散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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2011年3月15日の「所長命令違反」/海の向こうのマッチポンパー

2014-05-20 06:53:34 | 日記
2014年5月20日(火)

 1941年 東京港開港
 1978年 成田空港開港
・・・だそうだ。

 朝刊一面、「所長命令に違反 原発撤退」
 2011年3月15日の朝、東京電力福島第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が、吉田昌郎(まさお)所長(2013年死去)の待機命令に違反して、約10km南の福島第二原発へ撤退した。その中には、事故対応を指揮するはずのGM(グループマネジャー)級の社員も含まれていた。その後、放射線量は急上昇しており、事故対応が不十分となった可能性があるが、東電はこの命令違反による現場離脱を3年以上伏せてきた。

 軽々に責めることはすまい。むしろ学ぶことを心がけよう。
 原発問題に関して言えば、この種の事態への対策が見通せない限り「再稼働」は容認できない。自分の問題に引きつけて言うなら、病院で患者さんをあずかる立場にあったとして、同種の危険が迫ったとき逃げずに持ち場を守れるかということだ。

***

 ラジオニュースでは、「集団的自衛権容認の動きをアメリカの軍関係者が歓迎」と報じている。朝鮮半島有事の際などに、共同作戦を遂行できる云々と。
 そら来た。
 外圧、というより米圧に極端に弱い僕らの中枢は、これを「追い風」と捉えることだろう。しかしどちらに転ぶにせよ、アメリカの思惑に踊らされることだけは絶対に回避せねばならない。集団的自衛権を認めるというなら、せめてアメリカの囁きなどには耳を貸さずにすることだ。耳を貸さないなら、集団的自衛権を論じる意味はあらかたなくなると思うけれど。

 アメリカ外交の幼児的な拙劣さは、後世きっと嘲りを生むだろう。仮想的Aを叩くためにBをてこ入れし、そのために強くなりすぎたBを叩くためにCをてこ入れし、Cを抑えるためにDを・・・バカバカしくて話にならない。話にならないことが現に起きてきた。
 悲喜劇的なマッチポンプの連鎖はイラン・イラク以来の中東で明瞭だが、実はその最初のターゲットが日本である。太平洋を越えて中国に進出しようとするとき、そこに立ちはだかる日本はアメリカの大きな障壁となった。この障壁を除去するため、フランクリン・ルーズベルトは徹頭徹尾日本を嫌って一方的に中国に肩入れした。そのツケが戦後に回ってきた。
 この人は歴代大統領中2期を越えて在任した唯一の存在で、第二次大戦の勝利もあって今もアメリカで最も人気のある大統領である。最近は映画もできたが、こちら側から見ればいささか笑止。いろいろ難点のある中で、特に大戦末期は健康状態の悪化もあって判断の曇りが著しく、ヤルタではチャーチルの警告を無視してスターリンを過度に厚遇した。スターリンはそこから最大の利益を引き出し、対日参戦してやすやすと満州を手中に収め、冷戦構造の強固な足場を作った。東北アジアになだれこむソ連軍を牽制威嚇するかのように、性急な二発の原爆投下。直接の指令はトルーマンから下されているが、彼はルーズベルトの病死によって急な就任を強いられたもので、筋書きはすべてルーズベルト時代に敷かれている。
 思惑どおり日本は「除去」されて中国とソ連が勝ち、今度はこれらが新たな「障壁」となってアメリカに立ちはだかった。イラン・イラクのプロトタイプだという訳が分かるだろう。そうなると「同盟国」が丸腰なのも具合が悪いので、大汗かいて武装解除させたばかりの日本に、掌かえして再軍備を要求してくる。以来60年、「自衛隊」でお茶を濁しつつ本格的な再武装を回避してきたかつての自民党政府の選択に、今となっては一定の評価を与えたい。吉田茂は米軍を「番犬」呼ばわりして物議を醸したが、よくぞ言ってくれちゃいました。こちらの弱体はそちらが望んだこと、ルーズベルト以来たっぷりたまった貸しの分、せいぜい犬馬の労に励んでくださいませ。

 21世紀に入り、さすがに番犬論も賞味期限切れかもしれないが、カウボーイ流マッチポンプ外交の走狗に使われることだけは二度と御免こうむりたい。アメリカが「歓迎する」ということなら、逆にこちらは警戒するのがTPPでも防衛問題でも正解というものだ。そこを忘れて「偉大な父祖らを越えたい」という武田勝頼流の蛮勇に現首相が駆られるとき、国が再び危うくなる。
 で、話は沖縄に戻るんですね。

