答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

『風蘭』(岡潔)を読む

2018年12月19日 | 読む(たまに)観る

 

風蘭 (角川ソフィア文庫)
岡潔
KADOKAWA/角川学芸出版

 

『春宵十話』に始まり、小林秀雄との対談『人間の建設』とつづき『春風夏雨』。怒涛の「岡潔」三連チャンが終わったあと、やはり『春宵十話』の印象が強烈だったからだろうか、著作を読み進めていくうちに、その感激がだんだんと薄まってきたのは否めず、ひとまずここらあたりで止めておこうかと思ったその気持ちを、「あともうひとつ」と考え直させたのは、『風蘭』の文庫版解説として内田樹さんが書いた文章を、Amazonの内容紹介で読んだからだ。

いわく、


・・・・・・・・・・・・・

「しだいに心身にしみ込んでくる、そういう知見に満たされている」――内田樹氏

人を育てるのは大自然であり、その手助けをするのが人間である、だが何をすべきか、あまりにも知らなさすぎるのが現状である――六十年後の日本の行く末を憂い、警鐘を鳴らし続けた岡潔。今まさに彼が危惧していた通り、日本は厳しさのうちにある。少子化が進み、教育の形が刻々と変化する現代社会において、岡が示す教育のあるべき姿は多くの気づきをもたらすに違いない。たおやかな語りの中に慧眼が冴える。

・・・・・・・・・・・・・


読まずばなるまい。

当然だ。思うところあり、あえて近ごろでは距離を置いているが、かつてはタツラーを広言していたわたしだもの。内田先生がそう言うのであれば、読まずにおけるわけがない。

ということで、

『風蘭』を読む。

「この小冊子は、わたしが講談社の藤井和子さんに話しましたのを、そのまま活字にしたものです。」

聞き書きである。

ひとことで言うと、とてもよい。

のっけからずっと、岡潔の「知見」と「慧眼」が読み手であるわたしの肺腑をつかんで離さない。

だがそれは、圧倒的に読み手に迫ってくるという類のものではない。

では、どういうものなのか。

もういちど内田先生にご登場願おう。

 

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 岡潔の教育論は現代の教育行政官僚や教育学者がまず絶対に口にしないような人間的叡智に満たされている。私がこの解説で触れたのは、ほんのその一端に過ぎない。この本はときどき偶然開いた頁から読み返すような読み方が似つかわしいと思う。自分の心に残った言葉を手帖に書きとめたり、紙に書き写して机上に掲げたりして眺めているうちにしだいに心身にしみ込んでくる。そういう知見に満たされている。読者のみなさんにはぜひそういう読み方を試みて頂きたいと思う。

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よい書にめぐり合った。

長いつきあいになりそうだ。

まだ全部を読み終わってはいないのだけれど、そう確信している。

 

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「むしろこれからの傾向としては機械的なことは機械に任せ、そうでないのを教えるべきだと思うのだが」(岡潔)

2018年12月13日 | 読む(たまに)観る
春宵十話 随筆集/数学者が綴る人生1 (光文社文庫)
岡潔
光文社

 

デシ先生からいってみようか」と、言った口が乾かぬうちに、『春宵十話』を読む。

この人の言説は、なにせ率直でケレン味がない。加えてさまざまな分野に造詣が深く見識が高い。かといって、大上段にふりかぶるようなところはなく、廉直な人柄を感じさせる。それゆえ、だろう。「ほんのさわりだけ」と思って読み始めたわたしだが、惹き込まれてしまい、次から次へとページをめくる手がとまらなくなった(Kindleだから正しくはページをスライドする手なのだけれど)。

そのなかに『三河島惨事と教育』という稿がある。

 

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孔子は弟子の顔回をほめて「回はよく一隅をきいて三隅を知る」といっているが、これが教育というものなのである。一つだけ教えてあとはそっとしておく、すると暗中模索した末、自分でできるようになる。自分でできるようにならなければ、役に立たないばかりでなく、いざというときにかたくなって間違ってしまう。こんな人に機械をいじらせれば、三河島のようにとんでもないことになってしまうわけで、たとえば朝起きたばかりだから間違ったということになりかねない。

 少なくとも機械をさわる人は、自分の判断によって、ここまでは確かで間違いないというところまでできるほどにしておかなければ、惨事はこれからもきっと起る。智力とはここのところを指していうのである。一隅を教えて・・・・としないで初めからはっきりした法則を教えて、さあそのとおりにせよといえば人の頭は機械になるだけであろう。

