日本人イスラム教徒ゆとろぎ日記 ~アナー・イスミー・イスハーク~

2004年に入信したのに、2003年入信だと勘違いしていた、たわけもんのブログです。

ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか? ②

2006年01月28日 11時23分05秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・ヒッジャ(12月)27日 ヤウム・サブティ(土曜日)

 ええと、昨日は中途半端なところで終わってしまった。仕切り直しでこちら↓から。

【全体と部分ということについて】

 数学が苦手だったクセに、集合論みたいなことを書く。
 全体と部分の関係については、次の二種類がある。

 ①「鳥類は動物である」
 ②「日本は国である」


 ①については「ゆえに鳩は動物である」とか「ゆえにカラスは動物である」ということが成り立つ。
 ②については「ゆえに神奈川県は国である」とか「ゆえに東京都は国である」ということは成り立たない。

 全体と部分(構成要素)の関係が異なるためだ。

 ①は構成要素ひとつひとつについての規定が全体の規定となっている。
 ②は構成要素ひとつひとつではなく、それらを全体として捉えたときの規定となっている。

 なぜこのようなことを書いたかと言えば、ある宗教のめざすべき道が①か②かによって、その宗教と世界の関わり方が変わってくるからだ。

 めざすべき道が①の場合はこうなる。

「人類は○○教徒である」 

 複数の宗教がこの方向性を目指した場合、宗教共存は危うい。もっと言えば世界平和を危うくする可能性が強い。
 人類がひとり残らず○○教徒になることを目指すのだから、方法としては究極的には次の二つになる。1でダメなら2ということもありうる。

 1.世界中の人を○○教に改宗させる努力をする。
 2.世界中の○○教でない人を根絶やしにする。


 危なっかしいことこの上ない。人類はこのような失敗を繰り返してきたのではないのか? いい加減同じ失敗を繰り返さないようにするべきだと思うが、いまだにこの方向性に執着する人たちが各宗教にいる。

 ではイスラムはこの方向性を目指しているのか? クルアーンから考えるとそれは違うのではないか?

第109章:不信者たち章〔アル・カーフィルーン〕第6節 
 あなたがたには、あなたがたの宗教があり、わたしにはわたしの宗教があるのである。

 アッラーが聖預言者(SAS)に向かって、「不信者たちにこう言ってやれ」と下した啓示の最後の節である。
 ここにはアッラーご自身が複数の宗教(それが真か偽かは別の議論として)を存在させていることがうかがえる。
 全能なるアッラーがその気になればひとつの宗教にまとめられたはずだが、そうはされなかった。

第49章:部屋章〔アル・フジュラート〕第13節
 人びとよ、われは一人の男と一人の女からあなたがたを創り、種族と部族に分けた。これはあなたがたを、互いに知り合うようにさせるためである。
アッラーの御許で最も貴い者は、あなたがたのうち最も主を畏れる者である。
本当にアッラーは、全知にしてあらゆることに通暁なされる。


 7世紀のアラビアに下された啓示なので、「種族」「部族」のニュアンスや正確な意味がいまひとつきちんと理解できないのが歯がゆいが、少なくともアッラーが人間を多種多様に分けられたことは確かなようである。
 マディーナにはユダヤ教を信仰する部族もいたわけだから。

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 めざすべき道が②の場合はこうなる。

「世界は○○教文化圏である」 

 ①の場合と比べると歯切れが悪い文章だな…。いずれもう少しこなれた表現を思いつくかもしれないけど、今はこれで妥協。

 この場合は、人類ひとりひとりが○○教徒でなくても構わない。
 「世界各地にそれぞれの宗教の信者だけが住む国を作り棲み分ける」というのは無理だろう。
 となれば、世界全体をいかに○○教の色に染めていくかを目指すしかない。これなら気の遠くなるほどの長い年月をかければ可能かもしれない。

 実は、私がイスラムを受け入れられた理由がこれである。イスラムと出会わなくてはならなかった理由は非常に個人的なものであるが、出会ったときにイスラムにこの方向性がなければ私は受け入れられなかったかもしれない。

 『イスラームとは何か その宗教・社会・文化』(小杉泰著、講談社現代新書)を読んだときにも、②の方向性を実感した。(小杉さんはムスリムですよね?)

 まず、イスラム共同体(ウンマ)の住民の構成を「剣の人(統治者・軍人)」「筆の人(ウラマー)」「職の人(一般信徒・庶民)」と分けている(169ページ)。

 そして「共同体全体を維持するためには、統治者は悪徳であっても共同体を守れる力があればよい」という、イブン・ハンバルの政治論(264ページ)へとつながる。

 統治者自らがイスラム共同体を破壊するような言動を繰り返した場合は、ウラマーが歯止めをかけなくてはならないが、そうでなければ統治者の人間性や信仰の篤さは問題ではないと言う(あくまでイブン・ハンバルの主張であり、異説はあるだろうけど)。

 統治者が不信心であっても、その場合、アッラーに裁かれて地獄に行くのは本人だけである。こんな統治者であっても力があれば、共同体全体を維持できる。

 逆に統治者がどんなに信仰深くても力がなければ、共同体を維持できない可能性がある。この場合、統治者本人は救われるかもしれないが、共同体全体は救われない。

 ここには「すべての人間がイスラム教徒でなければならない」とか「すべての人間が真面目なイスラム教徒でなければならない」という思想は無い。全体として保たれれば可である。

 また、『ユダヤ・キリスト・イスラム集中講座』(井沢元彦著、徳間書店)の中で、ムーサー・ムハンマド・ウマル・サイード氏が対談でこう述べているのも、②の方向性を強く感じた。

…イスラム宗教国家というのは、一定の宗教国家ではないのです。今現在みなさんが思っておられるイスラムという教えだけを強制するのじゃなくて、みんなそれぞれ自分が持っている宗教は守ってもらってかまわないのです。むしろ、そうした環境を積極的につくらなくちゃいけない。(以降省略)

 全体としてはイスラムが統治するけど、個人個人は必ずしもイスラム教徒でなくてもかまわない。
 よく言われるように、世界の歴史の中でイスラム国家は、他宗教に寛容であったことが多い。めざすべき方向性はやはり②が良いということだ。

 ★フィクションだけど、『千年医師物語1 ペルシアの彼方へ』上下巻(ノア・ゴードン著、竹内さなみ訳、角川文庫)は、かつてのイスラム国家の雰囲気が描かれていて面白い。実在した天才医師イブン・シーナも出てくるし。

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 というわけで、今回は、宗教と世界の関わり方から、イスラムのめざす方向性ということを考えてきた。

 「イスラムとダンスの関係はどうなったんだ?」という人もいると思うけど、それについては、まだまだ続く屁理屈の挙げ句にようやく結論に結びつく予定である。

 「なんとまあ回りくどいヤツなんだ」と感じるかもしれないが、性格なのだから仕方ない。

 なお、全体と部分ということを述べたが、「私」という部分はイスラムの道を守る生き方をしたいと思っている(実際にどの程度できているかはわからないけど)。

 ここまで読まれた方(いるのかな?)、本当にお疲れ様でした。私も疲れました… (続く)