(たぶん)口を開けて大いびきをかきながら寝ているわたしは、まったく気づいてない。

「野良ネコがおらんようになったきね」

とまたまた女房殿が言う。

それもまた、わたしは気づかなかった。だが、そういえばそうだ。傍若無人に近所を徘徊していた黒ネコを近ごろ見かけなくなった。

「世の中、むずかしいもんやな」

と今度はわたしが言う。

 

あの横着きわまりない野良は、ネコがあまり好きでないわたしにとって迷惑至極な存在には違いないが、少々可愛げがないわけではなかった。なんて考えが頭をよぎる。いつものように、まったくもって身勝手なオヤジだ。


「ネコ、戻ってきてもらうか?」

とわたしが問いかけると、

「ふんっ」

と、どちらかというとネコ派の女房殿が笑った。

 

害虫益虫しかり。見る角度や見るときのこちらの立ち位置を変えれば、違う役割が見えてくる。人もまたしかりだ。 

♪トムトムトムニャーゴ、ジェリージェリージェリーチュウ♪

なんてメロディーが浮かんでは消えつつ、そんなことを思う2月最終土曜日の朝、今年度も残すところあとひと月だ。

 

 

 

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ゆる~いCIM(のようなもの)

2016年02月26日 | オヤジの「ゆる~いCIM」修業

 

きのう、「工事だより」の作成途中まもなく完成というところで、独りでなんだか可笑しくなってきた。

あとは左側空白の部分にちょっとした文章を入れたら完成、というところでである。

何が可笑しかったのか。

初めて「工事だより」をつくってから9年が経つ。

ハナは、わたしがつくったものを「ハイこれ、戸別訪問で配ってね」と現場担当者に強制的に押しつけていた。

だが、この「工事だより」をきっかけにした地元とのコミュニケーションというスタイルがすっかり定着した今は、現場の担当者それぞれが、各々のやり方でつくり配ってくれている。いちおう、「こんなんつくったけどどうでっしゃろ」という報告は社内SNSへアップされるようにはなっていて、それに対して「こんなにしたらどうやろ」とか「これはちょっとマズイんじゃないかい」と指摘はするものの、基本的には各々のつくり方を尊重するようにはしている。

そんななかで皆もまた、ドローンによる空撮写真と3Dモデルを中心としたそのつくり方ゆえか、文章はどんどんと少なくなる傾向にある。

「手抜きか?」

そんなふうに思うこともないではなかったわたしだが、こうやってあらためて自分でつくってみるとやはり、視覚的要素の前では凡百の言葉なぞとるに足らないものだ、とまでは言わないが、下手な文章は極力少なくしたほうが効果的なのではないかと実感する。

それにしても・・・・少ない。

しかもまず文章ありき、ではない。

文字どおり「とってつけた」ように、あと付けで文章を入れ込もうとしている自分が可笑しかったのである。

ドローンによる空撮と3Dモデルの威力は大きい。

これがわたし(たち)のCIMを象徴するものである。

「アンタなに言うてんの。こんなモンぜんぜんちゃうやんか!」

という謗りは甘んじて受けよう。元々が「CIMやってます」と自ら手を挙げたものではない。

「アイツら、なんかCIMみたいなことやってるみたいやで」と貼られたレッテルに乗じて、「中小零細建設業でたのしむ和のCIM」なんて宣言し、ちょっとだけ先行者たらんとしてみたまでのことだ。それをして「CIMではない」と言われれば、あっさり取り下げることに何の躊躇もない。

 

CIMの取り組み(国土交通省ホームページより)


「CIM」とは、計画・調査・設計段階から3次元モデルを導入し、その後の施工、維持管理の各段階においても3次元モデルに連携・発展させ、あわせて事業全体にわたる関係者間で情報を共有することにより、一連の建設生産システムの効率化・高度化を図るものである。


i-Constructionの目指すもの(国土交通省ホームページより)

 

i-Constructionの目指すもの

一人一人の生産性を向上させ、企業の経営環境を改善

・ 建設現場に携わる人の賃金の水準の向上を図るなど、魅力ある建設現場へ

・建設現場での死亡事故ゼロに

・「きつい、危険、きたない」から「給与、休暇、希望」を目指して


やれCIMだ、やれi-Constructionだと、あれこれとかまびすしいが(例によってそれに乗っかってやろうと一計を案じているオヤジです ^_^)、上記を見てもらえればわかるように、その第一目標は「建設生産システムの向上」だ。いいことだ。大いにやらはったらよろし。だがわたしは、その前に(というかそれと同時に)することがあるではないかと声を大にして言いたい(ま、日本の辺境たる高知のそのまた辺境の村からなんぼ大きな声を出しても四国山地で跳ね返されてしまいますがネ (^O^)/)。

それは、公共建設工事の真の発注者たる住民からの「信頼を再構築」することだ。

CIMだのi-Constructionだのという一連の試みから、「住民」の「じゅ」の字も読み取れないし地べたの匂いも嗅ぎ取れないのは、わたしの理解力と能力が不足しているせいなのだろうか。

 

中小零細建設業でたのしむ「和」のCIM(拙プレゼンテーション資料より ^^;)

 

何のために使うか?