沖縄補遺 ① ~ 豊見城(とみしろ)と豊見城(とみぐすく)

2014-05-19 10:28:19 | 日記
2014年5月19日(月)

 「ウチナーのイユー」って、な~んだ?
 琉球語で「沖縄の魚」ってことだ。
 まるで外国語みたい?そんなことないよ。
 ウチナーの「ウチ」は、「うち/そと」の「うち」と同根なんだろうし、今時の若い子が先祖返りしたみたいに「うちら」などと言うのと変わらない。
 「魚」の字は今でこそ「さかな」の読みが主流になったが、もともと「うお(うを)」読みが本則で、より古い。かつ、昔は「いを」とも称したことも、よく知られている。
 「さかな」は本来「肴/酒菜」のことで、酒のアテとして魚が用いられるうちに「うお」と等置されるようになったのだ。
 そうして見れば、「ウチナーのイユー」すなわち「当地の魚」であること、至ってしっくりくるし、日本の古語との親近性すら見えてくる。

 方言と古語の近似はよくあることで、たとえばわが郷里の伊予弁で高齢者が「~できない」という意味で「ええせん」などと言うのは、古語の「え ~ せじ」そのものである。中心部で言葉の変容が進み、周辺地域のいわゆる「方言」に古形が保存される現象には、実は必然的な理由がある。考えればわかることである。

 だからといって、「琉球語は古語をよく保存した日本語の一方言である」とは言えない。決してそうではない。

***

 「豊見城」は何と読むか?

 僕の年代の者は、甲子園での豊見城高校の活躍ですっかり「とみしろ」に馴染んでいるが、本来は「とみぐすく」が正しい。
 琉球語では「城」を「ぐすく」と読むこと、子どもの頃に地図を見ていて気づいた。読むと言うより、僕らが「しろ」と呼ぶものを彼らは「ぐすく」と呼び、彼我ともに「城」の字をこれにあてたのである。人名も同じで、沖縄には「大城」「金城」「真栄城」など「城」の付く姓が多くあるが、古くはすべて「おおぐすく」式だった。明治以降、何かと「本土」に合わせる流れが進む中で、読みも「本土なみ」になってきたものらしい。
 しかし地名は違う。今でも「豊見城」市は「とみぐすく」市であって「とみしろ」市ではない。ただ学校名だけが「とみしろ」とされた。そしてこの学校は県立高校である。

 琉大から那覇まで送ってくださるG先生の、最初の怒りがこの点にぶつけられた。
 「県庁の役人が」と先生がおっしゃる、その首謀者や「実行犯」がどのランクの役人か、定かでない。ただ、国や県外からの指示ではなくて、他ならぬ沖縄の行政担当者であることは間違いなく、それがG先生を余計に憤らせるのである。
 「人の名前がその人の人格そのものである如く、地名は土地の伝統と文化の象徴ですよ。それをさしたる理由もなしに変えるなどは言語道断だし、その理由というのが『本土式の読み方にあわせて』というのでは、いやはや・・・」
 那覇へ向かう高速道路上である。ハンドルを操るG先生が次第に激してくるので、僕は思わず膝のうえで拳を握った。
 同じことが、豊見城の「市」昇格にあたって起きかけた。2002年、豊見城(とみぐすく)村は町を経ずに市になった。変更前は日本一人口の多い「村」であったという。市制施行にあわせ、読みを「とみしろ」にしようという動きがあったらしい。G先生らは猛反対した。
 「私の在所は、豊見城(とみぐすく)村、字(あざ)豊見城(とみぐすく)だったんです。豊見城(とみしろ)市にするというなら、市は豊見城(とみしろ)で字は豊見城(とみぐすく)か、そんなバカな話があるか。それとも字まで豊見城(とみしろ)にするというのか、そんなこと絶対許さんと皆で運動したんです。」
 ふと、創氏改名を連想した。それがどれほど半島人を傷つけ怒らせたか、そのツケがどれほど今日に祟っているか、行政担当者は歴史から何も学んでいない。