 いま、たいていの中学、高校では答案が合っているかどうか生徒にはわからない。先生が合っているといえば合っているというだけで、できた場合もできなかった場合もぼうっとしている。本当は答が合うことよりも、自分で合っていると認めることのほうが大切なのに、それがわかっていない。こんなのが大きくなったら大事故が起るのは当り前だと思う。惨事があればそんな教育であることが連想され、また教育をみればすぐ惨事が連想される。

(中略)

 いま大学に入っている男性は機械文明にばかり興味を持ち、真善美は教えにくい。頭の働きも機械的になっている。むしろこれからの傾向としては機械的なことは機械に任せ、そうでないのを教えるべきだと思うのだが、ともかく、進駐軍時代にまいた種子がいま育っているので困っている。(Kindleの位置No.1061あたり~1084あたり)

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いつもどこでもどんなジャンルでも、ついつい自分自身のフィールドのことなぞを考えながら読むのは、わたしのいつもの悪癖だけれど、i-Construction まっただなかの「今という時代」に生きる土木技術者たち(もちろんわたしも含めた)をアタマに浮かべながら「むしろこれからの傾向としては機械的なことは機械に任せ、そうでないのを教えるべきだと思うのだが・・・・」などと、今読んだばかりの受け売りを反芻してみる辺境の土木屋なのだった。

 

注:三河島惨事(事故)

1962(昭和37)年、東京都荒川区の国鉄常磐線三河島駅構内で発生した列車脱線多重衝突事故。「国鉄戦後五大事故」のひとつ。



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思わずポチ

2018年12月10日 | 読む(たまに)観る

「人生とは統合化の旅」

スクリーンに映し出された言葉に目を見張り、急いでメモする。

その前段で渡邊教授が引いていたのはエドワード・L・デシの『人を伸ばす力ー内発と自律のすすめ』だ。

スライドの文字をそのまま書き出してみる。

・・・・・・・・・・

・子どもたちは・・・、身近な集団や社会の価値とルールを受け入れようとする傾向を、生まれながらにしてもっている。このような順応過程を経て価値や行動規則を内在化していく中で、子どもは社会と有能に交渉していくやり方を身につけていく。しかし、内在化には二つのまったく異なるタイプがある・・・。(p127)

・この内在化の二つの形態とは、取り入れ(introjection)と統合(integration)である。取り入れとは、・・・ルールを噛み砕かずに丸ごと飲み込むこと・・・。また統合とは、ルールをよく噛んで「消化」することであり、これが最適な形の内在化である。(p128)

・・・・・・・・・・

それを受けた教授の感想が、

「わたしたちは、人生のあらゆる場面で、統合を欲している!

それゆえ、

人生とは統合化の旅

だという。

先週、理事会のため高知に集まった「三方良しの公共事業推進研究会」理事社と高知工科大学渡邊教授との意見交換会の席上、「生きがいを感じるための建設マネジメント」と題した「情報提供」という名の講義のなかだった。

「人生とは統合化の旅か・・・」

言葉の意味は、なんとなくしか理解できなかったが、なんだか強い磁力でわたしを惹きつけたことだけはたしかだった。

 

人を伸ばす力―内発と自律のすすめ
エドワード・L・デシ
新曜社

 

思わずポチ。

あ~あ、『感じて、ゆるす仏教』(藤田一照、魚川祐司)からの流れで岡潔を読んでみようと『春宵十話』を、そして『土木技術』12月号の特集「アニメと土木」からの流れで『転生したらスライムだった件』(原作伏瀬、漫画川上泰樹)を、Kindleのライブラリーに加えたばかりか、佐治晴夫さん関係で何かひとつと『「わかる」ことは「かわる」こと』という養老孟司さんとの対談本も注文したばかりなのになあ。

と、いつものようにAmazonというやつの便利さと危なっかしさを同時に感じながら、「ま、ええか。並行読みはいつものことだ」と開き直る。


さてと、やっぱりデシ先生(と渡邊教授が呼んでいた。デシなのにセンセイとはこれいかに、なんてくだらぬことを思いつき、ひとり笑っていたわたし)からいってみようか。



感じて、ゆるす仏教

藤田一照

魚川祐司

KADOKAWA


春宵十話 随筆集/数学者が綴る人生1 (光文社文庫)
岡潔
光文社

 

