2014年5月25日(日)
やっと首里城の話。
モノレールから見た城の美しさ、大海に挨拶を送るかのような優雅な佇まいは既に書いた。
12日(月)に半休とってつきあってくれた教え子のNさんと、2時間ばかり散策したのである。
ひとつの大きな収穫が、散策前にレストセンターの一画で見た映像資料。15分かそこらのものだが、琉球の歴史を要領よくまとめ、非常にわかりやすい。
帰京後に聞けば、放送大学のO先生も少し前に同じ資料を見て同じように感心し、そして後で記すのとほぼ同じ考えを御自身のうちに確認なさったとのこと。
資料は特に奇を衒ったものではなく、基本は琉球王朝の歴史を事実に即してたどるだけのものである。
大きなところを点描していけば・・・
【為朝伝説】
琉球王朝の始祖・舜天は、実は鎮西八郎為朝であるとする伝説がある。為朝は強弓を操る無双のツワモノで、保元の乱の際に戦闘では無敵だったが所属する院方が敗れ、兄・義朝に下った。父為義ら大多数が斬られる中、為朝だけは武勇を惜しまれ、肘の筋を切って(肘の関節を外してとも)伊豆に流された。そこでおとなしくしているはずはなく、傷が癒えるとともに暴れ出して伊豆と伊豆七島を制圧したが、最後は討手に追い詰められ、本邦初の切腹を遂げたとされる。
並外れた英雄ゆえ、伊豆から琉球へ落ち延びたとの伝説が生まれたのだろうが、「義経・チンギスハン説」と同じく願望投影型の夢物語であろう。貴種流離譚の一型でもある。この種の心理は実に普遍的で、日本人ばかりが別して「ありがたがり」というわけではない。ローマ建国の祖は、木馬戦争でギリシア連合軍に滅ぼされたトロイア王家の遺臣だとする『アエネイス』などもある。鄭成功は『国性爺合戦』に謳われ、これはまだしも史実を踏まえている。為朝・琉球王説は曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだが、史実とするには無理がある。
ところが、琉球ではこれが正史のうちに扱われたとあるのが意味深長なところで(Wiki 情報だから要確認だが)、当然ながら日琉同祖論との関連で語られ、1922(大正11)念には為朝上陸の碑なるものが建てられた(!)。その設立に尽力したのが、東郷平八郎だというのも考えさせられる。
【第一・第二尚氏王統】
それはさておき、映像資料が12世紀末から語り始めているのは、上記の舜天を意識するからだろう。ただ、この時期には統一政権といえるものがなく、地方豪族の勢力争いが続いた末、1429年、尚巴志王(しょう・はしおう)の三山統一(北山・中山・南山に分かれていた沖縄本島の統一)によって第一尚氏王朝が成立する。
この王朝の実権はまだ弱くて地方首長(按司)の対立による内乱が絶えず、まもなく瓦解。1462年に重臣の金丸が前王の薨去に伴って王位につき、第二尚氏王朝の開祖となる。実質的な王位の簒奪と言えそうだが、後漢を乗っ取った曹操が国号を「晋」と改めたのとは違って、金丸こと尚円王は体裁を何も変えずにただ自分がそこに収まった。なので形の上では同じ「尚」王朝であり、これが明治まで続く。高橋尚子の名前が沖縄と縁が深いと言ったのはこのことで、琉球王朝は最初から最後まで皆「尚」を名乗ったことになる。
金丸が尚姓をそのまま踏襲した理由 ~ ひとつではなかったかもしれないが少なくともその大きなもの ~ が面白い。
琉球は1392年の久米三十六姓(閩人三十六姓)渡来に見られるとおり中国との往来が盛んであり、尚氏王統が成立すると同時に明の冊封体制に組み込まれた。琉球側の王統交代を明らかにすれば、宗主である明の朝廷にこれを正式に報告し、新王統の正統性を立証してあらためて冊封を受けねばならない。どうやら金丸はこの煩を嫌ったらしいのである。同姓を用いることで従来の王統との連続性を装い、王の交代に伴う通常手続きで済ませたというわけだ。
中華思想に基づく朝貢関係はたぶんに象徴的なもので、本末のケジメが保たれる限り中国歴代王朝の「東夷」に対する態度は至って鷹揚なものであった。(今の中国とは大違いだ。)金丸こと尚円王のこのあたりの身の処し方は、今日の我々が役所の手続きの煩を避けようとあれこれ工夫するのに似て、少々ユーモラスである。
