日本人イスラム教徒ゆとろぎ日記 ~アナー・イスミー・イスハーク~

2004年に入信したのに、2003年入信だと勘違いしていた、たわけもんのブログです。

ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか? ④

2006年01月31日 23時21分51秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1427年ムハッラム(1月)1日 ヤウム・スラーサーィ(火曜日)

 職場の合併も決まり、主宰する道場の合併も決まり、落ち着かない日々が続く。違った価値観やスタイルを持った二つの団体が一つになるのだから、さまざまな調整をしなくてはならない。
 自分の日常でも「誤差を縮める努力」がなされている。

※イスラム教徒以外の方にも結構このブログを読んでいただいていることがわかったので、アラビア語や専門用語はできるだけ使わないことにしています。

【そもそもイスラムは完全なのかについて】

 「全体と部分について」では、イスラムの目指す方向性は、人類をひとり残らずイスラム教徒にすることではないと述べた。
 多様な価値観が渦巻く世界で、「イスラムはすばらしいから改宗しろ」と強く言えばいうほど、相手の気持ちは逆に離れてゆく。気持ちが離れればお互いの排除へとつながっていく。
 
 だから、「誤差を縮める努力」が必要なのだ。相手と自分の違いを縮めることで、共存のための新たな枠組みを作っていく(「妥協」とか「弁証法」という言葉はあえて使わない)。それが排除を避ける道である。

 ところで、イスラムと非イスラムの関係を見てきたが、そもそもイスラムは完全なのだろうか? 答えは「否」である。
 アッラーやクルアーンが完全であっても、人間は完全ではない。完全ではない人間の営みであるイスラムの枠組みが完全であるわけがない。

 ウマイヤ朝の末期には、「こんなにヒドイ世の中がアッラーの意思であるわけがない」という考えから、天命やアッラーの存在自体に疑問が投げかけられた。

 11~12世紀の大学者ガザーリーは、そもそもイスラムの信仰と不信仰の境目がどこなのかに大いに悩み抜いた。

 法学者が法解釈(イジュティハード)を行う際、誤りは許されている。間違った解釈を行ってもアッラーから報奨は与えられるし、正しい解釈を行えば二倍の報奨を与えられる。
 それゆえ、法学者も間違いを恐れることなく法解釈をおこなってきた。
 法学者であっても完全ではないことの証左だ。

 新しい事象が現れれば、それについて解釈し、*1)五つの規範のどれにあてはまるのかを決めていかなければならないが、法学者によって解釈が違うことだってあるし、共通の解釈が定まるまで数世紀かかることだってある。例えばコーヒーだって認められるまでに2世紀以上もかかった。

 ベリーダンスについて、エジプトなどの法学者がどのような解釈を出しているのか寡聞にして知らないが、あるいは「許容」くらいはされている可能性はないのか?(さすがに無いか…)
 もし「禁止」や「忌避」だとしたら、なぜこれほどまでにベリーダンスはエジプトで受け入れられてきたのか?

クルアーン第2章:第173節
 かれがあなたがたに、(食べることを)禁じられるものは、死肉、血、豚肉、およびアッラー以外(の名)で供えられたものである。
だが、故意に違反せず、また法を越えず必要に迫られた場合は罪にはならない。アッラーは寛容にして慈悲深い方であられる。

 豚肉や死肉でさえ、必要に迫られた場合は罪にならない。ベリーダンスはそれより重いのだろうか?

 クルアーン、ハディース、アラビア語、類推の手順などに精通した法学者でも誤りを犯す。ましてや一般のイスラム教徒が「完全なイスラム」などを実践できるわけもない。
ブハーリーのハディースの最初の方にも次のような言葉が出てくる。

信仰の書:29-(1)
 アブー・フライラによると、預言者は「イスラームは行うに易しい教えであるから、掟を守るのにあまり厳格にならぬよう。さもなければ、人は耐えられない。それで正しい方向を目指し、完全に近づくようつとめ、よい報いを望み、朝の祈り、夕の祈り、そしていくばくかの夜の祈りに助けを求めよ」と言った。
(『ハディース イスラーム伝承集成』全6巻、牧野信也訳、中公文庫)
 

 完全を求める態度は狂気をもたらす可能性もある。
 例えば、第4代正統カリフのアリーがウマイヤ家のムアーウィヤと争った末に、カリフ位についてムアーウィヤと交渉しようとしたときのこともそうだ。
 アリーの熱烈な信望者の一部は、正しいと信じていたアリーが、反逆者と交渉をすることになったことに腹を立てて、アリーのもとを去った。
 そして結果的彼らがしたことはアリーの暗殺ではないか。
 正しさとか完全を求めるあまり、イスラム初期のあれほど重要な人物をこの世から消してしまった。

 考えてみれば、「正しくない世の中が許せない。宗教的に完全にただしい世界を作る」という理想に燃えてテロに身を投じたイスラム教徒だっているだろう。

 人間は、アッラーによって不完全に作られている。自分自身を向上させるために完全を目指すのは構わないが、自分が完全になったと思いこめば(勘違いすれば)必ずひずみが生じてくるだろう。

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    *1)五つの規範 
  • ①義務…やらなければならない(ワージブ)
  • ②推奨…やった方がよい(マンドゥーブ)
  • ③許容…やってもよい(ムバーフ)
  • ④忌避…やらない方がよい(マクルーフ)
  • ⑤禁止…やってはいけない(マフズール、またはハラーム)