土木技術 2018年 12 月号 [雑誌]
 
土木技術社

 

転生したらスライムだった件1 (GCノベルズ)

原作伏瀬

漫画川上泰樹

マイクロマガジン社

 

「わかる」ことは「かわる」こと

養老孟司

佐治晴夫

河出書房新社

 

 

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「そのクエスチョンマークとともに生きていく。あるいはそのクエスチョンマークを生きていく。」(藤田一照)

2018年12月05日 | 読む(たまに)観る

「対談を記事にしたい」という誘いに乗ったことがいちどだけある。

まったく自信はなかったが二つ返事で引き受けた。自信がないのになぜいささかの逡巡もなく引き受けるのか。ばっかじゃなかろか、と思われてもいたし方ないが、単なる衝動や思いつきでというわけではなく、そこにはそれなりの理由があった。

「手が合う」という確信があったからだ。

「じゃあ自信があったんじゃないか」と言われても、やはり自信はなかった。「手が合う」(にちがいない)と確信はしても、自分自身のパフォーマンスがどうなるかについては、まったくわからなかったからだ。

案の定、手が合った。

しかし、記事となったその対談は、結果として(わたしにとっては)いまひとつだった。もちろん、対談の相手さんにはなんの非もなくライターにもまた落ち度はなかった。対談の片方たるわたしのとったスタンスが悪かったのだ。つまり、「手が合う」あまりに簡単に同意をしすぎ、相手をリスペクトするあまりに敬意が全面に出すぎた。ゆえに対立がない。事実、対立があまりないのだから仕方がないのだが、読み物としてはつまらない。

したがって、そんな自分が「つまらない」人間に思えてならなかった。

というような自分自身の失敗経験を、ときどき思い出しながら読んでいたのは、『感じて、ゆるす仏教』。

 

感じて、ゆるす仏教
藤田一照、魚川祐司
KADOKAWA

 

藤田一照さんと魚川祐司さんのちがいが鮮明で、全体には穏やかだがときに緊張感をはらみつつ対談は進む。その「対立」がじつに心地よい。

中身は、わたしのような凡夫にはけっこう難解で、理解しがたいことも多かったが、そこはそれ、いつもの「いいとこ取り」で、「ふむふむナルホドそうかそうか」とわかったようなふりをして読了した。あい変わらず、こんなところにうなずきながら。

 

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藤田

座禅に出会って、お坊さんになった時には、修行を続けていれば、いつかそのクエスチョンマークが取れてすっきりするんだと思っていた。クエスチョンマークを抱えているというのは、迷っていることなんだと思っていましたからね。

 でも、それは違っていたんです。そうではなくて、このクエスチョンマークが答えそのものなんです。クエスチョンマークのない世界に安住すること、そこに居着いてしまうことが「悟り」なのではなくて、そのクエスチョンマークとともに生きていく。あるいはそのクエスチョンマークを生きていく。もっと言えば、クエスチョンマークに導かれて生きさせられる。実は僕自身が、クエスチョンマークなんですよ。そのクエスチョンマークが「消えた、わかった」と思った途端に、むしろそこからは離れてしまう。そこで止まってしまうんですよ。

(Kindleの位置No.3585あたり、太字みやうち)

・・・・・・・・・・・・・・・


お坊さんから同業者にまちがえられることはよくあるが、その中身はといえば、凡夫そのもの。いくつになっても、煩悩にとらわれて迷いから抜け出ることができないわが身なれば、「クエスチョンマーク」のこのくだり、骨身にしみてありがたいのだった。

 

~ ちなみにそこでも魚川さんは、「”僕自身がクエスチョンマークだ”と”クエスチョンマーク”や”違和感”の世界と自身との一体性を強調されて、そこをあまり乖離させることをよしとされない」と藤田さんの立場を推察し、それに対して自らは、「”両方をかね備える”ことはあり得ても、それらは決して一体にはならず、そこに微妙な乖離というか、綻びが必ずある。そして私は、むしろその綻びを、大切なものだと思っているんですね。」と、きっちり自分の立ち位置を明らかにして返している。~ 


さて、

無制限一本勝負の結果はドロー。

再戦はありやなしや。

乞うご期待。

(ってわたしが期待してるだけなのだけれど)