 この種の「地名殺し」は沖縄に限らず、全国の至る所にある。そこでは住んでいる者、住んできた者の生活感情がないがしろにされ、理由になるとも思えない不可思議な秩序感覚が権力を笠に着てまかり通る。不潔恐怖に類する神経症的な強迫性のように思われる。
 念のために断っておくが、「とみぐすく」という読みが「不潔」だなどと言うのではない、不潔恐怖とは、不潔の存在しないところに不潔を見出す病的な心性のことだ。不潔は現実の側にではなく、不潔がる者の頭の中に存在している。「本土なみ」の読みをうえから押しつけようとする心性が不潔なのである。

 「とみぐすく」の名で球児らが活躍すれば、全国のファンがその読みを学んでいただろうに。

魁傑急逝

2014-05-19 08:36:50 | 日記
2014年5月19日(月)

 魁傑(カイケツ)が亡くなった。

 日本相撲協会の前理事長で、元大関魁傑、元放駒親方の西森輝門さんがゴルフ場で倒れ、急死した。優勝2回、理事長在任中は八百長問題に対処した。(朝日新聞1面)

 自分が相撲をいちばん熱心に見た時期に、ちょうど活躍していた懐かしい力士のひとりである。
 山口県出身。日大から花籠部屋というコースは横綱輪島と同じで、兄弟部屋にあたる二子山部屋の貴ノ花(貴乃花の父)と同時期に大関を張った。両部屋は両国界隈ならぬ中央線の阿佐ヶ谷にあったので、「阿佐ヶ谷勢」とか「阿佐ヶ谷トリオ」とか呼ばれたものだ。
 貴ノ花は水泳で鍛えた粘り腰、いっぽうの魁傑は柔道あがり。立ち合いに小気味よく突っ張り、左四つから投げ技のキレは柔道仕込みだったが、なかなか腰高が治らない難点もあった。相撲解説者の玉の海梅吉さんが、「カイケツは未カイケツだね」と洒落たのはその辺のことらしい。
 貴ノ花も魁傑と同じく優勝2回、1975年の春場所と夏場所である。その2度の場所で貴ノ花が魁傑に快勝した相撲を今も覚えている。寄ってからの上手出し投げと、出し投げで崩してからの寄り、確かそうだ。こういう覚え方は僕が貴ノ花びいきだったからだが、魁傑と貴ノ花の好敵手ぶりをあらわしてもいるだろう。
 魁傑の優勝は74年の九州場所と76年の秋場所、いずれも大関ではない時期のものである。貴ノ花同様、横綱にはなれなかったが、平幕まで落ちながら大関に復帰したのは驚異。もちろん空前、おそらく絶後、相撲史上の特筆事項だ。二度目に陥落してからもすぐに諦めることなく、最後まで誠実に良い相撲を取り続けた。左肘のケガがなければ横綱を狙えた器と言われる。
 名古屋時代の友人に大の魁傑ファンがあり、その理由のひとつが「星の貸し借りをしない」ということだった。八百長なし、常にガチンコのクリーンな力士で、だからファンも多かった。そんな人だからこそ後年理事長として八百長対策に辣腕を振るい得たのだろうが、さぞ大変だったに違いない。「在職1年5か月は歴代最短、しかし稀代の名理事長」と朝日のスポーツ面が讃えている。
 アンコ型ではなく、わりあいすらりとして健康状態も良さそうだったから、66歳での急逝はまことに意外、残念である。

