日本人イスラム教徒ゆとろぎ日記 ~アナー・イスミー・イスハーク~

2004年に入信したのに、2003年入信だと勘違いしていた、たわけもんのブログです。

長い時を経て…運命…イスラムに出会わなくてはならなかった理由…etc.

2006年01月14日 11時35分18秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・ヒッジャ(12月)13日 ヤウム・サブティ(土曜日)

 先週日曜日の同窓会で、中学校時代に別れた彼女と再会した。中三の初めにつきあったものの、ちょっとしたすれ違いから自然と疎遠になり、会う機会も話す機会もないまま○○年間が過ぎた。


 思い切って同窓会で話してみたら、向こうもずっと気になっていたようで、長年の誤解が解け、わだかまりが解消した。
 その彼女もいまや二児の母。大変な時期もあったようだが、今は幸せに暮らしている。安心した。


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 『こころの処方箋』(河合隼雄著、新潮文庫)の中に、「同じ『運命』でも演奏次第で値段が違う」という項目がある。ちょっとだけ引用。


 運命があるかないか、などと議論してもはじまらない。そんなことはわかるはずがない。要はどちらの考え方をとるかということで、筆者は、運命はある、と考えるのが好きな方であるが、われわれの人生は、そのような「楽譜」を与えられるにしろ、演奏の自由は各人にまかされており、演奏次第でその価値はまったく違ったものになる、と思っている。


 イスラムでは歴史的にたびたび「人間の行為は、人間の自由意志によるものなのか、あるいはすべて神に定められた運命で自由意志の入る余地はないのか」が議論されてきた。
 六信の中に「天命」があるように、基本的には運命論なのだが、それでも「運命と自由意志の折り合いをどうつけるか?」という試みは近代になっても繰り返されてきた。(この議論自体が一神教の「運命」だと思う)
 河合氏の書いていることは、イスラムの運命論についてのひとつの見解になっているようで興味深い。私は河合氏の考え方が好きである。


 子供の頃、21世紀の自分が中年になっていることを思い絶望的な気持ちになったことがある。うっすらと「21世紀はもう自分たちの時代ではないんだなあ」などと憂鬱になるような生意気なガキだった。
 今、21世紀を迎えて、忙しくも充実した日々を送っている。生意気なガキだった頃には想像もできなかった自分がここにいる。


 運命はあると信じているが、だからといってこれから何が自分の身に起こるかわかるわけではない。


 それなら、たまには過去を検証し、今この一瞬をどう「演奏」するかにエネルギーを注いだ方がいい。


 元彼女との再会はその機会を与えてくれた。中学卒業後のお互いの人生を語っているうちに、自分の歩んできた道のりを振り返ることができた。


 そして----振り返っているうちに「なぜ自分がイスラムに出会わなくてはならなかったか?」がはっきりとしてきた。
 神の導きには違いない。しかし、なぜイスラムなのか? なぜあの時期の入信だったのか? 今、自分の中にその答えはある。だけど、それを書くことはできない。結構「重い」ので、今はまだ人前にさらす気にはなれない。
 

 今はただ、運命をどう演奏するかについてだけ心を砕いて生きていきたいと思う。
※私を直接知っている皆さんへ。元彼女との再会については、怪しげな発展は一切ありませんので、誤解無きようお願いします m(_ _)m


 今回の記事の書き方、はでぃじゃねーさんのブログの書き方に似ているような気がする…