 

 

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『“これまで”が“これから”を決めるのではなく、“これから”が“これまで”を決める。理論物理学者・佐治晴夫さんインタビュー』を読む

2018年11月28日 | 読む(たまに)観る

"STORY OF MY DOTS" というサイトがある。

ニート状態にある若者のなかで「働く意志を持ち行動を起こしている若者をレイブル(late bloomer = 遅咲き)と提唱し、就労から自立までを応援する、大阪府のレイブル応援プロジェクト」のサイトらしい。

そこに、理論物理学者佐治晴夫氏へのインタビューが掲載されているのを吉田さんが教えてくれた。2014年3月の記事だ

 

・・・・・・・・・・

よく、「過去・現在・未来」といいますね。この時間の流れから考えると、「これまで」が「これから」を決めると思うかもしれません。でも、いまみなさんが思い浮かべている過去は、脳の中にメモリとして残っているものに過ぎず、実在しているものではありません。とすると、これからどのように生きるかによって、過去の価値は、新しく塗り替えられることになります。未来が過去を決める、「これから」が「これまで」を決めるのです。

人生というのは、編集作業に似ています。素敵な物語を、美しい暦としてつくっていきたいですね。(太字みやうち)

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美しい言葉だ。

しみじみとわたしの身体に入っていくのを感じながら読んだ。

繰り返し読む。

読むたびに染み入ってくる。


過去は、脳の中にメモリとして残っているものに過ぎず、実在しているものではありません。

とすると、これからどのように生きるかによって、過去の価値は、新しく塗り替えられることになります。

未来が過去を決める、「これから」が「これまで」を決めるのです。

 

よいなあ。

じつによい。

 

 

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『日本語びいき』(清水由美)を読む

2018年11月02日 | 読む(たまに)観る

 

 

日本語びいき (中公文庫)

清水由美・文

ヨシタケシンスケ・絵

中央公論新社

 

著者が生まれ育った飛騨高山では、「〈進行〉と〈結果〉をそれぞれ別の形式で」表すという。こんなふうにだ。

 

・・・・・・・・・・・

標準語ではすべて「~している」になっているところを、高山弁では「~しよる」と「~しとる」という二つの形で表し分けることができます。(略)逆にいえば、標準語は「~している」という形一つで〈進行〉と〈結果〉を表すという、かなり無理な芸当をしているわけです。どちらの意味になるかは、「~」に入る動詞が、運動を表すタイプなのか、変化を表すタイプなのかに依存しているわけです。

 その点、高山弁は、それぞれに専用の形があるのですから、「冷めつつある」と言いたければ「冷めよる」と言うことができます。「お茶、冷めよるよ。早よ、飲みない(=飲みなさい)」なら、〈進行〉です。そして「お茶、冷めとるな。新しいの淹れるさな」なら、〈結果〉です。(P.71~72)

・・・・・・・・・・・

 

「な~るほどネ」

ながいあいだの疑問が氷解していくのを感じながら読んだこのくだり、土佐弁ネイティブのわたしには簡単に理解できる。わが母方言もまた、〈進行〉と〈結果〉をそれぞれ別の形式で表すからだ。前記の例にあてはめると、「冷めつつある」は「冷めゆう」だ。「お茶、冷めゆうよ。早よう飲みチヤ」なら〈進行〉であり、「お茶、冷めちゅう。新しいの淹れちゃるキ」なら〈結果〉である。

秋田県横手地方で生まれ育ち、杜の都仙台でわたしと知り合ったわが妻は、南国土佐の高知へ移り住んだ約30年前、周囲がビックリするほど早く土佐弁をマスターした。わたしはそこに彼女の覚悟のようなものを感じたのだが、当の本人に言わせるとそれほど大げさなものではなく、「ただ早く溶けこもうとしたことの表れ」に過ぎないらしい。「それがある種の覚悟ぢゃないか」と思うわたしだが、それ以上はツッコまないようにしている。その彼女をしてだ。どうしてもくだんの使い分けをマスターできないのである。

なぜ?

どうして?

