散日拾遺

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魁傑急逝

2014-05-19 08:36:50 | 日記
2014年5月19日(月)

 魁傑(カイケツ)が亡くなった。

 日本相撲協会の前理事長で、元大関魁傑、元放駒親方の西森輝門さんがゴルフ場で倒れ、急死した。優勝2回、理事長在任中は八百長問題に対処した。(朝日新聞1面)

 自分が相撲をいちばん熱心に見た時期に、ちょうど活躍していた懐かしい力士のひとりである。
 山口県出身。日大から花籠部屋というコースは横綱輪島と同じで、兄弟部屋にあたる二子山部屋の貴ノ花(貴乃花の父)と同時期に大関を張った。両部屋は両国界隈ならぬ中央線の阿佐ヶ谷にあったので、「阿佐ヶ谷勢」とか「阿佐ヶ谷トリオ」とか呼ばれたものだ。
 貴ノ花は水泳で鍛えた粘り腰、いっぽうの魁傑は柔道あがり。立ち合いに小気味よく突っ張り、左四つから投げ技のキレは柔道仕込みだったが、なかなか腰高が治らない難点もあった。相撲解説者の玉の海梅吉さんが、「カイケツは未カイケツだね」と洒落たのはその辺のことらしい。
 貴ノ花も魁傑と同じく優勝2回、1975年の春場所と夏場所である。その2度の場所で貴ノ花が魁傑に快勝した相撲を今も覚えている。寄ってからの上手出し投げと、出し投げで崩してからの寄り、確かそうだ。こういう覚え方は僕が貴ノ花びいきだったからだが、魁傑と貴ノ花の好敵手ぶりをあらわしてもいるだろう。
 魁傑の優勝は74年の九州場所と76年の秋場所、いずれも大関ではない時期のものである。貴ノ花同様、横綱にはなれなかったが、平幕まで落ちながら大関に復帰したのは驚異。もちろん空前、おそらく絶後、相撲史上の特筆事項だ。二度目に陥落してからもすぐに諦めることなく、最後まで誠実に良い相撲を取り続けた。左肘のケガがなければ横綱を狙えた器と言われる。
 名古屋時代の友人に大の魁傑ファンがあり、その理由のひとつが「星の貸し借りをしない」ということだった。八百長なし、常にガチンコのクリーンな力士で、だからファンも多かった。そんな人だからこそ後年理事長として八百長対策に辣腕を振るい得たのだろうが、さぞ大変だったに違いない。「在職1年5か月は歴代最短、しかし稀代の名理事長」と朝日のスポーツ面が讃えている。
 アンコ型ではなく、わりあいすらりとして健康状態も良さそうだったから、66歳での急逝はまことに意外、残念である。

*** 以下、朝日朝刊(スポーツ面)から ***

 八百長問題という大相撲の存亡の危機に、日本相撲協会の舵(かじ)を取り続けた、前理事長で元放駒親方の西森輝門さんが突然、逝ってしまった。

【放駒前理事長が死去 元大関魁傑 八百長問題に対処】
 この問題が発覚した2011年2月2日。放駒理事長は真っ先に事務方トップの主事を呼び、計算させた。「現金と換金可能な有価証券残高は、全部でいくらだ。何場所、中止できる?」。1年間中止しても協会は何とか存続できると聞いて、大相撲再生への道筋を、こう描いた。
 八百長の実態調査。調査終了まで、一切の本場所や巡業を中止。八百長に関与した力士を追放。番付を再編成するために本場所を無料開催。全て終えた後に通常開催――。
 だが、力士らの大量処分には、独特の「ムラ社会」に生きる親方衆や関取衆からの猛反発を受けた。理事会で「あんた」と呼ばれたこともあったという。無料開催した同年の夏場所では、一部の関取衆がボイコットを画策した。当時、口癖のように、こう漏らしていた。「私が、間違っとるのかねえ」
 こんな夢を見たよ、と苦笑したことも。「親方衆とゴルフに行く夢を見たんだがね、中からみんなの声がするのに、入り口が見つからず、私だけ入れないんだ。夢の中でも孤立しとるなあ」。でも、一度決めた方針は決して変えなかった。
 「冥利(みょうり)に尽きる」と目を潤ませたのは、八百長問題の解決から1年後。理事長職を下りた2カ月後の春だった。天皇、皇后両陛下主催の園遊会に招かれ、「陛下は(理事長時代の自分の判断を)認めてくれた」。その後、親方衆らの無理解を二度とボヤかなかった。
 「クリーン魁傑」と呼ばれた現役当時から、土俵も私生活も、清廉だった。暴力団観戦問題と野球賭博事件で武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)が辞任に追い込まれ、10年8月に協会役員から担ぎ出されて理事長に就任。直後の八百長問題に立ち向かい、協会の公益法人化への道筋をつけた。理事長在職1年5カ月は歴代最短。だが、大相撲を救った希代の名理事長だった。(抜井規泰)

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