そこから「住民」という概念や言葉は、いつもいつでも抜け落ちてはならないものだとわたしは思う。

 

あらあら、近ごろどうも悪いクセだ。

たかだか自分作成の「工事だより」のことを書こうとしたら、お国の施策まで批判することになってしまった。いやはやまったく、どうも大げさなオヤジである。

話を戻す。

いわずもがな、拙「工事だより」は「ゆる~いCIM」のひとつの例に過ぎない。

目的と役割を明確にすれば、限定的な活用であっても十分な効果が得られるはずだ。「建設生産システムの向上」などと肩肘張らずにボチボチと行こう。それが地場中小零細の生きる道だ。

何のために使うか?

そこから「住民」という概念や言葉が抜け落ちては、いつになっても「信頼の再構築」はできないとわたしは思う。

そして、「信頼の再構築」を抜きにしてわたしたちは救われない。

そう思うのだ。


私は私と私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら私も救えない。

(オルテガ・イ・ガセット)


 

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『「CIM講演会2015」開催報告』が送られてきたこと

2016年02月25日 | オヤジの「ゆる~いCIM」修業

気がつけば、まる一週間ものあいだ画像がなかった当ブログ。

「お父さん、やっぱ写真がないとイカンで写真」。花のお江戸に行ったきりの次女にだいぶん前にそう指摘されたことを思い出す。イカンイカン、元々が絵日記に毛が生えたようなブログなのだ。

 

ということで、今日はこの一週間の埋め合わせ。少しばかり多めに画像を貼りつけてみる。

 

 

 

 

 

 

 

 

なんのことはない。わたしのプレゼンテーションを印刷した冊子である。

冊子の名前は『「CIM講演会2015」開催報告』。土木学会土木情報学委員会が昨年7月から11月にわたり全国15会場で開いた講演会の資料をまとめたものだ。

冊子をペラペラとめくっていると、他とはまったく異なったトーンの配布資料がある。それがわたしのPPTを印刷したものだ。良く言えば異彩を放つ(よくいいすぎか?)、悪く言えば・・・・・いやいや自分がつくったものを悪く言うのはやめておこう。どっちにしても、箸休めにはちょうどいいはずだ。そんなPPTにあらためて目を通し、「おっさん全然アカデミックやないやないの」と独りツッコミを入れながら、学会的には「それらしくない」のだろうがわたし「らしい」のもまた確かだと納得。

短いセンテンスと画像からのインスピレーションでしゃべる。場数をこなすにつけどんどんその傾向が深まっていく自分自身のプレゼンテーション資料をあらためて他と比べてみると、我ながら「オモロイおっさんやなあ」と思えてくる。

そういえば・・・、

高知での講演会が終わったあとの懇親会の席上、「表現がいいですよね」「我々では”回せばわかる”とか”見えないところが見える”という言葉は出てこない」と、単にアカデミックな専門用語が使えないだけの辺境の土木屋にとってはなんだかよくわからない褒め方をされたのを思い出す。

いやいや辺境の土木屋的にあれは、褒め言葉として素直に受け取るのが正しい在りようなのだ。とこれまた納得。

それでいいのだ。

うん、これでいいのだ。

 

 

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アンドゥ

2016年02月24日 | オヤジの「ゆる~いCIM」修業

undo

運動、ではない。

「アンドゥ」すなわち「元に戻す」。

ショートカットキーはCtrl+Zだ。

 

アンドゥとは、多くのソフトウェアが持つ機能および操作の一つで、利用者が直前に行った操作を取り消し、元の状態に戻すこと。メニューなどの表記では「取り消し」と訳されることもある。

(中略)

これに対し、アンドゥで取り消した操作をもう一度実行し直す機能・操作を「リドゥ」(redo)という。

(『IT用語辞典』より)