これがながいあいだの疑問だった。

つまり、〈進行〉を表す「お茶、冷めゆうよ。早よう飲みチヤ」も、〈結果〉を表す「お茶、冷めちゅう。新しいの淹れちゃるキ」も、いつまでたっても同じ「冷めちゅう」で言い表してしまう彼女に、「どうして使い分けができないのだろうか(簡単なのに)」と疑問を抱いていたのである。いやいや土佐弁ネイティブであるわたしや子どもたちが、手をこまねいてそれを聞き流していたわけではなく、彼女をバカにしていたわけでもない。

現在進行形の場合は「~ゆう」、

過去形の場合は「~ちゅう」、

噛んで含めてそう諭したことは何度もあるが、なかなかにそれは理解しずらかったようで、「なんでかなあ」と思いつつ、慣れてくるとそのマチガイもまた可愛げがあって、そのまま今に至っているというわけである。

で、『日本語びいき』に出会ってその謎が解けた。

彼女の母方言は「~している」という形一つで〈進行〉と〈結果〉を表すという、「かなり無理な芸当」をしていたのだ。いやいやチトちがうな。母方言たる秋田弁だけではない。標準語(共通語)そのものがそういう成り立ちなのだから、マイノリティーであるのはたぶんわたしたちのほうだろう。

ことほど左様に言葉というやつは、たとえ同じ言語であっても、時間や空間が異なればその表現がちがってくるものだ。だからこそおもしろい。日本語しか使えないわたしだもの、他の言語はいざ知らずだ。したがって、日本語はおもしろいとしか言えない。

そうそう、『日本語びいき』にはこんなくだりがある。「タダシイ日本語って?」というコラムだ。


・・・・・・・・・・・

 ことばというのは、究極の民主主義、多数決がすべて、数の暴力がまかり通る世界です。どんなにマチガッテル!と言われていた表現でも、使う人が増えれば、やがてそれが正義になる世界です。その暴走に歯止めをかけたくなる心理は理解できるし、そうした抵抗が変化のスピードを緩やかなものにして、同時代に生きる多様な世代の人々の相互理解を担保するよすがにもなるとは思います。でも、だからといって、妙な教条主義をふりかざすような考え方は、日本語を息苦しくさせるだけです。

(略)

さまざまな変化に柔軟に対応するために必要なものは、日本語についての正確な知識です。知識というより、判断力といったほうがいいかもしれません。「正しい日本語」ではなく、「適切な日本語」を見極める。そんな判断力です。場面や人間関係によって、同じ表現が適切にもなり不適切にもなります。また、日々変化を続ける日本語の、どのあたりまでを許容するかも判断しなければなりません。そんな力が重要なのです。(P.173~174)

・・・・・・・・・・・


とてもじゃないがわたしには、そんな知識も判断力もないし、まことに残念ながら、この先それが身につくとも思えない。

しかし、も少し日本語を勉強してみようかな。

『日本語びいき』、そんな気にさせてくれた本だった。


 

 

日本語びいき (中公文庫)

清水由美・文

ヨシタケシンスケ・絵

中央公論新社


 

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アタリの予感

2018年10月25日 | 読む(たまに)観る
日本語びいき (中公文庫)

文:清水由美

絵:ヨシタケシンスケ

中央公論新社

 

高知市にある『金高堂書店』のフェイスブックページで『日本語びいき』という本が紹介されていたのを目にしたとたん、すぐさま注文したのには理由(わけ)があった。先日、こんなことがあったからだ。

 

とある公的施設を借りようと電話をした。応対してくれたのは若い(たぶん)男性だ。用件を伝えると「少々お待ちください」と言う。「はい」と答えて待つことしばし。

「少々お待たせしました」

ふたたび電話に出た彼が放ったその言葉を聞くなり、失礼だが吹き出してしまったわたしはすかさず(こんなことはホントに珍しいのだが)、「少々お待たせしましたってね君、そりゃおかしいよ」と笑いながら返した。しかし、受話器の向こうからはあきらかにキョトンとした雰囲気が伝わってくる。ありゃりゃ、コイツ笑われた意味がわかってない。。。となれば、これ以上忠言しても意味がない。「あ、いいです。忘れてください」。そう告げて電話を切ったあと苦笑いひとつ。

こういっちゃあなんだが、いわゆる「日本語の乱れ」に対してはけっこう寛大なほうだと自分自身では思っている。「歌は世につれ世は歌につれ」、世が言葉につれて変わっていくかどうかはわからないが、まちがいなく「言葉は世につれ」だ。言葉遣いや言い回しは時間や空間の移り変わりとともに変わっていく。これが世の道理である。