【対中関係と島津侵攻】
上の経緯からもわかる通り、400年以上にわたる第一・第二尚氏王統の全体を通して、琉球にとっての外交の正面は常に中国(明・清)であった。王の交代に際して冊封使を迎える儀式はそれは盛大なもので、首里城の広い中庭やこれをとりまく建造物は、半年にも及ぶという冊封使節団接待の舞台として設計されていた。
もうひとつ注意したいのは、中国への朝貢を軸とする当時の国際関係の中で、琉球は日本や李氏朝鮮と同等並列の立場にあるということだ。ただし足利幕府がこれに甘んじて実利を取ったのに対し、織田・豊臣以降の日本人は意識において中国を宗主国とは認めなくなっていた。朝貢関係の枠をいったん破るなら琉球をアプリオリに「対等並列」とみなす理由はなく、とりわけ実力による秩序再編成を経験したばかりの日本の地方勢力にとって、琉球は「草刈り場」以外の何物でもなかった。
1609年、薩摩の島津氏は3000名の兵でまず奄美大島(当時は琉球の領土)、ついで沖縄本島に侵攻。琉球側は4000名の兵士を集めて対抗したが、野戦の戦闘力には開きがあったであろう、しかも精強で鳴る島津勢に圧倒され、一か月かそこらで首里城開城に至る。以来、琉球王国は薩摩藩の「付庸国」とされて薩摩藩への貢納を義務づけられたうえ、江戸上りで江戸幕府にも使節を派遣することを強いられた。いっぽうでは明、ついで清への朝貢も続いたから、薩摩藩と清への両属を強いられたことになる。
島津氏は琉球侵攻にあたって、徳川幕府の許可を得ている。つまり幕府もまた琉球を潜在的な領土とみなしたことになる。ついでながらその250年後、ペリー一行が浦賀の後で沖縄にも来航し、1854年には琉米修好条約を締結した。この時ペリーは、琉球が武力で抵抗した場合には攻撃・占領する許可をフィルモア大統領から与えられていたというから、黒い笑いを禁じ得ない。島津もペリーも琉球を侵略の対象とみなし、それぞれの上位権限者に「許可」を得ていた点でまさしく同じ穴のムジナである。自分のものでないものは、他人に与えることなどできないというのが、健康人の普通の判断であるけれど。
***
どんどん話が長くなるので、何とかまとめたい。
琉球は冊封体制という国際秩序の中では日本や朝鮮と対等な立場にあったもので、その外交の正面は常に中国を向いていた。それを、江戸幕府の後ろ盾をもつ島津が横合いから軍事介入し、暴力的に属国にした。以上、要約。
島津の後継者が明治政府である。廃藩置県に際して清国との冊封関係を断ち、排他的に日本に属するよう琉球王に迫った。しかし琉球側が従わなかったため、1879年に警官や兵を含む600名を派遣し、威圧しつつ廃藩置県を通達した。県令の赴任に伴い、琉球王統は廃絶された。この一連の事件を「琉球処分」と呼ぶ。「処分」である。
念のために書いておくが、だから冊封体制が良かったとか、「沖縄はそもそも中国領である」という中国の右翼の主張が正しいとかいうのではない。
島津侵攻から琉球処分まで、琉球人自身の判断や選択が尊重されたことは一度もなかった。それは単なる時代の制約だろうか。「沖縄返還」においても同じではなかったか。それを問うのだ。
沖縄という領土がアメリカから日本に返還されるという構図の中で、沖縄は常に客体としてモノのようにやりとりされてきた。大げさに言えば、琉球の人々の主体性が適切かつ十分に配慮されたことが、歴史上ただの一度もなかったとすら見える。それが日本人として恥ずかしく情けないのである。
廃藩置県後の琉球人は、良き日本人/沖縄県人たらんとして健気なほどの努力と従順を示したが、それは第二次大戦末期のあの地獄の体験によって皮肉な報いを受けた。沖縄県民の頭越しに「返還」された現在も、基地の重圧を日本国民全体の利益のために忍んでいる。沖縄出身だからというのでいじめられた、差別されたという話は聞いても、出身ゆえに厚遇された話は寡聞にして知らない。
「沖縄県民かく戦えり、県民に対して後世特別のご高配を賜らんことを」
対戦末期に自決した田中実海軍中将の遺言である。
どこに高配があるか、どこに感謝が、ねぎらいがあるか。