今や何の気なしに使っているが、考えてみればじつに便利な機能である。

いわずもがなのことだが、現実世界で生身の人間がやることはボタンひとつで元に戻すことはできない。たとえば鉛筆やボールペンで文章を書いたとする。間違えたとする。最初から書き直さなければいけない。だが、PCの便利さにどっぷりとハマってしまったわたしは、これがわずらわしくてたまらない。ついついCtrlキーとZキーを同時に押す自分を妄想してしまうが、もちろんそんなものありはしない。

そんなとき、「あ~あ、現実って不便やな」と考えるか、「いやあ~パソコンって便利なもんやな」と思うか、どちらも同じ現象を言い表しているようでいて心持ちとしてはずいぶん違うような気がする。

前者はテクノロジーの進歩を当たり前のこととするが、後者はそれに感謝している。つまり、前者が便利さに身をゆだね実体のない世界に自身の中心を置いているのに対して、後者は地に足をつけて不便な現実に拠って立っている、とでも言おうか。

わたしたちが生業とする土木の仕事の特性は、実存をともなった物を扱って社会資本としてストックされるモノ(場所)をつくっているというところにあり、その基本はいつの時代でも同じである。土の重さ、岩の硬さ、生のコンクリートのベチャベチャ感と匂い・・・その場そのときの条件でその質感が変わっていく物たち。そして、それをあつかう生身の人間。それらすべてが実存としてあるからこそ、土木という仕事の難儀さもおもしろさもある。

やれCIM(しむ)だやれi-Construction(あいこんすとらくしょん)だと、情報化施工の波がひたひたと押し寄せてきている今(地場中小零細の現実としてそれほどでもないか、な ^^;)、「あれもできるこれもできる」の空中戦に惑わされることなく、ヴァーチャルリアリティーに溺れることなく、地べたに足をつけたうえで技術の進化の波に乗っていくことが肝要である。

たとえばそれは、アンドゥの便利さに感謝しつつ、ボタンひとつで元に戻すことなどできはしない現実にいつもいつでも拠って立つということであり、もっと平たく言えば、ドカタはどこまでいってもドカタなのだという原点を忘れず持ちつづけることだと、わたしは思う。

 

 

まいどまいどのおつき合い、ありがとうございます。

手書きの文章を何度か書き直していて、

そのもどかしさについ、

頭のなかでCtrlとZのキーを同時押ししながら、

「アンドゥーできんのかいな」と独りごち、

こんなふうなことを考えてしまいました。

ではまた明日 ^^;




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笑顔をつくる

2016年02月23日 | 土木の仕事

単なる笑顔であっても想像できないほどの可能性があるのよ。(マザー・テレサ)

 

きのう「怒り」について書いたから今日は「笑顔」、といってバランスをとっているわけでもないが、怒っているよりは笑っているほうが気分がいい。自分自身もそうだが、他人の顔を見たときそれは顕著に表れる。仏頂面の人や怒り心頭の人の顔などを好んで見ようとは思わない。だが、笑っている顔を見るとこちらも自然とほほ笑んでしまうことが多い。(そりゃなかにはありますよ、何ヘラヘラ笑ってるんだと逆に腹が立つことも)

そういうわたしだが、ネクラだのネアカだのという言葉が流行った若いころは、「ただ明るけりゃそれでいいってもんじゃないだろが」「暗いのがなぜいけないんだよ」「明るいのも暗いのもいて世の中バランスとれてんだ」というように斜に構えた考え方の持ち主で、おもしろくもないのに笑う、なんてことは断固拒否していた。

そんなわたしの考えが変化してきたのは、(たぶん)わが人生における暗黒時代、セールスマンというやつを約1年つづけたころからだ。結局その仕事にはどうにもなじめず、こちらからオサラバしたのかアッチからお払い箱にされたのかどちらかよくわからないが、とにかく結果として辞めた。その1年間で得た最大の収穫が、「笑顔の有意性」と「笑顔はつくろうと思えばつくることができる」ということに気づいたことである(ロールプレイングで笑顔をつくる練習をよくしたね、今となってはのちのちの人生で欠かすことができない貴重な経験でした)。

爾来、いつもニコニコ明るい男、にわたしはなった。

いやいや、んなわけがない。

今でも「ふだんはテンション低いんですね」とか「いつも機嫌悪そうですね」とか言われることの多いオジさんだ。

「おいおい、笑顔でたたかえ」とかナントカいつも言ってるじゃないかといぶかしがるそこのアナタ。有り体に白状する。あれはあくまで自分や他人を鼓舞するための方便だ。現実はきびしい。だからあえてことさら「笑顔でたたかえ」と繰り返しているのだ。

だが、現実のわたしがどうあれ笑顔はイイ。笑う門にはナントカだ。つくってでも笑顔にするとイイ展開になることが多いのも事実としてある。


こんなことを言うと奇異に受け取られるかもしれないが、公共土木というわたし(たち)の仕事においても笑顔はかなり重要な位置を占めている。ところが、このことに気づいていない人はけっこういる。そしてそんな人は(たぶん)こんなふうに言う。

「だってそうだろ、モノをつくる商売にとって笑顔の優先順位は高くないよ」。

ん?本当にそうだろうか?