たとえば、「日本語の乱れ」を代表するものとされている「ら抜き」にしてからがそうだ。土佐弁ネイティブであるわたしは、小さいころから「ら抜き言葉」を使ってきた。「わたしたちは、「食べられる」ではなく「食べれる」であり、「降りれる」であって「降りられる」ではない。「ら抜き」だけではない。「れ足す」もそうだ。土佐弁は「れ足す」方言でもある。共通語的には「読める」「書ける」が正しいところを「読めれる」「書けれる」とやる。「ら抜き」「れ足す」が「日本語の乱れ」の代表ならば、わたしたちは乱れきっている。そしてその「乱れ」は今に始まったことではなく、父も母も祖母も祖父も近所のおんちゃんもおばちゃんも、み~んな乱れていた(その前になるとチトわからないが)。ことほど左様に、言葉というものは時間や空間が変われば変化するものだというのがわたしの認識である。

それゆえ、イチイチ目くじらを立てて、「正しい言葉遣いを!」と声高に指摘するつもりは毛頭ない(毛もない)。そんなわたしだもの、チョー◯◯だの、ビミョーだの、ゼンゼンOKだの、、、今となってはすっかりポピュラーとなってしまった感がある残念な日本語も平気で多用したりしている。そんなわたしが、「少々お待たせしました」を許せなかった原因はなんだろう。そこに感じた強烈な違和感の正体はなんだろう。ということで、少々考えてみた。

「少々お待ちください」という場合の「少々」の主体は待たせる側の向こうでよい。なぜならばこっちはまだ待ってない。待つという行為は、「少々お待ちください」という電話の向こうの言葉でスタートする。したがって、その待ち時間が少々だと思えば「少々お待ちください」。そこまで考えて言ってるかどうかは別として、なんの問題もないはずだ。しかし、それとは逆に、「少々お待たせしました」という場合の「少々」はアチラが決める筋合いのものではない。わたしが待ったその時間が少々か少々でないかは、あくまでこちらが判断することであって、ソッチが勝手に決めるなよ、てなもんである。

と屁理屈をこね回してみたが、どうもこれが「少々お待たせしました」に感じた違和感ではないような気がしていた。では何がその正体か。モヤモヤっとしたまま時間は過ぎ、その出来ごとについて書こうとした草稿も埋もれかかったある日、お城下の老舗『金高堂書店』のフェイスブックページで『日本語びいき』という本が紹介されていたのを目にした。その紹介文はこうだ。

・・・・・・・・・・・・

少なからず言葉、文章に携わる職業・書店員としてお客さまと接する毎日。

だんだん、若いスタッフの言い間違いを指摘する立場にもなってきてしまいました。

然し、その日本語も果たして正しいのかどうか、時々自信がなくなることもあります。

そんなときにも役立つこの文庫。決して小難しい文章でなく、ヨシタケシンスケさんのほっこりにんまりイラストによって、より一層頭に入ってくる気がします。

・・・・・・・・・・・・


読むなり飛びついた、とこういうわけである。

さて、外国人に日本語を教える、すなわち日本語教師を生業(なりわい)とする清水由美さんが書いたこの本。冒頭にこんな文章がある。

・・・・・・・・・・・・

日本語教師は、必ずしも難しい漢字などは書けなくてもいいし、耳慣れない四字熟語や格言を得々と解説してみせる必要もありません。けれどもたとえば、次のような質問には、間髪をいれず答えることができなければなりません。

「食べる→食べたい」だから「飲む→飲んだい」でいいんでしょう?

「やらさせていただきます」と言ったら叱られました。じゃあ「やめさせて」もだめ?

「先生」の読み方はセンセイですか、センセーですか?

先生もこのお菓子ほしいですか?あれ、私、なにか失礼なことを言いました?

