散日拾遺

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沖縄補遺 ① ~ 豊見城(とみしろ)と豊見城(とみぐすく)

2014-05-19 10:28:19 | 日記
2014年5月19日(月)

 「ウチナーのイユー」って、な~んだ?
 琉球語で「沖縄の魚」ってことだ。
 まるで外国語みたい?そんなことないよ。
 ウチナーの「ウチ」は、「うち/そと」の「うち」と同根なんだろうし、今時の若い子が先祖返りしたみたいに「うちら」などと言うのと変わらない。
 「魚」の字は今でこそ「さかな」の読みが主流になったが、もともと「うお(うを)」読みが本則で、より古い。かつ、昔は「いを」とも称したことも、よく知られている。
 「さかな」は本来「肴/酒菜」のことで、酒のアテとして魚が用いられるうちに「うお」と等置されるようになったのだ。
 そうして見れば、「ウチナーのイユー」すなわち「当地の魚」であること、至ってしっくりくるし、日本の古語との親近性すら見えてくる。

 方言と古語の近似はよくあることで、たとえばわが郷里の伊予弁で高齢者が「~できない」という意味で「ええせん」などと言うのは、古語の「え ~ せじ」そのものである。中心部で言葉の変容が進み、周辺地域のいわゆる「方言」に古形が保存される現象には、実は必然的な理由がある。考えればわかることである。

 だからといって、「琉球語は古語をよく保存した日本語の一方言である」とは言えない。決してそうではない。

***

 「豊見城」は何と読むか?

 僕の年代の者は、甲子園での豊見城高校の活躍ですっかり「とみしろ」に馴染んでいるが、本来は「とみぐすく」が正しい。
 琉球語では「城」を「ぐすく」と読むこと、子どもの頃に地図を見ていて気づいた。読むと言うより、僕らが「しろ」と呼ぶものを彼らは「ぐすく」と呼び、彼我ともに「城」の字をこれにあてたのである。人名も同じで、沖縄には「大城」「金城」「真栄城」など「城」の付く姓が多くあるが、古くはすべて「おおぐすく」式だった。明治以降、何かと「本土」に合わせる流れが進む中で、読みも「本土なみ」になってきたものらしい。
 しかし地名は違う。今でも「豊見城」市は「とみぐすく」市であって「とみしろ」市ではない。ただ学校名だけが「とみしろ」とされた。そしてこの学校は県立高校である。

 琉大から那覇まで送ってくださるG先生の、最初の怒りがこの点にぶつけられた。
 「県庁の役人が」と先生がおっしゃる、その首謀者や「実行犯」がどのランクの役人か、定かでない。ただ、国や県外からの指示ではなくて、他ならぬ沖縄の行政担当者であることは間違いなく、それがG先生を余計に憤らせるのである。
 「人の名前がその人の人格そのものである如く、地名は土地の伝統と文化の象徴ですよ。それをさしたる理由もなしに変えるなどは言語道断だし、その理由というのが『本土式の読み方にあわせて』というのでは、いやはや・・・」
 那覇へ向かう高速道路上である。ハンドルを操るG先生が次第に激してくるので、僕は思わず膝のうえで拳を握った。
 同じことが、豊見城の「市」昇格にあたって起きかけた。2002年、豊見城(とみぐすく)村は町を経ずに市になった。変更前は日本一人口の多い「村」であったという。市制施行にあわせ、読みを「とみしろ」にしようという動きがあったらしい。G先生らは猛反対した。
 「私の在所は、豊見城(とみぐすく)村、字(あざ)豊見城(とみぐすく)だったんです。豊見城(とみしろ)市にするというなら、市は豊見城(とみしろ)で字は豊見城(とみぐすく)か、そんなバカな話があるか。それとも字まで豊見城(とみしろ)にするというのか、そんなこと絶対許さんと皆で運動したんです。」
 ふと、創氏改名を連想した。それがどれほど半島人を傷つけ怒らせたか、そのツケがどれほど今日に祟っているか、行政担当者は歴史から何も学んでいない。

 この種の「地名殺し」は沖縄に限らず、全国の至る所にある。そこでは住んでいる者、住んできた者の生活感情がないがしろにされ、理由になるとも思えない不可思議な秩序感覚が権力を笠に着てまかり通る。不潔恐怖に類する神経症的な強迫性のように思われる。
 念のために断っておくが、「とみぐすく」という読みが「不潔」だなどと言うのではない、不潔恐怖とは、不潔の存在しないところに不潔を見出す病的な心性のことだ。不潔は現実の側にではなく、不潔がる者の頭の中に存在している。「本土なみ」の読みをうえから押しつけようとする心性が不潔なのである。

 「とみぐすく」の名で球児らが活躍すれば、全国のファンがその読みを学んでいただろうに。

魁傑急逝

2014-05-19 08:36:50 | 日記
2014年5月19日(月)