やっと首里城の話。
モノレールから見た城の美しさ、大海に挨拶を送るかのような優雅な佇まいは既に書いた。
12日(月)に半休とってつきあってくれた教え子のNさんと、2時間ばかり散策したのである。
ひとつの大きな収穫が、散策前にレストセンターの一画で見た映像資料。15分かそこらのものだが、琉球の歴史を要領よくまとめ、非常にわかりやすい。
帰京後に聞けば、放送大学のO先生も少し前に同じ資料を見て同じように感心し、そして後で記すのとほぼ同じ考えを御自身のうちに確認なさったとのこと。
資料は特に奇を衒ったものではなく、基本は琉球王朝の歴史を事実に即してたどるだけのものである。
大きなところを点描していけば・・・
【為朝伝説】
琉球王朝の始祖・舜天は、実は鎮西八郎為朝であるとする伝説がある。為朝は強弓を操る無双のツワモノで、保元の乱の際に戦闘では無敵だったが所属する院方が敗れ、兄・義朝に下った。父為義ら大多数が斬られる中、為朝だけは武勇を惜しまれ、肘の筋を切って(肘の関節を外してとも)伊豆に流された。そこでおとなしくしているはずはなく、傷が癒えるとともに暴れ出して伊豆と伊豆七島を制圧したが、最後は討手に追い詰められ、本邦初の切腹を遂げたとされる。
並外れた英雄ゆえ、伊豆から琉球へ落ち延びたとの伝説が生まれたのだろうが、「義経・チンギスハン説」と同じく願望投影型の夢物語であろう。貴種流離譚の一型でもある。この種の心理は実に普遍的で、日本人ばかりが別して「ありがたがり」というわけではない。ローマ建国の祖は、木馬戦争でギリシア連合軍に滅ぼされたトロイア王家の遺臣だとする『アエネイス』などもある。鄭成功は『国性爺合戦』に謳われ、これはまだしも史実を踏まえている。為朝・琉球王説は曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだが、史実とするには無理がある。
ところが、琉球ではこれが正史のうちに扱われたとあるのが意味深長なところで(Wiki 情報だから要確認だが)、当然ながら日琉同祖論との関連で語られ、1922(大正11)念には為朝上陸の碑なるものが建てられた(!)。その設立に尽力したのが、東郷平八郎だというのも考えさせられる。
【第一・第二尚氏王統】
それはさておき、映像資料が12世紀末から語り始めているのは、上記の舜天を意識するからだろう。ただ、この時期には統一政権といえるものがなく、地方豪族の勢力争いが続いた末、1429年、尚巴志王(しょう・はしおう)の三山統一(北山・中山・南山に分かれていた沖縄本島の統一)によって第一尚氏王朝が成立する。
この王朝の実権はまだ弱くて地方首長(按司)の対立による内乱が絶えず、まもなく瓦解。1462年に重臣の金丸が前王の薨去に伴って王位につき、第二尚氏王朝の開祖となる。実質的な王位の簒奪と言えそうだが、後漢を乗っ取った曹操が国号を「晋」と改めたのとは違って、金丸こと尚円王は体裁を何も変えずにただ自分がそこに収まった。なので形の上では同じ「尚」王朝であり、これが明治まで続く。高橋尚子の名前が沖縄と縁が深いと言ったのはこのことで、琉球王朝は最初から最後まで皆「尚」を名乗ったことになる。
金丸が尚姓をそのまま踏襲した理由 ~ ひとつではなかったかもしれないが少なくともその大きなもの ~ が面白い。
琉球は1392年の久米三十六姓(閩人三十六姓)渡来に見られるとおり中国との往来が盛んであり、尚氏王統が成立すると同時に明の冊封体制に組み込まれた。琉球側の王統交代を明らかにすれば、宗主である明の朝廷にこれを正式に報告し、新王統の正統性を立証してあらためて冊封を受けねばならない。どうやら金丸はこの煩を嫌ったらしいのである。同姓を用いることで従来の王統との連続性を装い、王の交代に伴う通常手続きで済ませたというわけだ。
中華思想に基づく朝貢関係はたぶんに象徴的なもので、本末のケジメが保たれる限り中国歴代王朝の「東夷」に対する態度は至って鷹揚なものであった。(今の中国とは大違いだ。)金丸こと尚円王のこのあたりの身の処し方は、今日の我々が役所の手続きの煩を避けようとあれこれ工夫するのに似て、少々ユーモラスである。