(P.4)

・・・・・・・・・・・・

 

むむむ、アタリの予感。

さて、読んでみるか。


日本語びいき (中公文庫)

文:清水由美

絵:ヨシタケシンスケ

中央公論新社



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朝のトレーニング

2018年10月05日 | 読む(たまに)観る

今朝起きると、「新潟のハム」さんからコメントが届いていた。きのうの拙稿を読むなり、あわてて『荘子ー徳充符篇』にある「哀駘它」の説話を読み返し、どうやったら玄侑和尚の解釈が出てきたのかが不思議なのだという。

さすがだ。

まず原典にあたってみるところ、そして、なぜそうなのかと疑問を抱くこと、誰かの解釈を鵜呑みにして「ほ~、ふむふむナルホド」といった体で合点したつもりになり、あげくの果てにはそれをネタに他人さまに講釈を垂れるなどという行為におよぶ誰かさんなぞとは知の水準がちがうなと、感心しきりのわたしなのだ。

ということで、玄侑和尚がその著で引いていた箇所をコピペして返信した。

・・・・・・・・・・・・・・

未だ嘗て其の唱うるを聞く者あらず、常に人に和するのみ。人に君たるの位の以て人の死を済うなく、聚禄の以て人の腹を望すなし。又悪きを以て天下を駭かし、和して唱えず、知は四域より出でず。且而も雌雄も前に合まるは、是れ必ず人に異なる者あらん。

・・・・・・・・・・・・・・

コピペではあるが手書き、つまりキーボードで文字を打ち込んだ。すると、わずか120字ほどにもかかわらず、遅々として変換が進まない。変換されない言葉(漢字)が多いのだ。

上からいく。


嘗て

かつて。これはOKだ。

其の

その。よしこれもOKだ。

以て

もって。こりゃ普通だな。

済う

「すくう」とルビがふってあるが、変換候補にはない。救済と打って済だけを採用。そうか、救済という漢字は両方が救うという意味なのだという発見にちょっぴりほくそ笑む。

聚禄

これもまた「しゅうろく」とルビがあるが、ない。「じゅろく」か?キーを打ったが出てこない。しかたなしに「じゅらくだい→聚楽第」から楽第を削り「聚」を残したあと、「ろく」を禄と変換する。

駭かし

「おどろかし」と読むのだそうな。これは読めない。すぐさま思い浮かんだのが「しゅうう」という漢字。出てきたのは「驟雨」、まるでダメ、馬ヘンだけしか合ってない。さて・・・と腕組みし、じっと字面をながめていると右側にある「亥」がクローズアップされてきた。「がい」か。あたり。

且而も

「しかも」だという。且は「かつ」でOK。「而」は同じ本に「すなわち」とフリガナがあったが、「すなわち」では変換されない。たしかアレだ、と検討をつけ、「けいじじょう」と入力したひらがなを形而上と変換し、「而」だけをチョイスして「且而も」完成。

 

繰り返すが、わずか120字ほどだ。しかし、けっこうおもしろかった。だからといって当然書けはしないが、読む、そして漢字を思い起こすことのトレーニングにはなる。もちろん、このような体験は初めてではない。そのたびにもどかしい思いをしてきた。だが、今朝は不思議ともどかしさがなく軽やかな気分だった。

漢文の模写(「書き下し文」ですが)、頭の体操だ。

たまにはこんなのもよい。


 

NHK「100分de名著」ブックス 荘子
玄侑宗久
NHK出版





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『荘子(NHK「100分de名著」ブックス)』(玄侑宗久)をふたたび読んでみようと思う。

2018年10月04日 | 読む(たまに)観る

いつ読んだのだろうか。それほど前ではない。1年にはならないはずだ。読みかけて途中で放り投げた本がある(電子書籍なので「放り投げる」ことはできないが、気分的に「放り投げた」)。積ん読や途中放棄は数数えきれないほどあるが、「もうムリ」と放り投げたことが記憶にくっきり残っているのはそれほどない。という意味では、逆に言えば、わたしの脳内にけっこうなインパクトを与えたという証左なのだろう。

そんな本、玄侑宗久『荘子』をふたたび読んでみようと手にした。

 

NHK「100分de名著」ブックス 荘子
玄侑宗久
NHK出版

 

途中放棄したのは、たとえばこんなところにその原因がある。

 

・・・・・・・・・

 この物語(みやうち注、『荘子』徳充符篇です)でまず注目されるのは、「和して唱えず」という哀駘它のあり方でしょう。冒頭で漆に関連して述べた光の話にも通じますが、荘子は「自己主張する」ということは人為的でさかしらなことだと考えているようです。今の世の中ではおよそ考えられないことかもしれませんが、自分の考えなど主張することなく、ただ相手の話に同調するのがよいと言っています。「未だ嘗て其の唱うるを聞くものあらず、常に人に和するのみ」ーーつまり、こっちがこう言えば「うん、そうだね」と言い、あっちがああ言っても「うん、そうだね」とうなずく。お前の意見はどっちなんだ!と言いたくなるかもしれませんが、荘子に言わせれば、人の考えや言葉というものはじつに頼りなくて当てにならないものだから、突き詰めて言えば、どっちだってよいわけです。(Kindleの位置No.361付近)