わたしは違うと思う。

なんとなれば、わたしたちの身体は現場にある。そしてその現場は外との接点であり公共事業の最前線だ。そんななかで、公共土木の現場技術者は営業マンでもあり広報マンでもある。

「ふん、オレは営業マンなんかになりたかないね」というそこの君。わたしたちには間違いなくそんな役割もあるのだ。それぐらいに公共土木の現場技術者というやつは、狭義の技術だけを追い求めていても成り立たない商売なのである。

 

笑顔はつくることができる。

笑顔をつくると楽しくなる(かもしれない)。 

そして、今という時代の(広義の)土木技術には「笑顔をつくる」ことも含まれる(たぶん)。 

「男は黙ってサッポロビール」、あるいは「自分、不器用ですから」なんてカッコつけてる場合ではないと、わたしは思う。

 

三船敏郎「男は黙ってサッポロビール」

 

高倉健 「不器用ですから」

 

 

本当は大好きです。

「男は黙って・・・」も「不器用ですから」も。

だから尚更、ネ。

 

 

 

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我慢するのではなく保留する

2016年02月22日 | ちょっと考えたこと

近ごろけっこうマシになってきたような気もするが、わたし、よく怒る人だ。そして、怒りを感じてしまうと、そのことを突き詰めてさらに怒りを増幅させる傾向もある。

怒りの原因や内容を突き詰めてみたところで、その怒り(の基)が解決するわけではない。むしろ怒りの感情を増幅させるだけである。そして、増幅した怒りはさらに怒りに火をそそぎ、ますます燃え盛るということになる。そうなると、何に腹を立てているのやら何が腹立たしいのやら、自分でもよくわからなくなってしまったりもする。まるで「怒るために怒っている」状態である。これを今読んでいる人からしたら、なんだか滑稽で笑えてくるようなことだろうが、その最中当の本人は大真面目だ。

と書くと、まるでわたしはそんなとき、怒り狂って手がつけられない状態になっているようだが、わたしとてもうすぐ齢耳順に届こうかというオジさんだ。伊達に齢を重ねているわけではない。鎮まれ、冷静になれ、と自分自身をなだめようとはする。そんなとき採用するのが我慢である。こう見えて我慢は得意だ。ガマン我慢と言い聞かせ、身体の内に怒りを封じ込めることはできる。けっして怒りに身を任せているわけではない。

だが、考えてみるとそれがいけないことに近ごろようやく気がついた。我慢というやつは結局、閉じ込めることにしかならないのだ。収まったかのように思えても消えてなくなるわけではない。するとどうなるか。南海トラフの南側にあるフィリピン海プレートの潜りこみによって歪みをためたユーラシアプレートがいつか必ず跳ね上がるように、いずれどこかで噴き出すことになる。そうなると、我慢した分エネルギーが蓄積されているから余計にたちが悪い。

そんなときは「想定を保留する」のだ、と今までも何度か書いた。「想定を保留する」、受け売りである。元ネタを紹介するとこんなふうだ。

 

自分を怒らせるような想定を誰かから聞いた場合、あなたの自然な反応は、腹を立てるか興奮するか、またはもっと違った反撃をすることだろう。しかし、そうした行動を保留状態にすると考えてみよう。あなたは自分でも知らなかった想定に気づくかもしれない。逆に想定を示されたからこそ、自分にそうしたものがあったとわかったのだ。他にも想定があれば、明らかにしてもかまわない。だが、どれも保留しておいてじっくりと観察し、どんな意味があるかを考えよう。(『ダイアローグ』デヴィッド・ボーム、P.69~70)


状況が見えなくなるまで怒りを高めてはいけない。さまざまな意見が現れても、それを観察するだけにとどめることが重要である。そして、他人の敵意によって自分の敵意が誘発されることを知るべきだろう。そうした感情はすべて、観察したものや保留状態にしたものの一部なのである。思考がどう働くかということが、あなたはもっとよくわかるようになるはずだ(P.70)


自分の正しさに固執することなく、いったん保留してみる。そして別の側面から考えてみる。我慢は、腹立ちを抑えるすべとして採用をしない。

とはいえ、無意識のうちにライフスタイルとして自ら選択したオコリンボは、そう生易しくはない。言うは易く行うは難し。だが、そんなことできるもんかと言ってしまえばその時点でゲームセットだ。