*** 以下、朝日朝刊(スポーツ面)から ***

 八百長問題という大相撲の存亡の危機に、日本相撲協会の舵(かじ)を取り続けた、前理事長で元放駒親方の西森輝門さんが突然、逝ってしまった。

【放駒前理事長が死去 元大関魁傑 八百長問題に対処】
 この問題が発覚した2011年2月2日。放駒理事長は真っ先に事務方トップの主事を呼び、計算させた。「現金と換金可能な有価証券残高は、全部でいくらだ。何場所、中止できる?」。1年間中止しても協会は何とか存続できると聞いて、大相撲再生への道筋を、こう描いた。
 八百長の実態調査。調査終了まで、一切の本場所や巡業を中止。八百長に関与した力士を追放。番付を再編成するために本場所を無料開催。全て終えた後に通常開催――。
 だが、力士らの大量処分には、独特の「ムラ社会」に生きる親方衆や関取衆からの猛反発を受けた。理事会で「あんた」と呼ばれたこともあったという。無料開催した同年の夏場所では、一部の関取衆がボイコットを画策した。当時、口癖のように、こう漏らしていた。「私が、間違っとるのかねえ」
 こんな夢を見たよ、と苦笑したことも。「親方衆とゴルフに行く夢を見たんだがね、中からみんなの声がするのに、入り口が見つからず、私だけ入れないんだ。夢の中でも孤立しとるなあ」。でも、一度決めた方針は決して変えなかった。
 「冥利(みょうり)に尽きる」と目を潤ませたのは、八百長問題の解決から1年後。理事長職を下りた2カ月後の春だった。天皇、皇后両陛下主催の園遊会に招かれ、「陛下は(理事長時代の自分の判断を)認めてくれた」。その後、親方衆らの無理解を二度とボヤかなかった。
 「クリーン魁傑」と呼ばれた現役当時から、土俵も私生活も、清廉だった。暴力団観戦問題と野球賭博事件で武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)が辞任に追い込まれ、10年8月に協会役員から担ぎ出されて理事長に就任。直後の八百長問題に立ち向かい、協会の公益法人化への道筋をつけた。理事長在職1年5カ月は歴代最短。だが、大相撲を救った希代の名理事長だった。(抜井規泰)

うみどり会/美術文化展

2014-05-18 23:11:08 | 日記
2014年5月18日(日)

 久しぶりに呑気でヒマな週末なのに、何もする気が起きない。
 するはずのこと、読むはずの本などは、たくさんたくさん用意してあるのに・・・
 「鬱」だろうかと疑ってみたりするけれど、いつも通り食べ物は美味しく、眠りは深く、目に映る緑は美しい。こんな鬱など、もちろんありはしない。
 詮方なく無為に過ごし、ブログも書かずに怠けていた。怠けているから体が重いのか、体が重いから怠けているのか、よく分からない。

 昨日は、そう、「うみどり会」に出かけて碁を打ってきた。土曜はたいがい仕事が入るようになり、毎月一度の例会に出るのは一年ぶりのことだ。
 うみどり会は、海上自衛隊航空部隊の現役やOBの囲碁好きが集う小さなサークルで、そこに僕が参加することに政治的な背景は何もない。2013年2月に目黒区の勤労者囲碁大会に出たとき、緒戦であたったKさんがこの会のメンバーで、対局後に何だか話が弾んで「よかったらどうぞ」ということになったのだ。それにしても、僕以外の十数名はすべて海自航空関係者なのに、誰も何も不思議がらずに混ぜてくれるのが何とも面白い。
 最初の時に、「お医者さんですか、制服の(=自衛隊ないし防衛医大関係の)先生なの?」「いえ」というやりとりがあったぐらいだ。「父は陸軍士官学校卒ですので、どちらかというと陸自に近いんですが、不思議な御縁で」などという挨拶も特に何かの反応を呼ぶでもなく、要は飯の次に囲碁の好きな人々のそれだけの集まりである。
 例会は東郷記念館の一室で行われるので、こんなことでもなければ近づかない領域に、図らずも足を踏み入れた。東郷記念館とか東郷神社とか、どこにあるか知ってますか?
 原宿、なんだよ。
 どこかのネジが集団で外れたみたいな、年中仮装行列状態の竹下通りを50mほども進んで、とある角を左に入るとそこがもう東郷神社の入り口である。この落差はとてつもなく大きく、そのシフトがあまりにも容易に一瞬で実現することに、毎回ふしぎな感じがする。両者の間に、実は通底するものがありはしないかと思ったり。
 土曜午前の東郷神社ではたいがい神前結婚式が行われており、古楽器の音色が近づいてくると、道をよけて花嫁の行列が通り過ぎるのを待つ。回遊式の日本庭園を半周すれば「水行会」の入り口である。今日は4局、わりあいよく打てて気持ちが良かったが、石の連絡/切断に関する危機管理の悪さは相変わらずだ。これって、人生の何に対応するのだろう?