【対中関係と島津侵攻】
上の経緯からもわかる通り、400年以上にわたる第一・第二尚氏王統の全体を通して、琉球にとっての外交の正面は常に中国(明・清)であった。王の交代に際して冊封使を迎える儀式はそれは盛大なもので、首里城の広い中庭やこれをとりまく建造物は、半年にも及ぶという冊封使節団接待の舞台として設計されていた。
もうひとつ注意したいのは、中国への朝貢を軸とする当時の国際関係の中で、琉球は日本や李氏朝鮮と同等並列の立場にあるということだ。ただし足利幕府がこれに甘んじて実利を取ったのに対し、織田・豊臣以降の日本人は意識において中国を宗主国とは認めなくなっていた。朝貢関係の枠をいったん破るなら琉球をアプリオリに「対等並列」とみなす理由はなく、とりわけ実力による秩序再編成を経験したばかりの日本の地方勢力にとって、琉球は「草刈り場」以外の何物でもなかった。
1609年、薩摩の島津氏は3000名の兵でまず奄美大島(当時は琉球の領土)、ついで沖縄本島に侵攻。琉球側は4000名の兵士を集めて対抗したが、野戦の戦闘力には開きがあったであろう、しかも精強で鳴る島津勢に圧倒され、一か月かそこらで首里城開城に至る。以来、琉球王国は薩摩藩の「付庸国」とされて薩摩藩への貢納を義務づけられたうえ、江戸上りで江戸幕府にも使節を派遣することを強いられた。いっぽうでは明、ついで清への朝貢も続いたから、薩摩藩と清への両属を強いられたことになる。
島津氏は琉球侵攻にあたって、徳川幕府の許可を得ている。つまり幕府もまた琉球を潜在的な領土とみなしたことになる。ついでながらその250年後、ペリー一行が浦賀の後で沖縄にも来航し、1854年には琉米修好条約を締結した。この時ペリーは、琉球が武力で抵抗した場合には攻撃・占領する許可をフィルモア大統領から与えられていたというから、黒い笑いを禁じ得ない。島津もペリーも琉球を侵略の対象とみなし、それぞれの上位権限者に「許可」を得ていた点でまさしく同じ穴のムジナである。自分のものでないものは、他人に与えることなどできないというのが、健康人の普通の判断であるけれど。
***
どんどん話が長くなるので、何とかまとめたい。
琉球は冊封体制という国際秩序の中では日本や朝鮮と対等な立場にあったもので、その外交の正面は常に中国を向いていた。それを、江戸幕府の後ろ盾をもつ島津が横合いから軍事介入し、暴力的に属国にした。以上、要約。
島津の後継者が明治政府である。廃藩置県に際して清国との冊封関係を断ち、排他的に日本に属するよう琉球王に迫った。しかし琉球側が従わなかったため、1879年に警官や兵を含む600名を派遣し、威圧しつつ廃藩置県を通達した。県令の赴任に伴い、琉球王統は廃絶された。この一連の事件を「琉球処分」と呼ぶ。「処分」である。
念のために書いておくが、だから冊封体制が良かったとか、「沖縄はそもそも中国領である」という中国の右翼の主張が正しいとかいうのではない。
島津侵攻から琉球処分まで、琉球人自身の判断や選択が尊重されたことは一度もなかった。それは単なる時代の制約だろうか。「沖縄返還」においても同じではなかったか。それを問うのだ。
沖縄という領土がアメリカから日本に返還されるという構図の中で、沖縄は常に客体としてモノのようにやりとりされてきた。大げさに言えば、琉球の人々の主体性が適切かつ十分に配慮されたことが、歴史上ただの一度もなかったとすら見える。それが日本人として恥ずかしく情けないのである。
廃藩置県後の琉球人は、良き日本人/沖縄県人たらんとして健気なほどの努力と従順を示したが、それは第二次大戦末期のあの地獄の体験によって皮肉な報いを受けた。沖縄県民の頭越しに「返還」された現在も、基地の重圧を日本国民全体の利益のために忍んでいる。沖縄出身だからというのでいじめられた、差別されたという話は聞いても、出身ゆえに厚遇された話は寡聞にして知らない。
「沖縄県民かく戦えり、県民に対して後世特別のご高配を賜らんことを」
対戦末期に自決した田中実海軍中将の遺言である。
どこに高配があるか、どこに感謝が、ねぎらいがあるか。