 魁傑(カイケツ)が亡くなった。

 日本相撲協会の前理事長で、元大関魁傑、元放駒親方の西森輝門さんがゴルフ場で倒れ、急死した。優勝2回、理事長在任中は八百長問題に対処した。(朝日新聞1面)

 自分が相撲をいちばん熱心に見た時期に、ちょうど活躍していた懐かしい力士のひとりである。
 山口県出身。日大から花籠部屋というコースは横綱輪島と同じで、兄弟部屋にあたる二子山部屋の貴ノ花(貴乃花の父)と同時期に大関を張った。両部屋は両国界隈ならぬ中央線の阿佐ヶ谷にあったので、「阿佐ヶ谷勢」とか「阿佐ヶ谷トリオ」とか呼ばれたものだ。
 貴ノ花は水泳で鍛えた粘り腰、いっぽうの魁傑は柔道あがり。立ち合いに小気味よく突っ張り、左四つから投げ技のキレは柔道仕込みだったが、なかなか腰高が治らない難点もあった。相撲解説者の玉の海梅吉さんが、「カイケツは未カイケツだね」と洒落たのはその辺のことらしい。
 貴ノ花も魁傑と同じく優勝2回、1975年の春場所と夏場所である。その2度の場所で貴ノ花が魁傑に快勝した相撲を今も覚えている。寄ってからの上手出し投げと、出し投げで崩してからの寄り、確かそうだ。こういう覚え方は僕が貴ノ花びいきだったからだが、魁傑と貴ノ花の好敵手ぶりをあらわしてもいるだろう。
 魁傑の優勝は74年の九州場所と76年の秋場所、いずれも大関ではない時期のものである。貴ノ花同様、横綱にはなれなかったが、平幕まで落ちながら大関に復帰したのは驚異。もちろん空前、おそらく絶後、相撲史上の特筆事項だ。二度目に陥落してからもすぐに諦めることなく、最後まで誠実に良い相撲を取り続けた。左肘のケガがなければ横綱を狙えた器と言われる。
 名古屋時代の友人に大の魁傑ファンがあり、その理由のひとつが「星の貸し借りをしない」ということだった。八百長なし、常にガチンコのクリーンな力士で、だからファンも多かった。そんな人だからこそ後年理事長として八百長対策に辣腕を振るい得たのだろうが、さぞ大変だったに違いない。「在職1年5か月は歴代最短、しかし稀代の名理事長」と朝日のスポーツ面が讃えている。
 アンコ型ではなく、わりあいすらりとして健康状態も良さそうだったから、66歳での急逝はまことに意外、残念である。

*** 以下、朝日朝刊(スポーツ面)から ***

 八百長問題という大相撲の存亡の危機に、日本相撲協会の舵(かじ)を取り続けた、前理事長で元放駒親方の西森輝門さんが突然、逝ってしまった。

【放駒前理事長が死去 元大関魁傑 八百長問題に対処】
 この問題が発覚した2011年2月2日。放駒理事長は真っ先に事務方トップの主事を呼び、計算させた。「現金と換金可能な有価証券残高は、全部でいくらだ。何場所、中止できる?」。1年間中止しても協会は何とか存続できると聞いて、大相撲再生への道筋を、こう描いた。
 八百長の実態調査。調査終了まで、一切の本場所や巡業を中止。八百長に関与した力士を追放。番付を再編成するために本場所を無料開催。全て終えた後に通常開催――。
 だが、力士らの大量処分には、独特の「ムラ社会」に生きる親方衆や関取衆からの猛反発を受けた。理事会で「あんた」と呼ばれたこともあったという。無料開催した同年の夏場所では、一部の関取衆がボイコットを画策した。当時、口癖のように、こう漏らしていた。「私が、間違っとるのかねえ」
 こんな夢を見たよ、と苦笑したことも。「親方衆とゴルフに行く夢を見たんだがね、中からみんなの声がするのに、入り口が見つからず、私だけ入れないんだ。夢の中でも孤立しとるなあ」。でも、一度決めた方針は決して変えなかった。
 「冥利(みょうり)に尽きる」と目を潤ませたのは、八百長問題の解決から1年後。理事長職を下りた2カ月後の春だった。天皇、皇后両陛下主催の園遊会に招かれ、「陛下は(理事長時代の自分の判断を)認めてくれた」。その後、親方衆らの無理解を二度とボヤかなかった。
 「クリーン魁傑」と呼ばれた現役当時から、土俵も私生活も、清廉だった。暴力団観戦問題と野球賭博事件で武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)が辞任に追い込まれ、10年8月に協会役員から担ぎ出されて理事長に就任。直後の八百長問題に立ち向かい、協会の公益法人化への道筋をつけた。理事長在職1年5カ月は歴代最短。だが、大相撲を救った希代の名理事長だった。(抜井規泰)