2014年5月2日(金)
『アンコール』のじっくりとした後味が、一日余韻を響かせていた。
「イギリス映画」「音楽」「コンクール」といったキーワードで記憶の中から検索されたのは、『ブラス!』(1996年、原題 "Brassed Off")である。
地方予選を勝ち抜いてロンドンの本線に臨むというパターンが、イギリスのひとつの伝統になっているらしい。『ブラス!』のほうは、さびれゆく炭坑町を舞台として政治にも踏み込んだ部分があり、文句なく面白かった。
誰かさんがGW対策に借りてきた、大量のDVDを端から片づけている次第。玉石混淆とも言えるが、傾向も内容も適当にばらつき、特に制作された国(従って言語)が偏っていないの嬉しい。
***
『命をつなぐバイオリン』(2013、独)原題は"Wunderkinder"つまり「神童たち」。
「たち」というのはバイオリン少年のアブラーシャとピアノ少女のラリッサ、一対の天才児である。そして彼らはユダヤ人でもある。舞台は1941年、独ソ開戦直前のウクライナ、醸造工場の技師としてドイツから派遣されたライヒ一家の娘ハンナが、これまたバイオリンに夢中になっていることから彼らに近づいて親しくなり、そして戦争が始まる。
ウクライナの自然が美しく、挿入されたバイオリンとピアノの演奏はまさに wunderbar 、ドイツ語は聞き取りやすく思いのほか柔らかい。しかし設定から予想されるとおり、悲劇の進行は避ける余地もない。
大きな暴力が吹き抜けるとき、最も傷つくのは子どもであるけれど、癒しの奇跡を起こすのも子どもである。「子ども」のこうした二面性に未来を託す姿勢が、ここ数ヶ月あるいは数年に見た映画を貫く芯になっているようだ。『ペーパーバード』『サラの鍵』『スラムドッグ$ミリオネア』そして本作。
素晴らしい作品とは思うけれど、実は少々気に入らない。
全編の会話が一貫してドイツ語で進む。タイトルの「Wunderkinder」という言葉は、作品冒頭のウクライナでの演奏会でソ連の軍・共産党指導者が口にするのだが、語り手役のハンナが「そのとき初めてこの言葉を知った」と述懐しているあたり、いささか無理があって入っていきにくい。むろん、スピーチはロシア語で為されているはずなんだから。その後の子ども達の交流も、「本当は」何語で交わされているのかと要らぬ詮索をしてしまう。
しかしこれは些事であって・・・
気に入らないというのは肝心のクライマックスで、進駐ドイツ軍部隊の最高指揮官であるSS(親衛隊)の大佐が、「ヒムラー閣下(親衛隊長)の誕生日を祝うコンサートで神童たちが完璧な演奏をしたら、彼らの収容所送りを特に免除する」と言い出すところだ。本番では正面に陣取ったこの大佐が、子ども達のミスする瞬間を待ちつつ、音楽に耳を傾けるという悪魔的な光景が展開し、そして(予想通り)最も残酷な結果がその末に待っている。
この作為が、どうにも気に入らない。細工が過ぎるというのだ。これはやりすぎだ。
似たことを感じる人は必ずあるもので、「当然実話ではないので、少し迫力に欠ける部分がありますが」と書き起こし、しかし、「あれだけ人間の命を弄んだナチスですから、これくらいのことならやりかねなかっただろうなという気はしました」と結んでいる。
ここなのだ、問題は。
この映画は、見た者がそのように合理化することを期待して作られている。
「あのナチスであれば、こんなことも十分ありえたでしょうよ。」
ナチスは悪魔だから、どんな悪逆非道も想定可能だというのである。
それは違う。
ナチスもまた特定の人間の集合体であり、その悪魔性には一定の特徴と性向があったことを忘れたら、映画の基本作法としてのリアリズムが消し飛んでしまう。
***
ナチスの恐ろしさは、その意志と行動が人類史上ほかに例を見ないほど完璧に計画・統率され、最大の蛮行が最高の合理性と規律をもって遂行された点にある。
第二次大戦後まもない時期にイタリアへ留学した人から聞いたのだが、ナチスはそのようなものであったからこそ、個別の将兵による略奪や暴行はきわめて少なかったそうだ。解放者であるアメリカ軍の方が、その点ではずっとだらしなく迷惑であった。「ナチスなら何でもやりかねない」のではない、「ナチスだからこそ決してやらない」タイプの非道というものがある。
そしてSSの大佐が「ユダヤ人絶滅」の厳命を恣意的に歪め、「完璧に演奏できたら助命してやる」というトリッキーな注文をつける、これがいかにも「ナチスだからこそやりそうにない」ことに僕には思えるのだ。