・・・・・・・・・

 

あゝこりゃついていけんわ。

てなもんで、全体の四分の一ほどしか読み進まないうちに放り投げた、というわけだが、「そんなことでけへんやろ」と思いつつも、ずっと心のどこかに引っかかっていた。

 

自分の考えなど主張することなく、ただ相手の話に同調するのがよい

こっちがこう言えば「うん、そうだね」と言い、あっちがああ言っても「うん、そうだね」とうなずく

 

なんだかよくわからないのだが、ふと気づくと、この文言を思い浮かべていることがある。生来、自己主張の激しいわたしとしては全否定したいところだ。そしていったんは否定した。しかし、やはりなぜだか否定しきることができない。

ということで、毒薬か、はたまた良薬か、『荘子』(玄侑宗久)をふたたび読んでみようと思う。最後までたどり着くことができず、また放り投げてしまうかもしれないのだけれど。

 

 

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『酒の肴・抱樽酒話』(青木正児)をちびちびと読む

2018年09月22日 | 読む(たまに)観る

 

酒の肴・抱樽酒話 (岩波文庫)
青木正児
岩波書店

 

近ごろの晩餉のお供は日本酒だ。

「白玉の歯にしみとおる秋の夜の・・・」という牧水の短歌にならったわけでもないが、なぜか日本酒が呑みたくて、夜毎ちびちびやっている。

という日々と脈絡があるようでないようで、やはりあるのだろう。青木正児の『酒の肴・抱樽酒話』という本を、これまたちびちびと読んでいる。先日記した『及時当勉励歳月不待人』という拙稿にコメントをくれた「新潟のハム」さんがそのコメントのなかで教えてくれた青木正児(1887~1964)という中国文学者に興味をひかれたのがきっかけで、いかにもとっつきやすそうな題名のエッセイ集を手にした、とこういうわけだ。しかしてこの書、「樽を抱え酒の話」というタイトルからは想像がつかないほど格調高い。さすが岩波文庫に収められているだけのことはある(笑)。とはいえその内容はといえば難解なわけではなく平易だが、その語彙の多様さ、漢字の多さなどなどで、わたしのようなその道の素養がない者には簡単に読み進めることができない。しかし、それもまた秋の夜長の一興だ。こういう人のことを教養人と呼ぶのだろうな、といちいち感心しながら読んでいる。なにより、「為にする読書」にどっぷりと浸かってしまった感がある近ごろのわたしにとって、本を読むことの楽しさを思い出させてくれる書だ。

 

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 それはさておき、わが党も決して酒室にのみ引籠っておる者ではありません。酒徒は、やはり天地をもって家と為すべきで、興に乗じては何処にも出かけますが、私は例の市井の縄暖簾というやつは好みません。山林を愛する生まれ付きで、酒徒が、よく口ずさむ李白の「両人対酌 山花開ク、一杯一杯 復タ一杯」という詩の、あの境涯が最もわが意に適うているのであります。それから李白は独酌の詩を幾つも作っておりますが、独酌の興は対酌よりも自由で奔放で、一層酒を味わうに宜しいのであります。独酌といっても、多くの場合、月とか花とか、自然を合手にして酌むのですから、これもまた一種の対酌であって、決して淋しいものではありません。李白の「月下独酌」既ち月の下で独り酌む、と題する四首の詩の如きは、千古の絶唱であり、この道の経典であります。(P.207『酒の飲み方』)

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花間(かかん)一壺(いっこ)の酒

独り酌んで相(あい)親しむもの無し

杯(さかずき)を挙げて名月を迎え

影に対して三人と成る

(李白『月下独酌』より)

 

月と影と合わせて3人となった李白はこのあと、舞えや歌えやの春の夜を三人組で楽しむわけだが、今は秋。わたしはといえばこんなふうに独酌をしている。

 

白玉の歯にしみとおる秋の夜の酒はしずかに飲むべかりけり(牧水)


さあ、そろそろ仕事もお開きだ。今宵もちびちびと飲るとしようか。

 
 
 
 

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