 原宿は明治神宮の最寄り駅で、そもそも日本人にとっては高度にスピリチュアルな意味をもつエリアである。明治神宮という空間の驚くべき広がりと深さについて、わが相棒がひどく感じ入った様子を見せたことがある。アメリカからの客を案内するために、彼女自身が初めて立ち入ったのだ。東京という巨大都市の構造には、江戸と明治の精神生活が見える形で刻まれている。

***

 今日は今日とて、NHK杯の中継をテレビで見たあと上野へ出かけた。
 碁ではない、東京都美術館で「美術文化展」をやっている。そこに名古屋の中学校時代の同級生が出展しているのを見に行くのだ。
 名古屋市立汐路中学校1971年度3年B組は、すごいクラスだった。入試選抜があるわけでもない、地域の公立中学校のひとつのクラスに、これほど個性的で能力の高い多彩な子ども達が集中した「偶然」は、今思い返しても不思議というほかない。
 勉強だけに話を絞っても、他のクラスにいれば当然トップの生徒が、クラス別の相対評価ではどうしても「4」しか付かず、受験期に内申書を書くにあたって担任の先生が頭を抱える騒ぎだった。それだけなら今時の進学校と変わらないが、その中に混じって別の生活背景や人生観をもつ友人たちの存在が、クラス風景を生き生き輝かせていた。
 トラック野郎を大勢抱えた運送会社の跡取り息子や、老舗と言いつつ少々怪しげな旅館の息子などは、当然僕らとは違うオーラを漂わせていた。クラスから医者が二人と歯医者が二人出たが、歯医者のうちの一人は20代から歯科医院経営に辣腕を振るい、今や名古屋界隈では知らぬ人もない医療法人チェーンのオーナーである。地域の特色を反映して、町工場や中小企業主の子どもも多かった。
 そしてこのクラスからは、プロのピアニストと画家も生まれた。画家になった女の子は千葉の田舎にアトリエを構え、毎年この展覧会に作品を出してくる。彼女が送ってくる招待券を手に上野に出かけていくのが、この季節の楽しみなのである。

 Fの作品は、どこにあっても一目で分かる。僕の身長ほどのカンバス2枚に、今年も色彩が炸裂している。赤、青、白、そして背景の深い黒、奔放鮮烈で、遠慮もなければ衒(てら)いもない。
 作品の意味とか解釈とか、僕には分からないし興味もない。ただ、火と水、光と闇が、整序されないまま迸(ほとばし)り錯綜し、弾けてあふれ出しているのを見る。うっかり i-pad をロッカーに預けてしまったので写真を載せられないが、そんな必要もないのだろう。生命賛歌と評して外れてはいまい、そういう絵だ。
 今年のタイトルは『明きら目半分』で、「あきらめはんぶん」に当て字の仕方が振るっている。こんな諧謔味のあるタイトリングは初めてのような気がするが、画面は40年近くもまったく変わっていない。フーテンの寅やこち亀に匹敵する堂々たるマネリズムだが、だから何なのだ?
 年を取って皺が寄ってもFは同じFであり、僕は同じ僕である。そのことを表すかのように、タイトルを変えカンバスを変えても彼女の絵はひとつである。これでいい、最高だ。
 奥まったところにあるガラス張りの休憩室で、外の緑に照らされてうたた寝した。ケヤキ・シイ・イチョウ、顔が緑に染まりそうになる。

 夕方からCMCCの理事会、その間に次男は学園祭、三男は野球部の試合に1イニングだけ途中出場を果たしていた。レフトで守備機会はなし、打席ではフルカウントからショートゴロ、今夜も嬉しそうにスパイクを磨いている。 

世祿侈富 車駕肥輕 ~ 千字文 065

2014-05-17 08:43:12 | 日記
2014年5月17日(土)

◯ 世祿侈富 車駕肥輕(セイロク・シフ シャカ・ヒケイ)

 代々、俸禄(と官位)を受けた者はおごり富み
 馬車、肥えた馬、軽い外套を持つ。

 肥輕は「肥馬軽裘(ヒバ・ケイキュウ)」の略、裘(キュウ)は皮衣、
 軽い皮のコートは富貴の証明だったわけだ。何の皮だろう?

 在所の顔役だった曾曾祖父(という言葉があるかな、父の曾祖父、あるいは曾祖父の父)について、冬には貂(てん)の襟巻きをしたという逸話が残っている。単に富貴ではない、ある種の豪傑肌の表現であったようだ。

 奢侈については李注が例によって往時の逸話を紹介しており、晋の武帝の叔父・王(オウガイ)が贅沢な人で「人の乳で肉を煮た」ことを記している。天子がそれを食して美味を喜び、王を重用して云々と。
 美味しいのかな、美味しいんだろうな。

 やれやれ、週末だ。
 沖縄のこと、忘れないうちに書いておこう。