個々のドイツ人がこの種のサディストだからナチスができあがったのではない。むしろ個々のメンバーは規則と命令に小市民的に忠実で、恣意的・個人的な逸脱を嫌う人々であった。そうしたクリーンな集団が総体として整然と蛮行を押し進めたところが、ナチスの恐ろしさなのである。くどいようだけれど、そうしたリアリズムを失うならば、どれほど感動的な運びであっても結局は作り話に落ちてしまうよ。
***
あるいは、こうも言えるかもしれない。
僕がここで感じる気に入らなさは、芥川の『地獄変』を読んで感じる不満に一脈通じている。
あの作品の主題を要約して、「芸術至上主義と世俗論理との対置」とする説を読んだことがある。芥川自身がそのように考えていたかどうか分からないが、仮にそうだとすればおかしな話だ。「芸のためには人をも焼こう」という画家の心根が倒錯であるなら、これを罰するために実の娘を焼かせようという企ても負けずに倒錯的で、いずれ劣らず常軌を逸した二人の変態が、愚かしさを競っているとしか見えないのである。
芸術至上主義の悲しい危うさを「図」として浮き彫りにするのなら、「地」はあくまで平凡な世間常識でなくてはならない。しかしどこの世間常識が、こんなことのために娘を生きながら焼かせるものか。こんな異常さと対比しては、絵師の外道ぶりがかえって霞んでしまう。まさしくその様を描くというなら、それはそれで良いのだけれど。
『神童たち』を後日ふりかえるとき、子ども達の痛ましくも愛くるしい交わりよりも、SS大佐の胸の悪くなるようなサディストぶりであったなら、この映画を見た意味はあらかた失われてしまう。そしておそらく、そうなってしまうだろうという予感がある。
だから気に入らない。そして残念なのである。
『サラの鍵』に及ばないところだ。
***
◯ 翌日の付記:
「言葉」の件は全編を通じて問題で、進駐してきたドイツ軍とウクライナの住民が、ドイツ語で流暢にやりとりするというあり得ない設定が、物語の全体をウソっぽくしてしまっている。
言葉の分厚い壁を、音楽が苦もなく乗り越える、というふうであってほしいし、実際そのはずなのだ。
スターリングラードの攻防戦を描いた白黒時代の映画を見たことがあったが、激戦のさなかのわずかな休戦時間、路上に放り出されたピアノをドイツ軍の将校が弾き歌い、ソ連軍の兵士たちまでが思わず耳を傾ける場面があった。
せっかくの話題作、制作者の姿勢に若干の安易さを見て惜しむ。
『アンコール』のじっくりとした後味が、一日余韻を響かせていた。
「イギリス映画」「音楽」「コンクール」といったキーワードで記憶の中から検索されたのは、『ブラス!』(1996年、原題 "Brassed Off")である。
地方予選を勝ち抜いてロンドンの本線に臨むというパターンが、イギリスのひとつの伝統になっているらしい。『ブラス!』のほうは、さびれゆく炭坑町を舞台として政治にも踏み込んだ部分があり、文句なく面白かった。
誰かさんがGW対策に借りてきた、大量のDVDを端から片づけている次第。玉石混淆とも言えるが、傾向も内容も適当にばらつき、特に制作された国(従って言語)が偏っていないの嬉しい。
***
『命をつなぐバイオリン』(2013、独)原題は"Wunderkinder"つまり「神童たち」。
「たち」というのはバイオリン少年のアブラーシャとピアノ少女のラリッサ、一対の天才児である。そして彼らはユダヤ人でもある。舞台は1941年、独ソ開戦直前のウクライナ、醸造工場の技師としてドイツから派遣されたライヒ一家の娘ハンナが、これまたバイオリンに夢中になっていることから彼らに近づいて親しくなり、そして戦争が始まる。
ウクライナの自然が美しく、挿入されたバイオリンとピアノの演奏はまさに wunderbar 、ドイツ語は聞き取りやすく思いのほか柔らかい。しかし設定から予想されるとおり、悲劇の進行は避ける余地もない。
大きな暴力が吹き抜けるとき、最も傷つくのは子どもであるけれど、癒しの奇跡を起こすのも子どもである。「子ども」のこうした二面性に未来を託す姿勢が、ここ数ヶ月あるいは数年に見た映画を貫く芯になっているようだ。『ペーパーバード』『サラの鍵』『スラムドッグ$ミリオネア』そして本作。
素晴らしい作品とは思うけれど、実は少々気に入らない。
全編の会話が一貫してドイツ語で進む。タイトルの「Wunderkinder」という言葉は、作品冒頭のウクライナでの演奏会でソ連の軍・共産党指導者が口にするのだが、語り手役のハンナが「そのとき初めてこの言葉を知った」と述懐しているあたり、いささか無理があって入っていきにくい。むろん、スピーチはロシア語で為されているはずなんだから。その後の子ども達の交流も、「本当は」何語で交わされているのかと要らぬ詮索をしてしまう。