ま、ボチボチと行きましょう。ボチボチと、ね。

 



ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ

デヴィッド・ボーム著

金井真弓訳

英治出版




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空間認識能力は音楽で鍛えられる(かもしれない)

2016年02月21日 | 読む(たまに)観る

脳には妙なクセがある (扶桑社新書)

池谷裕二

扶桑社

 

本書によれば人口の4%は音痴だという。音痴=音程の判断が苦手な人、である。

そしてニュージーランドのDr.ビルキーらの報告によると、「音痴の人は空間処理能力が低い」といい、その逆に「オーケストラ楽団員たちは空間能力が高い」ことをリバプール大学のDr.スラミングらが報告しているという。

 

一般の人では、立体図形の回転角が大きくなるとイメージを思い浮かべるまでに時間を要しますが、楽団員は瞬時に立体イメージが湧くといいます。

音楽歴が長い人ほど成績がよいといいますから、もしかしたら空間能力や音程感覚は鍛えられるのかもしれないという期待さえ生まれます。いつか音楽が、人類の余興の枠を超えて、脳トレーニングの一環として活用される時代がくるとも限りません。(Kindle版位置No.1917)

 

ここで「空間処理能力」とか「空間能力」と記されているのは、いわゆる空間認識能力のことだろう。たとえばそれはわたしたちの仕事に当てはめると、二次元の図面から立体の構造を把握するチカラ、つまり土木技術者にとってなくてはならないスキルである。だからといって実際には、もともと優れてその能力を有している人と素質的にはそうでもない人がいて、生来の素質としての能力が優れた人間だけがこの仕事をしているわけではもちろんない。だからこそ、どちらかといえば「そうでもない」枠に入るであろうわたしに言わせれば、訓練が大切なのだということになる。

 

「ひょっとして音楽が土木屋のスキルアップトレーニングの一環として活用される時代がくる?」なんて思いつきが頭のなかをよぎり、カラオケを熱唱するおのれの姿が思い浮かぶ。

「なんだ今までもさんざんやってきたじゃないか」と苦笑いし、すぐさま思いつきを却下した。

 

 

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続・「担い手確保に向けた完全週休2日制」について

2016年02月20日 | 土木の仕事

きのうのネタを違う側面から書いてみる。完全週休2日制工事の是非について、というか「非」についてである。

スタートは同じだ。


わたしがこの仕事を始めたウン十年前は、決まった休みは月に2日。それがここらへんの建設業では当たり前だった。


当時のわたしは日給月給という給料形態で雇われていた(こう見えて叩き上げなんですアタシ)。つまり、一日いくらの賃金が決まっていて、働いた日にちの分だけそれが月給としてまとめて支払いされるというやつだ。日給×日数=月給、という単純な計算である。いくらもらっていたかは今でも忘れはしないが、さすがにここで晒すことはできない。お世辞にも多いとは言えないその日給でどうにかこうにか家計を維持できたのは、もちろん第一には女房殿の支えがあったからに他ならないのだが、休みがなかったため働く日数が多かったということが、我が家の家計維持に大いに貢献してくれていたのはたしかな事実だ。

現在でも建設業において日給月給という給料形態は多い。その現実のなかでは、働く日が一日でも多ければ多いほどもらう金が多くなる(逆に言えば休めば休むほど少なくなりますネ)。つまり、少ない日給を働く日数が補ってくれる。良いにせよ悪いにせよそれが現実である以上、その状態のまま休みだけどんどん増えていくのがそのまま生活の圧迫につながっていくのは、自明の理ではないか。

「だから労務費を上げてるじゃないか」とお国のエライさんは言うだろう。たしかに公共建設工事の労務費は上がった(実際は昔の水準に戻っただけですが)。だが、勘違いしてもらっては困る。公共建設工事の労務単価は、そのままストレートに末端に支払われるものではなく、あくまでもトータルな工事価格を構成する一部分にしか過ぎない。一寸先は闇の今という時代に、労務単価が上がる度に作業員の給料を上げるオメデタイ経営者がはたしているだろうか。現実はそんなに甘くはないのである(いたらゴメンナサイ)。

 

この考え、きのうの稿とは論点を異にしている。だが、こういう側面もある。だから完全週休2日制工事などという呑気な制度の導入にわたしは反対だ。

そんなことをすれば、ますますこの業界に入る人はいなくなる。

技術者志望はともかく、技能者や職人そして作業員はどんどん減っていくだろう。

わたしはそう思う。

 

 

 

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