しかしこれは些事であって・・・
気に入らないというのは肝心のクライマックスで、進駐ドイツ軍部隊の最高指揮官であるSS(親衛隊)の大佐が、「ヒムラー閣下(親衛隊長)の誕生日を祝うコンサートで神童たちが完璧な演奏をしたら、彼らの収容所送りを特に免除する」と言い出すところだ。本番では正面に陣取ったこの大佐が、子ども達のミスする瞬間を待ちつつ、音楽に耳を傾けるという悪魔的な光景が展開し、そして(予想通り)最も残酷な結果がその末に待っている。
この作為が、どうにも気に入らない。細工が過ぎるというのだ。これはやりすぎだ。
似たことを感じる人は必ずあるもので、「当然実話ではないので、少し迫力に欠ける部分がありますが」と書き起こし、しかし、「あれだけ人間の命を弄んだナチスですから、これくらいのことならやりかねなかっただろうなという気はしました」と結んでいる。
ここなのだ、問題は。
この映画は、見た者がそのように合理化することを期待して作られている。
「あのナチスであれば、こんなことも十分ありえたでしょうよ。」
ナチスは悪魔だから、どんな悪逆非道も想定可能だというのである。
それは違う。
ナチスもまた特定の人間の集合体であり、その悪魔性には一定の特徴と性向があったことを忘れたら、映画の基本作法としてのリアリズムが消し飛んでしまう。
***
ナチスの恐ろしさは、その意志と行動が人類史上ほかに例を見ないほど完璧に計画・統率され、最大の蛮行が最高の合理性と規律をもって遂行された点にある。
第二次大戦後まもない時期にイタリアへ留学した人から聞いたのだが、ナチスはそのようなものであったからこそ、個別の将兵による略奪や暴行はきわめて少なかったそうだ。解放者であるアメリカ軍の方が、その点ではずっとだらしなく迷惑であった。「ナチスなら何でもやりかねない」のではない、「ナチスだからこそ決してやらない」タイプの非道というものがある。
そしてSSの大佐が「ユダヤ人絶滅」の厳命を恣意的に歪め、「完璧に演奏できたら助命してやる」というトリッキーな注文をつける、これがいかにも「ナチスだからこそやりそうにない」ことに僕には思えるのだ。
個々のドイツ人がこの種のサディストだからナチスができあがったのではない。むしろ個々のメンバーは規則と命令に小市民的に忠実で、恣意的・個人的な逸脱を嫌う人々であった。そうしたクリーンな集団が総体として整然と蛮行を押し進めたところが、ナチスの恐ろしさなのである。くどいようだけれど、そうしたリアリズムを失うならば、どれほど感動的な運びであっても結局は作り話に落ちてしまうよ。
***
あるいは、こうも言えるかもしれない。
僕がここで感じる気に入らなさは、芥川の『地獄変』を読んで感じる不満に一脈通じている。
あの作品の主題を要約して、「芸術至上主義と世俗論理との対置」とする説を読んだことがある。芥川自身がそのように考えていたかどうか分からないが、仮にそうだとすればおかしな話だ。「芸のためには人をも焼こう」という画家の心根が倒錯であるなら、これを罰するために実の娘を焼かせようという企ても負けずに倒錯的で、いずれ劣らず常軌を逸した二人の変態が、愚かしさを競っているとしか見えないのである。
芸術至上主義の悲しい危うさを「図」として浮き彫りにするのなら、「地」はあくまで平凡な世間常識でなくてはならない。しかしどこの世間常識が、こんなことのために娘を生きながら焼かせるものか。こんな異常さと対比しては、絵師の外道ぶりがかえって霞んでしまう。まさしくその様を描くというなら、それはそれで良いのだけれど。
『神童たち』を後日ふりかえるとき、子ども達の痛ましくも愛くるしい交わりよりも、SS大佐の胸の悪くなるようなサディストぶりであったなら、この映画を見た意味はあらかた失われてしまう。そしておそらく、そうなってしまうだろうという予感がある。
だから気に入らない。そして残念なのである。
『サラの鍵』に及ばないところだ。
***
◯ 翌日の付記:
「言葉」の件は全編を通じて問題で、進駐してきたドイツ軍とウクライナの住民が、ドイツ語で流暢にやりとりするというあり得ない設定が、物語の全体をウソっぽくしてしまっている。
言葉の分厚い壁を、音楽が苦もなく乗り越える、というふうであってほしいし、実際そのはずなのだ。
スターリングラードの攻防戦を描いた白黒時代の映画を見たことがあったが、激戦のさなかのわずかな休戦時間、路上に放り出されたピアノをドイツ軍の将校が弾き歌い、ソ連軍の兵士たちまでが思わず耳を傾ける場面があった。
せっかくの話題作、制作者の姿勢に若干の安易さを見て惜しむ。